マルセイユタロット 主観・客観

タロットは、主観性のツールと言えます。

タロットカードという絵柄の象徴を見ている者が何かを想起させたり、判断したりするわけで、結局、そのカードを見ている人の思考や感情、モノの見方のパターンは必ず入ります。

言ってみれば、カード(タロット)を読む人の脳によるのです。

個人の脳は、構造は皆同じでも、一人一人データ・働き方は違うので、タロットを読むことは、その人個人の脳に基づくと考えられるわけですから、当然、主観となる仕組みです。

しかしながら、タロットはまったく逆の、客観性に導くところもあります。

それは、タロットが極めて優れた象徴システム(シンボリズム)を持っているからです。ただし、タロットのすべてが、よい象徴システムになっているとは言い難いです。

時に、客観性というテーマで見た場合、作者が特定され、その思い・主張が入り込み過ぎているもの、独特なものは主観性が強くなります。

その作者の頭の中ではバランスが取れていても、ほかの多くの人が見ても同じに理解できるかどうかはわかりません。

その点、マルセイユタロットはとても客観性があると言えます。

それは、マルセイユタロットはひとつの版の作者の名前は伝わってはいても、その元型としての絵柄の根本デザインは、誰がどのように作ったのかはわかっていないからです。

要するに、特定の作者の個人的な考え・思いでは作られていない可能性が高いということです。

しかも絵柄自体は、絵画としてのでデザイン性、芸術感は少なく、おしゃれでもありませんし、おどおどろしくもないです。言わば、インパクトには欠ける絵柄です。

このことは、実は客観性にはよいことで、強烈な印象がない代わりに、多くの人に違和感を持たせない普遍的なスタイルがあると言えるからです。

確かに絵柄自体は、中世から近世にかけてのヨーロッパの人物・雰囲気を描いていますが、現代の日本人から見ても、さほどおかしな印象は受けず、意味がわかってくると、スーと心にも入ってくると言いますか、受け入れやすい絵柄となっています。

もちろん個人差はあるので、絵柄に癖を感じる人もいて、嫌いだという方もおられるでしょうが、ほかのタロットに比べると、特徴はあまりないと感じることが多いと思います。

ということで、基本、主観性のものであるタロットですが、こと、マルセイユタロットを選択する場合、多くのタロットに比べて、すでに客観性の点では秀でているということが言えるかもしれません。

ここで、改めてになりますが、客観性を持つことは、何がいいのかということについて、タロット的に簡単に記します。

1.自己に対して、冷静さやバランスが保ちやすい

2.リーディングにおける相談者の立場が確保しやすい

3.大局的・本質的・統合的観点に導かれやすい

ほかにもたくさんありますが、重要なところではこんな感じでしょうか。

主観に入り込み過ぎると、いわゆる自分勝手、自分の思い込みの世界に囚われやすくなるのは誰でもわかるかと思います。

自己の問題は自分では気づきにくいところがありますし、文字通り、客観という他人視線があれば、自分の盲点にも簡単に指摘可能となります。

ビジネスや商売の世界でも、お客様視点は基本であり、売る側が「これは売れるはず」と確信していても、さっぱりだったということもあれば、逆に「えー、こんなのが売れるの?」と、思ってもみなかったヒットもあります。それは買う側でないとわからないこともあるからです。

私は今でも経験しますが、クライアントさんから問いをお聞きした時、「これはこういうことかな?」と原因や解決策を予想していても、タロットを実際展開してみると、自分の思いとは違っていたということがあります。

マルセイユタロットと、タロットそのものが表す、人の共通・普遍パターンがあるので、タロットを出すことによって、タロットリーダーといえども、その思い込みはありますが、そこから脱する働きがあるわけです。

客観性があると、まさに自分本位から逃れ、相手側との調整、バランスが働き、調和へも近づきやすくなります。

そして、他者に対してタロットリーディングする場合、クライアントは自分ではないので、すでにそれ(他者リーディング)自体が客観性を持つのですが(だからこそ、人の相談ができるとも言えます)、それでも、タロットは基本、主観であるとお話したように、どうしても、タロットリーダーの主観性の影響も受けます。

そこに、タロットが間に入ってくると、タロットによって、タロットリーダー側の最初の思い込みとか、途中での感情的な揺れ動きなども修正され、客観的視点が出てきます。

さらに、客観性は主観性と対立することがありますが、たからこそ、主観と客観の相克の中で、それらを超えた超客観性とでもいうべき視点や立ち位置が出てくる可能性があります。

これは「次元上昇」と言い換えてもよい状態です。

他人も含めて、従来の世界観・常識が超越し、新しい次元の世界に、これまでの主観と客観が統合され、導かれるのです。

物語風にいえば(笑)、同じ人間レベルで、たとえ他人を交えて話をしていても、結局、同じレベルでの方法しか思いつかないけれども、天使や神、はたまた地球文明を超えた宇宙人レベルのような存在だと、超越したレベルの発想が出ますよ、という話です。

マルセイユタロットは、すでにあるだけで、客観性が確保できるところがありますから、持っていて損はないかと思います。

ただし、その客観性の精度を上げていくためには、象徴・シンボルの知識を学ぶ必要があります。

学びや学習もまた、客観性を助けるものとなります。

感情・感覚的なものは主観から来ていることが多々ありますから、その感覚を客観性に置き換えていくためにも(これは「斎王」と「法皇」のカップル性でもあります)、学習・研鑽・知識が重要となります。

しかし、客観性に傾き過ぎると、機械的、パターン的な思考のループにはまりますので、やはり主観的な感性も必要です。

みんながいいと言っていても、あなたが嫌なら、それは実はあなた自身にとっては何か大きな意味や問題があるのです。ほかの人にはわからない、あなただからわかる、感じている何かがあるわけですから。

でも、時には、人の意見や視点のような客観性が、自分を救うこともあるわけです。

宇宙はいわば、神のような完全性のバランスにあると考えられますが、そのバランスが、いろいろなレベルにおいても働いており、高次元であればあるほど、そのバランス・公平性はわかりづらく、低次であるほど、わかりやすいと言えます。

しかし低次のバランスは、高次のバランスから見れば、局所的・一時的には整ってはいても、実はアンバランスであることがほとんどではないかと考えられます。

つまりは、低次になるほど、高次的な意味てのバランス・調和性は無視され、悪い意味の主観中心、自分だけがよいという意識に囚われていくのだと想像されます。それは言い換えれば、非常に狭い範囲でのバランスを保とうとする働きです。

狭過ぎるがゆえに、主観・自我ばかりの世界での考え・感覚に陥るということです。短期的見方と言ってもよく、それは面白いもので、短気的(笑)でもあります。

とりあえずは、狭い世界においても、客観という意識を持てば、ひとつ分、世界が広がることになります。

だからこそ、私たちは「客観」という「視点」が求められるのです。

それでも主観を殺していいわけではありません。あくまで主観の修正、狭い主観性のモノの見方から解放を促すための客観であるべきで、客観があなたの主観に取って代わるわけではないのです。(つまり、他人の言いなりにならない)

とにかく、マルセイユタロットは、まず、「タロット」という主観性の道具でありながら客観性を促すという意味で、主観と客観のバランス・統合を見るには、とてもよいツールだと言えます。

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