年の初めにタロットカードを引くこと
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2021年の始まりにあたり、去年は世界的にも大変な年となりましたので、ふと、昨年のはじめにはどんなことを自分が書いていたのか、確認したくなりました。
すると、自分でも『2020年は一般的にも「変化」を実感する年となるのは、間違いない』と書いていますね。
なぜそう思ったのかは、もはや忘れましたが(苦笑)、私のことですから、間違いなくタロットカードを展開した結果、そう判断したのでしょう。
もっとも、毎年「変化」を言う人も多いので、よくあるように、誰しもに起こるようなことを抽象的に指摘すれば当たっているように感じてしまうという、それでもあるかもしれませんが。(笑)
まあ、私は占い師ではありませんので、書いたことが当たる・当たらないなんてことはどうでもよいのです。
ここで重要なのは、人が言ったことを自分が受け入れたり、同調したりする感覚があるのかないのかということが、あげられます。
当たり前の話ですが、他人の言葉に納得できるのも、反感を持つのも、自分に何か基準とする思いがあるからで、それと照らし合わせれば同意もしますし、反発もするというわけです。
逆に言えば、普段、自分がどう思っているのかが、他人の言葉からの自分の反応でわかるということです。意外にも、自分の気持ちや自分の思いには気づいていないこともあるのです。
よって、例えば「今年は変化の年になるよ」と誰かが言ったのを聞いて、自分が「そうなんだ」と思えば、「変化したい」と自分が思っているか、逆に「変化に抵抗がある」ということが多いのです。つまりは、「変化」ということに、何らかのこだわりや思いがあるということです。
そして、さらに、マルセイユタロットで言えば、それぞれの大アルカナの象徴性に関係し、例えば「変化」であると、「13」とか「愚者」などにあてはめられ、そのカードを自分が引く(タロットを扱っている者では)こともあるわけです。
しかも大アルカナ象徴性は、全体性(大きな流れとか人類全体のようなマクロ的なもの)も表しますので、単に自分の個人的な思いだったものも、タロットで見れば、その思いが大きなものと関連しているのがわかることもあります。
というように、個人的な思いが反映されると同時に、集合的な意識と言いますか、人類全体が変化を予測していたり、それを種として望んでいたりする場合は、たくさんの人の意識に浮かんで、同じようなことを起こす場合があります。
だから、例えば、タロットで言えば、今年一年を見ようとすると、まったく同じカードとはいえませんが、似たような傾向を皆が引くということもあり得るでしょう。
ただし、占いとして、自分のことの細部(具体性)まで見ようとすると、具体的なことは、かなり占う人によって違ってくると思います。
私自身は占い師ではありませんが、タロットは占い業界での定番であり、占いとは無縁ではありませんので、占いについて考えることはあります。
そしてマルセイユタロットをやってきてわかってきたことは、この世界は個別と全体とで分けられながらも統合される構造にあるということで、それゆえ、個別(個人)や具体の次元になってくると、実は一人ひとり異なってくるのが当たり前であることなのです。
つまり、当たる・当たらないは、具体(個別)次元になればなるほど、極めて困難になるという至極当然の話に行き着きます。
そしてここがとても大事なことなのですが、だからこそ当たる・当たらないに固執していても意味がないばかりか、統合的見地、宇宙的全体性視点から見れば、個別の占いで個人の未来予測を具体的に当てるのは、ゲームとしては面白いかもしれませんが、天の意思に反するようなものと言えるのです。
なぜなら、個別次元では、それぞれ異なるようになる仕組みであり、システムであるからで、それを天(神)のデザイン・オーダー・システムだと考えれば、その意図を尊重するのが人の本分と考えられるからです。(しかし、これももっと深く言えば、そうではないところもあるのですが、このことはまた別の機会にお話します)
まあ個人的な、自分がこの先どうなるのか知りたいという思いは、人としてわかります。
しかし、一人一人、細かいことを言えば、みんな違うので、それを当てて当人は喜んだり、面白がったりしても、全体としてはあまり意味がなく、個人占いは一種のゲームとして見るのがよいのではないかということです。
ところが、反対に、全体的には同じ流れや傾向があると考えられ、いわば、全体はひとつの大きな象徴性を持っていると言えますから、それを読むこと、推測することは悪いことではないと思います。
