精神的な問題や不調が起きる人に
いろいろな分野の講師たちが集う、とあるグループのスピーチコンテストに参加しました。
と言っても、私自身は聞く側に徹していまして、皆さまのスピーチから勉強させていただく立場です。
スピーチの内容的には、ご自身の経験からの学びや、役に立つこと、伝えたいことなどが披露されました。
それで、不思議なことに、と言いますか、今の社会ではもはや当たり前のようになっているのか、聞いていますと、たいてい、皆さん、精神的に何かトラブル(うつ病とか神経症とか、精神の不調を来すもの)に遭っているのですね。
そして、これまた皆さん同様に、そこから立ち直り、社会貢献やビジネスの形で再起し、自分の伝えたいことを伝える講師になられているのです。
私自身も神経症うつ病とか、パニック症状を起こしていた時期もあり、その後、マルセイユタロットに出会い、リーディングや講義の講師をしております。
以前は、その頃のこととか、回復に至る道などのこともブログに書いたり、人に語ったりしていたこともありましたが、今となっては、先述したように、精神的なトラブルや問題が起きることは、普通に誰しもによくあることになっており、別に人に話すようなことでもないと思って(心や精神は、回復してもまた何かあると問題になる場合もありますので)、誰かに聞かれたり、そのことを話す必要がある特別な場合を除いては、あまり語らなくしています。
ただ、人というのは、ドラマチックなストーリーを好む傾向があり、これは自らもそうでありたいというのと、他人の話がそう(ドラマチック)であると、聞く側の自分も楽しい、感動するということがあり、いわば自他ともに、ドラマ性を期待する思いがあるわけです。
ということで、自分を宣伝する必要のあるビジネスシーンにおいても、プロフィールは平板なものより、波と起伏のある、ドラマチックなものにすべしと言われることもあるようです。
例えば、昔ヤンキーをしていたけれど今は人気弁護士ですとか、ただの主婦だった人が、有名カウンセラーになって、多くの人を救っていますとか、大転回・大逆転ストーリーは、人の興味を引き付けますよね。
人を癒す仕事の場合、かつては自分がいかに大変な状態であって、癒されていなかった時があり、そこから今は調和に至り、幸福な人生を歩んでいるということを知らしめれば、今現在、癒されていない人、不幸だと思っている人にとっては励みにもなりますし、この人ならきっと自分をわかってくれる、救ってくれると思うことでしょう。
それはともかく、話は戻りますが、講師たちのスピーチを聞いておりまして、私なりに、ちょっと気づいたことを書いてみたいと思います。
●精神不調(心の問題・トラブル)の経験が当たり前の時代になっている
先ほども書きましたが、私が神経を病んでいた時よりも、今はもっと普遍的というと変ですが、誰しもが神経・精神の不調を経験してしまう時代になってきたということです。
これには様々な理由がありますが、そもそも、健全な世の中、社会であれば、これほど多くの人が精神や心を病むようなことはないはずです。
たいていの人はそのような体験がある、ましてや投薬や治療を受けたことがあると人も多くなっている状況なのです。
ですが、そうした精神関係の医療機関は増えたものの、医学的進歩の意味では、ほかの病気の分野より、まだまだ遅れている感じは否めません。
同時に、だからこそというわけではないのですが、代替医療や様々な心理療法、果てはスピリチュアルな分野からのアプローチまで、心や精神の問題を軽減したり、復調させたり、よい意味で改変したりすることが増えてきたと思います。
これだけ、心が不調になる人が普通になってきますと、それに対する問題解決を行う者や方法も増加するのは当然だと言えます。
経済原理的にも需要あっての供給です。ただそれが純粋な、これまでの医学的な観点からだけではないというところが、見えない心の分野だけに、特徴があるのかもしれません。
それと、単に心の病的な意味での不調というより、自分の生き方の悩みや、社会・世の中における自分を、いかに調整し、生きがいを持って生きたり、創造的に人生を歩んだりできるかという観点から、いわば治療的な対処だけではなく、発展的・創造的対処が、心・精神の分野には用いられているように感じます。
簡単に言えば、現実世界において、健全な精神でいられる状態をいかに作るか(保つか)ということです。
精神のトラブルを「病」の状態と見るのではなく、完全性の不均衡、調和に対する不調和、自分で自分を縛っているものによる影響で病のようなものになっていると見る向きです。
心の問題が多くの人に自覚、共有されていくことで、私たちの内面に向ける意識や考え方も変わり、精神、そして霊・魂というものにさえ、関心が行こうとしているように思います。
