自己評価は低くてもよい

自己評価が低い・高いというのは、心理的に大きな意味を持ってくると考えられています。

自己評価のテーマは、最近ではスピリチュアル的にも言われいます。心理的な意味と、スピリチュアル的な意味とでは少し違うのですが、とりあえず、自分自身による自らの評価ということで定義しておきましょう。

ところで、一般的と言いいますか、もはや常識的に、自己評価は高いほうがいいとされています。

平たく言えば、自信であり、それがないのとあるのとでは、生き方も大きく変わると思われています。

言葉は面白いもので、「自信」は「自分を信じる」と書きますので、まさに、自分に対する信頼感、自らを信じている強さとも言えます。ということは、自己評価が高いというのとほぼ同意ですよね。

よって、自己評価の高低も、自分に自信が持てるかどうかにかかっているとも考えられます。

今回は、自分に自信を持つにはどうすればいいのか?ということが主題ではありません。

その方法は、多くの心理系の方々によって説かれていることであり、それを身に着ける(自信をつける、自分を認める)セミナーとか個人セッション、カウンセリングなどもたくさんあるわけで、自信のない方、自己評価の低いと思っている人は、そういうものに参加したり、受けてみたりされるとよいかと思います。

話は変わりますが、時代とともに、いわゆる心理的援助、悩みや苦しみ、問題の相談をされる仕事やビジネスをする方は、昔に比べて格段に増えました。

さきほど、ビジネスと言いましたように、単なるボランティアではなく、プロの仕事としてされている人が多くなったわけですから、これを利用しない手はないと思います。お金がもったいないと思う人もいるかもしれませんが、それは価値観の問題です。

極端な例を言えば、毎日パチンコするような依存症になり、借金して人生を破綻してしまうより、依存症の問題を誰か専門家に相談したほうが、今後のお金の損失程度から見ても、効率的だと言えます。

また、なかなかいい人と出会いがない、相手ができても、いつも同じような問題のある人とつきあってしまうという人が、婚活とかそういうカップリングを目指すことにお金をかけるより、もし心理的に問題があるのなら、そこを解消しておいたほうが、望む結果が早くなったり、かかるお金にしても少なく済んだりすることもあり得ます。

人生をよくするには、いろいろなサービスがこの現実世界ではあるのですから(それがまたこの世の面白いところと言いますか、救済措置のひとつだと思います)、そうしたものをうまく利用することも考えてみるとよいでしょう。なんでも自分一人でやらねばならいとか、解決しようと思わないことです。

現実世界の特徴は、個別意識、言わば分離的個性にありますから、逆に言えば、全体によって個人を救う仕組みになっており、簡単に表現すると「持ちつ持たれつ」なのです。

このことに世界の人が気づけば、もっと暮らしやすくなるのですが・・・まあそうさせない勢力もありますので、単純なことなのに、難しくされている世情があるわけですね。

さて話を戻しますが、今日言いたいのは自己評価が低くてもいいよ(いい場合がある)という、ちょっと非常識(苦笑)な話なのです。

実は私自身は、自己評価が低いほうだと思います。以前は、例にもれず、これではいけないと改善を試みようとしました。心理的に学んだり、セッションやカウンセリングを受けたりしたこともあります。

それでも、やっぱり低いままなな感じは残っていました。自分に自信がなく、自己評価が低い部分が残存し続ける感じです。

と書いて来て、気になった方もいると思いますが、「部分」と私は書きました。そう、ある程度、自己評価の問題に取り組んで来て、気づいたことがあります。

自分と一口に言っても、実は様々な自分が存在しており、そこには自己評価の低い自分もいれば、自信をもっている自分もいるのです。

シーンや状況によって、それらの各々の自分が出てきて、ある時は自己評価の低い自分になり、ある時はましになっている自分が出ます。

つまり、高い・低いの問題ではなく、高い自分と低い自分とが混交し、それが一人の自分として形作っているのです。となれば、状況によって、登場してくる自分も違うことになります。

