カードからの気づき
「運命の輪」から見る、それぞれの視点
マルセイユタロットに「運命の輪」というカードがあります。
このカードは、マルセイユタロット以前の古いタロットカードにも、同じようなモチーフのカードがあり、かなり昔から、西洋では共有されている「運命」というものの象徴表現ではないかと考えられます。
まさに、人が思う運命というものは、「運命の輪」の絵が示すように、回転している様、回っている何かに乗せられているような感じでイメージされたのでしょう。
そう思うと、運命というものは、私たちをグルグル回転させる何かなのかもしれません。
また面白いことに、輪は人為的な機械・マシーンとも言え、マルセイユタロットでは、その輪には、人ではなく動物のようなものが描かれています。
ということは、運命に振り回されているのは、人ではなく、動物ということになり、これを逆に解釈すれば、私たちは動物状態になっている時は、運命に振り回され、操られる存在であると言い換えることもできます。
そして、運命というものは、何か私たちは神のような、生命的で意図や意味があるような印象も受けますが、カードから見る限り、それはマシーンで機械的なものであり、さらには一定のリズム(回転)で動いているものと解釈することもできます。
「運命の輪」に描かれている動物は三匹ですが、よく見ると、輪の中にいる二匹と、輪の上に乗っている一匹という違いがあります。
特に、この輪の上に乗っている動物は、ほかの輪の中の二匹に比べても異質であり、あまり見たことのない(現実に存在しない)動物のように思えます。事実、私たちマルセイユタロットを学ぶ者は、この動物のことを「スフィンクス」と呼びます。
あのエジプトにあるスフィンクスと無関係ではありませんが、むしろ、かつてローマの植民地であった一部のフランス地方で出土したスフィンクス像に似ており、いずれにしても想像上の動物であることがわかります。
スフィンクスの特徴は、想像上の動物であることから、単なる単独の獣ではなく、何匹もの獣が複合しているところにあります。
マルセイユタロットには動物は何匹か描かれていますが、たくさん出ているカードと言えば、やはり「世界」のカードが挙げられるでしょう。
「世界」のカードは、真ん中の人物の周囲に、四匹の生き物が描かれています。
テトラモルフともいわれるこれらの動物たちは、伝統的な象徴性を持ち、キリスト教でも取り入れられていて、教会の入り口にイエスとともにレリーフされていることもあります。
詳しくは言いませんが、このテトラモルフと「運命の輪」のスフィンクスが関係していると見ることは可能です。
ともかく、私たちは、運命というものに対して、単独の獣のような状態になるのか、複合するスフィンクスのような視点を持つのか、その違いを強調しているように、「運命の輪」から感じられるのです。
さきほど、視点と言いましたが、「運命の輪」の動物たちは、そのまま、(輪=運命に対する)それぞれの視点や態度を示すものと考えることができます。
何か強烈な運命に対峙した時、私たちは上がるか下がるか、はたまた、上りも下がりもしない視点でもって、それを受け止めると言えます。
ラッキー・幸運に歓喜し、不運・不幸に落ち込み・・・というのが普通の態度です。
しかし、不運にも幸運にも動じず、「運命の輪」の回転を冷静に読み、その波・リズムに乗っていく姿勢とでも言いましょうか、それがスフィンクスの位置・視点と表現できます。
この場合、ちょうど大波・小波の上を船に乗って進んでいるかのように想像すると、その船の安全性がわっかていれば、波の揺れはかえってスリルのように楽しむことができるかもしれません。
また、下手に抵抗せず、まさに波乗りのように、波に身を任せ、上や下へと、波と一体化していると、自分は波そのものなので、沈没や転覆することはないでしょう。
その境地に達している者にとっては、ほかの二匹の味わっている運命の波、まさしく翻弄する波は、翻弄されるものではなく、予測可能で純粋に楽しむことのできるアトラクションに変わるわけです。
これだけでもすごいことなのですが、タロットはその先も、数の順を考えると示しており、実は最終目的地の半分くらいの状態だということもできます。
