学びのうえで、人間性をどう見るのか。
人から何かを学ぶ場合、人と(学ぶ)技術・知識を区別するかどうかを自分に見ておくとよいでしょう。
それは、
●学ぶ時はその教える人の人格や人間性も考慮する
●人間性とは関係なく、純粋にその人の持つ技術・知識を学ぶ
これらをきちんと区別することができるかということです。
どちらがよいとか悪いの問題ではありません。自分の学びのスタイル・志向の問題であり、もっといえば自分の価値観によるものでもあると言えます。
自分は何をその学び・学習において大切にしているのか、ここをはっきりさせることが重要です。
意外に多くの人が誤解しているのは、人間性にすばらしい人がモノを教えるにふさわしいというものです。
もちろん人情としては、やはり人格的にも尊敬できる人に物事を教わりたいと思うものです。誰も極悪犯罪人に教わろうとは思いません。(反面教師とか別の意味で教わるという意味ではなく)
しかし自分の技術を高めるためには、教える人がどんな人かは関係ない、極端なことを言えば、それは人ではなく動物でもよいという立場・状況もあるのです。
さきほど犯罪人からは教わりたくないのが人情だと言いましたが、これが教わる側も犯罪に対して何の抵抗もない人物であり、むしろその技術(たとえば泥棒の技術)を高めたいと考えている者なら、相手が一般的にひどい人間だろうとそれは問題ではなくなります。
すなわち、自分の価値観(重要・大切だと思っていること・考え方)によって、どうとでも変わるものなのです。
ということは、学習の過程で、「この先生はいいこと言う、すばらしい」と自分が思えば、それは自分の価値観に添っているということになり、もっと分析すれば自分もそのように考えているところがある証明になりますし、反対に「どうもこの先生のここは嫌だな、違うな」と感じれば、それも自分の価値観とは異なっているということになります。
しかし、もうひとつ大切なことがあります。
人は自分の価値観に添っていないことは関心がないか、注意を向けようとはしないものですが、それだけに、まさに自分の価値観によって自分の世界が現状できあがっていることにもなるのです。
学びというものは、この自分の今の価値観による「自分の世界」を変えるチャンスでもあるのです。
今まで自分が価値をおいていたもの、あることに価値があるという考え方をしていたものが、学びにより、新しい価値観に変わったり、今までとは異なる価値の見いだし方が創造されたりします。
先生が語ることに違和感を最初は持っても、よくよく考えてみると、そういう価値の置き方・考え方もあるのだと自分で気が付く場合があります。先生の価値観に感応されると言ってもよいでしょう。
もちろん、価値観は人それぞれで、これに正しいも悪いもありませんし、やっぱり自分とは、どうしても相容れないことを言われる先生もいらっしゃるでしょう。
ただ覚えておいてほしいのは、人の価値観を見ることにより、自分の価値観をチェックできると同時に、別の見方と価値の発見にもつながるということなのです。
自分の価値観を変えるのも、そのままにしておくのも、その選択は自分次第ですが、世界は多様性でできるていることを知るきっかけになります。
さて最初に戻りますが、学びにおいて、教える側の人間性を入れるかどうかは、学びの目的と自分の価値によるということを繰り返しておきます。
そして人間性を入れて学ぶという立場を取る人も、心しておきたいのは、完璧な人はいないということです。(しかし人は誰でも深くには「完全」ではあります、このことは今回はあえて深くは言いません)
誰しも長所があれば欠点もあります。そうやってバランスが取られています。先生に過剰な期待感やあこがれを抱くのは、実は自分のバランスが崩れているのです。逆にある先生に過度にダメだしするような時も、自分の中でアンバランスなものが働いています。
あなたが授業で見せている部分が一部分であるように、先生や講師が講義で見せている「人間性」もその人の一側面です。
この先生はダメだと思っても、ほかによいところは必ずありますし、たとえある授業を受けて失敗したと思っていても、別のことでそれに匹敵するよいことがあります。その逆もまたしかりで、すばらしい講義だと思っても、あこがれすぎると、やはりそれに応じたマイナス面ももたらされています。
学ぶということは、その内容だけではなく、教える側と教えられる側の関係性なども含めて、本当にいろいろと勉強になることなのです。
そして、どちら(教える側・教えられる側)も謙虚さは忘れないようにしたいものです。
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