大きなの流れと個人のポイント

冬至も過ぎ、太陽周期のうえでは、新しい年が始まったと言えます。

かつて書いたことがありますが、クリスマスやサンタクロース冬至と関係していると考えられ、昔ながらの太陽信仰がキリスト教に取れ入れられた結果だと思われます。

日中が一番短くなる日を境に、再び日が長くなっていくところから、この時期に、物事の再生・復活を象徴化させているとも言えます。

私たち、現代人の考えからすると、このような「象徴化」は、単なるこじつけのように見えるかもしれませんが、そこには現代ではとらえられないきちんとした別の理論と言いますか、大局的見地と古代から続く伝統的論理があり、簡単に言えば宇宙や自然の構造が、根本的には同じであるという認識から生まれていると考えられるものです。

霊的な感性(思考性でもある)をかなり失った(というより、隠れてしまった)現代人では、暦の巡りは、毎日のスケジュール、日の移動という直線的・単純なものでしか見えなくなっています。

すべてにはつながりがあること、モノと霊(精神も含む)の関係として意味があることは、霊的感性が回復してくれば、リアリティをもって感じられてくるものと想像できます。

その回復のための、ひとつの手がかりが「象徴」という考え方・とらえ方なのです。タロットはその象徴システムからできています。

ですから、タロットを扱うことは、霊的感性を取り戻すためでもあるのです。

日本においても年中行事等を通して、祭りなど特異点のような日、行いがありますが、それもお祭り騒ぎをしたい(民衆の気持ちとしてそれはありますが)というものではなく、背景に物質次元を超えた霊的な意味があったと考えれます。

私は大学時代、民俗学にふれていまして、その私たちの民俗学担当教授は、実際に離島などでフィールドワーク(現地調査や現地での収集・研究)をされていたこともあり、「現地の人の素朴に見える信仰には、皆さんが思うより大きな意味がその人たちにはあるのです」と、心を込めて語られていましたが、その理由が今なら本当によくわかります。

それは学術的な意味合いのことではなく(それもありますが)、そこにいる人たちの信仰が、その人たちには特別な意味を持つ霊的な力と関係する(その場や環境に働いていたこと)をおっしゃっていたのだと思います。(儀式と信仰の力と意味合い)

そして部外者の者、その場の霊的フィールドを共有感覚化していない者には、結局、学術的な目線か、部外者の常識目線、観光的な興味本位でしか見ることができず、変わった風習だなあ・・・とか、なんで今時、こんなことをしているのだろうか・・・とか、不思議がったり、面白がったりしているわけです。

そのため、本当に行事の意味を知るには、そこに住んで生活しないとわからないこともあるのだと思います。

アニメで「蟲師(むしし)」という作品がありますが、この作品に描かれる部外者と当事者の感覚の違いが、雰囲気的には近いかと思いますので、参考になるかもしれません。

さて、同じ冬至のことでも、話題は変わりますが、今年の冬至の時期は、少しスピリチュアル的には話題になっていたようてす。いわゆる地の時代から風の時代に変わるポイントだと。

確かに、そういう切り替えの時には来ているのかもしれませんが、闇雲にそういう情報に踊らされるのにも注意しないといけません。

ここで前半の記事とリンクしてくるのですが、重要なのは、全体の流れを個としてどう感じるかであり、言い換えれば、私たちが大自然や宇宙の一部であること、いやその逆に、私たちの一部が大自然や宇宙であること(この言い方はおかしいですが、こちらの言い方のほうが、鍵に近い言葉だと思います)の回復にあると言えます。

その意味では、地の時代から風の時代へというのも、ひとつのきっかけ、契機に過ぎません。

私たちはそれこそ地の時代の感覚のまま、全体と個が分離され、モノと霊、モノと精神を分断して見るようになってしまいました。

それでは、前半で述べたように、暦も、時代の流れも、直線的にただ進むだけ、過去・現在・未来と、一方向で経過していく感覚であり、ひとつひとつ、記憶や感性さえも、モノのように一方向に並べられたたような状態でいます。

数や日で言いますと、21日と22日は、一日の違いがあるだけで、21日から時間が経過して次の日になったに過ぎないというとらえ方です。

ですが、私たちそれぞれにとって、21日と22日は精神的に決定的な違いがある人も世の中にはいたでしょう。

例えば誕生日が21日の人は、22日とは明らかに意識が違うはずです。なんでもないただの一日の人、一生の思い出の日になった人、忘れたい嫌なことがあった日の人・・それぞれにとって、特別の日とそうでない日があるわけです。