おそらく、通常の運勢学、占いの基本である運命学みたいなものは、このスフィンクス状態を目指すことを想定されている、あるいはそれが目的みたいなところに置かれている(本当はそうではなくても、学ぶ者や活用するものの意識レベルがそれになっている)のがほとんどでしょう。
運勢・運命(のシステム)を学び、それを活用したり、コントロールしたりして、現実の人生を豊かに充実したものにするという目的です。
それが、マルセイユタロット大アルカナ全体像から見れば、まだ半分の段階なのです。(真の目的ではない)
その理由は、マルセイユタロットを学んでいくと次第にわかってきますが、最初の段階では何が何だか意味がわからないと思います。
まあ、しかし、あまりに高いレベルを想定し過ぎると、それは絵空事ともなりかねませんから、レベルを下げて、「運命の輪」(の象徴性)を見ていくことも必要です。
大事なのは、やはり三つ(三匹)の動物の位置、視点と言えます。特に、先述したように、輪の上にいるスフィンクスと、輪の中にいる他の二匹の動物との関係、さらに輪自体が回転しているということも重要です。
輪は運命だけではなく、回転するものの象徴にもなりますから、世の中に回転しているものをイメージすれば、いろいろな意味合いで、とらえることができるでしょう。
回転は、漢字を入れ替えれば「転回」となり、同じ音で「展開」というのもありますので、日本語の妙味で、これらが関連してくると言えなくもないです。展開するには転回し、回転しくてはならないのです。(笑)
回っているものといえば、地球もそうであり、自転・公転により、あるものが生まれています。
あるものとはすなわち、時間です。
このことから(それ以外からの理由もあるのですが)、この輪は時間も象徴します。
すると、時間に対する私たちの態度もまた、三つあることになります。時間コントロール、時間の活用にもつながってくる話でしょう。
さらに言えば、このマルセイユタロットの「運命の輪」には、取っ手がついているのがわかります。
ですから、回されるだけではなく、回せる意味もあるのです。これは見落としがちですが、意外に大事なところです。
輪の回転の影響を受けていない者は、説明したように、この絵ではスフィンクスになるのですが、もう一人、描かれていない存在があるのです。
それが取っ手を回す者です。
自らが回すのですから、輪の影響を受けないどころか、輪の回転そのものを創造しているとさえ言えます。
当然、輪に対して受動的ではなく能動的になります。
それはいったい、何者で、誰なのでしょうか?
そういうことを考えると、マルセイユタロットを見ているだけで、とても面白くなるのがわかるでしょう。
あなたも、「運命の輪」の輪、動物の三匹、そして取っ手を回す者・・・これらについて想像を巡らせてみませんか?
それだけで、あなたの悩み(波・闇を短縮すると「なやみ」です(苦笑))や問題に対しての、解決の糸口が見つかるかもしれません。
ちなみに、(神話の運命の)糸とも「運命の輪」は関係しており、まさにこのカードには、何かの「糸口」が象徴されているのかもしれません。
四大元素、4組の順番
タロットの小アルカナでは4つの分野、エレメントに分かれています。
私たちマルセイユタロット組は、日本語に言葉を置き換えることが多いので、その4つの組を、剣・杯・杖・玉の組と呼んでいます。(それにも理由があります)
この4組に順位というものがあるのかどうかについては、いろいろと議論の分かれるところです。
元はと言えば、エレメントとも書いたようにこの世界を構成していると考えられている風・水・火・地(土)の要素から、物質的な、わかりやい形で4組で表したものです。
これに順位をつけるとなると、今風に言えば、分子とか原子とかのものに、優劣とか順位があるのかという話と似たものになり、そもそもがなじまない議題と言えます。
しかし、さきほど、剣・杯・杖・玉と書いたように、私たち、マルセイユタロットを扱う者では、その順番で述べることをノーマルとしています。