病む人とそれを治療したり、サポートしたりする人が、同時発生的に増え続け、これはマルセイユタロットで言えば、「13」と「節制」との関係とも言えそうです。この二枚はセットとして考えられ、すなわち、変容と救済なのです。
つまり、病む者、助ける者という役割分担で分離しつつ、一元的には、ともに変容し、救われるようとしているのです。(これを一人二役で体験する人も増えているわけです)
また変な話ですが、救済しようとする人が現れると、救済してもらいたい人が現れるという逆現象も起こっています。
しかし、それは順番が逆のようでも、結局、救わなければならない部分や人が潜在的に眠っていただけで、大きな意味では人類全体としての大浄化の流れに移行しているのだと見ることもできます。
●救済時に出会うメソッドと個性の強化
例えば私の場合は、マルセイユタロットでしたが、精神的な問題を抱えていた者が、何かのきっかけで、ある治療法や心を変えるメソッドなどに出会うことがあります。
もちろん治療のためということもありますが、人生のことを深く考えていた時に出会うということもあります。
出会う対象そのものについては、優劣や良し悪しは関係なく、たまたま、回復や治療のタイミングで出会ったものが、自分のその後の人生に大きく影響することがあるように思います。
回復・治療に至ったメソッドが仕事になる人もいますし、病気をきっかけに、自分を見つめ直す過程で、新たな自分として生まれ変わり、その体験から得たこと、気づいたこと伝道していく人もいます。
ともかく、出会うのが何であっても、また気づきがどんなものであっても、その人に与えられた新たな個性として、自分というものが際立ってくるようになります。
この現実世界では、際立つほうが生きやすいと言えます。
これは目立つというのとはちょっと違い、いわば、自分が自分である根拠とか、特徴、精神的には使命感のようなものでもあります。言い換えれば、生きる意味、反対にすると、意味をもって生きる、と表現してもよいでしょうか。
こうしてみると、精神的な問題は、マルセイユタロットの「隠者」のひとつの意味でもある霊的な危機と覚醒を象徴しているのかもしれません。
そして「隠者」と似たようなカードである「法皇」で表されるように、自分の経験から得た個性を用いて、人に伝達していくことになります。
ともあれ、技術・メソッドは何でもいいと思います。
運命的に言えば、出会うものは決まっていたようなもので、それがヨガであれ、レイキであれ、何でもよくて、重要なのは、あなたはそれによって個性が持て(自我が補強され)、現実を生きやすくしていけるということです。
精神の問題によって、心やスピリチュアルなことに関心が行くことで、一見、エゴから離れるような方向性に見えますが、その実、エゴは強まるのです。ここでいうエゴとは悪者のエゴではなく、自分を自分として認識する自我のことです。
つまり、精神的な問題を抱える人は、自我が弱い、あるいは逆に自我が強いものの、それがエゴとなっていて、しかしながら強いエゴなのに抑圧されている(自分であることを発揮できない、主張できない)状態にあるから問題となっていると考えられます。
ですから、まさに自分らしく生きる方法を選べば、自我・エゴが解放されるか、いい意味で強まって、その人にとっては楽になったり、生きやすくなったりするのです。
個人的には、マイナスのようなことから立ち直りや気づきを得て、成功していくストーリーというのは飽きていますが(笑)、ここで言いたいのは、今、精神的な問題やトラブルを抱える人は多くなっている時代でも、いろいろと見て行けば、全体としての成長に皆さん貢献している可能性があるということなのです。
心理的・スピリチュアル的には、自我・個性の問題が隠れているという点も指摘しました。
自分が今、救われるほうの側である人、つまりトラブルや問題によって苦しんでいる人は、先述したように、救う人もたくさん同時に生まれていますので、そういう人たちに出会うように自らを持って行けばよいかと思います。
平たく言えば、我慢して一人で抱え込まず、誰かに助けてもらうようにすればいいということです。
そうして助け・助けられという循環が活発になると、分離した個性は、やがて統合され、個性を持ちつつ他者と共有していけるような、新しい感覚が発達していくことと思います。
精神や心の問題が増えてきたのは、多くの要因として、今の社会システムの問題にあると言えますが、それとは別に、多くの人が精神・心・霊の重要性、内面の方向性の大切さに気づき、極端な物質的観点が解除されていけば、心のフィールドから共有化が推し進められ、全体としても解放と望ましい発展の流れになるからとも言えます。
精神的に苦しい状態にある人は、悲観的になったり、つらくて毎日大変だったりすると思いますが、今述べたように、全体としての成長に貢献しているので、生きている自分の価値はあるのだと思ってください。あきらめず、求めて行けば、救いの道は必ず開かれるでしょう。
コメントを残す