人は人、自分は自分と観るスピリチュアル。
精神的な世界観では人は皆同じで、すべてつながっているというものがあります。
一方、現実的には地球上に住む人、誰一人として自分とまったく同じ人間はいません。
ただ種としての「人間」という大きな括りで見れば、やはり「ひとつ」と言えます。つまりは、どんどん抽象的的に思考していくと、どんなものでも同じになってくるということですね。
逆に言えば、具体的になればなるほど、違いが際立ってくることになります。
スピリチュアルなことや精神世界が好きな人にとっては、人類皆兄弟、宇宙はひとつ、人は自分の鏡みたいな考え方にもなじむでしょうし、そうした思考(志向でもありますが)で、普段から世の中や人のことを見ているかもしれません。
しかし先述したように、具体的・現実的になると、やはり違うように見えるのが事実なので、これを無視するわけにもいきません。
時にはこうした具体性を重視して考えたほうが、気が楽になることがあるのです。
平たく言えば、人は人、自分は自分という見方です。
世の中には、自分とまったく相容れない、あるいは自分の趣味・志向・常識等からかけ離れた人が存在します。それも、少なからず、と言うより、おそらくものすごくたくさんの人がいるでしょう。
報道やニュースでは、殺人をしたり、凶悪な犯罪を平気でしたりする残虐な人間を見ることがあります。
また日常生活においても、見た目普通の人が、あなたにとっては考えられない食事の仕方、話し方、感情の表し方などしているのを目撃したり、経験されたりしたことがあるでしょう。
これらを統合的(人と自分はひとつである)に考え、自分の潜在的なことや、宇宙からのメッセージ・象徴として気づきを獲得することも可能ですが、いつもいつもそればかりやっていると疲れてしまうこともあります。
統合があれば分離もあり、陽あれば陰ありとして、二元のエネルギーで表現できるのが宇宙の仕組みです。
ならば、人と自分を分けてみるのもアリなのです。
そうでないと、「神はそんな(ネガティブとして常軌を逸する)人間を創造するはずがない」とか、「自分の鏡として見た場合、自分がそんな要素を持っているとは考えられない」と悩む人が出てくるわけです。
ここで、スピリチュアルな人にも納得してもらえるよう、極めてシンプルな説明をすれば、「神はすべてを創り給うた」ということです。
ポジだろうがネガだろうが、ありとあらゆる表現があるのが世界や宇宙だと見るのです。マルセイユタロットの「愚者」や「世界」のひとつの見方でもあります。
そしてもっとも表現方法として、私たち「人間」が認識しやすいのが、ほかならぬ「人間そのものによる表現」です。言い換えれば、あまたの人間たち、一人一人個性を持つ人間全員が神の表現ツールなのです。
ですから、あなたとってひどい人もいれば優しい人もいますし、プラス・マイナスの意味でサプライズを起こすとんでもない野郎(笑)がいたり、同情や悲しみを誘う人がいたりもするわけです。
ある意味、「信じられない!」「考えられない!」と思える人に出会うことは、それだけ宇宙の多様さを実感するチャンスが訪れていると見ることができます。
男女で分かり合えないのも普通であり、逆に異質なもの同士でわかりあえた(統合できた)時、そこには新しい創造(愛や子供としての人間など)と歓喜も生まれます。
だからと言って、必ず統合しなければならないというわけでもありません。統合にもある種の働きかけや、縁のようなものがあると考えられるからです。
また、自分にとって相容れない人を必ず受け入れなさいということでもありません。
個人としての「人」ではなく、そのような「人の表現」の存在を受け入れ(表現を無理矢理自分に受け入れるのではなくて、表現が許されていること、及びその表見自体の存在を受け入れる)、宇宙のすばらしさに驚嘆するのです。
そして、その「宇宙」こそが、(高次の)自分であり、自分が結局全てを創造していると見ることもできます。
さあ、今日からあなたも、「うわー、こんなこと考える人いるんだ!」「すごい、こんな行動できるなんて!」「これはありえない!」と、人ではなく、その表現に対して意識してみましょう。
表現している人間個人に対しては、別に一時的には怒ったり、嫉妬したり、悲しんだりしてもよいのですが、それにずっと飲まれることはせず、「ああこれも宇宙のバラエティ表現・創造力の偉大なパワーの発現だよなぁ」と感嘆してみれば、感情の激流に流されることは少なくなるでしょう。
分離(解体)して統合(凝固)する、まるで錬金術の文句のようなことが、人間観察をしていると生じるのです。
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