ただ、少し現代的にこの4つの要素を考えるとすれば、分子の運動のようなものをイメージするとわかりやすいでしょう。(まあ私は物理学は素人で文系人間なので、勝手な例えになりますが)
物理の世界では個体・液体・気体といわれるように、分子の運動や配列的なものによって状態が変わるのだと想像すると、玉は個体的で、そこから中を構成している粒子・分子的なものの運動が激しく流動的になればなるほど、液体から気体へと変わって行くので、すなわち、水、風へと変化するわけで、また風は空気とも言えますので、そこに水分が含まれていると、冷えて固まれば雨となって降ってきます。
それが集まると、川となり、湖となり、さらに冷えると冬に氷ができるように、固まって個体ともなります。言ってみれば、例えば「水」ひとつ取っても、個体・液体・気体と、ただ内部運動の変化、並びによって、同じものの見た目が変わるだけです。
こうして考えると、四大元素の4組とて、実はもとは同じもので、分離した状態として見ると、まさに4つの要素として現れ、分離していない状態、元の要素になればひとつであると言い換えることができます。ですから、優劣や順位も四大元素、4組ではないと考えられるのです。
ちなみに、錬金術や西洋密儀的なことでは、四大の元は第五元素と表現されています。何のことはない、四大とはすべて第五元素であり、第五元素のレベルや表現が、分離して変わっただけに過ぎないわけです。
この考え方は実は非常に重要で、宇宙の本質、表現を示していると言えます。
そうした四大元素と第五元素のシステムを持つマルセイユタロットなので、マルセイユタロットは宇宙のモデル、図式を象徴していると考えてもいいわけです。
ところで、本質的には四大・4組には順序や優劣がないと言いましたが、ある見方をすれば、それでも順位としてつけることもできるのです。
それが、さきほど述べた、剣・杯・杖・玉、四大で言えば風・水・火・地です。これは、マルセイユタロットならでのもので、分野とかタロットの種類が異なれば、同じ四大でも、火を最上位とする考えが実は主流と言えます。
ではなぜ、マルセイユタロットは風が最上位なのか、そして、もうひとつ疑問を挟むとすると、水と火の順位はどうなのか、火のほうが上ではないのかという意見も出てきます。
ただ、玉(地・土)が一番下であるというのは、どの流派も共通しているように思います。
それは、玉、土の次元が、すなわち、物質的な私たちの現実次元をもっとも象徴しているからです。
「玉」はコインであり、ズバリお金です。お金が物質的、実際的であることはよくわかると思ます。
しかし、そのお金を動かすのは人であり、感情や計算も働きます。ですから、玉(コイン)の背後には、上部概念として、風(思考)や水(感情)、火(モチベーションや情熱)もあり、それらが玉に影響している(させている)と言えます。
話がそれましたが、玉、地の要素が最後に来ることは比較的共通した見方だということで、それは、結局のところ、四大の順位のつけ方が、神や宇宙、もっとも高次なレベルから、もっとも人間的で、言い方は悪いですが、次元の低いレベルにエネルギーが降りてくる状態を示しているからだと考えられます。
これは古代密儀的な考えでは普通のことで、私たちは神のレベルから人間動物レベルに、言わば貶められており、神に戻る道を発見すれば神に回帰することができ、その過程はまるで闇から光に満たされていくようなもので、見えなかったものが見えてくる過程とも表現できます。※神とは、宇宙の根源や完全性、仏教的には仏と解釈してもよいです。
しかし、ここでいう「見えてくるもの」とは、今までは「見えていなかったもの」であり、見えていたことが反対に見えなくって行くという、逆説的な話になります。
すなわち、私たちが通常見ているモノ・世界は実は偽物のようなもの、仮の姿のようなもので、一見、しっかりとした「形」、物質的・三次元的に見えてはいますが、その実、神への道が進むと、それらは解体され、真の姿を見せ始め、次第に希薄なものへと変化していくのです。
物理的な表現をあえてすると、個体が液体となり、気体となり、さらにはプラズマ化して、見た目には消失したかのようになる状態です。
