コミュニケーションとリーディング
少し家族的にバタバタしておりまして、投稿もしばらくしておりませんでしたが、ようやく落ち着いてきましたので、ブログ再開です。(と言っても、アメブロ時代とは違い、こちらのブログはかなり不定期で、当方に何もなくても、長い間が開く時もあれば、短期連続投稿もあり得ます)
今日はタロットリーディングについての話を少し。
タロットリーディングというものはなかなかに面白いと言いますか、一筋縄ではいかないところがあります。
しかし、案外、単純に考えた(見た)ほうが読める(リーディングできる)時もあります。
タロットの学習がそこそこ積みあがってきますと、得た知識も相まって、複雑に読もうとする傾向も出ます。
「木を見て森を見ず」ではありませんが、細かいところに気を回し過ぎて、意外に全体的に見れば答えはシンプルなのに、迷ってわからなくなってしまうことはあります。
あと、他人リーディングだと、相手の求めるものと、タロットが示すものとの調整ができず、どう伝えていいのかもわからず、特に性格が優しいタロットリーダーは、クライアント(相談者)の気持ちに配慮し過ぎて、いわゆる「迎合」となり、タロットの真意からはずれてしまうリーディングになることもあります。
結局、タロットリーディングというものは、自分、タロット、相手(クライアント・相談者)との三者によって成り立つもので、それぞれの間でのコミュニケーション、理解が必要になってくるのです。
それゆえに、単にカードの示す内容そのものだけではない汲み取り方、気の使い方みたいなものも入って、また人それそれに個性があるものですから、さらに解釈もひとつとはいかなくなってきます。
まあ、人間同士のコミュニケーションというところは、タロットそのものとは別問題になりますが、タロットとのコミュニケーションということでは、当たり前ですが、タロット特有のことになります。
ここで、「コミュニケーション」と言っているのには意味があります。
唯物主義的な考えの人とか、タロットや精神世界に興味のない人からすれば、カードとのコミュニケーションなどあり得ないでしょ?と思うのが普通でしょう。
いわば、タロットカードをモノ扱いするのが通常で、まるで生物・ヒトであるかのようにコミュニケートするのは異常となります。
しかしながら、タロットリーダーたるもの、タロットカードは単なるモノとはならないのです。個人的な意見では、ツールや道具(の機能)でもありなから、それそのもの(道具)でもないというのがタロットだと思っています。
要するに、生き物的な扱いをしているということです。(笑)
タロットの世界では、「タロットの精霊」という存在がいると信じられています。
「信じる」という言葉が宗教的で奇異だと思う人は、ひとつの概念や、モノとのコミュニケーションするための「設定」だと見てもよいでしょう。(「タロットの精霊」はそのようなものではないのですが、心理・理論的に考えたい人は、です)
タロットは、そもそも、人間世界における合理的な側面と、不合理的な側面とを統合できるものでもありますし、別の表現をすると、合理・非合理の矛盾性をあえて見せるものだと言ってもいいでしょう。
ですから、無理矢理、私たちの納得する因果関係とか、ストーリーの整合性などをタロットに押し付けても(というより、人間側が、人間側の説明で理由のつく解釈をしなくてはならないと強迫的に思うやり方は)、両者の共同作業の意味では、受け入れがたい面があるのです。
タロットは、普段私たちか意識しないこと、見えていないものなどを、カードの象徴性を通して浮上させることがあります。
それは象徴としての絵柄と、人間の心理の相互作用とも言えますが、あえてメルヘンチックに言うならば、タロットの精霊という存在が、タロットに読む人に対してマジックを施し、いろいろなことを見させているということもできます。
タロットの精霊の代表は、大アルカナの「愚者」で表されることがあり、「愚者」の絵柄とか意味、その言葉自体からしても、普通の論理性や通常の世界観で片づけられるような代物ではないことがわかります。
混沌と言っていいものも、「愚者」によってもたらされることもあるわけですし、トリックスター的に、ただかき回してトラブルを起こし、それを見て楽しむ存在かもしれないのです。
ゆえに、タロットが正しいことを伝えていると、必ずしも言えず、むしろ、間違ったことさえ見せていることもあるかもしれないのです。
ここで言う「間違い」とは、あくまで通常の私たちが考える、あるいは見ている合理性(現実性)の世界・ルールにおいての話で、あちら(タロットの精霊の世界、非合理や無意識の世界)では正しいかもしれないのです。
そのため、タロットリーディングとは、タロットの世界(精霊)と、私たち人間の世界(常識的世界の人間)との話し合い、協議であると言えます。
相手を認めつつも、お互い、変に譲ったり、折れたりするわけでもないですし、だましだまされの状態もあるかもしれません。
「手品師」などは、いかさま賭博師の象徴性もあるのですから、私たちが騙されているおそれもありますし、「悪魔」のカードならば、彼によって幻惑され、魅了されている節も時にはあるかもしれないのです。
まあ、例えれば、「異世界人との、不思議ながらも愛着のある交流」をしていくというような雰囲気でしょうか。(笑)
タロットリーディングの一面には、そういうところもあるのです。知識での解読とか、絵を見ての自分の直感・感性のもので読むなどとは別種のリーディングです。
ということで、タロットリーディングには、タロットとのコミュニケーションによって左右されるところもある話でした。
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