良いカード・悪いカード
タロットカードには絵が描かれていますので、当然ながら「絵柄」の印象は意味においても、タロットの好みにおいても左右する大きな要素となります。
世にタロットと称するカードは、現在、それこそ数えきれないほどあります。今この瞬間にも誰かが「タロット」と思って、オリジナルなカードを作成しているかもしれません。
そして人がタロットを選ぶ時、カードの絵の雰囲気・印象は大事なものとなります。またその選んだカードの一枚一枚についても、絵は違っていますので、自分にとって好きなカードか嫌いなカードかも、最初の内はあるでしょう。
さらに言えば、ある種、普遍的とも言える、カードの絵の良し悪しのようなものもあると考えられます。
例えば、伝統的な78枚の組と絵柄を踏襲しているタロットならば、大アルカナの13の数をつカード(ウェイト版などでは死神と呼ばれるカード)、15の数を持つカード(悪魔)、16の数を持つカード(塔、神の家)は、多くの人が見ても、あまり印象のよいものとは言えないでしょう。逆に、21の数を持つカード(世界)などは、比較的よいイメージで見られるのではないかと思います。
ですが、当初はそうであっても、カードの象徴性や意味を学んでいくことで、その印象を変えていくことも可能です。
特にマルセイユタロットでは、上記のようなカードたちの特徴(印象)は確かにあるものの、ウェイト版などのカードに比べると、比較的絵が平板で、あえてセンスのないような絵柄で描かれているため、カードそれぞれに際立った印象は持ちにくいかもしれません。
それは結局、カードをすべてフラットに見ていくことに貢献していると言えます。
私たちは、どうしても印象の世界(見た目の世界)から逃れることができません。それだけ視覚というものは五感の中でも、強い感覚・印象を伴うと言えます。
仏教の唯識ではありませんが、私たちは、五感や意思(あるいは思考)を通じて世界を把握します。まあ、唯識では、さらにその奥底の、現代の心理学風に言えば無意識のような情報も、つまるところ、物事の把握・意味付けを左右させていることになるわけですが。
とにかく、かなり私たちは見た目というものに影響されるということです。
ですから、最初からタロットの見た目そのままだけを盲目的に信じ込み過ぎると、カードにおいて、良し悪しとか吉凶、善悪というものの観念、決め事を植え付けてしまうおそれもあるのです。
見た目いいカードはよい意味、見た目悪いカードは悪い意味というそのままです。
しかし、ここでよく考えると、良し悪しとか吉凶の意味は誰が決めているのか?ということです。
それは人間が決めているわけで、もっと言うと、カードを見ている自分です。まあ、それは一般的なヒトの思い・感情の集合体からとも言えるのですが。(ですから見た目というものも、個人だけではなく全体の意識や意味としても大事なのです)
もし、そういう良し悪しみたいな線引きの意味をガラガラポンとして(笑)、すべていいも悪いもないのだとすれば、そこに見た目の印象以外の象徴性・意味がカードから現れてきます。
例えば「切る」とか「破壊」という印象を受けるカードがあって、一見すると、切られること、破壊されることは怖く、恐ろしいイメージ、よい印象が出ないかもしれません。
ただ、そこに良いとか悪いとかの意味を付与するのではなく、あくまでただの運動・行為・状態だと見れば、まとわりつくものを切り落とす必要性もあるかもしれませんし、切らないと長すぎて使えないということが思い浮かぶかもしれません。
破壊も、壊さないと新しものを作ることができず、古いままだと危険でもあります。残したくない記録は破壊したり、消去したりすることが求められます。
要するに、状況によって、同じことでも、良くも悪くもなるのです。
悪い印象、凶的な印象を与えるカードであっても、その逆のよいことで見ることはできないかと考えることで、私たちは物事の見方を大きく変えることができます。
世界は見た目が大きく、そして自分の固執した色メガネのようものを通して自分の中に現れているわけで、それならば、タロットカードを利用して、私たちの見方の歪みをなるべく修正していくことで、囚われからのなにがしかの解放、あるいは逆転の発想、さらに言えば真理のようなものも浮上させることができるかもしれません。
タロットカードの意味を一通り覚えて使っている人でも、その意味だけでよいのかを、改めて考え直していくと、思考の癖や自分のかけている(かけさせられている)偏向(偏光というより偏向のほうがふさわしい)グラスを、少しは、はずすことができるでしょう。
特に、良いカード・悪いカードと分けている間は、タロットを使いこなす以前の段階だと思ったほうがよいくらいです。
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