ですから、その意味においては、玉(土)はやはり最低次元を示し、神への道に入ると、さきほど、お金の裏の話、お金を動かす本質をほかの四大で見てきたように、水や火、風の要素が立ち現われ、次元が次第に上昇していくわけです。
従って、四大にも順位があると見ることが可能なのです。
マルセイユタロットの場合は、神への回帰の道が、四大的には、地から天への、地⇒火⇒水⇒風となっています。その根拠は大アルカナや宮廷カードにも示されています。
けれども、別の観点でも指摘したように、この四大はそれ自体が第五元素であり、分離しているようで分離しておらず、ただそのように4つに表現されているだけでもあるのです。
つまりは、私たちは、どのレベルにおいても神の要素を有しているという話になり、遍く一切、まさしく神は遍在しているのだと例えることができます。
低レベルな自分、ダメな自分、欲望やエゴでまみれた自分においても、人はいつでも神に転じる気質をその中に存在させているのです。
分子が運動して、他の状態に変化したように、私たちは、一見悪いことや低次のようなことに遭遇したとしても、数々の体験が自分の内なるものを運動させ、やがて本質の魂、神の素養を輝かせることになり、それがすなわち、自らが神に還る道を照らす「ともし火」となるのです。
それはまた、マルセイユタロットで言えば、「愚者」を導く、「隠者(智者、導師)」のランプでもあります。
大アルカナでの異質なカードたち
これはもう、割と今では知られている話ですが、タロットの大アルカナの数は、ある種の順番を示しており、そのまま数を進むごとに成長や拡大が示唆されるように設計されています。
ただし、タロットの種類によってはかなり絵柄も違いますし、中には作者の都合によって、枚数が変えられたり、数とのリンクを重視しないようにされていたりしますので、一概には言えません。
またそもそもの、そのタロットが作られた主たる目的というものがありますので、それが数の順番の意味と、どう関係しているかによっては、数のたどる、まさに最終目的が、普通に思う成長とか発展のゴールとは異なる場合もあります。
私はマルセイユタロット一本の(笑)人なので、図像と言っても、マルセイユタロットの絵柄しか思い浮かべませんが。
マルセイユタロットの場合は、極めてシンプルな絵柄ですので、これは素直に数の順番通りの成長を見るとよいかと思います。
さて、そんな数の順という観点で大アルカナを観察してみますと、ところどころに、わかりづらいカードがポイントとしてあるのに気付きます。
逆に言うと、さきほども述べたように、マルセイユタロットはシンプルな図像が多いので、複雑に見えるものは少ないのです。
数で言いますと、もちろん「1」の「手品師」から進むわけですが(実は逆から進む考え方とか、いろいろあるのですが、それはまた講座とか別の機会でお伝えします)、次の2から5までは、カードの名前にもなっている一人の人物が“ドーン”と目立つ形で描かれています。
しかし、6の「恋人」に来て、突然、雰囲気が変わり、そしてまた7の「戦車」では中心人物がメインのカードに戻る感じになります。
あと、8の「正義」からも人物が目立ちますが、10の「運命の輪」は、これまた雰囲気が変わり、そしてまた11の「力」から戻り・・・と続き、16の「神の家」、18の「月」の二枚がやはり、ほかのカードとニュアンスが異なる様子を感じさせます。
それらの数を見ると、6、10、16、18となって(異質性のカードは、見方によってはほかにもあるでしょうが、とりあえず、今回はこの4枚を取り上げます)、すべて偶数なのがわかります。(数字をばらして足すと奇数も出てきますが)
また、6と16という数では、10という数を入れて、「6」が共通しています。ちなみに、10も、上記のように「運命の輪」として、特別な雰囲気のカードに入っています。
18はこのグループから独立しているように見えますが、6の三倍数であり、約数の数としても6と無縁ではありません。
こうして見てきますと、大アルカナの間間に、ちっょと変わったカード、わかりづらいカードを入れているのは、順序的にも、数的にも何かの意図があると見たほうがよいと考えられるわけです。