個人の未来は(過去も)千差万別で、一人一人にとっては重要なことであるのは確かでしょうが、バラバラで違いがあり、どう生きるか、どう選択するかは個人の自由と言っていいでしょう。
ですから自分で自分を評価すればよく、結果をどう解釈するかも、自分に委ねられるのですから、先のことが起こったあと、それがどうだったのかも、自分次第で意味づけられるのです。ここに未来を占って知ることの意味のなさが出ると思います。
(まあ、個人占いで先を見ることも自由と言えるので、それも人それぞれに任されるわけですが・・・)
しかし、全体としては意思が形成されると言いますか、宇宙の進化の巨大なうねりのようなものがあると考えられ、バラバラな個人の表現がひとつにまとめられ、人類としての進化や方向性も決まって来るように思います。
ですから、個人では自由なものの、全体としては何か意図の中にあるか、その意思を汲んで(あるいは影響されて)の個人的人生となるわけで、そこを全く無視していると、とんでもない方向に全体としては行ってしまうおそれがあるかもしれないのです。
簡単に言えば(逆の言い方をすれば)、人類全体の舵取りは、実は一人ひとりの思いにかかっているということです。
あなたも私も、舵を動かす一人であり、一人一人は微力でも、全体としてまとまれば、確実にひとつの方向性に進むのだと考えられます。
自分個人の先行きを占って一喜一憂している間に、全体の舵はふらふらとまとまらず、蛇行して船は沈没してしまうかもしれません。(笑)
ですから、個人ではなく、全体としての(船の舵取りとしての)象徴的な予測、占い、傾向的判断はあってもいいかと思います。
一方の個人的占い、個人的予測も、全体的意思を汲んだうえでなら、どのように自己を表現するかを見るためには許されることもある気がします。
要するに、自分のことだけを考え、利己的な現世利益獲得のための占いとか、予測判断している時ではないかもしれないですよ、と言いたいわけです。するのなら、全体部分も考慮したうえで、自分の活かし方を知ることです。
話は変わりますが、昨年に引いたカード(ブログ読者向けのもの)は、昨年のブログを見ると、「節制」を中心にして、「悪魔」と「恋人」のようでした。
今思えば、コロナウィルスによる行動の制限と、各人の選択を余儀なくされる様子にも見えてきます。(あとづけですが(笑)、このような事後検証も、時にタロット学習においては必要です)
マルセイユタロットを学んでいる者には、「恋人」カードの構造の意味を知っていると思いますので、「悪魔」と「節制」も、「恋人」一枚に見ることが可能になり、実はこの三枚は、実に面白い形で出ていたのがわかります。
一昨年(2019年)、次の年(2020年)にウィルスのパンデミック、コロナ禍が世界的に起きることを予想したり、占いを示したりする人は、ほぼいなかったと言えますから、いかに具体的な占い予測が信用できない(あまり意味がない)のかも、これでわかったと思います。
ただ、大きな変化や危険性を指摘した人は少なくなかったでしょう。それが全体性としての象徴とも言えます。
先述したように、特に一年スパンのようなものでは、いきなり個別や具体を見るのではなく、象徴的に全体性の意図を見定め、個として自分はどうすべきを考えるほうがよいと思います。
去年に出た「節制」「悪魔」「恋人」の象徴性から、2020年の意味を、今の2021年から遡って受け取ってみると、また新たな視点が生まれると思います。マルセイユタロットを学んでいる者にはなおさらです。
では、今年も皆さまに向けて、三枚のカードを引きます。占い的にならないよう、あえて引いた順番は記さず(出たカードの順を記すと、出たカードのことが順番に起きると解釈する人がいるからです。下に書いている三枚のカードは、順不同と思っていただくとよいです)、三枚それぞれで、自分なりに組み合わせ、意味を見出してください。
●2021年の三枚
「悪魔」 「女帝」 「手品師」
さきほど、「見出す」と書いたように、自分で意味づけることにまさに「意味がある」のです。最初のほうにも書いたように、「意味」が今の自分の心であり、思いである可能性が高いからで、それを自覚することが大事だからです。
ひとつだけ、参考で言いますと、ブログでの上記三枚だけではなく、ほかの場面においても、今年について展開した結果から言いますと、霊的な向上をもとにしながらも、現実に向き合い、実際への対処という傾向が全体的に強くなると感じられます。
では、皆さまにとって、今年が、現実的にもそうですが、特に魂・霊の意味でよいことになるよう、祈っております。
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