カードからの気づき

三角関係

マルセイユタロットの「恋人」カード。

図像では、三人の人物がいて、真ん中の男性が両隣の女性にはさまれている絵柄があります。

見ようによっては男性の取り合い(笑)のようでもありますし、逆に、ダメ男を女性が押し付け合っている(ダチョウ倶楽部のどうぞどうぞみたいなシーンが浮かびます(笑))のかもしれません。

まあ、普通に見て、男性が女性のどちらかを選ぼうとしていると見えるでしょうか。

ところで、恋愛もののストーリーには、恋人カードではないですが、三角関係がテーマとなるものがよくあります。

パターンとして(どちらの人を選ぶかの悩みに)は、行動的・野性的・活発的なキャラと慎重・清純・控え目的なキャラとの対比、あるいは現実派とロマン派の人物みたいな対比があります。

またまたアニメネタで恐縮ですが、富山を舞台(そのものではありませんが)にした「true tears」というアニメがあります。これは登場人物の恋愛模様、三角関係(厳密には四角関係(笑))を描いています。

主人公の男の子は、二人の女の子(+あと一人も関わりますが)の間で苦悩する話です。こういう関係性のアニメにはコメディ系(ラブコメ)が多いのですが、このアニメはシリアスです。

男の子にとって重要な二人の女の子は、一人はある事情で自分の家に住むことになった女の子、もう一方は、学校で出会った天真爛漫な女の子です。

このアニメを見ていて思ったのは、まさに「恋人」カードで、主人公の男の子が悩むのは、いわば天上と地上にある葛藤に見えました。

それは西洋絵画では有名なモチーフである「天上のヴィーナス、地上のヴィーナス」の葛藤とも言えます。

「true tears」では、高校生の話なので、いわゆる地上のヴィーナスとしての肉体的なものが描かれるわけではありませんが、同居している女の子として、セクシャルなものも感じさせるシーンはありますし、言ってみれば、その女の子は、男の子にとって現実的な意味での女性として強い印象を与えるのです。

実際にその女の子は、スポーツも優秀で美人、優等生、しかし主人公の男の子に対する秘めた思いを隠し、ちょっと計算高く(というより、女性としての感情と行動がいかにもありそうな現実性があるよう)にも見えます。

もう一人の女の子は、幼い風貌でもあり、行動も奇抜で、ちょっと何を考えているのかわからない感じでもありますが、とても純粋に見えます。現実にはいそうもない空想的な子の印象です。実は、男の子は絵本作家を目指しているのですが、そのスケッチに描かれる天使の姿に、こちら側の女の子は似ていたのです。

結局、男の子は、紆余曲折の末、同居していた女の子のほうを選ぶのですが、選ばれなかった女の子は、今まで涙を出すことができなくなっていたという心理的なブロックの症状があったのですが、男の子にふられたことで、再び涙を取り戻すことができたという皮肉な描写がありました。

おそらく、この天使に似ていた女の子は、失恋ということを経験することで、現実に戻ったのだと思います。

その証拠に、それまで孤独だった学生生活(友人がいなかった生活)から、普通の女子高生のように、友達もできて楽しそうに話しているシーンがあったので、今までは、むしろ非現実の世界にいたわけです。

つまり、この子は、男の子にとっての天上のヴィーナスであり、イデア的な役割、存在であり、言い換えれば彼の夢・空想・純粋性を象徴していたと考えられます。

ちなみにこの女の子がまだ非現実的な世界にいた頃は、学校で飼育されていた鶏が友達みたいになっていて、やたらと鳥がシンボルとして出ていました。マルセイユタロットでも鷲は天上性への飛翔の象徴を持ちます。(鶏は飛べないことにも注目)

一方で、もう一人の子は、現実の女性で、実際の世界で恋人となる女の子(地上のヴィーナス)だったわけです。

「恋人」カードでは、三人の人物の上に天使、あるいはキューピッドが描かれています。私たちは、地上・現実で生活していますが、その縁を結ばせるものは、天上のキューピッドであり、またふたつの葛藤の中に、現実を超えたものの示唆を与えます。

