あなたは旅をしているか?

今日はをテーマにしたいと思います。

旅と言えば、マルセイユタロットでは、やはり「愚者」のカードが思い浮かびます。

マルセイユタロットの「愚者」は、誰が見ても、どこかに向かって歩いているように見える図柄です。

袋のついた棒を背負い、杖をついて右方向に歩いています。ちょっとした散歩やお出かけのように見えなくもないですが、そのスタイルからすると、これは「旅をしている」ように感じてきますし、もしかすると、長いこと、旅を続けているのかもしれません。

気分転換や癒し、レジャー的な旅行については好きな人が多いと思いますし、趣味にしている人も結構いらっしゃるでしょう。

しかし、旅というものは、いろいろな目的・種類がありますよね。

ビジネスや仕事が目的の旅、すなわち出張も旅と言えますし、精神的・宗教的な目的で、修行の旅もあります。お遍路とか巡礼も、そのうちの一種でしょう。

そして、何より、私たち自身の人生も旅と言えるのかもしれません。

旅は日常や固定性、既知性、普遍性とは逆の非日常を味わい、知らないことを見聞したり経験したりし、旅をしている間は特別な時間・空間になります。

移動するのが旅でもありますので、定住するもの、同じことの繰り返しのようなルーチン的な生活とは真逆の体験となります。

ただ、旅が仕事・日常になっている人がいれば、むしろ、普通の人の生活状態が非日常へと逆転するのかもしれませんね。

それでも、旅というものは、このように、いつもとは違う感覚を味わうものになりますので、そこに大きな刺激や成長のチャンスがあるわけです。

実際的に、旅に出るということは、滞って退屈な日常からの変化になりますし、旅先での経験が自分を拡大させてくれることもあります。

けれども、いつもとは異なるわけですから、危険やネガティブなことも起きます。その対応次第では、拡大どころか縮小してしまうこともあり得ます。

とは言え、旅の特徴としては非日常で、限定的なものである(仕事で旅をしている人、移動が生活のスタイルの人以外は、旅は永続的ではない)ことがあげられます。

ということは、旅はいつか終わるのです。人生がもし旅であるのなら、ある種の特殊な限定的時空体験かもしれず、それならば、死を迎えれば、人生の旅は終わることになります。

そう考えると、日常(生きている時間)こそが実は旅であり、私たちは、本当は非日常にいる(旅であるから)のかもしれないのです。

では、人生が旅であるのとは反対の、旅ではない日常とは何なのか?ですが、それが死後ということになるのでしょう。旅が移動するもの、変化していくものという特徴があるのなら、死後の世界は移動しない、変化しないという次元であることが考えられます。

マルセイユタロットには、「愚者」が他の大アルカナをたどって、「世界」のカードまで行き着くという思想があります。

例えば、ある流派では、このうち「戦車」までが私たちの現実世界であるという解釈がなされますが、これを21枚全部が実は現実世界のことだったという見方もできるのではないかと思います。

「愚者」が移動して、最終的に「世界」のカードでゴールするのなら、「世界」のカードは死後の世界の入り口と見ることができるからです。

そう思って「世界」のカードを改めて観察すると、真ん中の人物は移動しているわけではなく、そこで踊っているか、止まっているかのように見えます。周囲の動物とか天使、雰囲気も含めると、まるで天国のような印象もあります。

「ご冥福」と言う言葉があるように、本来、死後の世界がよきものであるようにも思えてきます。(死後が生前の行為によって裁かれるという思想ならば、死後が悪い世界ということもあるでしょうが)

ただ、あまり変化なく、動きもないとすれば、やはり退屈な世界なのかもしれません。

それに引き換え、絶えず変化のある現実世界と人生は、まさに旅であり、タロットカードでは、21ものシーンのバラエティある世界観で示されているようでもあります。

厳密に絵柄を見れば、20の「審判」で、何やら棺桶のようなところから起き上がっている人が見えますので、この時点で、すでに死後(の入り口)なのかもしれませんが。

となると、これまた面白いことではありますが、旅をしている人生(生きている現実の生活)というのは、棺桶で眠っている夢ということも考えられます。

まるで中国の「胡蝶の夢」(現実が夢なのか、夢が現実なのかという荘子の説話)のような話です。

いずれにしても、人生は旅なのだという観点は、時に人を楽にする可能性があると思えます。旅自体、そういう性格のもの(非日常を体験するもの、エンジョイするもの)だからです。

実際の人生で、たいていの人は、普通の旅行も何度もするでしょうが、それは言わば、旅(人生の旅)の中で旅(現実の旅行)をしているという、入れ子構造的な仕組みにもなっているのに気がつきます。

それは、一日と一年が同じような構造になっている(本質的に)のに似ています。人生という旅の中でも、本当に移動したり、変化したりする時期もあれば、まさに日常的な普通で穏やかな時もあるでしょう。

普通の旅は、自らで行くことが可能です。であれば、人生での旅(変化・変容)も、必要な時に起こすことができると思うことです。

環境や流れ的なもので変化はやってきますが、それとは別に、退屈な時、リフレッシュしたい時、あるいは逆に癒しや休養を必要とする時も、人は普通の旅に出るように、長い人生の旅という時間の中でも、自らの意思で、同様のことができるのです。

旅の中の旅は、チャンス(あるいは回復・治療)を自らの力で起こすという意味でもあります。

ただただ流され、日常の民としてあきらめ・惰性の人生の旅を続けるのではなく、旅は自分で行くもの、計画するものと考えれば、自分にいい意味で、変化もたらせることは可能でしょう。

マルセイユタロットの「愚者」は数を持ちません。これは、ほかの数にもなれる(ほかのカードに移動して、そのカードに象徴されることを経験できる)ことを暗示しているからです。

「愚者」の旅は、21枚という、それぞれの世界の経験となり切りと言えましょう。それが私たちのいる現実世界であり、人生であり、なのです。

あなたに足りていない(まだ経験していない)カード(シーン)は、果たしてどれでしょうか?

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