物語からの創造。

知識をつたけり、思考を深めていったりすることが、必ずしも頭(智慧)をよくしていることとは限りません。

それどころか、逆に素直な感覚や、純粋な感じ方、いわば直感を失わせることにもなりかねないところがあります。

平たく言えば、考えすぎによる堂々巡りや混乱ということです。

本当はシンプルなことなのに、難しく考えすぎて動きが取れないといった事態が、こういうことの典型ですね。

要は何事も使いようということです。

それでも知識・思考によって、面白いこともたくさん出てきますし、実は直観と同じく、真理に近づく方法のひとつでもあると考えられます。

ということで、知識・思考による「面白いこと」のひとつをご紹介します。

映画や小説、絵画・芸術作品など、人による創作物(創造物)にふれた時、人はそれぞれに何かを感じたり、学びを得たりします。

そして、もちろん作者の言いたいこと、主張・テーマというものも存在します。自分の感じたことが作者のそれと同じこともあるでしょうが、違うこともあります。

とはいえ、だいたいにおいては、それほど作者の思いとは大きくははずれないでしょうし、その作品における世間一般の多くの人の共通評価というものもあります。

しかし、いろいろな知識を得て思考を重ねていくようになると、そうした一般的な感じ方・見方・感想、さらには作者の意図・テーマとも異なる、別のものが自分の中に現れるようになります。

いわば、多次元・多世界の見方ができるようになるということです。

もちろん作品によっては、作者がある暗号・コードみたいなものを忍ばせておき、それが理解できるものだけに、表面的に見せているものとは異なる裏のメッセージを含ませているというケースもあります。

これも知識による多重の楽しみ方のひとつです。

でも、これとは違う、自分なりの新しいモノの見方、別の見方も起こってくることがあるのです。創作者や一般的評価(見方)を超えたストーリーの出現と言ってもよいでしょう。

これができてきますと、創作物だけではなく、普段の何気ないシーンからでも、自分流の物語・メッセージを抽出することができます。

換言すれば、設定を借りた自分なりの新しい創作と言えます。

そして、実はここがとても重要なことなのですが、この世で現れている(見えている・感じている)事柄すべては、神の創造物だとすれば、あなたが自分流に解釈するスートリーも、神の創造のひとつの解釈となるということです。)

人は神に似せられて創られたと聖書でもあるように、人間は創造することができ、結局それは神に帰する行為であるならば、自分の創造も神の創造になるという理屈になります。

しかも、この「神」とは「自分」でもあるというグノーシス的に想定すれば、自己の創造性のすごさに気がついてくることになるでしょう。

そこから、すべてがつながっていること、あるいは逆にすべてはつながらないこと(創造が幻想物であり、だだ自分が、ある目的のために創造しているに過ぎないこと)などに思いが行きます。

結局、知識も思考も、「創造のためのツール」と言えます。(ひとつの見方ですので、それがすべてではありませんが)

これとは反対方向の、思考をどんどんと削ぎ落とし、「空」や「始原」に戻って、湧き出ている創造の泉(自己の根源・神のエネルギー)を観察して多重世界を楽しむという方法もあります。禅的な方法と言えましょう。

どちらで行ってもよいですし、どちらも楽しむことができます。

大切なのは、どの方向であっても、こだわりや絶対を思い過ぎないことですね。力を抜いたとき、本当の力に遭遇することは、マルセイユタロット「力」のカードでも描かれていることです。

余談ですが、ほかにもマルセイユタロットでたとえると、「星」と「月」が隣り合わせの数を持ち、並べると特別な意味をもってくるように見えるのは、この記事で述べたことと関係していると私は考えています。

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