「愚者」とその他のカード
タロットはあらゆるものの象徴として使うことができます。
マルセイユタロットにおいても、特に絵柄に特徴のある大アルカナにおいて、それは顕著です。(小アルカナも象徴になりますが)
そうすると、人を大アルカナ22枚で分けることもできますし、一人の人間に22の人格のようなものがあると考えることも可能です。
前者、人を22のタイプに分けた場合、それぞれのカードが表す主体の人物・性格の人があると見るわけです。
ところで、近ごろはYouTuberなど動画で稼ぐ人も多くなり、その他、自己発信が単独でも容易にできるツールが増えたことで、従来型の働きや稼ぎ方とは一線を画す人も増えました。
自由主義経済の中では、法律に反さない限り、どう稼ごうが自由ですので、それで生活ができ、自由な暮らしができるのなら、有力な選択のひとつにはなるでしょう。
一見すると、時間や場所、組織や会社などに縛られない自由な生き方として、もてはやされることもあるかもしれません。
ひところ独立起業ブーム、好きなことビジネスみたいに、自分がやりたいこと、好きなことを仕事にして暮らしていくみたいなことも流行りました。それは今もかなりあるようには思います。(むしろ、皮肉なもので、そうなりたい人を対象にしたビジネスのほうが多い気はしますが(苦笑))
これも悪いことではなく、むしろ、仕事や生き方の選択多様性が進み、より全体・社会としての自由度が高度になってきているとも考えられます。
ただ、何事もよいこともあれば悪いこともありです。
このように簡単に自分で何かをする、情報が発信できる状態になってくると、自由をはき違え、自分勝手、無責任な人も目立つようになりました。
タロットカードで言えば、「愚者」の中で問題性のあるタイプです。
「自分はこんな普通からはずれたことをしていても、人並み以上に暮らしていけるどころか、普通のサラリーマンより稼げているし、楽しく暮らしている」と述べる方がいます。
いや、別にそれはそれでいいのですが、問題なのは、その人たちのいう普通の人々、普通に暮らしている人たちをバカにしている(言い換えれば、自分の能力・知能・情報取集が優れていて、すべては自分一人の結果だと勘違いしている)ということです。
タロットカードの大アルカナは、構成上、「愚者」とその他21枚のカードに分けることができます。それは、「愚者」が数を持たず、ほかのカードたちは数(1から21の数)があるからです。
ただ、こう書くと、ほら「愚者」は、他と違って特別じゃないか、もし「愚者」を人として表せば、「愚者」タイプの人は特別な人となるんじゃないですか?
と思い、そういう見方からすれば、ほかのカード(ほかの普通の人たち)を見下してもよいくらいの特別感があると見えるかもしれません。
ですが、タロットがよくわかっていれば、決してそのような考えにはなりません。
確かに、「愚者」は数を持たず、ほかの大アルカナたちとは違うところもあります。
ですが、私たちマルセイユタロティストなら、こう考えます。「愚者」は、ほかのカードがあって初めて「愚者」足り得るのだと。
特殊性を持つには、その他大勢と呼ばれる普通・普遍的な多数がなければ現れないのです。(表すことができない)
つまり、多くの普通の人たちに支えられているのが特別な存在なのです。
「俺は他の者より自由だ」「私はほかの人と違って好きなことをしている」と言っても、そう言っている人たちがビジネスし、お金を得て、生活をしていく中で、手にしているもの、利用しているものは、誰がどのような過程をもって作り、届けられているのかということなのです。
例えば、「何もしなくても暮らしていけるはず、神は私を見捨てない」と、お金も持たず、今の日本で、旅を続けて行く人がいたとしましょう。
最初は自然のモノを採取したり、野宿をしたりして行けたとしても、次第にそれだけでは済まず、お腹が空けば人に恵んでもらい、泊まるところに困れば誰かに泊めてもらうこともあるかもしれません。旅人を応援する人とか、親切な人など、進んでいろいろものを提供してくださる方もいると思います。
それで数カ月、日本中を旅して、「とにかく生きてこれた、それどころか、楽しい旅ができた、なんて私は自由なんだ、働かなくても暮らししていくことができる、やはり神は私を見捨てない・・・」など語ったところで、どこかおかしいと、たいていの人は思うでしょう。
そう、たまにではあっても、人に施しを受けて命がつなげられたのは、確かに大きく言えば神のおかげかもしれませんが、具体的には言えば、人によって生かされたのです。
そしてその恵みを与えた人は、何らかの暮らしを行っており、おそらく労働やビジネスをしてお金を得て、生活しているはずです。旅人は、その一部に預かったに過ぎません。当たり前ですが、旅人が願えば勝手に食べ物が出てきたわけではないのです。
また現代日本においては、自然のものとは言え、勝手に取って食べることは禁止されているところがほとんどです。野宿ですらそうです。その土地の権利者、管理者に許可が必要なことが多いです。
となると、ほぼ誰か、人の助けなくしては、何も持たない旅などできません。そして、その助ける人こそが普通の人たちであり、普通に働き、生活している人たちなのです。
自分だけが「愚者」となって、特別感を気取ったところで、実はその他大勢の普通の人たちがいてこそ、「愚者」としての存在や生活が成り立っている構造なのです。
ただ、逆に、「愚者」という存在が現れるからこそ、私たちは夢を見て、希望を持ち、変革を起こすこともできます。
多くの普通の生活をされている方々に苦しみや閉塞感が伴い、それが限界まで来ると、「愚者」が現れ、「愚者」によって、その他大勢の世界に変容が起きてきます。
そうして、1から21のカードたち、言わば一般のその他大勢の人たち全体のレベルも上がるのです。
「愚者」になること、「愚者」であることは悪いことでありません。多くの人を救う(救いというより、勇気や希望を与え、閉塞した社会と自分を新たにするエネルギーを与える)こともできるのです。
しかし、悪い「愚者」としておごり高ぶり、その他たくさんの人たちによって支えられていること、そういう人たちに自分の自由が確保(担保)されていることを忘れていると、文字通り、「愚か者」になってしまうのです。
個性が発揮できやすい時代だからこそ、「愚者」とその他のカードとの全体性を見て行くことをお勧めします。
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