都合のよいストーリー

よく私たちは、個人でも全体でも「今まで起こってきたことは意味がある」「今起きていることは意味がある」と言います。


そしてそのように語るとき、人はその「意味」というものに、何か神のような意志を感じたり、天命のような使命感のようなものを含ませています。


私はタロットをいつも扱っていますので、そうした考え方にはうなずく点が多いのですが、しかしどこかに疑いの念もあります。


それは結果的に以前よりいい状態になっている人が話すことであり、今まさに苦境にあり、悩み苦しんででいる人にとっては、「そのことに(よい)意味がある」と考えようとしても、混乱するばかりだと思うからです。


私も以前うつ病になり、生き死にを考えるまでになりましたが、そのことでいろいろな気づきと転換はありました。


ただそれも今のように、鬱が治って、自分にとって重要なタロットに出会っているからこそ言えることであり、果たしてうつ病になったことに意味があったのかどうかは、究極的にはわからないというのが正直なところです。


ただ、今起こっている悪いことが、後々に生きてくる学びであるのかどうかわからないにしても、言い方は悪いですが、自分にとって都合の良いストーリーを信じることができれば、後の人生を生きていく希望意義が見いだせるのも確かです。


私はそのこと(自分が納得するストーリーになること)のほうが実は重要ではないかと考えています。


私の例でいえば、それまでの生き方を反省し、タロットに出会って別の人生を歩むためにうつ病になったのだという「自分のスートリー」を「前向きに」信じられるかどうかということになるでしょう。


真実かどうかが問題ではなく、自分にとって信じられ、そしてそれが自分の礎や勇気、生き甲斐、信念のようなものとして存在していればOKだということです。


悪い言い方をすれば思いこみであり、自分で自分を洗脳しているようなものですが、それで生きる勇気と希望、エネルギーが出るのなら構わないのではないでしょうか。


起こった出来事を、いい意味での自分に都合のよいストーリーに変換するには、やはり何らかの客観的な視点が必要です。


タロットの展開と絵柄でストーリーを再構成(カモワン流の展開はこのことを得意とします)していくのもよいでしょうし、ほかの心理的・スピリチュアルな技法や人からのアドバイス、コーチによって自分の視点を変えてもらうのもよいでしょう。


また、今本当に苦しみの中にいる人には、うかつに「そのことに意味がある」と上から目線で、さもすべてを悟っているかのように言わないことです。


共感することが精一杯だと思います。(厳密には共感も難しいとは思っています)


激痛が痛み、そして傷あとへと変化していく時間経過がないと、自分に起こった苦難を意味あるものへと積極的に変換したり、使命へと転換したりすることはなかなか難しいものです。


言ってみれば、「時間」が先述した客観的な視点になるということです。


これはいわば、前に書いた吊るしの時間 だとも言えます。


この後、自分にとっての都合の良い人生のストーリーを作り出すことができるようになれば、生きていく力が多少なりとも湧いてくるのだと思います。


なぜなら、その人の人生はその信念によって、まさにそのような人生(世界)として映り、傷は消えなくても、それまでとは違う世界に生きることになるからです。

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