暴言、罵声、恐怖を与える大声の注意
トラウマは、厳密な心理用語として考えると、強烈なものとして、普通の人にはないものと思われがちですが、その解釈を緩くし、要するに無意識に今に影響を及ぼしている潜在データ(プログラム・印象)として考えると、誰にも程度の差こそあれ、あるのだと思います。
小さい頃の何でもない親や兄弟・姉妹のやりとり、昔見たテレビのドラマとか事件報道、学校でのささいな出来事、職場でのちょっとした失敗、悪い意味で注目されたことなど・・・それは自分では大したことない、忘れてしまったということでも、意外に今の自分の心に影を落としている場合もあるのです。
そうした中で、私が最近思うのは、言葉の暴力も、十分トラウマになっていることがあるのではないかということです。
もちろん、直接的に、虐待した親とか、いじめをした者からひどい言葉を受けたというのは当然のようにあるかもしれませんが、ここで言っているのは、そういうことだけではなく、普通にちょっと大声で怒鳴られたとか、イラついた人にどやされたとか、また直接ではなくても、暴言を言い合ってけんかしている人を見たとか、何かの(理不尽な)クレームなどで、ひどい言葉で、係員やコールセンターの人に放っているのを聞いたとか、そういう間接的なシーン・場面からのものでも、実は結構影響しているものなのではないかと推測しているわけです。
注意してみると、大声とか、叱られる時の声、そしてまさに暴言で罵声のような言葉を、自分に向けられる場合以外であっても、何か聞いた時は、人はビクッと身をすくめてしまいますし、恐怖を感じる人も多いと思います。
体が反応しているのですから、それは心にも影響していると見てもおかしくはないでしょう。
そんなのをいちいち気にしていたら生きていけないというは、まあ、その通りかもしれません。世の中にはいろいろな人もいますし、怒られて一人前になるものだと、社会人なら言う人も少なくありません。
ただ、何といいますか、もうそんな言葉(のひどさと大きさ)で恐怖させたり、注意を促したりする方法は、教育としても当然よいとは言えず、人としての関係の取り方としても、古過ぎるのではないかと思うわけです。
確かに、大声を出したり、強い言葉を言ったりしないと、危険な時もありますし、まだ判断力のつかない子ども時分では、やむをえない時もあるとは思います。
それにしても、使う言葉自体は注意しないといけないのではないかと考えます。
「世の中は甘いものではない」とか、「厳しい言葉を受けて成長していくものだ」という考えは、いまだ多くあります。時には、言葉だけではなく、手や足が出てしまい、本当の暴力をふるっている人さえ、少なくありません。
人は甘い環境にいたり、優しくし過ぎたりすると、つけあがる、さぼる、向上心を失うなどと言う人がいます。
物事には陰陽あり、そして強弱のような相反する力・エネルギーがあって、弛緩ばかりの状態はあり得ず、強く鍛えていく(鍛えられる)シーンも、自然の流れ・摂理としてはあると思います。
しかし、ここで言いたいのは、怒鳴ったり、暴言を吐いたり、暴力をふるったりして、他人をコントロールする方法は、あまりにも低いレベルであることに、もう全員が気づいてもいいでしょうということですし、人類としての成長、意識の向上としても、このことはとても重要なのではないかと思われるのです。
甘くすれば堕落する、逆に言えば、厳しくしないと成長しない、しっかりしないというのは、私たちがそう思い込んでいるレベルにまだあるからです。
かなりの昔は、そうしないと人も成長できない時代があったかもしれません。しかし、人の認識・智慧が向上すれば、優しさによって堕落することはなくなります。それは本当の意味で、皆が自立・自律できているからです。
見張りや注意をしておかないと、泥棒される、殺されるような世界では、自衛のために自他ともに厳しくしておかないと困りますし、自分や大切な人に危害が及ぶ場合があります。
そうなると、環境が先か、人が先かの問題はあるでしょうが、これは結論から言えば、人(の内面)が先でしょう。それがすべてを決めていると言ってもいいくらいです。
しかし、バランス(現実と理想、精神と実際)も重要なので、人の内面が中心といっても、その認識に至る前は、環境が人に影響を与えていくことにも着目しなければなりません。
何でも「話せばわかる」「話し合えば理解してもらえるはず」と言う人もいますが、そもそもコミュニケーションが成立しないレベルであったり、イデオロギー・思想・価値の対立によって、真の(解決に向けた)話し合いは、最初から忌避されている、ないに等しい状態になっていたりしていることもあります。話し合う前に、すでに問題があるのです。
マルセイユタロットでは、人間の世界と、それ以上の世界も示唆します。それによりますと、人が本当の意味で成長するには、物質だけではなく、精神や魂の成長段階も伴って、進んでいくわけですが、試練と救済は交互にやってきながら、次第に優しき世界へと絵柄も変化していっています。
つまりは、人は霊的に成長すると、本当に優しき世界が現出してくるようになることが描かれているわけです。
ただ、自分自身の認識(力)を上げていくためには、自分に対しては厳しいところもあります。(と言っても、自分をいじめたり、苦痛を与えたりするというのではなく、自身に光を当てると影も出てくるので、そうした統合・浄化作業においては、向き合うつらいこともあるということです)
それはそうと、元に戻りますと、とにかく、まずは言葉だけでも、優しいもの、美しいもの、愛をもつものに、なるべく変えて行き、どうしても大声や暴言を吐きたくなった時は、目の前に人がいれば、面と向かうのではなく、違う方向に向けたり、誰もいない場所で、あとで吐いたりするほうがましと言えましょう。
見えなくても、破壊の波動のようなものが、自分の暴言・(怖がらせる悪い言葉での)大声から出ていて、それが相手の体だけではなく、目に見えない部分と、心の中にまで浸透してしまうのだと想像すると、言葉には注意深くなれるでしょう。
そして、そのようなものがトラウマになっていることもあり、もちろん、トラウマにさせてしまっている場合もあるわけです。それは反転して、相手に対してきつい言葉を吐く自分というものが生まれてしまうこともあります。
こうした悪循環により、社会は怖い言葉であふれ、余計に皆さん、不安と恐怖の世界(社会)に、この地球をしてしまうのです。
苦しく、厳しい社会は、私たちが総意で、そうさせてしまっているところがあります。
思想とか主張ではなく、人の認識レベルの向上のためとして、自分と他人に優しい言葉を使っていくことから始めるだけでも、ずいぶんと変わっていくのではないかと思います。
また暴言を聞いてしまった時は、思った以上に傷がついている(大人でも)ことがありますから、自分を労わってあげ、またハートナーや友人、家族など、話をちゃんと聞いてくれる人に、怖かったということを話して、受けとめてもらうことで、癒され、トラウマになることは少なくなると思います。
ただ、中には、優しさに甘えたり、つけこんだりする人もいるので、時と場合により、厳しい言葉、はっきりとした拒否の態度を取る必要性はあります。
これもそういうレベルの人がまだまだいるから、仕方のないことで、先述したように、成長過程のバランスとして、話せばわかるとか、優しく接すればすべてよしというわけにもいかないところはあります。
つまり自分の平安や領域を脅かしたり、ルールを無視したり、危害を加えたりする人から自分を守ることであり、これは自分にまずは優しくするということと同意なのです。
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