マルセイユタロット、太陽系意識

マルセイユタロット、特に大アルカナは、自分自身に(他者に対しての場合もあります)気づきを連続でもたらしてくれるカードだと言えます。

まずは、カード一枚一枚の象徴を学ぶ必要がありますが、一通り学習したあとは、各々のレベルや状態によって、気づきがやってくる、あるいは、自ら発見をしていくという形になります。

ですから、基本の知識を入れたあとからが、タロットより学ぶことの本番というわけです。

基本の知識というのは、普遍的・元型的なもので、いわば、誰にもあてはまるような全体的・抽象的意味が多いです。

それでも、タロットカードの面白いところは、個人的にも示唆を与えるということなのです。換言すれば、その人でしかわからない意味とか、教えが出て来るということです。

そして、最初に学んだ全体的・共通的ともいえる意味と重ね合わせて、私たちが個人として生かされている部分と、それが実は全体性とつながり、発展とも関係していることを知って、図形的には円のような感覚・思想が形成されてくる仕組みになっています。

そこで、見方を変えますと(反転させますと)、私たちは新たに気づきとか発見を行っているのではなく、もともと知っていた(あったもの)を思い出す、復活させていたということにもなるのです。

マルセイユタロットの大アルカナ、20の数の「審判」には、復活という意味もありますが、もし、大アルカナの数の順に成長や発展がもたらされるという説を採り入れるのなら、まさに、21という大アルカナ最後の数のカード「世界」の直前で、完全に復活する(思い出す)状態になったことを表していると考えられます。

ただし、最初にも述べたように、タロットカードの象徴性を知るための基本の学習は必須です。それがあって、個別的な気づきもカードから得られるのです。

しかも、個別性と全体性が、システマチックに機能し、配置されている整合性や緻密性がないと、個人と全体の統合への示唆も困難と言えます。それがマルセイユタロットにはあります。

マルセイユタロットが、ある種、この世界の縮図モデルのようなものを描いているとすれば、この世界そのものが、一見、デタラメ、無意味のように思えていて、実はすべてに意味があるのではと感じて来るので、マルセイユタロットも、そのようにできており、やはり高次の設計に基づいていると想定できます。

まあ、あくまで、この世界に意味はなく、ランダム・無秩序な世界であると信じるのなら、(マルセイユ)タロットとこの世界を比較する意味もないわけですが。

しかし、この世界(宇宙)には、例えば物理法則のような、何らかの法則・秩序があることは、一般的に知られています。さらに、私たちがまだ知り得ていないものもあるでしょう。

あくまで、私たちの今の認識レベルが、それ止まりだから法則が理解できず意味のない世界だと誤解している可能性があります。

認識レベルが高度になれば、まだわかってない(知り得ていない)法則やルールというものがわかってきて、理不尽でしかないと思えた運命というものでさえも、見事に規則正しいものであったとわかる日がくるのかもしれません。

ただ、それでは、人生の面白さもほとんどなくなってしまうでしょう。

知らないことは怖さとか不安もある反面、未知部分が残されていると、非常に魅力的で冒険の余地があり、楽しさも生まれます。

そうすると、私たちが生まれて来る理由も、言い方は悪いですが、ゲームのようなものと言えるのかもしれません。

高度なゲームになればなるほど、一筋縄では解き明かせないゲーム設定・ルールがあり、ゲームをしながら、ゲームのルールを解明していくことも同時に楽しめる仕組みになると思われます。

創作ストーリーでもよく言われますが、作者を超える設定はできないというものがあります。

それにならえば、もし、マルセイユタロットが何らかの世界や宇宙の法則を描いていると言っても、それは創作者(たち)を超えたレベルは描けていないことになります。

とはいえ、創作者が相当高度な者(たち)だとすれば、私たちが何とか届きそうなレベルの可能性を、あえて示していることも考えられます。

さきほど、大アルカナの数順に(真の)復活が近づく、すなわち完成していくという話をしましたが、数の大きいカードには、星とか月とか太陽とか天体が描かれています。

ということは、星々、惑星の世界が、私たちにとって高いレベルの世界であると考えることもできます。

占星術的には、天球の世界です。しかし、古典占星術とか伝説的な話には、惑星を超えた世界の話もあります。

推測ですが、もしかすると、大アルカナの最後、21「世界」のカードに到達したとしても、それは星々の世界、もっと具体的に言いますと、太陽系の範囲内をやっと超えるレベルなのかもしれません。

とはいえ、それは大変な次元の上昇とも考えられます。

現実的には、私たちはせいぜい太陽は別として、地球と月しか意識しない世界にいますから、太陽系を超えるということは、壮大な意識の拡大になります。

これは、物理的な距離からみた宇宙の話ではなく、「太陽系」をひとつの象徴や、ひとまとまりのシステムのようにとらえてみる話です。

要するに、私たちの意識は、太陽系の中(範囲)に閉じ込められており、その解放、拡大が言われているのではないかということです。

たぶん占星術をやっている人には、感覚的にも体験してくると思いますが、惑星それぞれの単位時間とか知覚というものがあるはずです。

地球を中心として、月、水星、金星的なものが近いですから、こうしたものは、より身近で強く感じることでしょう。

それが火星、木星、土星、さらには、トランスサタニアンを入れると、天王星、海王星、冥王星と続きます。遠いものは、それだけ希薄に感じるかもしれませんが、逆に言うと、本当は強く、私たちの通常意識を超えさせる何かをもっていると言えます。

物理的な距離の話ではないと言っておきながら、惑星の距離からの影響を述べているのは矛盾しますが、私が言いたいのは、物理的な感覚だけでとらえてはならないということです。あくまで象徴として見るわけです。

このように見てきますと、あまりに現実・個人レベルでタロットを使っていくと、もったいないということがわかります。

太陽系意識を超えることがひとつの目標であるならば、私たちは、包括(統合)した拡大的な意識を持っていく必要があります。

共有感覚を養うというのも、そのきっかけになるでしょう。ですから、ふたつの壺の水を混ぜ合わせている節制」が、数からしても、重要な位置にいるのです。

ところが、その前に「13」というカードがあり、後ろには15「悪魔」というカードもあります。

このふたつは自我に大きく関わってきます。

統合的・霊的な成長を図っていくためには、いきなり全体性へ飛ぶのは危険で、自我の確固とした構築が重要になってきます。

自分というものがなければ、全体性の中で見失い、自己犠牲や、ただの組織の歯車になりかねません。

ゲームにおいても、巨大なラスボスに挑むには、自分の特徴・特技を知って、さらに自分にはない特質を持つ他人と協力し合って、はじめて倒すことが可能になってきます。

真理の解明(というゲーム)でも同様でしょう。

マルセイユタロットの大アルカナの流れには、自我の確立、破壊、再構築、全体への帰納と拡大みたいなものが描かれています。

やはり、マルセイユタロットは、私たちの霊的な覚醒と発展を期しているものだと、何度見ても、私自身は思うところです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top