その意図は何なのかということは皆さん自身で考えていただくとして、ここでは、これらのカードの特徴を改めて見てみましょう。
すると、一人の人物中心、目立つ人間が、これらのカードからはうかがえないという特質が見えてきます。
つまりは、そのままですが、人物が中心ではないことの象徴がメインとなっていることが考えられるわけです。
「恋人」には、天使のようなキューピッドのような存在が上空に描かれ、今まで中心だった人間たちは小さく、しかも三人、選択に迷うかのような形で描写されています。
「運命の輪」では、人間ではなく、動物が輪という機械・マシーンを思わせるものに乗ったり、ぶら下がったりしています。それも三匹います。回転盤のようなものは、それ自体が大海に浮かんでいるようでもあります。
「神の家」は、人物もいるにはいますが、逆さまに、つんのめっていたり(見る人によっては、落ちてきたようにも見える)、慌てふためいて通常ではない感じが伺えたり、さらに、絵柄の中心は、神の家であり、レンガ積みの塔にあります。
そして、「月」は、犬のような動物が二匹いて、吠え合っている様子に見え、後ろの背景には塔がふたつ見え、さらに手前側には、水たまりとも、池とも湾にも見えるものが、ザリガニ(甲殻類の水生動物)とともに描かれています。
これら4枚を並べてみるとわかりますが、次第に人間から動物、機械や建物、自然のもの・・・というふうに、人間・人物がそぎ落とされているようにも感じられます。
これがいかなる意味を持つのか、いろいろと想像を膨らませてみるのも面白いでしょう。
ひとつ考えられるのは、人間から別のモノという表現、これは人間というものが通常や常識的なこと、普通の(人の)世界観みたいなものを象徴していると見て、そことは違う何かが重要であることの示唆のように思えます。
私たちの人生においても、普通なることがまさに常であり、恒なのですが、時々、異常事態が起こります。それはイレギュラーなことであり、アクシデントのこともあれば、ピンチもありますし、反対に、すごくハッピーな出来事という場合もあるでしょう。
その経験にある時、私たちは、これまでの常識的世界から、いい意味でも、悪い意味でも超越することがあります。
まるで自分がそれまでとは違う、別の自分になるかのような感覚、あるいは、別の世界に招かれたり、飛翔したり(堕落したり)するような感覚、はたまた生まれ変わったり、新しい自分に変容したりする感覚・・・こうしたものが、異常事態だからこそ訪れるとも言えます。
西洋風に言うならば、そこに神や天使、悪魔やその眷属たちが現れ、私たちの意識に干渉するかのような状態を見せます。(古代ギリシアで言われていた「ダイモーン」という存在との邂逅や交流に近いかもしれません)
人生は、順風満帆とはいかないものです。
多くの人は、普通に悩み、苦しみ、葛藤を持って生きています。それがこの世のルール、試練のようなものかもしれません。
けれども、一方で、それによって私たちは、大きな気づきを得て、覚醒し、強靭になり、人間的成長や意識の拡大を経験します。
時には、人生の不可思議な現象に疑問を抱き、運命や宇宙法則の探求に向かう人もいるでしょう。
「人が中心」という場合、悪い意味では、人間、私たちがすべてをコントロールできるという驕りのようなものが出ます。
ところがイレギュラーな事態が起こった時、それらはまさにコントロールできない事態であり、すべては完璧だ、自分(人間)の力であらゆるものは支配することができるという誤った考えから発生したものと言えます。
世界には、人だけではなく、ほかの生き物たちもいますし、目に見えない存在やつながりもあります。それらをすべて入れて「完全」なのです。
さらには、自分たち、人間が作った機械・創造物もあります。それらをどう扱うかによるでしょう。
自分が完璧ではなく、自分の中(それは反転すると、取り巻く世界そのもの)あっての完全なのです。
大アルカナに、ところどころ、不思議なカードたちが混じっているのも、そうしたことを考えさせられます。
