「悪魔」の束縛と解放

今日はタイトルの通り、「悪魔」のカードから、束縛と解放について考えてみます。

なお、最初に、勘違いしないように強調しておきますが、束縛している「悪魔」からの解放という意味ではありません。それだと、「悪魔」は悪い意味だけになってしまいます。

「悪魔」というカードには、束縛と、その反対の解放の、両方の意味があることを述べたいわけです。

今回は悪魔とは何か?というテーマではありません(これはとても興味深いテーマではあるのですが)ので、悪魔自体への深堀りはしません。

その代わり、「悪魔」がもたらす、ふたつの矛盾する力にふれたいと思います。それが先述した「束縛」と「解放」なのです。

マルセイユタロットの「悪魔」は、二人の人物をつなぎとめています。そして、悪魔も、つながれた人たちも、皆笑っているところが注目されます。

ということは、この状態が三人にとって楽しいとかうれしいものであるように想像できます。ただし、「悪魔」は舌を出していますが、つながれている人たちはそうではなく、まるで悪魔を崇拝しているかのような、恍惚の表情を浮かべています。

このことから、悪魔とふたりの人物との間には、絶対的な力関係、言ってみれば「悪魔」の強大な力がうかがえるわけです。それでも、つながれた人は喜んでいます。

私たちが「悪魔」のカードを客観的に見れば、つながれた人物たちはかわいそうに見えますし、愚かにも思えます。それは悪魔に束縛されていると見ているからです。

けれども、「悪魔」は解放をももたらすと言えば、どうでしょうか。絵柄からは信じられないかもしれません。

一般的に悪魔は、神という善に対抗する悪い存在とかエネルギーと考えられています。

神と悪魔という絶対的な二元による対立、対比の構図では、そうなってしまいます。しかし、世の中、白黒はっきりとすべてが決まるわけではありません。いわゆるグレーゾーンもありますし、悪にも正義はあり、また正義が必ずしも善とは言えないでしょう。

一元や統合的な意味では、善も悪も、神も悪魔もない、そのように決まらない世界もあると考えられます。

マルセイユタロットの大アルカナは、もうかなり知られていることですが、数順に進化成長が行われるとか、統合過程を示しているとか言われています。

すると、「悪魔」は15番目に位置するもので、21「世界」のゴールの途中でもあるわけです。面白いことに、15「悪魔」の次のカードは16「神の家」となっていて、悪魔と神という名前がつくカードが、隣同士に並ぶ構造になっています。

つまりは、マルセイユタロットでは、二元対立は描かれていても、それが最終境地とか最高度のものではなく、あくまで過程に過ぎないことを示しているように思えます。

要は、マルセイユタロットの「悪魔」のカードは、一般的なネガティブオンリーの悪魔や、善なる神・至高神に反発したり、神を信仰する者を堕落させたりする存在ではない可能性があるということです。(そういうニュアンスがないとは言いませんが)

そこで、「悪魔」の解放(の意味)なのです。

マルセイユタロットでは、8の「正義」のカードより、「悪魔」のほうが、15という上の数になっています。ということは、「正義」よりも高度な概念が「悪魔」にはあるということです。

言わば、下手な正義思想よりも悪魔のほうがまさっていると言ってもよいのです。

下手な正義思想とは、自分の信じているものが絶対に正しいと思うような態度です。頑固な正義感と言ってもいいかもしれません。また(低次の)純粋さとでも言いましょうか。

正義は大切ですが、すべてのことが正しい、信じてよいというものでもないでしょう。

人の成長や意識の拡大には、実は疑いも必要だと考えられます。今の自分の段階では、正しいものと正しくないもの、あるいは善と悪とか、何かにつけて線引きしているものがあるはずです。

ただ、意識が拡大・向上したり、知識が本当の意味で増大したりすれば、以前の自分とは異なり、良いもの・悪いものとの線引きは消え、もっと包括的に、大きな目で見ることが可能になります。

ちょうど、小さい頃信じていたものが、大人になれば裏も表もわかって、単純なものでは見られなくなるのと似ています。

この意識の拡大に、「悪魔」は効果的に働くのです。まず、「悪魔」の象徴による「疑い」とか「抵抗」というものが(意識に)現れます。

これは本当に正しいのか? ほかの方法とか裏の理由があるのではないか? これに従うことはよいことなのか? あの人・あの組織に従ってきたけれども、それで本当によかったのか? このルール・規則は守るべきことなのか? 自分の本当の気持ちはどうなのか? 常識と非常識の境目は?…など、こうしたものが自分の中に湧き起こり、それを支援する力が「悪魔」のパワーと言えます。

体制を疑い、破壊をも辞さない勢力は、体制を守りたい側からは「悪魔」とは呼ばれることはよくあります。

自分一人の中でも、これまでと変わらない自分と、変わりたい自分とが葛藤することがあります。悪魔は、その両方への力があります。

しかし、その本質は、「自由」がテーマと言えます。なかなかわかりづらいかもしれませんが、(マルセイユタロットの)「悪魔」が表す本質は、「自由」への希求と個人的には考えています。

自分がいかに自由でいられるか、これによって「悪魔」は、破壊者側にも保守側にも回る気がします。

ただ、「悪魔」の自由にも限界があり、さらに自由になるには、それこそ「神の家」の段階が必要だとも言えます。

それでも、「悪魔」によってもたらされる自由は、それまで束縛されていたものからの解放でもあるでしょう。言い換えれば、下手な正義から混沌(疑いや葛藤)を経て、次の自由を獲得するための力です。

自分よりもっと自由で魅力的な人がいる、それは自分が自由になるためのモデルでもあります。そういう人に魅かれるのも、ある意味、当然と言えます。

しかし、そうしたモデル(つまり「悪魔」)によって解放された自分も、あまりにモデルを絶対視すると、そのうち、モデルによる束縛が生じます。

たとえモデルの人が縛ろうとはしていなくても、自分自身が自らを縛ってしまうのです。簡単に言えば、理想が崇拝になり、その幻想に囚われるのです。

本当の善的なものと、疑いなき心というのは似ているようで違います。自分が、誰かや何かを崇拝するようになることは、まったくの疑いを知らない子供のような幼さに堕してしまうことでもあります。

皮肉なことに、神に疑いを持つのが悪魔なので、悪魔はまさに矛盾する存在として、純粋な心に濁りを与えつつも、ひとつの教義や思想に染まり過ぎることから、救いももたらします。

こうして、「悪魔」は私たちに、解放、そしてまた束縛を与え、次なる解放のための(真の、あるいは自身の中にある)神の力を入れる(起動させる)準備を行うのです。

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