「true tears」では、主人公の男の子は、自分の中にあるイデア、天上の天使(一人の女の子という形を取る)とふれることで、逆に地上の現実性の選択力を強めました。(しっかりとした選択、生き方、つまり自立心を獲得)

ただ、私、個人的には、もう一人の天使性を持つ女の子にかなり惹かれました。それは、やはり、地上的なものよりも天上的な愛のほうに強く思うところが、マルセイユタロットを見てきて復活してきたとも言えるからです。

「恋人」カードは、どちらを選べばいいか(正しいものを選択せよ)ということではないと思います。

その迷いや葛藤の状況こそが大事で、私たちは現実世界の中で、そういう状態に置かれることはありますが、そこから正しい選択を現実的にしたものが勝者という視点だけではなく、もともとあった地上を超えた天上的なものを取り戻し、霊的な観点の重要性を受け入れることを示しているように思えます。

アニメ「true tears」でいえば、どちらの子が好みかとか、こちらを選ぶのが正解(現実的によい選択である)という視点で見るのではなく、なぜそもそも悩むのかとか、三角関係は破滅ではなく創造であることを知るみたいな感じと言えましょうか。

失恋であっても失恋ではなく、いつも私たちは恋愛を通して結合を求め、たとえ実際には結び合えなくても、精神・霊的には結合していくのだと悟ることで、人間世界の中にある個人的・現実的な愛が、その裏側では、広大な宇宙的な愛によって支えられており、それが時によって地上では衝動化されていることに気づくのです。


「愚者」とその他のカード

タロットはあらゆるものの象徴として使うことができます。

マルセイユタロットにおいても、特に絵柄に特徴のある大アルカナにおいて、それは顕著です。(小アルカナも象徴になりますが)

そうすると、人を大アルカナ22枚で分けることもできますし、一人の人間に22の人格のようなものがあると考えることも可能です。

前者、人を22のタイプに分けた場合、それぞれのカードが表す主体の人物・性格の人があると見るわけです。

ところで、近ごろはYouTuberなど動画で稼ぐ人も多くなり、その他、自己発信が単独でも容易にできるツールが増えたことで、従来型の働きや稼ぎ方とは一線を画す人も増えました。

自由主義経済の中では、法律に反さない限り、どう稼ごうが自由ですので、それで生活ができ、自由な暮らしができるのなら、有力な選択のひとつにはなるでしょう。

一見すると、時間や場所、組織や会社などに縛られない自由な生き方として、もてはやされることもあるかもしれません。

ひところ独立起業ブーム、好きなことビジネスみたいに、自分がやりたいこと、好きなことを仕事にして暮らしていくみたいなことも流行りました。それは今もかなりあるようには思います。(むしろ、皮肉なもので、そうなりたい人を対象にしたビジネスのほうが多い気はしますが(苦笑))

これも悪いことではなく、むしろ、仕事や生き方の選択多様性が進み、より全体・社会としての自由度が高度になってきているとも考えられます。

ただ、何事もよいこともあれば悪いこともありです。

このように簡単に自分で何かをする、情報が発信できる状態になってくると、自由をはき違え、自分勝手、無責任な人も目立つようになりました。

タロットカードで言えば、「愚者」の中で問題性のあるタイプです。

「自分はこんな普通からはずれたことをしていても、人並み以上に暮らしていけるどころか、普通のサラリーマンより稼げているし、楽しく暮らしている」と述べる方がいます。

いや、別にそれはそれでいいのですが、問題なのは、その人たちのいう普通の人々、普通に暮らしている人たちをバカにしている(言い換えれば、自分の能力・知能・情報取集が優れていて、すべては自分一人の結果だと勘違いしている)ということです。

タロットカードの大アルカナは、構成上、「愚者」とその他21枚のカードに分けることができます。それは、「愚者」が数を持たず、ほかのカードたちは数(1から21の数)があるからです。

ただ、こう書くと、ほら「愚者」は、他と違って特別じゃないか、もし「愚者」を人として表せば、「愚者」タイプの人は特別な人となるんじゃないですか?