何回か経験したこととか、慣れている場面とかでは、自信のある自分が登場するでしょうし、未知なるところ、慣れていない時などは、自信のない自分となるでしょう。

ある特技を披露するシーンとか、人よりましなもの、優れているものが出せる時は、、他の場面では自信のない自分であっても、急に自信を持つ自分が現れる人もいるでしょう。

ということで、実は、自己評価とか自信というのも、状況によって変わる(左右される)わけです。時分による自分の違いです。(笑)

それでも、人格全般に影響するような強烈な体験があれば、それが全部を支配してしまうことがあります。この場合は、自己評価の低い人格ばかりとか、そういう傾向をひとつの固まりとして持ってきます。

人格形成は、大人になる前のことが強く影響しますから、やはり心理的によく言われるように、成育歴における事件は自己評価に関わってくると言えましょう。

しかし大人になってからも修正は可能ですので、特に自信を極端に失っている人格を見つけて、平均化していけば、だいぶん全体としても変わって来る可能性もあります。

また、自信の強い人格が他を助けることもありますので、その人格(趣味とか特技とか、自分を自分としてある程度強く出せて、認められる人格の象徴体)を意識的に認識すれば、全体としてもっと自己評価がましになり、生きやすくなるかもしれません。

これとは別に、自己評価は低いままで、超越的なものから支えられていると考え、だからこそ、低くても助けや救済があるとする見方があります。

これは宗教がやっていた方法です。

神とか仏とか、自分の信ずる超越的な存在が、まさに迷える子羊である「私」を見守り、お導きくださるという姿勢です。

だから、自分への評価は、言ってみればどうでもよいのです。むしろ低いのが当たり前と言えます。

人間としての弱さ、未熟さ、至らなさを当然のごとく自覚し(神とは違うので)、だからこそ、神仏を敬い、助けていただく、完全になるよう、お導きの道を進む・・・こういう感覚です。

この立場では、自己評価は低いままでよいと言えます。低くても、自分には完全なる神仏がおり(ついている)、矛盾する言い方になりますが、その意味では限りなく自己評価は高くなります。

このように、外側に神仏を見て、自分を客観的(神仏目線と併せて)に評価していく、成長していくという見方が宗教的なものと言えます。

ですが、外側ではなく、自分の内なる神性とか仏性というものに置き換えてみると、スピリチュアル的な意味での方法となってきます。

現代社会では、こちらのほうをお勧めしたいです。

マルセイユタロットの「悪魔」のように、自我を強めて、現実社会での自信を持つというのが、常識的な、自己評価を高めるひとつの方法なのですが、自分自身が「神の家」であることを認識するという道(人間性が神性へと変化・回帰し、完成させていくという自己認識)は、さきほど説明した宗教的なものと近くなります。

マルセイユタロットでは、「神の家」と、謙虚な姿勢の女神が描かれている「」のカードとセットで考えてみると、よりイメージしやすいかもしれません。

ですから私自身は、自己評価が低いことは、問題としてあまり思っていません。それは人間としての私の部分であり、むしろ当然だと思うくらいです。

とは言え、すべて人間レベル(つまり現実的な認識のみの視点)で考えている場合は、自己評価が低いままでは、きっと生きづらくなると思います。

何度もこのブログで書いていますが、この世界は一種のゲームです。やりようによって、何とかなっていくものだと考えられます。

別に一般的な成功とか幸せを手に入れなくても(そういう設定のゲームにしなくても)生きられます。(笑)

「悪魔」を出し抜くような気持ちで、「手品師」(いかさま賭博師でもあります)から始めてみましょう。

「愚者」となってこの世界を旅するのなら、アウトローで結構だと思えばいいのです。

ワタリガラス、英語ではレイブンと言いますが、不吉の象徴のように思わているこの鳥も、ある文化ではトリックスター的にも見られています。

この世を渡っていく黒い鳥として見れば、自由で面白い存在だと言え、自己評価は黒くても(笑)、ワタリガラスのように人生を渡っていくのもまたよしかもしれません。

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