この世界 ループやバーチャルの話

人生、迷いと決断の連続と言えます。

たぶん終わってみれば(つまり死ぬと)、どちらでもよかった、何でもよかった、経験こそすべて・・・みたいな感想になるのではないかと想像します。

とはいえ、逆に終わりだからこそ、後悔もあって、ああすればよかった、あちらを選べばもっと違った人生になっていたのでは・・・と思うこともあるかもしれません。

映画やゲームの世界では、なになにルートとか、こちらの世界線・あちらの世界線、選択肢A,Bなどと言われて、複数のシナリオが用意されているものがあります。

私たちの人生も、ルートの違う、いわば平行世界のような、選択によって世界そのもの、人生そのものか大きく変わることが実際にあるのかもしれません。

一方で、これもよく創作ではありますが、ループ現象的に、どのルートを通っても、結局同じ結果になってしまうというパターンもあります。アニメではよく見かける設定ですが、これはどの作品を見ても怖いものです。

もしかすると、私たちは同じ時間・世界を、それこそ数千、数万の、恐ろしくたくさんの回数を刻み、永遠とも言える輪の中にはまっているのではないかと想像すると、恐怖があります。

例えば、輪廻転生(説)も、同じ人生ではないとはいえ、ある意味、ループで、巨視的に見たら、同じような時間を過ごしているようにも思えます。

実は私自身、既視感(デジャヴュ)を瞬間的に体験したことがあり、映画マトリックスの黒猫のシーンではないですが、確かに、ほんのわずかな時間の間に、まったく同じシーンを複数経験した感覚があったのです。それはビデオの巻き戻しと同じような感じでした。

こうなると、ループ説以上に、この世界がバーチャルリアリティであることにも実感が出てきます。

ループに説は、ネガティブなことばかりではなく、もし、天国のような自己陶酔の世界に自分がいれば、そこに永遠にループしていれば、幸せしかないことになります。(笑) ただ、これはこれで、ある意味、怖い話です。(こういう設定も、よく漫画やアニメの悪役が使う術でありますが)

そんな話は、非現実的で、他愛もない漫画やアニメ、映画の創作話か、と思うかもしれません。

しかし、この話をしているのは、結構、重要なことだと個人的には思っています。

それは、マルセイユタロットで言えば、「吊るし」に関係するもので、私たちの認識は、果たして正しいのかどうかという問題提起にもなります。

例えば、パソコンを扱っていて、パソコンの調子が悪く、うまく動かない場合は、パソコンの内部に問題(ソフトとかOSとか)と考えます。

でも、もしかすると、パソコンではなく、パソコンを使用している人間の脳とか、身体とかの異常で、そう見えている・感じているだけかもしれません。

さらには、パソコンも扱っている人間もすべて含む「自分認識している世界」自体が、機械のバグのように、瞬間的におかしくなっていると見れば、パソコンや人の問題ではなく、世界そのものの問題と言えます。

どれが本当のなのかは、よく考えるとわからなくなってきます。

私たちはループの中にいるのか、違うループ(輪)をいくつも渡り歩いているのか、逆に輪などなく、自分か誰かが世界を作っていて、その経験を映画のように味わっているのか、人生、世界、経験とは何かを想像すると、それはひとつの考えに限定できないと言えます。

とすると、考えの数だけ、人生やパターンはあるのではないでしょうか。

最初に、どの選択をしても同じとなる(とわかる)場合と、やはり、ひとひとつには意味があり、別ルートへと、選択の度に移動している(選択する人生が確かにある)と見る場合があると言いました。

どちらが正しいかも言えず、ただ見方・考え方でどちらでもあるのでしょう。

ガチガチの運命論のように、人生は大方、最初から決まっているという人と、いや、運命は自由に変えられるという人がいます。これも、考え方次第で、結論は出ないでしょう。

ただプログラミング説になってきますと、大元のプログラムと、ゲーム演者そのものが変えられる範囲のプログラム(いわばキャラが自己プログラミングできる範囲)とがあるように思われ、大元は変えられないにしても、自己プログラミングは、ある程度、レベルや難易度によって書き換えの許容範囲が変わってくるのではないかとイメージします。

ですから、個人において、悟るような人も出る(大元のプログラムに戻る)でしょうし、欲望のままに自堕落に生きてしまう人もいるのでしょう。

限界突破と言いますか、ある条件の規定値に達すると、制限がはずれ、次の範囲・レベルへと上昇するのかもしれません。それが学びとか、成長とか言われているように思います。

ですが、これでは、あくまで大元に操られるキャラクターゲームでしかありません。私たちはどこまで行っても単なるキャラなのか、実は大元なのか(大元になることができるのか)、ここが問題でもあります。たぶんどちらでもあるのだと思います。

これも「吊るし」と、そして「世界」のカードとの関係性で表せそうです。そして時間的にも有限と無限、つまり死と誕生の有限性と、それと対になる永遠性(完全・無限性)です。

ゲーム版世界の移行はループと言えますし、ゲームの大元に帰るのは、マトリックスやバーチャル世界からの脱出でもあるでしょう。

ループとバーチャルも対やセットで考えると、私たちは、いろいろな世界を経験し、ループしていくことで、既視感を認識し、ついにはそのループからの解脱に気づくことになるのではないかと思います。

それには、ひとつのレベルの世界から次のレベルの世界に移る時の感覚、つまりは次元上昇のようなものが非常に重要なファクターになるものと思われます。

次へ移っても、ループ説では、ループしていることには変わりないのですが、別の輪への移行が、たとえループ・繰り返しであっても、脱出・解脱のきっかけとなるのではないかということです。

ものすごく低い例え話で言えば、ゲームに熱中している子供が、ゲームをクリアーする瞬間、我に返る、あるいは母親からの「ごはん、できたわよ」とか「勉強しなさい」という声に気づく、みたいな感じです。(笑)

今日はわけのわからない話だったかもしれませんが、こんなことも、マルセイユタロットを見ていると、浮かんでくるので、面白いと思います。

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