タロットと人、意識、方向性

タロットへのアプローチ、方向性、ベクトルと言ってもいいかもしれませんが、それは、大きく分けて二つあります。

ひとつは、読み手(タロットを読む人、タロットリーダー)側からタロット側への方向、もうひとつは、タロット側から読み手側への方向です。

何かと何かの関係(性)がある時、それは必ず一方向ではなく、双方向的なものであることは、タロットをしていて気づきました。

それは、第三者的な目線から見れば、至極当たり前のことなのですが、ふたつ、あるいは二人の当事者同士の関係性では、意外に意識しないものです。

一般的に、タロットから何か示唆を得たいと思う時、質問をしてタロットを引き、その出たタロットと質問を関連付けようとします。

しかし、タロットから読み手側への方向もあるとすれば、それは、タロットを引こうとした人が引いたのではなく、タロット側が引かせてあげた、出してあげたというものにもなります。

自分が主体となってタロットから何かを得ようとしたのかタロット側が見せたいから(自分と遊んでもらいたい、使ってもらいたいと思って(笑))出したのかという見方の違いです。

タロット側が主体だと、一種の演出と言ってもいいくらい、ゲーム色が濃くなります。

もしかすると、タロットを主体として見た場合、人の質問の内容には関係なく、ただそのカードを、今のタイミングでタロット側が見せたかっただけかもしれません。

ただ、タロットと読み手側との間にラポール(関係性、親密性)がついていれば、タロット側もランダムに、あるいはタロットが見せたいカードをただ示すというより、相手(この場合は人のほうになります)の質問に対応したカードを見せてやろう、引かせてやろうという思惑になることもあるでしょう。

どちらも主体であると考えた時、やはり、タロットとの関係性・ラポールは結構重要ではないかと考えます。

さて、そうしたどちらも主体とした、双方向的なタロットとの関係性がある一方、私は新たに、その中間のような関係性もあるのではないかと思っています。

それはまた、後日、紹介することもあるでしょうが、ここで少しふれますと、タロットと人との間に現れる、中間的な感覚・エネルギーとでも言いましょうか。

言い換えれば、人の質問に答えるカードでもなく、タロットが見せたいと思うカードでもなく、その中間的な存在としてのカードの出方(出し方)があるというものです。

まあ、タロットに限らず、私たちは普段、自分という主体意識、自我意識を持って、それが当たり前になっていて気づきませんが、ふと視点をずらせば(主体を変えると)、多様な関係性とレベルによって、世界が成り立っていることに気づきます。

ある意味、様々な存在とレベルによる共同(協同)作業によっているわけです。

従って、自分の意識のズレというものは、新たな(異質な)世界への、文字通り移行であり、旅立ちということにもなるわけで、それが「愚者」の表すエネルギーと言ってもよいでしょう。

ただし、きちんとしたコントロールをしていないと、それこそ統合失調症のような状態にもなりかねませんので、簡単に考え過ぎるのも危険です。サイキック世界との境目に意識をずらしてしまえば、いわゆる憑依というもので、自分の主体性が失われます。

ですが、一方で、何かに行き詰まりや閉塞感をを覚えていたり、同様の問題が続いていたりする時は、意識・主体をずらすという行いは、いい意味でのブレイク、よいアイデアを得るきっかけにもなります。

タロットはそれを推進させる機能もあると考えられるのです。

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