と思い、そういう見方からすれば、ほかのカード(ほかの普通の人たち)を見下してもよいくらいの特別感があると見えるかもしれません。

ですが、タロットがよくわかっていれば、決してそのような考えにはなりません。

確かに、「愚者」は数を持たず、ほかの大アルカナたちとは違うところもあります。

ですが、私たちマルセイユタロティストなら、こう考えます。「愚者」は、ほかのカードがあって初めて「愚者」足り得るのだと。

特殊性を持つには、その他大勢と呼ばれる普通・普遍的な多数がなければ現れないのです。(表すことができない)

つまり、多くの普通の人たちに支えられているのが特別な存在なのです。

「俺は他の者より自由だ」「私はほかの人と違って好きなことをしている」と言っても、そう言っている人たちがビジネスし、お金を得て、生活をしていく中で、手にしているもの、利用しているものは、誰がどのような過程をもって作り、届けられているのかということなのです。

例えば、「何もしなくても暮らしていけるはず、神は私を見捨てない」と、お金も持たず、今の日本で、旅を続けて行く人がいたとしましょう。

最初は自然のモノを採取したり、野宿をしたりして行けたとしても、次第にそれだけでは済まず、お腹が空けば人に恵んでもらい、泊まるところに困れば誰かに泊めてもらうこともあるかもしれません。旅人を応援する人とか、親切な人など、進んでいろいろものを提供してくださる方もいると思います。

それで数カ月、日本中を旅して、「とにかく生きてこれた、それどころか、楽しい旅ができた、なんて私は自由なんだ、働かなくても暮らししていくことができる、やはり神は私を見捨てない・・・」など語ったところで、どこかおかしいと、たいていの人は思うでしょう。

そう、たまにではあっても、人に施しを受けて命がつなげられたのは、確かに大きく言えば神のおかげかもしれませんが、具体的には言えば、人によって生かされたのです。

そしてその恵みを与えた人は、何らかの暮らしを行っており、おそらく労働やビジネスをしてお金を得て、生活しているはずです。旅人は、その一部に預かったに過ぎません。当たり前ですが、旅人が願えば勝手に食べ物が出てきたわけではないのです。

また現代日本においては、自然のものとは言え、勝手に取って食べることは禁止されているところがほとんどです。野宿ですらそうです。その土地の権利者、管理者に許可が必要なことが多いです。

となると、ほぼ誰か、人の助けなくしては、何も持たない旅などできません。そして、その助ける人こそが普通の人たちであり、普通に働き、生活している人たちなのです。

自分だけが「愚者」となって、特別感を気取ったところで、実はその他大勢の普通の人たちがいてこそ、「愚者」としての存在や生活が成り立っている構造なのです。

ただ、逆に、「愚者」という存在が現れるからこそ、私たちは夢を見て、希望を持ち、変革を起こすこともできます。

多くの普通の生活をされている方々に苦しみや閉塞感が伴い、それが限界まで来ると、「愚者」が現れ、「愚者」によって、その他大勢の世界に変容が起きてきます。

そうして、1から21のカードたち、言わば一般のその他大勢の人たち全体のレベルも上がるのです。

「愚者」になること、「愚者」であることは悪いことでありません。多くの人を救う(救いというより、勇気や希望を与え、閉塞した社会と自分を新たにするエネルギーを与える)こともできるのです。

しかし、悪い「愚者」としておごり高ぶり、その他たくさんの人たちによって支えられていることそういう人たちに自分の自由が確保(担保)されていることを忘れていると、文字通り、「愚か者」になってしまうのです。