言ってみれば、あなたに訪れる不幸は、ある意味、不幸ではなく、完全という概念を思えば、不幸によって幸福があり、幸福によっても不幸があるわけです。
すべては一人でどうにかできるものでもないですし、一部には一人でもどうにかできるものもあります。
今の日本、いや世界は、このイレギュラーや異質も含める完全性の見方が欠けていて(いわやるジェンダーとかマイノリティの権利を訴えるというのとはニュアンスが違います)、自己責任・自業自得の偏った思いが過剰であり、また同時に、健全な自立的精神も不足しているように思います。
すでに述べたように、私たち一人だけではどうにもできない事態もあると同時に、一人でできることもある(力がある)わけです。
頼るべきところと頼られるべきところのバランス、調整が食い違っているというのが大きな問題です。
このようなことを、異質なるカードと全体を見ることで、思い浮かべた次第です。
ペア・カップル性 「斎王」と「法皇」
マルセイユタロットリーダー、マルセイユタロット講師を名乗っている私ですが、もとはと言えば、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット、日本では通称カモワンタロットと呼ばれるタロットから入った者です。
今でもリーディングでは、主体としてカモワンタロットを使っています。(ほかのマルセイユ版も使います)
そんなカモワンタロットの技法にはいくつか特徴があるのですが、 そのひとつにペアやカップル性をカード同士で見ていく(結び付けていく)というものがあります。
もっとも、カモワン流に限らず、カードをペアやカップルでくくるという概念は、タロットでは普通にあるかと思いますが、カモワン流の場合は、それがかなり強いと言いますか、ベースを占める考え方になっているのが、ほかとは違うところでしょうか。
そのうえで、私自身、さらにカップルやペアの概念を探求しいくうちに、実際の人間関係・役割においても、それは重要であることに気が付いてきました。
そもそもタロットは、ホドロフスキー氏が述べられているように、「宇宙のモデル」になっているところがあり、現実の考察と活用ができるものになっています。
ですから、カードを使えば実際フィールドでの気づきが生まれますし、現実の変化や改革もやりやすくなるのです。
タロットには霊的・精神的な側面と、実際的・現実的側面があります。あるというより、それらを象徴しているといったほうが正確でしょうか。
ですから、ペア・カップル性においても、霊的・精神的カップル、現実・物質的カップル・ペア性がカードからは推察することができます。
いわば、世の中のカップル・ペアとなる人間関係(だけとは限りませんが)には、種類・性質の違いがあるよ、ということであり、それを理解していると、人間関係もスムースになったり、自分に足りないところ、逆に有り余っているようなところの調整・活用も、うまく行ったりするわけです。
言い換えれば、人の組み合わせの意味合いと使い分けを見ましょうということです。
例えば、カードで言えば、「斎王」と「法皇」に当たるカップル性(カップル・ペアとなるカード)があります。
これは特に、スピリチュアルに関心を持つ女性の方に述べておきたいです。
「斎王」(アルカナナンバー2に当たる大アルカナ)は、言ってみれば巫女的な女性ですが、精神世界・スピリチュアルな傾向(関心)を女性が持つ場合、自身の中にこの「斎王」を見ます。
いや、「斎王」をきちんと蘇らせる必要があるとも言えます。(数秘的には同じ2の数と関係する、「力」や「審判」とも深く関係します)
しかしながら、その力の安定した発現には、一方で男性性の援助も求められるのです。
女性性である「斎王」の感応力は、ある条件や場所、あるいは血筋などによって目覚めることが可能ですが、それを安定したものにして、社会や現実に活かすためには、男性性の力と支えが必要となります。
一人の人間の中には、男性性も女性性も存在しますので、究極的には、一人の人間で両性を統合・具現化、発現することも可能に思いますが、生身の人間性、統合プロセスの途上にある者としては、異性同士の協力があったほうが早いと言われます。(ただ、巫女の力の性質上、男性性の支えということでは、人間の男性でなくてもよい場合もあります)
