マルセイユタロット 大アルカナの道

マルセイユタロットの大アルカナは、22枚のカード構成となっています。

ほかのタロットでも、大アルカナは同じような枚数構成であることが多いのですが、それも古典であるマルセイユタロットを踏襲しているという場合が多いためと考えられます。

この大アルカナには様々な象徴性がありますが、中でも、人間の発展の道が描かれていることは、ここ20年くらいで、結構知られるようになってきたと思います。

あの心理学者ユングもマルセイユタロットを研究していたと言われ、その後、ユング派と呼ばれる人たちで、心理とタロットを結びつきる試みも行われています。

ユング派によれば、大アルカナの絵柄も、ユングの唱えたいわゆる「個性化」の(簡単に言えば本来の自分、トータルな自分に統合していく)を示していると主張する方もいらっしゃるわけです。

こうした心理的な自己完成の道が大アルカナで象徴されていることもありますが、もっと高次と言いますか、レベルを上げて見た場合、霊的な覚醒、霊的なことも含む人間完成の道を表しているのではないかと考えられます。

もちろん、現実的な意味での目標達成とか願望実現みたいなことの方法論として見ることも可能だと思います。

要するに、その人の望みに応じて、マルセイユタロットの大アルカナは意味を変えつつ、それらの完成の道筋を示すものと見ることができるのです。

逆に言えば、どのようなレベルの完成であっても、この大アルカナのパターン(型)が当てはまるわけです。

こうしたことは、ミクロからマクロまで、あるいは様々な流れとして、同じパターンの宇宙の原理、法則が組み込まれているのと同じと言えます。

何気なく生きていると気づきませんが、昔から人類は宇宙(自然)の原理、仕組みを解き明かそうとして、結局、同じ型、巡りのようなものを見出してきました。それは厳然として今も普遍的に貫き、働いているものです。

こうした原理を、政治から農業、社会、個人生活に至るまで、知らず知らずのうちに取り入れ、この法則のもとに、特に古代の人は動いていた(動かされていた)と言えます。

そして占いも、もとはといえば、こうした宇宙(自然)の法則を研究し、活用したものだったと考えられます。

ですから、ある意味、マルセイユタロットも、宇宙や自然の原理・法則のようものを表していると見てもいいかもしれません。

 

さて、このマルセイユタロットの、特に大アルカナですが、ある見方によれば、これは私たちが生きている間のことを表すだけではなく、亡くなってからのことも象徴しているのではないかという説があります。

ただ、このタロットといいますか、普通にタロット全般は、生きている人の為に作られている(ゲームであれ、占いであれ)わけですから、生きている私たちに、死後のことを含めての「何か」を知らせてくれているのだと考えることもできます。

それは、言わば「死の準備」なのかもしれません。

私たちは、通常、死のことはあまり考えません。せいぜい身近な人が亡くなった時とか、何か事件や災害が起きた時に意識するくらいでしょう。

それでも、必ず、いつかは人は死にます。

別に無理に意識する必要はないかもしれませんが、人生、死ぬことの最後から見た逆の視点も時には有意義かもしれません。

今の多くの人は、自分の人生が充実していない、あまり生きる実感が持てないという感じになっていることが多いように思います。

不安やあせりがあるのはまだましかもしれず、ひどい場合は、不感症のように何も感じられなくなり、ただ毎日生きているだけに過ぎないという人もいるかもしれません。

それでなくても、仕事、人間関係、恋愛、大切な人や動物の喪失感、健康問題など、特に気になる悩み事があって、鬱々として気が晴れない、怒りや苛立ち、哀しみ、絶望感があるという人もおられるでしょう。

一応、いろいろと解決や解消に頑張ってはいるものの、なかなかうまく行かず、そのまま一生を不満足なまま、終えてしまうのではないかと思う人もいそうです。

結局、何が自分の人生にとって大切なのかわからず、そしてなぜこのようなことになってしまっているのかも不明で、仏教的でいう「無明」のままで死を迎えてしまう、このことの潜在的恐怖は、自分では自覚できていなくても、きっと計り知れなく存在するのでしょう。

こうして亡くなった場合、仮によく言われるような輪廻転生システムがあるとすれば、後悔や課題を残すことになり、自ずともう一度生き直したい、つまりは現世に出生したいという思いが出るのかもしれません。

輪廻転生がない場合はもっと悲惨かもしれず、「つまらぬ人生体験だった」「つらい、空しいものばかりだった」で終わり、もうやり直しも利かないわけです。

ですから、マルセイユタロットがもし死後のことも表すというのであれば、反対に、生きているうちの私たちがすること、できることを強く表しているのではないかと仮定できるのです。

詳しくはここで書けませんが、シンプルに言えば、錯覚や思い込みを修正し、本来のありのままの自分に戻って、人生使命(自分にとっての生きて体験するテーマ)を全うしやすくすることを訴えていると考えます。

マルセイユタロットが死後をも表すという考えの場合、輪廻転生的な説を取る事があり、仮にその視点で見ると、普通は死後、自分が(生きた人生を)見直し、修正するポイントを見つけていく作業があるのだと思われます。

しかし、生前(生きている時)にある程度、それと同じようなことをやっていると、死後は作業が減り、次元も上がって、再び同じテーマで繰り返す必要もなくなって、新たな(次元の上昇した)人生を歩むことができるのではないかと考えられます。

その作業が前述した、錯覚を解き(しかし錯覚を起こすシステムに入る体験も必要)、本来の自分に戻ることだと想像します。

問題が起きて(一見すると問題は外からたまたま起きているように見えますが)、それに振り回されるのは、錯覚状態の自分のままであることを示します。(実態は自らが問題を起こしている)

問題を何とか解決する、自分や他人の人生を支配(コントロール)するという見方ではなく、問題そのものをなくす(自分が錯覚を起こして、わざわざ問題という事象を引き起こす形式を必要としないこと、ただし問題が発生しないという意味とは別です)生き方に戻る必要があると言えます。

そのための解除の象徴性が、マルセイユタロットの大アルカナの絵柄ではないかと考えています。

一般的には、マルセイユタロット大アルカナ・ナンバー1の「手品師」が、ナンバー21の「世界」に至って完成するという見方が多いですが、逆の「世界」から「手品師」になった(次元下降したとも言えます)過程を振り返り、そしてまた「手品師」から「世界」までを見渡していくと、下降と上昇、その途中での錯覚を植え付けていく(植え付けられていく)自分自身の、はずれた道も見つけやすくなることと思います。

こうして考えると、マルセイユタロットの大アルカナは、まさに霊的な象徴図とも言えるのです。

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