個性が発揮できやすい時代だからこそ、「愚者」とその他のカードとの全体性を見て行くことをお勧めします。


良いカード・悪いカード

タロットカードにはが描かれていますので、当然ながら「絵柄」の印象は意味においても、タロットの好みにおいても左右する大きな要素となります。

世にタロットと称するカードは、現在、それこそ数えきれないほどあります。今この瞬間にも誰かが「タロット」と思って、オリジナルなカードを作成しているかもしれません。

そして人がタロットを選ぶ時、カードの絵の雰囲気・印象は大事なものとなります。またその選んだカードの一枚一枚についても、絵は違っていますので、自分にとって好きなカードか嫌いなカードかも、最初の内はあるでしょう。

さらに言えば、ある種、普遍的とも言える、カードの絵の良し悪しのようなものもあると考えられます。

例えば、伝統的な78枚の組と絵柄を踏襲しているタロットならば、大アルカナの13の数をつカード(ウェイト版などでは死神と呼ばれるカード)、15の数を持つカード(悪魔)、16の数を持つカード(塔、神の家)は、多くの人が見ても、あまり印象のよいものとは言えないでしょう。逆に、21の数を持つカード(世界)などは、比較的よいイメージで見られるのではないかと思います。

ですが、当初はそうであっても、カードの象徴性や意味を学んでいくことで、その印象を変えていくことも可能です。

特にマルセイユタロットでは、上記のようなカードたちの特徴(印象)は確かにあるものの、ウェイト版などのカードに比べると、比較的絵が平板で、あえてセンスのないような絵柄で描かれているため、カードそれぞれに際立った印象は持ちにくいかもしれません。

それは結局、カードをすべてフラットに見ていくことに貢献していると言えます。

私たちは、どうしても印象の世界(見た目の世界)から逃れることができません。それだけ視覚というものは五感の中でも、強い感覚・印象を伴うと言えます。

仏教の唯識ではありませんが、私たちは、五感や意思(あるいは思考)を通じて世界を把握します。まあ、唯識では、さらにその奥底の、現代の心理学風に言えば無意識のような情報も、つまるところ、物事の把握・意味付けを左右させていることになるわけですが。

とにかく、かなり私たちは見た目というものに影響されるということです。

ですから、最初からタロットの見た目そのままだけを盲目的に信じ込み過ぎると、カードにおいて、良し悪しとか吉凶、善悪というものの観念、決め事を植え付けてしまうおそれもあるのです。

見た目いいカードはよい意味、見た目悪いカードは悪い意味というそのままです。

しかし、ここでよく考えると、良し悪しとか吉凶の意味は誰が決めているのか?ということです。

それは人間が決めているわけで、もっと言うと、カードを見ている自分です。まあ、それは一般的なヒトの思い・感情の集合体からとも言えるのですが。(ですから見た目というものも、個人だけではなく全体の意識や意味としても大事なのです)

もし、そういう良し悪しみたいな線引きの意味をガラガラポンとして(笑)、すべていいも悪いもないのだとすれば、そこに見た目の印象以外の象徴性・意味がカードから現れてきます。

例えば「切る」とか「破壊」という印象を受けるカードがあって、一見すると、切られること、破壊されることは怖く、恐ろしいイメージ、よい印象が出ないかもしれません。

ただ、そこに良いとか悪いとかの意味を付与するのではなく、あくまでただの運動・行為・状態だと見れば、まとわりつくものを切り落とす必要性もあるかもしれませんし、切らないと長すぎて使えないということが思い浮かぶかもしれません。

破壊も、壊さないと新しものを作ることができず、古いままだと危険でもあります。残したくない記録は破壊したり、消去したりすることが求められます。

要するに、状況によって、同じことでも、良くも悪くもなるのです。

悪い印象、凶的な印象を与えるカードであっても、その逆のよいことで見ることはできないかと考えることで、私たちは物事の見方を大きく変えることができます。

世界は見た目が大きく、そして自分の固執した色メガネのようものを通して自分の中に現れているわけで、それならば、タロットカードを利用して、私たちの見方の歪みをなるべく修正していくことで、囚われからのなにがしかの解放、あるいは逆転の発想、さらに言えば真理のようなものも浮上させることができるかもしれません。