これは結局、数量の違いではなく、質の違いで見ているからです。

あくまで個人としての日にちの見方だとバラバラな印象ですが、ここで言いたいのは、質を見る感覚を思い出してほしいということです。

そして、一年スパンで見た場合、(個人の感覚)とは別の、宇宙や自然の流れの全体的な質の違いも、やはりあるのです。

まず全体が、その質の違いによって回転している(循環している)ことを知り、それが大小、様々なレベルで働いていること、それらが次元、階層を変えて、ついには自分、個としてのレベルにおいても流れていることを知るのです。

イベントが一見、個人それぞれで無関係で起こっているように見え、さきほど述べたように、ある人にとっての日は日常の日でも、別の人にとっては特別な日となっています。

それもまた、カレンダーの日の流れだけではなく、宇宙のサイクルの一部として見ると、実は同じシステムによって起こり、消滅していることに気がつきます。

無理矢理、誰かの言うような、大きな流れを自分にルールとして適用して、例えば、いついつまでになになにをしないと流れに取り残されるとか、ゲートが閉じるとかで恐怖や不安に囚われたり、あせったりする以前に、外側ではなく、内側、自分自身を見つめ、個の質を知ることが大事です。

しばらくは人の言っているようなことは無視して、自分がどういう流れにあり、どういう現実と心の動き方をしているのかを確認してみることが先決です。

そのうえで、少しずつ大きな流れというものを意識してみましょう。

他人の言う外側の情報に、自分を無理やりあてはめることは、それこそ地の時代の考え方・やり方なのです。

自分の感覚を主観と客観で確認していくこと、いきなり全体(宇宙や自然のようなもの)へ適合しようとあせらないこと、自分が自分であること、ここをまず確立させていくほうが、遠回りのようでいて、結局、スピリチュアル的にもしっかりとした道を歩んでいくことになると考えられます。

それはマルセイユタロットが示す、霊的成長の道のりからも言えることです。

よく見てください。

「なになに、いついつは変わり時、変化の大きなチャンス・・・」などと言っている人は、毎年毎年、何かのネタを引用して広告しているわけです。

春分秋分・冬至夏至しかり、ミレニアムしかり、平成・令和の元号しかり、マヤ歴しかり、惑星運動しかり、歳差運動周期しかり、彗星の近接しかり、満月・新月しかり、毎月一日しかり、誕生日しかり・・・ネタをあげればキリがありません。(笑)

重要なのは、そう言ったものが、なぜ切り替えや変化のポイントになるのかという意味の背景を知ることと、霊的感覚の回復です。

誰かのいうポイントに、カレンダーで赤丸をつけて、そこに向けて自分を追い込むようなことではないのです。強いて言えば、自分の中の感覚に気づいて、ふとカレンダーを見ると赤丸がついていた・・・みたいな感じになるという、逆のような形です。

そして、人によってポイントは違いますから、大きな流れのポイントに乗れる・乗れないにあせるより、まずは自分にとって重要なポイントはいつか、どこかを注視し、人と違ってもよいのだと思うことです。

いわば、それぞれ個人に列車は用意されていて、その列車内の車両を移ることをまずは意識していると、列車自体(自分の乗っている列車自体)は、いつのまにか線路の切り替えポイントに導かれながら、皆それぞれの乗った列車が同じ路線に集まって来るような感じです。

それぞれが違う路線を回っていても、最終的には同じ駅の何番線かのホームに、皆到着するというイメージでしょうか。確かに人によっては、たどるルートは違うでしょうが、目指す駅は同じで、そこを目指すことさえ意識すれば、必ずたどり着くようになっていると考えられます。

見た目の比較だと、あなたが各駅停車の列車で、他人は特急列車に見えるかもしれませんが、それは今のあなたの目に、そう映るだけで、演出なのです。

あなたは普通電車でもいいのです。すると、関西圏のJRではよくありますが(笑)、途中から快速電車に変わることもあります。

まずはマイペースというものを大切にし、他人に踊らされないようにすることのほうが、今の時代、真の意味でスピリチュアル的だと言えるかと思います。

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