そのため、女性で、自分一人で何かの感応を得たとしても、それを安定化し、外に向かって、社会的に活かすには、男性の力や表現も借りるとよいということになってきます。(さきほどのも述べたように、一人でも可能ではありますが)
もっと言えば(逆に言えば)、女性から見て、心から信頼する(精神的な)男性がいれば、眠っていた斎王の力が復活する可能性があるということです。
そして、男性側からすれば、自分を信頼し、自らを預けることのできる(巫女的な)女性が存在することで、より社会的な力(影響力も含め)が増し、変革の力と実現性が強化・拡大します。
たとえ、他者からその男性が攻撃されたとしても、立ち直りと修復は、女性の巫女力(癒しの力でもあり、その元型は、マルセイユタロットで言えば「星」のカードから流れてきます)によって、早められます。
よく例えられるように、港と船の関係が、女性(港)と男性(船)に言えます。
ところが、このたとえは、逆転もあり、船が女性で、港が男性にもなります。
特に霊力・巫女力は船のように海に出るような感じで、海の情報を船に乗せる、入れるような感覚になるため、大海に揺られる小舟では不安定になるので、男性が港と灯台化することで、女性の船を安全に導くことが可能になります。
感応と言語は(感情と思考でもあります)対立する関係にありつつも、相補うものでもあり、女性(性)の感応は、適切な言語化によって、多くの人に理解してもらうことができますし、女性自身も自分の感じていることを客観視できます。
男性(性)は、いくら言語化できると言っても、元となる発想・アイデア・感応がなければ始まらず、分析はできても、神聖なる直観的示唆が得られていないと、宇宙(神)の本質からはずれ、ただ現実的(エゴ的人間同士の)正しさの世界、理屈の世界で競い合うはめになります。
この「斎王」「法皇」の男女ペアは、本質的には愛によって結合する二人と言えますが、恋愛感情のようなものとは違い、さらに現実性での良し悪しとか損得が入るペアではありません。
ですから実際の恋人関係とか一般の夫婦関係の男女とも異なります。しかし、実際にはその(恋人・夫婦)関係であっても、「斎王」「法皇」のペアとなり得ることもあります。
そこには非常に高度ともいえる関係性があり、肉体次元(肉体的性、打算や現実的立場・グループなどの次元)を特に超えていく間柄(現実世界にいながら)と言えます。簡単に言えば、精神性のカップルではあるのですが、そういう言葉では表せない絆があるペアです。
ですから、本来的には、相手はたった一人でよく、また唯一無二の人となるでしょう。
カード的には「恋人」から「審判」の高次の愛に目覚めるための関係性となるのですが、同時に、神聖なる意思を伝えていく協同的な者として、「太陽」的な二人にもなります。
しかし、二人の関係性があまりに閉鎖的に、独善的になってきますと、新興宗教の教祖と狂信的伝道者みたいな間柄になり、二人の間の理想が周囲に理解されず、忌み嫌われたり、現実離れした二人だけの世界に逃避してしまったりします。(犯罪協力者同士となり果てる、「悪魔」のカードとも関係)
女性にしても、男性にしても、ペア性・カップル性を思い、自分だけですべてをやろうとせず(特にこの現実の世界では)、異質な力を持った者同士が組み、目的を成し遂げていくのがスムースであったり、楽であったりするかと思います。
また、役割は違っても純粋に対等であることは、常に関係性の念頭におき、相手への依存や支配(独占含む)が働けば、それは均衡と統合の力を発揮するペアではないと認識しておくことも重要でしょう。関係性に癒着が見られると、依存か支配に取り込まれるおそれが強いので、注意が必要です。
実はこの世界、どの人もパートナーを求めており、得難き人が見つかれば、物事の成就はもとより、人生の安心感、ピースがはまる安定感、さらには万人を敵に回しても(多くの否定感に支配されても)、一人の大きな理解があれば自己を全力肯定できるすばらしさがあります。
恋の始まりも(「恋人」カード)、これらの意味があるのではないかと推測されます。
