危機。つながり。愛。
東日本大震災の時もそうでしたが、世の中が危機に陥ったり、世情が不安な状況になってきたりしますと、人はつながりを求めるようになるようです。
つながりの中でも、やはり一番大きいものは、「人と人」とのつながりでしょう。
ほかにも、ペットなどの動物、育てている植物、周囲の自然・・・という感じで、つまりは生きていると感じるものにつながりを求めることもあるかもしれません。
もっと大きなものになると、大地、空、海、地球、宇宙・・・と広がっていくこともあり得ます。
つまり、私たちは、結局のところ、「生命」「いのち」を感じさせるもの、あるいは、それらを育むもの、守るものなどとのつながりを、危機によって回復する(思い出す)ことになるわけです。
普段、ほとんど意識しなかったことが、図らずも、危機や異常事態と思える状況によって、意識されるようになるのです。
これを逆に考えれば、私たちがほかの生命との「つながり」や「生かされている」ことを忘却し、自分一人で生きていけると傲慢になっているような時に、その思いを反省させられるかのように、危機が訪れると言えます。
まさに、これも、マルセイユタロットで言えば、「13」と「節制」のセットのことなのかもしれません。または「吊るし」と「世界」という関係にも置き換えられるでしょう。
さて、今は世界中の人が異常事態を認識している時です。
そうなりますと、先述したように、人は生命的なつながりを、より求めるようになっているはずですし、今後もそれはしばらく続くと考えられます。
しかし、一方で、注意したいのは、人工的・機械的ともいえるつながりも、バーチャル的に登場しているということです。
インターネットや通信技術の飛躍的進歩によって、膨大なデータが瞬時に世界中に流れるようになり、動画も当たり前に見られるようになりました。機器を通して見た動画や画像の世界は、次第に現実と変わらなくなってきています。
人とのコミュニケーションも、ネットを通じて実際に会わなくても、距離があっても、簡単に可能になりました。
最近は、Zoomなどの通信アプリで、皆さんもほかの人と自宅で居ながらにして会話することも多くなっているのではないでしょうか。それは確かに便利で、私自身もその恩恵にあずかっています。
一方で、よく考えますと、会話している相手は現実の人ではありますが、映し出されている映像は機器を通してもので、バーチャルな世界とも言えます。
会話している人が実際に会ったことがある人ならば、映し出されるものに違和感はないかもしれません。たとえ初対面の人でも、きっとこういう人だろうと、実感をもって私たちは映像を見ます。
会わない予定の人であっても、現実に会えば、映像の通りの人であることは、常識的にわかるからです。
けれども、リアル・実際で会うことが少なくなり、それが本当にまれで、めったにないような世界になってしまった場合、どうでしょうか?
果たして、あなたが見ている目の前の機械に映し出されている人は、本当にその人自身なのでしょうか?
昔、出会い系などで、顔写真を加工していたり、別の写真を掲載したりして、実際に会うと別人だったという話を聞いたことがあります。今でもそれはあるかもしれません。
この場合は、文章のやり取りや姿を見ないままの会話が続いていて、想像の世界で人物をイメージしていたわけです。
相手に実際に会うまでは、自分のイメージの中にその人(の姿)は存在していたと言えます。それは架空のもので、現実ではありません。
けれども、会うという設定がまったくない関係の中では、本当の姿を確認することができないままになります。それが常態化した世界では、リアルな自分・相手というのは、意味を持つのかどうかさえあやあやになってきます。
直接会うことがないのなら、いかようにでも、姿も性格も変えて、ごまかすことは可能です。
映画マトリックスのようなSF的に言えば、実在の自分はどこかのカプセルの中に固定されたままで、バーチャル空間が一般化されていて、そのバーチャル空間で見せる「自分」というものがアバター(化身)的に作られ、人々はアバターとしての自分(相手)が自分(相手)自身であると錯覚したまま、生活していくような話です。
これはバーチャル空間そのものが現実になっているようなもので、それならば、自分の理想とする姿・性格に変えて一生を過ごせばよいということになり、おそらく、人は似た者同士(理想の姿、理想の性格みたいなもの)になってしまう(悪く言えば金太郎飴みたいな存在になる)のではないかと想像されます。
これはいわば、バーチャルな天国なのかもしれません。(笑)
ならば、それも変な意味で理想社会であり、それを目指すというものも研究者で現れないとも限りません。
自分の望む自分が、全員実現できる世界ならば、それは誰にとってもよい話ではないかと思う人もいるでしょう。
そういった世界は、今は現実的ではありませんが、もし実現可能だとしても、おそらく、ほとんどの人は、本能的に「それは何かおかしい」と思うのではないでしょうか。
私はそのおかしいと感じるセンスが、とても大事だと思います。
しかしながら、一方で、皆の理想が実現するバーチャルな(文明や科学の進歩という言い方をすることもできます)世界が可能なら、それもありなのかもしれない・・・という、どこか幻惑されるような、タロットの悪魔から誘われるような(笑)、魅力もどこかにあります。
今日は何か結論や主張を述べたいわけではありません。
ただ、今起こっていることには、ひとつには、いのちや生命のつながり回復や、私たちそれぞれがバラバラに一人の力で生きている(自分がすべての)存在ではないことを思い出すためであると見ることもできますし、逆に、つなかりを求める気持ちが利用されるような形で、バーチャルな世界が加速し、人類の理想をバーチャル的に実現するような世界に向かっていく流れを考えることもできるということなのです。
これも、単純な良し悪し、善悪では測れません。
危機により、平時ではおよそ、つきあいや結婚の対象にならない人と関係が進むこともあり得るでしょう。
そのおかげで、普通では生じなかった関係性が深くなったり、知らなかった世界(相手)をよい意味で知ることができたりするという、新たな愛に目覚めることもある一方で、普通ならあり得ない人とつきあってしまったせいで、ひどい目に遭った、不安を紛らすためなら誰でもよかった、ただ結婚がしたかっただけ・・・と自分を大切にしないままに他人との関係を安易に持ってしまった後悔も起こるかもしれません。
ただし、後者の場合でも、自らが自分自身への愛を知るという意味では、大きいことである可能性もあります。
いずれにしても、いのち、生命、人とのつながりがなにがしかに刺激され、私たちは愛を学ぶことになるのだと思います。
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