「死」を考えること

今日はちょっと深刻な話になるかもしれませんので、読みたくない人は避けていただければよいです。

さて、従来あった社会的な縁や援助機能が少なくなる中で、すでに多くの問題がありますが、今後、終末、端的に言えば「死」をどう迎えるのかという問題は非常にシビアになってくると感じます。

マルセイユタロットで象徴すれば、「13」の問題と言えましょう。

まず、孤独化や高齢化している日本では、一人で死を迎えなくてはならないというケースがこれまで以上に増えると予測されます。

死の前の心身機能の衰え、病気の問題もあり、現実問題として経済的なことも無視できないところです。

これまでは家族や個人の責任として、それぞれの死を看取り、葬儀・弔いを行ってきたところで、それが常識であり、普通にできていたのが今までの時代でもありました。

しかし、コロナというパンデミックも経験し、一時は海外では、亡くなった人の処理が追い付かないという厳しい状況もあり、死者の増大と、その対応には、人的にもシステム的にも難しくなることがあるということに、現実感を覚えた人も少なくなかったではないかと思います。

これまでは人が大量に死ぬ、死体の処理が追い付かないなどというのは、昔のこと、遠い国の戦争のこと、物語でのことだと感じていたのが、今現在で、実際にあり得るのだという実感です。

ただ、パンデミックというのはあくまで特殊なケースであり、落ち着けば、そんな心配はいらないと思うでしょう。

けれども、日本では若い人の人口が減り、年老いた人と孤独な人が増えて行く中で、果たして、家族だけで死の面倒を看ることができるのかという問題はある(今後出て来る)と思います。

ちょうど災害の対応が、各個人や個々の家庭ですべて(ではなくても結局、責任は個人に帰します)やらなくてはならないという問題と似ているところがあります。

孤独死してしまうと、最後は行政の介入という話になりますし、家族的に無理な場合も、様々な行政・民間のサービスや支援がありますから、何とかなるのは現状ではあります。

しかし、それもかなり無理な状況がやがて来て、限界も見えてきそうです。

根本的なところ(問題)では、今の個人自由主義の経済システムにあると考えられ、一番の要因は土地や財など、本来の公共的なものが個人の所有として認められている部分にあるのではないかと見ます。

要するに、現在の経済システムによって、共助的なものを中心に、それが機能していないことにあるということです。

言い方は悪いですが、今は「自己責任で死ね」と言わているようなものなのです。

さらに言えば、「死ねば終わり」という風潮(死後についての観念が薄い、生きている間の幸福(経済・モノの獲得中心の価値観による幸せ)こそがすべてというような思い)も問題です。

死生観というものが、極めて個々の勝手に決められ、浅薄なものになっている点も大きいです。

死生観と述べたように、死だけではなく、人の出生についても、もっと考える必要があると感じます。

人は必ず生まれれば死にますので、言わば、生と死はセットです。これらは常に両面、両方向から見るべきもののはずです。

本当に、これからの社会システムと価値観を変えて行かないと、私たちは安らかな死、満足な死というものが迎えられないかもしれませんし、生まれることも厳しい状況になるおそれがあります。

もはや個々の責任とか、個人それぞれが分離した自由というものからの発想を変えなければならない時に来ているでしょう。

つまりは個とは逆の、全体で見る視点であり、発想であり、システムです。簡単に言えば、全体がひとつ(巨大な一人)の人間みたいなイメージです。

そしてその巨大な人間が、ひとつの全体システムとして機能します。

そうした共有意識を持つためには、実は一人一人が別の意味での責任感・自立的意識を持たねばなりません。言ってみれは、他人事(ひとごと)という考えが通用しなくなる世界です。

おそらく、個として分離社会(個人の意識、権利、自由が確立してきた社会)が近代以降進んだのも、全体社会への進化のための過程だったのではないかと推測します。

要は、個として自立を成すための準備です。個人の自立意識が確立しないと、全体に飲まれてしまえば、それはただ依存や強制的な奴隷、洗脳に近いものとなります。

全体で共通意識を持つためには、逆説的ですが、個の自立意識が必要なわけです。

そうした準備が整いつつあり、むしろ、個の意識が行き過ぎて、霊我を忘れ、自我(エゴ)が強まり過ぎているのが現代社会と言えましょう。

早く霊我的な意識を取り戻し、「全体しての私」に進化していく必要があります。

ただそれはエゴを無理矢理捨てるのではなく、エゴを自覚し、コントロールすることが求められるのです。(マルセイユタロットで言えば、「力」のカードにある女性とライオンの関係)

マルセイユタロットでも、「13」の前には、「力」「吊るし」と数的に並びます。「吊るし」は巨大な人間も示し、全体意識への変転(個から全体への転換、反転)を意味していると言えましょう。

死というものは、普段はどうしても考えない(考えたくない)ものですが、先述したように、生きていれば必ず迎えるものです。

死を意識してこそ、いろいろなもの(本質)が実は見えてくると言えます。

死を通して、自分のことだけではなく、周囲から社会、全体へと見渡すことも可能です。

ただ死を不安に思って避けるのではなく、怖いことそのものは自然だと思って受け入れていく過程が大事かと思います。

は誰にでもありますが、誰も思いたくないもので、それを思う時、恐怖と不安に支配されます。

これも個の責任だけで考え過ぎると、余計不安と恐怖が増大するでしょう。だから、誰かと死の話をするのはよいことなのです。

死の怖さの吐露、共有が、恐怖を和らげるのです。(死への準備になる)

そして精神的なことだけではなく、現実的、社会システム的に、死を安らかに迎えられる機能・体制が整えば、さらに死というものの観念が変わるでしょう。

考えみれば、私たちは本当に、自分たちで恐怖とか不安を煽る世界を創ってしまっていると言えます。

人類の智慧と努力があれば、もっと安心な社会、深い心と慈愛に満ちた世界にできるはずなのです。

そのことに多くの人は気づいていますが、さらに自覚を高め、何が本当によいものなのか、自分自身にも、社会にも求めて行くことが大事でしょう。

少なくとも、まずは自分自身の本当の気持ちと向き合うこと、小さくても、自分自身を示す行動をひとつでも起こすことは重要かと思います。

死、自分の終末を考えることも、そのひとつと言えましょう。

皆さんで、もっと「よい死」をイメージしていきたいものです。

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