「13」と「節制」のセット、再び。
今日もふと思ったことを書こうとした時、「ああ、これは前に書いたな」と思い出すことがありました。ただし、きちんとデータベース化していませんので、いつのどの記事だったのかはわかりません。
というわけで、今回の話も前に書いたものと似たような話にはなるのかもしれませんが、でもたぶん、以前のとは、また違うニュアンスになっていると思いますので、読んでいただければと思います。
今日のテーマは「13」と「節制」です。
大アルカナナンバーでは、13と14の続き番号になります。
私はカモワン流から入った者ですので、カモワン流のメソッドや考え方を受け継いでいるところが多いです。その中で、カップルカードとか、ペアカードという概念があります。
「13」と「節制」も、一種のそのカップルカードということになります。意味的には、救われる者・救う者という組性です。
以前は、確か、自分の身に起こったことを例にして、苦しい時でも必ず救いがセットになっているというような話をしたような記憶があります。
そう、今もって見ても、やはり、この「13」と「節制」の組み合わせ(の意義)は、この世の中と言いますか、宇宙の仕組みとして働いていると私には思えます。
「節制」における人物は天使の姿をしていますから、メルヘン調に言えば、つらい時でも、救いの天使はいるよということです。
その天使は、現実の人もあれば、事柄(援助・相談とか組織とかお金とか)のこともあります。つまりは心の救いもあれば、モノ・形による救いもあるわけです。
また天上的と言いますか、目に見えない領域や超越的な存在からの救いもあるかもしれませんし、地上的・現実的な救いも当然あります。
さらに言えば、この「節制」の天使は自分自身でもあるのです。
マルセイユタロットにおいては、すべてのカードは自分の内にあるものと考えることができ、そのことからしても、「節制」はあなた自身の中に存在しているのです。
当然、大変な試練を迎えている状態と言える「13」も、自分であると言え、すると、「13」と「節制」のペアは、「自分を助ける(天は自らを助くる者を助く)」という意味になりますし、「13」側から見ると、自分を天使にするための試練に挑戦していると考えることもできます。
自分を天使にするというのは象徴的言い方ですが、それは、愛を目覚めさせる、愛のレベルを上げると換言してもよいかもしれません。
自分自身が救えれば、同じ状態に遭って困っている他の人を、今度は自分が助けることができ、すなわち自らの天使的立場への上昇と言えます。
天使に羽がついているのも、救済視点として、より上の俯瞰する高次の視野が持てること、天(イデア・理想・神・霊・魂・浄化的天国世界)と地(地上・物質・現実・肉体・欲望的世界)の間に、自由に位置させることができる意味があると想像されます。
「13」を経験すると、少なくとも、ひとつの(見えない)羽が、あなたには生えてくるのです。
それから、この組み合わせ(「13」と「節制」)には、ほかの見方もできます。
「13」は、恐れと不安を示し、「節制」は愛と癒しを表すと考えますと、恐れ・不安の出る状態を経験し、それを乗り越えると、愛ある状態が訪れるということになるわけです。
これも逆に言うと、「節制」という愛や助け合い、救い、シェア、治療を象徴するような世界、あるいは精神になっていくには、「13」という不安や恐れ・危機を体験する試練が必要であると見ることもできます。
もちろん、そういう、「13」的なものがなくても、人は愛に目覚め、救いをもたらすことはできます。
しかし、もっと大きな範囲や高いレベル、深く確実な変容を遂げなくてはならない時、また多くの人に自覚をもたらすため、あるいは個人としても、本気で変容に向かう気持ちと行動を起こすには、時には「試練」という形が求められるのかもしれません。
「13」は怖く、つらく、苦しい状態でしょう。カードの絵を見ても、恐ろしいですし、骨状の人物が盲目のように大鎌をふるって、必死で作業をしている様がうかがえます。先行きが見えないのか、あるい見えているからこそ、何かを変えようとしているのか、見方はそれぞれです。
ですが、この状態の先には、自身が、あるいは世界が変容した「節制」が待っているのです。それはまるで、さなぎから蝶(天使の羽を見てください)へと変わっていく様子にも似ています。