タロットカードの意味を一通り覚えて使っている人でも、その意味だけでよいのかを、改めて考え直していくと、思考の癖や自分のかけている(かけさせられている)偏向(偏光というより偏向のほうがふさわしい)グラスを、少しは、はずすことができるでしょう。

特に、良いカード・悪いカードと分けている間は、タロットを使いこなす以前の段階だと思ったほうがよいくらいです。


4組、「剣」を例にして。

タロットにおける概念と言いますか、思想体系のひとつに、四大元素(風・水・火・地(土))というものがあります。

簡単に言えば、この世界は四つ要素から成り立っているというものです。

タロットでは、主として、小アルカナと呼ばれるグループにこの概念が明確で、いわゆる4組のモノの形(括り)で表現されています。

マルセイユタロットで、私たちの言い方では、「剣」「杯」「杖」「玉」、一般的には英語で、ソード、カップ、ワンド、コインなどと呼ばれているものです。

このうち、「剣」・ソードは、一般的なタロットの見方では、厳しい意味やネガティブな意味にさせられていることが多く、それはやはり、「剣」という“武器”からイメージされるからだと考えられます。

「杖」も、ワンドというより、実は棍棒と言ったほうがよく、これも武器になり得るのですが、タロットの種類によっては、武器になるような棒のようには見えず、バトン(魔法道具となるとワンドになります)のように描かれているものもあるので、「剣」ほどの武器性はないと言えます。

ということで、4組の中でも、武器としてのイメージが強く、これを持って相手を倒す(ひどい言い方をすれば傷つける、殺す)ことがイメージされることもありますので、「剣」は何か厳しく、怖い意味にもなっているようです。

ですが、私たちの考えるマルセイユタロットにおいては、大アルカナもそうですが、小アルカナや、その小アルカナを貫く概念である「四大元素・4組」においても、吉凶とか、いい・悪いは見ないので、「剣」であっても基本は中立と考えます。

もちろん、切る道具のイメージから出るような厳しい意味合いも見ることもあるのですが、基本、中立であり、状況や設定によって、ポジにもネガにも取ることができると考えるのです。

これには、実際のタロットの絵柄の影響も大きいてす。

例えば、ウェイト版のタロットでは、小アルカナ「剣」のグループは、絵としても厳しく、怖いイメージがありますが、マルセイユタロットのそれは、特に数カード(数札)では、そもそも絵というより、記号図みたいなものに見えるので、絵柄から特別な印象を与えづらくなっています。

絵柄が抽象的なので、イメージから意味を見出しにくいという欠点はありますが、逆に言うと、上記のように、何か偏った印象を持つことが少ないので、カードの(意味の)中立性が保てるという長所もあるわけです。

ですから、マルセイユタロットでは、「剣」をことさら、厳しく、怖いイメージ、ネガティブな意味合いで取ることは少ないと言えます。

とはいえ、大アルカナに目を転じると、「剣」を持っている(描かれている)カードで目立つのは、「正義」と「13」があり、そのふたつは、ちょっと見た目のインパクトも強く、なかなか穏やかで優しいというイメージは取りづらいかと思います。

小アルカナと大アルカナの違いは、一応、基本法則みたいな考えでは、大アルカナが大きなことを表し、小アルカナが具体的なことを示すとされています。

ですが、その逆もあり得ることは、マルセイユタロットにおいては可能です。

四大元素という思想体系がどのようなものであるのかを理解するには、実は、小アルカナから入り、それを大アルカナで見ていくという方向性が意外によいこともあるのです。

今日は、言ってみればタロットにおける4組の「剣」をテーマにしているわけですが、このことも、この小アルカナから大アルカナへの検討で、理解が進むのではないかと目されます。

つまりは、小アルカナで4組、四大元素を公平に見て、それが実際の私たちの世界で表現されるとどのような意味合いを持つのか、形を取っていくのか、あるいはどのように働いているのか、ということなどを、大アルカナによって理解するという方法です。

