純粋でいること、いないこと。

人は純粋なものにあこがれます。

純粋といえば、混じりけのないピュアのものというイメージがあり、何か「それ唯一」という崇高さも漂います。

極める」ということでも、至高の純粋さと同意義で見られる場合もあります。

ですから、何らかの技術や知識においても、ただ一筋に求めていくということが、いかにも正しい道、清いやり方のように思われる節があります。

しかし、マルセイユタロットで描かれる成長や完成の過程においても、またそれぞれの単独の絵柄においても、そのほとんどは、何かと何かの融合であったり、多彩で多様な要素が見られたりします。

ということは、まさに“純粋な”意味で「純粋なカード」はないことになります。

ここから見ても、私たちはむしろ、純粋ではないほうがよいとさえ言えます。

単純に考えても、私たちが生まれて成長し、死んでいく過程(すなわち人生ですが)において、ただひとつだけとか、単一の要素(ひとつの経験・知識・蓄積)だけで生きられるわけではなく、いろいろなことを体験し、学び、混在して「一人の人間」が存在していきます。

免疫の面でも、多少の雑菌にふれているほうが体は強くなりますし、精神においても様々なシーンを体験していたほうが、折れにくくなる傾向があります。

純粋さは美しいものではありますが、現実の世界では、すでに述べたように、反対に交じりものであるほうが強くたくましく生きられるわけです。

つまりは、純粋さは、古代ギリシアの哲学者プラトンの言葉を借りれば、「イデア」であると言え、現実や実際とは異なる世界にあると見たほうがよいのです。

恋愛で考えましょう。

恋愛の純粋は、いわゆる純愛という言葉で表現できますが、純愛を維持することは実際にはなかなか困難であることは、皆さん承知していると思います。

もちろん、純愛を貫き通す人たちもいますが、どちらかと言えば、映画や小説、物語・創作の世界においてがほとんどでしょう。

結局、純愛は、現実よりもイデアの世界に型があるのです。マルセイユタロットで言えば、「女帝」と「恋人」カードがつながっているようなものがイデア的純愛と言えましょうか。

では、純粋さは必要ないのかと言えばそうではありません。

さきほど、純粋はイデアと述べたように、イメージや想像の世界で純粋さを思えるがために、現実での汚れや、同じ世界・発想で停滞してしまうことを回避できる構造ができるのです。

イデアは、真なるもの、善なるもの、美なるものという定義もあり、いわば、完全で美しい世界なのです。それは、まさしく純粋な神の世界と言えるでしょう。

私たちは、なるほど確かに肉体を持って三次元感覚の現実世界にいます。そこでは純粋さはかえって害(弱体や逃避の要因)となることもあるわけです。

しかしながら、精神と物質を統合し、自分をもっと広い世界に飛翔(霊的に成長することや覚醒することに近いです)するためには、現実意識ばかりにとらわれていては、それこそ籠の中の鳥のままです。

イデアを見る(想起する)ことで、私たちは現実を超えた世界があることを思い出し、そのあこがれに魂を燃焼させていくようになります。鳥は籠の中から外に飛び立てるのです。

言い方を換えれば、今(現実)を超えた理想を見ることで、実は自分の現実を変えることができる(ということな)のです。

恋愛の話でまた例えましょう。

純愛は現実では確かに維持することは難しいかもしれませんが、純愛という理想的な概念(イデア)があるがために、私たちは恋愛を冷めたつまらないものにせずに済みますし、恋愛の相手を尊重し(相手に自分の理想を見ようとする)、より恋の炎を燃やすことができるのです。

これが最初から現実的なことばかりを考えて恋愛に臨んでいたら、恋愛モードにおける異次元感覚(一種の変性意識状態)を経験することができず、恋愛による自己の変容が起きにくなってしまいます。

恋愛における変容とは、一言でいえば、それまでの自分(の世界)を大きく変える、一種の強制的破壊であり、かつ、創造です。

恋愛に限らず、イデアを見ないもの、純粋さをバカにするものは(現実や実際の成果ばかりを重視する姿勢)、実際での一時的・物質的幸せはあるかもしれませんが、心の幸せが少なかったり、何より、常識や今の現実を超えた成長や発展が阻害されたりするおそれがあります。

最初のほうにも述べたように(マルセイユタロットが示唆するように)、混ぜ合わすことで私たちは強くなります。(「節制」の天使の表現)

ただ、それは一時的な作業、プロセスとしてのものであり、本当は純粋さに回帰すると言いますか、真に純粋なものを抽出する、いわば錬金術的作業をしているのです。

ここで言う「金」とは金属・ゴールドとしての金のことではなく、究極の状態の象徴や比喩です。

混ざり合うことで、純粋さはひと時消えてしまうのですが、同時に多要素によってもっと磨かれ、あらゆるものが統合され、光の原理と同じく、白(色のない状態)で例えられる純粋なものに回帰します。

これは「」の概念とも言え、すべてないようですべてある、すべてあるようですべてないという究極状態でもあります。マルセイユタロットでは「世界」と「愚者」が合一した状態として表現されます。

何が言いたいのかと言えば、私たちは現実を生きる中で、まずはこの現実をたくましく泳ぎ、楽しんでいくためには、様々なものを取り入れ、純粋さよりも混交させていくことのほうが求められつつも、イデア(理想)としての純粋さも常に失わず、強さとともに現実を超えたものをやがて志し、本当(一般に言われる純粋さとは別)の意味で、純粋さに辿りつきましょう、ということです。

簡単にいえば、現実的には「何でもあり」でありつつ、精神・霊的には、より純粋でいようとする態度です。

矛盾した言い方になりますが、純粋でいるためには、不純を行使する決意がいるのです。

間違いやすいのは、どちらも純粋であろうとか、どちらも現実的であろうというものです。(責任も取らない子ども的であろうとする態度か、自分を殺して生きようとしたり、人の夢を批判したりして、下手に大人になろうという態度とかです)

目的と手段と言ってもよいですが、純粋な目的のために、手段は濁ったり、混ざったりしてもありなのだという姿勢ていくとよいということですね。

最後に、純粋というものは、本当は決して弱いものではなく、自由になることとイコールであり、だからこそ束縛から離れた強いものであるこも付け加えておきます。

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