「法皇」と「隠者」その存在
マルセイユタロットの大アルカナを見ますと、似たようなカードがあることがわかります。
その中で、今日は、教えるとか伝えるということで、似たカードを取り上げたいと思います。
端的に言えば、それらのカードとして、「法皇」(一般的には法王とか教皇とか呼ばれていますが、キリスト教のその立場の者ではないと考えられるので、あえて違う呼び名をしています)、「隠者」があげられるでしょう。
ほかにも、告げる・話すというテーマを含めますと、「恋人」とか「審判」、それに「太陽」なんかも人物が複数いる画像ですので、何か告げている、語っていると見ていいかもしれません。(もっとも、すべてのカードが、何かしらを私たちに伝えているということでは、全部が当てはまるわけですが(笑))
実は、それら三枚、特に「恋人」と「審判」については、伝える・告げるの意味で、とても深い内容を示すことができるのですが、それはまた別の話として、本日は、「法皇」と「隠者」での話とします。
「法皇」と「隠者」、先述したように、“伝える・教える”のテーマでは共通していると言えます。
しかし、たとえ同じようなテーマで見たとしても、どのカードもまったく同じ図像(画像)というものはありません。
その違いこそが、細かな意味の違いにもなっています。
言わば、(同じと見る)テーマは「あり方」であり、カード同士の絵柄の違いは「やり方」でもあると言えるでしょう。
「法皇」と「隠者」でも、伝えるというあり方は同じでも、その伝え方(やり方)が異なるわけです。
タロットのよいところは、絵なので、絵の違いを視認することができるという点です。口で説明されるより、文字通り、一目瞭然なのです。
だから、タロット理解の基本は、その絵をよく観察することから始まります。
「法皇」と「隠者」の絵を見て、違いを確認してみますと、やはり場所と人数の差がわかります。
「法皇」では、中心は法皇自身ではありますが、法皇の話を聞きに来ているような人たちも描かれています。一方、「隠者」はただ一人です。
場所も、宗教施設(教会)のような公会堂的なところで描かれているのが「法皇」ですが、「隠者」は場所は特定できず、背景がないと言ってもいいくらいです。
ここから、「法皇」は実際の人間のいる場所、多くの一般的な人々に語っていたり、伝えていたりするのがわかりますし、反対に「隠者」は、その名の通り、隠れた者(場所)で、伝えようとしている対象者も定かではではないという雰囲気が見えます。
法皇は確実に人間でしょうが、もしかすると、隠者は通常の人間ではない存在ということも考えられます。隠れた者という名前からしても、隠者は私たちの目には見えない存在なのかもしれません。
タロットはいろいろな解釈方法があり、例えば、すべてのカードを現実性に置き換えることも可能ですし、逆に、現実を超えるイデアとかイメージ、形而上的世界や見えない領域(物質次元を超えた世界)を表すこともできます。
その意味で、隠者を実際に存在する人物と見れば、孤高でその分野の深い専門知識(あるいは技術)を持つ者と解釈できます。
しかし、違う見方をすれば、やはり、人間を超えた存在という解釈もできるわけです。
そうすると、法皇が人間レベル(実際の人間)での先生とか伝道師を表すのに対し、隠者は見えない世界や高次の、人間を超越した存在の教師ということを象徴している可能性があります。
タロットの学びにおいて、そういう、ふたつの教師・伝達者が必要であることを表しているようにも思います。
いや、そもそも、私の考えるタロットの学び(目的)自体が、人の霊的向上、覚醒(思い出しでもあります)にあるとすれば、すべてのことにおいて、ふたりと言いますか、ふたつの異なる次元からの先生がいると言えるのかもしれません。
そして長年、マルセイユタロットを教えている身の上としては、自分自身が「法皇」の立場になったとしても、「隠者」から教えられること、伝えられることを常に意識せよという教訓のようにも感じられます。
法皇は一般レベルからすれば、その道の先生かもしれませんが、しょせんは人でもあります。ですから、法皇と言えど、まだまだ高いレベルから見れば、未熟者で初心者みたいなものです。
実は、隠者世界から見れば、マルセイユタロットの「手品師」なのかもしれません。ローマ数字も、「法皇」は5であり、縦棒が重なる並びの4から「V」の字になって、新たな段階であるのがわかります。
またローマ数字的暗号で見れば、次の6「恋人」から5に1(Vに縦棒)が加わっているので、本当の意味での次の始まりは「恋人」からとも言えます。
ここがまたマルセイユタロットのすごいところですが、事実、「手品師」と「恋人」は似たような絵柄の表現(詳しくはあえて言いません)が見られ、意図的な配置だと考えられます。
話が少しそれましたが、現実に先生の先生(先生を教えた先生)も人間として存在しますが、「隠者」の場合は、人間を超えた教師を象徴することがあるというわけです。
「隠者」は「斎王」(通常は女教皇と呼ばれるカード)とも関係し、例えば、教える・伝えるという本日のテーマでは、斎王からいきなり隠者に飛ぶ(逆を言えば、隠者から斎王に降りる)教えられ方、伝えられ方もあると考えられます。
斎王は女性(性)ですから、女性(性)は、見えない領域の教師からダイレクトに教えられることが、比較的容易なのかもしれません。
一方、男性(性)である法皇は、隠者から受け取るには、何らかの装置とか儀式が必要な気もしますし、斎王を通して、隠者と接触、もしくは隠者レベルの発動が起こることも想像されます。
ただ、人間の世界で生き、その世界での伝達、教育をわかりやすくして行くならば(あるいは学ぶのならば)、法皇の存在や段階は重要なものであり、法皇によって、まさに実際の理解が進むことも、タロットからは言えるでしょう。
(人間の)先生やテキストがなくても、隠者的レベルからの示唆と学びは可能かもしれません。
しかしながら、人間世界での学び、また、自分が普通の人間の状態からもっと成長していくためには、「法皇」に象徴される人間の先生(実際の教師、人間としての先達)、教えられる場所(学校など)、一緒に学び生徒たち(クラスメートや同志)、一般化された教書・テキスト(これは本を持つ斎王の範囲かもしれませんが)がいるということも、それこそ“教えられている”気がします。
そのうえで、隠者的、人間を超えたレベルの何か(存在だけとは限りません)からの教示があるのでしょう。
法皇は人間世界の人物なので多種多様、かつ、たくさんの人がいるでしょうが、おそらく隠者は、極めて限られた存在しかいない(特化した存在)と想像できます。
法皇は一般化・普遍化・平行方向とも言えますが、隠者では、個別化・特別化・上下方向だと考えられますので、なおさらです。
そうしますと、「法皇」を無視しての「隠者」へのコンタクトは、混乱(非体系化・混沌・独善)の危険性がありますので、やはり、「隠者」の前に「法皇」というマルセイユタロットの並びは、正しい道(王道)なのかもしれません。
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