例えば、同じ「剣」であっても、先述の「正義」とか「13」では、その剣のニュアンスも変わってくることが絵でわかるわけで、まさに現実における「剣」の使い方、使われ方が見て取れるのです。

そして、小と大と併せて考察していくことで、最終的には、四大元素にそれぞれの区別がなくなっていき、第五元素という大元に還っていくよう、マルセイユタロットでは仕組まれ、構成されていると考えられます。

おかしな言い方になるのですが、実は、4組とか四大元素というものは、四つの要素とか元素が実在するのではなく、そのような見え方とか表現を取っているように私たち自身が決めている、一緒の世界観投影のようなものだと気づいてきます。

今の化学的な元素の見方とは、かなり違うものなのです。しかし、本質的には今の化学の元素も、古代の四大元素も、同じものを違う表現でしているに過ぎないとも言えます。

そう思うと、マルセイユタロットは、ある意味、(違う次元の)化学的な構図をもっているのだと考えることもでき、改めてそのすごさが実感できます。


繰り返しの物語

ふと、あるアニメ作品を再び(というか、その作品についてはもう何度も視聴しているのですが)見てしまいました。

それは「涼宮ハルヒの憂鬱」というライトノベルからアニメ化された作品です。もうだいぶん前の作品ですが、いまだインパクトをもって語られるアニメ界隈では有名な作品です。

個人的にはいろいろと気づきを得た作品でもあり、純粋にアニメ作品としても好きな作品です。

舞台のモデルになった地域も兵庫県西宮市で、兵庫県に住む私にはなじみであり、しかも広島時代に通っていた高校に何か雰囲気が近いので、ノスタルジックでもあります。

あの京都アニメーションが製作した作品ですので、凝った作画や演出もあります。

この作品には、いろいろと興味深いところや話題になったことがたくさんあるのですが、何より、一番の衝撃は、同じ話を8回にもわたって繰り返し放映した(と言っても作画とかセリフ、進行は微妙に毎回違うのですが、つまり毎回違うもはの作られていたわけです)「エンドレスエイト」と名付けられたそのストーリーで、当時リアルタイムで視聴していた者にとっては、いつ終わるかわからない、まさに地獄のループにはまったかのような感覚を味わったと言います。

私は幸い、再放送で見たことと、エンドレスエイトの回数も知っていたので、リアルタイムで見ていた人ほどの苦痛はなかったのですが、それでも、さすがに5~6回目になりますと、かなり苦しかったのは確かです。

この話はようやく、8回目の話で終わりを迎えることになり、その解放感たるや、すごいものがありました。今回の再視聴では、さすがに全部は見ることはせず(苦笑)、最初と途中、最後を見ましたが、それでも味わう解放感は、相当なものがありました。(笑)

すでに(アニメ界では)超有名な話ですから、少しのネタバレになりますが、何をループしていたのかと言いますと、主人公(語りのほうの主人公)たち高校生が、夏休みのある期間を何度もリセットして繰り返すことになっていたというものです。

話の中で衝撃的なのは、そのループ回数です。もちろん話ごとにループ回数は変わる(何度もループしているという設定なので)のですが、二回目の話の時点で、すでに一万五千回を超えていたのです。もう二万回にも迫ろうかという、ものすごいループ回数です。

そんなにループを繰り返していたら、もしすべてを記憶していた場合、楽しい夏休みどころか、地獄でしかありません。ちょっと意味的には異なりますが、絶えることのない間の苦しみが続くという意味では、無間地獄そのものと言えましょう。

ところで、輪廻転生説というのがあります。簡単に言えば、繰り返し生まれ直すという説ですが、もしこの輪廻の繰り返しをネガティブ的な苦痛なものととらえると、このアニメ作品の「エンドレスエイト」みたいなことになるのではないかと感じました。