不安や恐れから逃げていては、「13」は逆位置になり、その鎌は襲いかかってくるかのように見えてきます。
本来、鎌は農作物の収穫に使う道具です。ですから、人を殺めたり、傷つけたりするものではないのです。
収穫した作物はどうしますか? それは穀物とか野菜として私たちの食べ物、栄養になるわけですよね。生きる糧と言ってもよいです。
「13」の鎌は、そぎ落とす意味もありますが、このように、もともとは私たちに恩恵をもたらすための道具であるわけです。
それが、位置を逆(逆さ)にすれば、怖い道具・凶器にもなってしまいます。不安や恐れが強く、尻込みし、あるいはパニックになったり、逃避し続けたりすると、結局、その鎌は自分か他人かに悪い意味で振り下ろしていることになります。
これをきちんと正しい位置に戻すと、鎌は余分なものはそぎ落とし、必要なものを収穫していく、自分に恩恵をもたらし、前進を助ける補助杖ともなっていくのです。
ただ、一人で立ち向かうのは大変で、難しい時もあります。
そこに、「節制」がまた登場するのです。
不安や恐れに対して、無理からに克服しようとしても、かえって危険ですし、苦しいことになります。
まずは、外や内からやって来る恐れや不安、それが自分にあるのを認めることが大切です。怖いことは怖い、苦しいこと苦しい、これを素直に自分に認め、感じている自分を赦します。
次に、それを抑えようとするよりも、不安の原因や元になっているものに対して、怖くても、ちゃんと向き合う、調べるということも必要です。
調べていくうちに、意外に自分の思っていた不安とか恐れが、まったく別の要因・原因から来ていたということもあり得ます。
さらに、最悪の事態を想定してみて、そこまで行くと、もう「生きているだけでとOK」とか、プライドや他者の評価とか、そういうものが消えてしまい、最後には「まあ、なんとかなる」とか「案外、最悪と言ってもこんなもんか」と楽になることもあります。
また、自己責任論で凝り固まるのではなく、積極的に「節制」、この場合は、他者とか組織とか行政とか、ほかの支援・協力・シェアも思うことです。自分で何とかしようとし過ぎると、かえってつらくなります。
「あの人ではこれはできない」「この人に、これは頼れない・・・」
こういうふうに、できないことを自分や他者に挙げていくのではなく、
「この人でもこれならできるだろう」「あの人だったら、何とかこれくらいなら助けてくれるかも・・・」
というプラス、助け合いの視点で、わずかでもできることを想像していくほうが心の安定にはよいです。
何もできないと思っていた自分や他人が、案外、思ったより役に立つ、できることはあるものです。
「13」と「節制」は、助けられる者・助ける者の組み合わせだと言いました。
一人でつらい時、困難な時は、誰かの助けを求めればよく、結局、現実世界において、一人では生きていけなく設定されているようなものですから、いかに助け合うか、智慧や力を出し合うか、それぞれが愛と理性をもって行動していくかによって、「節制」が実際に救済力(仏教的には観音力)を持つかどうかが決まってくるように思います。
大丈夫です。
私はタロットの示唆から見ても、俯瞰的に見て、人類はよい方向に向かっていると言いますか、必ずそのように、実はプログラムされているのだと感じます。
たとえ一見悪い状況のように思えても、それは進化や成長の視点から見て、らせん状ではありますが、上昇していっていると見ることができます。
今は「13」かもしれませんが、「13」には必ず「節制」がついています。
個人でも全体でも、「13」がやって来ているのなら、それは「節制」に近づいている証です。「13」の一番のキーワードは「変容」と言えますから、変容中の私たちに待つのは、新しいレベルの「節制」的世界(観)なのです。
それは、今までよりもっと「天」に近い位置となることを思えば、未来は明るいと思うことができるでしょう。
「節制」の天使の持つふたつの壺は、科学と自然の調和、精神と物質の同意(位)性が進むことも暗示していると思います。
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