ペア・カップル性 「斎王」と「法皇」
マルセイユタロットリーダー、マルセイユタロット講師を名乗っている私ですが、もとはと言えば、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット、日本では通称カモワンタロットと呼ばれるタロットから入った者です。
今でもリーディングでは、主体としてカモワンタロットを使っています。(ほかのマルセイユ版も使います)
そんなカモワンタロットの技法にはいくつか特徴があるのですが、 そのひとつにペアやカップル性をカード同士で見ていく(結び付けていく)というものがあります。
もっとも、カモワン流に限らず、カードをペアやカップルでくくるという概念は、タロットでは普通にあるかと思いますが、カモワン流の場合は、それがかなり強いと言いますか、ベースを占める考え方になっているのが、ほかとは違うところでしょうか。
そのうえで、私自身、さらにカップルやペアの概念を探求しいくうちに、実際の人間関係・役割においても、それは重要であることに気が付いてきました。
そもそもタロットは、ホドロフスキー氏が述べられているように、「宇宙のモデル」になっているところがあり、現実の考察と活用ができるものになっています。
ですから、カードを使えば実際フィールドでの気づきが生まれますし、現実の変化や改革もやりやすくなるのです。
タロットには霊的・精神的な側面と、実際的・現実的側面があります。あるというより、それらを象徴しているといったほうが正確でしょうか。
ですから、ペア・カップル性においても、霊的・精神的カップル、現実・物質的カップル・ペア性がカードからは推察することができます。
いわば、世の中のカップル・ペアとなる人間関係(だけとは限りませんが)には、種類・性質の違いがあるよ、ということであり、それを理解していると、人間関係もスムースになったり、自分に足りないところ、逆に有り余っているようなところの調整・活用も、うまく行ったりするわけです。
言い換えれば、人の組み合わせの意味合いと使い分けを見ましょうということです。
例えば、カードで言えば、「斎王」と「法皇」に当たるカップル性(カップル・ペアとなるカード)があります。
これは特に、スピリチュアルに関心を持つ女性の方に述べておきたいです。
「斎王」(アルカナナンバー2に当たる大アルカナ)は、言ってみれば巫女的な女性ですが、精神世界・スピリチュアルな傾向(関心)を女性が持つ場合、自身の中にこの「斎王」を見ます。
いや、「斎王」をきちんと蘇らせる必要があるとも言えます。(数秘的には同じ2の数と関係する、「力」や「審判」とも深く関係します)
しかしながら、その力の安定した発現には、一方で男性性の援助も求められるのです。
女性性である「斎王」の感応力は、ある条件や場所、あるいは血筋などによって目覚めることが可能ですが、それを安定したものにして、社会や現実に活かすためには、男性性の力と支えが必要となります。
一人の人間の中には、男性性も女性性も存在しますので、究極的には、一人の人間で両性を統合・具現化、発現することも可能に思いますが、生身の人間性、統合プロセスの途上にある者としては、異性同士の協力があったほうが早いと言われます。(ただ、巫女の力の性質上、男性性の支えということでは、人間の男性でなくてもよい場合もあります)
そのため、女性で、自分一人で何かの感応を得たとしても、それを安定化し、外に向かって、社会的に活かすには、男性の力や表現も借りるとよいということになってきます。(さきほどのも述べたように、一人でも可能ではありますが)
もっと言えば(逆に言えば)、女性から見て、心から信頼する(精神的な)男性がいれば、眠っていた斎王の力が復活する可能性があるということです。
そして、男性側からすれば、自分を信頼し、自らを預けることのできる(巫女的な)女性が存在することで、より社会的な力(影響力も含め)が増し、変革の力と実現性が強化・拡大します。
たとえ、他者からその男性が攻撃されたとしても、立ち直りと修復は、女性の巫女力(癒しの力でもあり、その元型は、マルセイユタロットで言えば「星」のカードから流れてきます)によって、早められます。
よく例えられるように、港と船の関係が、女性(港)と男性(船)に言えます。
ところが、このたとえは、逆転もあり、船が女性で、港が男性にもなります。
特に霊力・巫女力は船のように海に出るような感じで、海の情報を船に乗せる、入れるような感覚になるため、大海に揺られる小舟では不安定になるので、男性が港と灯台化することで、女性の船を安全に導くことが可能になります。
感応と言語は(感情と思考でもあります)対立する関係にありつつも、相補うものでもあり、女性(性)の感応は、適切な言語化によって、多くの人に理解してもらうことができますし、女性自身も自分の感じていることを客観視できます。
男性(性)は、いくら言語化できると言っても、元となる発想・アイデア・感応がなければ始まらず、分析はできても、神聖なる直観的示唆が得られていないと、宇宙(神)の本質からはずれ、ただ現実的(エゴ的人間同士の)正しさの世界、理屈の世界で競い合うはめになります。
この「斎王」「法皇」の男女ペアは、本質的には愛によって結合する二人と言えますが、恋愛感情のようなものとは違い、さらに現実性での良し悪しとか損得が入るペアではありません。
ですから実際の恋人関係とか一般の夫婦関係の男女とも異なります。しかし、実際にはその(恋人・夫婦)関係であっても、「斎王」「法皇」のペアとなり得ることもあります。
そこには非常に高度ともいえる関係性があり、肉体次元(肉体的性、打算や現実的立場・グループなどの次元)を特に超えていく間柄(現実世界にいながら)と言えます。簡単に言えば、精神性のカップルではあるのですが、そういう言葉では表せない絆があるペアです。
ですから、本来的には、相手はたった一人でよく、また唯一無二の人となるでしょう。
カード的には「恋人」から「審判」の高次の愛に目覚めるための関係性となるのですが、同時に、神聖なる意思を伝えていく協同的な者として、「太陽」的な二人にもなります。
しかし、二人の関係性があまりに閉鎖的に、独善的になってきますと、新興宗教の教祖と狂信的伝道者みたいな間柄になり、二人の間の理想が周囲に理解されず、忌み嫌われたり、現実離れした二人だけの世界に逃避してしまったりします。(犯罪協力者同士となり果てる、「悪魔」のカードとも関係)
女性にしても、男性にしても、ペア性・カップル性を思い、自分だけですべてをやろうとせず(特にこの現実の世界では)、異質な力を持った者同士が組み、目的を成し遂げていくのがスムースであったり、楽であったりするかと思います。
また、役割は違っても純粋に対等であることは、常に関係性の念頭におき、相手への依存や支配(独占含む)が働けば、それは均衡と統合の力を発揮するペアではないと認識しておくことも重要でしょう。関係性に癒着が見られると、依存か支配に取り込まれるおそれが強いので、注意が必要です。
実はこの世界、どの人もパートナーを求めており、得難き人が見つかれば、物事の成就はもとより、人生の安心感、ピースがはまる安定感、さらには万人を敵に回しても(多くの否定感に支配されても)、一人の大きな理解があれば自己を全力肯定できるすばらしさがあります。
恋の始まりも(「恋人」カード)、これらの意味があるのではないかと推測されます。
結局は、私の中のあなた、あたなの中の私を見つけることなのです。
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