アニメの視聴者は、たった8回の繰り返しを見ていたに過ぎませんが、それでも強烈な苦しみでした。

同じことが続く、変化がないということは、一見平和で穏やかなようですが、これほど苦痛でもあるのです。ましてや作品内の者たちは、万を超す繰り返しにはまっているのですから、記憶がないから助かっているものの、全部ループ内容を覚えていたら、とんでもない地獄となります。(余談ですが、登場人物の中で、ループをすべて記憶している者がいて、その者があとで事件を起こすことになるのですが、そりゃ仕方ないよね、と理解できるものです(笑))

マルセイユタロットに内包される思想にグノーシスというものがありますが、原理的なグノーシス思想では、この現実世界は悪魔(デミウルゴス)が創った世界で、真の(神の)世界は別にあるとされ、私たちはそこに戻る必要性があると説きます。

「エンドレスエイト」ではありませんが、グノーシス的に言えば、私たちは、悪魔デミウルゴスの世界にいることで、ずっと地獄のような輪廻転生・ループ世界を彷徨っている(閉じ込められている)ことになるのかもしれません。

さて、ループと言うと、哲学的に思いつくのは、ニーチェの「永劫回帰」です。ニーチェの永劫回帰は一般的にわかりづらく、私もきちんと理解しているわけではありませんが、哲学でループ説を提示したのは面白いところだと思います。

しかしニーチェの永劫回帰は、輪廻転生とは真逆とも言えるものです。

私たちは同じことをただ繰り返しているだけで、それに意味はないというものだからです。まあいくら選択肢がたくさんあっても、何度も繰り返せば、まったく同じパターンで同じシチュエーション、同じ選択というものを、いつかはすることになり、その意味では、何をやっても変化はない(同じことは繰り返される)と言えるわけです。

そうすると、まるで生きていることに意味はないというようなことにも行き着き、それゆえニーチェにはニヒリズム・虚無主義という思想も言われるのですが、私は、ニーチェの超人思想からしても、実はそれは、虚無から有と言いますか、真の実存に迫る考えにもなるかと思っています。

マルセイユタロット的には、「運命の輪」と「悪魔」との二枚で象徴されると思うのですが、何度も同じパターンを繰り返していると、完全飽和みたいな状態に達し、そこからループの終わりのようなものが見えてくる可能性があると思えるわけです。しかし、なまじの気づきでは、「悪魔」の世界の遊びのまま(支配のまま)です。

結局、グノーシス思想的なことになりますが、私たちが「生きる」という形のループを取ることで、完全性を目指しているとも言え、それはただ一人のループだけに留まらず、人類全体・宇宙全体ですらループしており、その経験値が飽和を迎えると、「悪魔」からの縛りは解除されるという例えになります。

先述のアニメ、涼宮ハルヒの「エンドレスエイト」においても、登場人物たちは作中で、ループに気づくシーンが何度もありました。同時に、最終的にループを脱出したきっかけも、何万回と繰り返してきた過去(時間的に過去というのはおかしいかもですが)の自分たちによる後押し(デジャヴュ)があったからと語られます。

過去に消された、リセットされた一人一人のループ人生に「意味がある」とする(意味を与える)ことで、その力は蓄積され、ある種の目的力を持ち、解放に向かうのだということです。

虚無から有意義に、しかしそれは結果だけを大事にしたり、プロセスが重要と過程・経験を過剰に持ちあげたりすることではなく、一度、「人生には意味がない」というくらい虚無的な感覚を持つことで、だからこそ、長大な俯瞰した視点と、その時その時の他人やほかから植え付けられる価値観とか影響からも解放され、真の(神の)とも言える自分自身に戻り霊的な実存性を獲得できるのではないかと考えます。

ニーチェの超人思想とはまた別かもしれませんが、ちょっと似ているところもあるのではないかと感じます。

生きる意味はあるようでない、ないようである、禅問答みたいな話ですが、その両方に気づかせてくれるのが、実はマルセイユタロットの「悪魔」でもあるのです。


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