お墓の問題
父が死去したこともあり、いろいろと人間の死や、死後の(残されたほうと、亡くなったほうの両方)のことなど、再び考えることが多くなりました。
もともと父はお寺の出であり、僧侶にはなりませんでしたが、昔から何かと仏縁というものを私自身も感じておりましたので、普通の人より、生と死というものを考える環境にあったのかもしれません。
というより、私自身の性格もあったでしょう。タロットを習うことになったのも、今で言うスピリチュアルへの関心が、普通の男性よりかはあったからと言えます。
さて、人の死を考えた場合、実はすべての分野で言えることではありますが、物質と精神、平たく言えば、モノと心、目に見える面と見えない面、現実とファンタジーなど、ふたつの側面から見る必要があると思えます。
実は、意外にこのふたつは混交してしまい、整理がつかなくなっていることもあると考えます。
また、どちらか極端になって、死んだら終わりと見てしまうか、逆に、やたら死んだ人の気持ちや思いに囚われ過ぎてしまったり、ということも場合によっては結構あるでしょう。
ここはまず、物質的なことと精神的ことを分けて考えつつ、最終的にはそれらを統合していく(本質的には実は同じと見る)境地に導かれればいいのではないかと思います。
そこで、物質と精神の意味でも、人の死(後)で、顕著に出て来るのが、お墓の問題ではないでしょうか。
日本では、仏教式のお墓が多いですが、もちろんお釈迦様が説いた本当の仏教とは違って、そこには日本独特の、先祖信仰が入っており、さらには中国からの陰陽思想などの影響もあると考えられます。
唯物主義的に言えば、人は死ねば、ただの骨や肉となるだけで、放置すれば、自然の循環に入るものでしょうから、お墓はいらないことになります。
それでもお墓が必要とされるのには、やはり、死後も何らかの意思とか魂のようなものが残っていると見るか、たとえそういうものがなかったとしても、残された生きている者が、故人を振りかえってコンタクトしたり、偲んだりするための施設として建てるか、ということになるでしょう。
また常識的に、お墓がないと周囲の人たちからおかしく思われるかも、という世間体もあるかもしれませんが、これも突き詰めてしまえば、精神的な話となります。
そうすると、ほぼ、お墓を建てる(持つ)理由は精神(気持ち・心)から出ていると言えます。
しかし、現実面では、死体をそのまま放っておくと衛生的にも問題があり、勝手に自由にお墓を作ってよいとするわけにも行きません。
そして、お墓自体も物質であり、現代では、そこそこのお墓を建てるための、土地と建築の費用を合わせると、なかなかの値段となりますので、「お金」という極めて物質的・現実的な要素とも関係します。
となりますと、お墓は結構、現実的なものとも考えられます。
言わば、精神(裏・本質)を核としながらも、表現(表)は物質的なものとなるのがお墓です。
そのため、三次元的(現実的、物質的表現)に問題が起きるのが厄介でもあり、人を悩ますことにもなります。
ですが、本質的には精神、気持ちの問題なので、墓などいらない、あるいはあっても質素でいいとか、精神を自由にすれば、その物質的表現ももっと広く軽やかになると言えます。
そこで、最近は、お墓の保守ができなくなる人が多くなってきた理由もありますが、海に散骨とか、樹木葬などの、自然に骨を返す方法も取られるようになり、そうした選択をする人も増えてきていると聞きます。
精神(心)を自由にすれば、そういう自然葬もありだと思えますが、一方で、陰陽思想的な、別の精神世界の考えを入れると、そのようなやり方は、納得行かない(不安がある)人もいます。
陰陽思想的には、お墓は陰の家であり、生きている者の住む陽の家とセットになる代物です。
つまりは、見えない世界(陰)においても家とか基盤がないと、対となるべき陽の家(生きている者の生活)も不安定になるという考えです。
その陰の基盤となるものが、骨だという説があります。すると、いきなり散骨して自然葬にしてしまうと、帰る(陰として安定する)拠り所がなくなり、陽のほうもおかしくなるというように見てしまうわけです。
よって、骨が安置される、きちんとした墓は重要だということでしょう。
中国の影響のある沖縄などは、確かお墓は大きく立派に作られていたと記憶しています。
まあしかし、これもあくまで“思想”で、精神世界であり、ファンタジーといえばファンタジーです。
死んだら終わりで、骨も肉体もただのモノだと見れば、それをどうしようが、別に何の問題もない(衛生的とか場所的問題とかは別にして)と言えます。
すべては宇宙であり、宇宙の中で循環しているものだと考えれば、死んだ人のお墓も、生きている者の生活も、まったく宇宙というものの中のひとつの表現とか、ポイントに過ぎないわけで、埋葬の仕方とか宗教のこだわりとか、供養法など、どうでもいいことなのかもしれません。
ただし、それは次元を思いきり上にした時の話で、人は想念や思い、感情というものを持ちますから、たとえ、本当に死後、ただの物質になるだけだとしても、そうは思えない気持ちがあるがために、サイキック(精神エネルギー)的世界が構築されて、その世界の影響を、生きている者(考えている者)自体が受けるということになると想像できます。
結局、魂があろうがなかろうが、生きている者が思う世界により、ほかならぬ、(生きている)自分たち自身が影響を受けるという話なのです。
ですから、やはり、お墓の問題も、究極的には、個人の意識とか感情の問題であり、自分が気にするものが、まさに「気(氣)」として影響してくるわけで、自分の思い次第だと言えます。
こう書くと、「では、お墓なんかいらないんだ」とか、「自由にお墓は作ればいいんだ」とか、思う人もあるかもしれませんが、真にそう思える人はその通りでいいですが、おそらく、ほとんどの人は、自分の家の宗教とかしきたりとか、世間体とか、個人の思いとか、何かしら、自分以外のことから精神(心・気持ち)に影響を受けていて、それが思考・感情に出て来る(よぎる)ことは普通かと思います。
その限りにおいては、サイキック的には影響が必ずあると考えられ、だから、なかなか自由にも行かないところがあるのが、お墓とか死んだ人への扱いの問題となるのだと予想します。
ともあれ、現実(物質)面を踏まえながらも、あまりガチガチに因縁や因習に縛られずに、かと言って、自分が気にしていることは無視せず、うまく折り合いをつけた視点で、お墓の問題に当たるとよいのではと、個人的には思います。
ところで、マルセイユタロットでは、死の象徴が「13」として特徴的ですが、お墓と関連させると、建物のあるカードが出てきて、例えば、「神の家」「月」「太陽」などがあげられますし、「星」とか「審判」「世界」も結構関係します。
言ってみれば、終活カードというような感じのものが、見ようによってはあるわけです(苦笑)。
なお、西洋魔法とタロットカードも関連するものですが、西洋的なサイキック観点からは、死後の準備としてタロットカードを使う方法があり、タロットは生きている間に、死への準備をするため(特に霊的な意味で)のカードと言える部分もあるのです。
また「死」への準備ですから、逆に「生」に対しても考察が及ぶのです。
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