結局は、私の中のあなた、あたなの中の私を見つけることなのです。
タロットにおける視線、目の意味
マルセイユタロットには、カードに描かれている人物の視線が、比較的はっきりしています。
私自身、カモワンタロットから入った者なので、そのカモワン流では、カード人物の視線を重視した展開や、リーディングをすることで、自然、カードの視線については敏感になりました。
カードを観察すると、厳密には視線と言っても、微妙な違いがあるのに気付きますし、それらにはきちんと意味が込められていると感じます。(カモワン流で伝えられていること以外の意味もあると思っています)
それはさておき、私たち人間においても、視線方向というのは意味を持ちます。
普通は意識的に何かを見る時に視線は向けるものと考えますが、無意識的にも視線を向けていることもあります。
この無意識の視線の向け方が意外に重要なのではないかと思います。
心理療法やNLPの世界でも、視線の向け方には意味があるとされており、視線の動きによって意識を変えることは、普通に行われています。
おそらく眼球と脳には密接な関係があり、その動かし方、働きによっては、心や意識を変化させたり、逆に縛ったりすることもできるのではないかと予想されます。
そういえば、漫画・アニメのナルトに出てくる「うちは一族」の特殊な目は、脳に強烈なストレスがかかることで、特殊な目の力が開眼するという設定でした。
いわゆる「目力・めぢから」と呼ばれるものは、古くから知られており、陰謀論でおなじみのプロビデンスの目(これ自体は陰謀による支配の目ではありませんが)も、神の全能なる力を示す目ということで、目の特別な力を象徴しているように思いますし、エジプトのホルス神の目として、ウジャトとラーの目の力が伝えられています。
ということで、視線、目をどこに向けるのか、あるいはどこに向けられているのかということは、実際的にも、象徴的にも大事になることがあると、マルセイユタロットを見ると感じます。
普段、自分はどこを見ているのか、何にもっとも視線を向けているのか、これを調べてみると、自分の関心や結果を出そうしている分野にまでわかるかもしれません。
当たり前ですが、無関心なものには視線は注がれず、「視線がくぎ付け」という言葉があるように、強い注目があれば、視線はそこに向きます。
ということは、自分の関心の中心は視線の先と、注がれる時間の量にあると言えます。これは他人もそうでしょう。
しかしながら、最初に無意識の視線があると述べたように、自覚していない視線の向け方もあるので、それは無意識の関心ともいえ、自分ではない他人から確認してもらう必要があるかもしれません。
いずれにしても、たとえ無意識であっても、視線は関心や注目を示していると言えますから、自覚はなくても、あなたはそれに何らかの強い関心があるのだと言えます。
ただし、関心・注目と言っても、ポジティブなものだけとは限りません。相手に向ける敵意とか嫉妬とか執着など、ネガティブな理由もあります。
さらには、無意識のうちに縛られてしまっている関心(トラウマや何かの固定観念)もあり、やっかいなのは、他人から、意図的もしくは無自覚に植え付けられた印象があり、これは簡単に言えば「呪い」「呪縛」ということになります。
無意識の場合、見えない領域にそれはかけられますので、サイキック能力者とか呪術師などは、シンボルや使役する心霊的存在などを使い、いゆわる「呪(しゅ)」をかけます。
つまりは、対象者の視線を、無意識のうちに常にそれに向けさせるような話です。実際の意識としては、普通に対象や関心を見て生活をしているわけですが、呪縛があると、実は見ているようで見ていなく、無意識の視線(力のある視線)は別に向けられていると言ってもいい状態になります。
そう、タロット的に言えるのは、私たちの視線には、力のある視線と力のない視線があるということです。
通常は、その両方があいまって、私ちは物事を成し遂げていくのですが、残念ながら、視線によっては、力のあるものとないものとが分離し、実行力のない視線ばかりを使っていることがあります。
グノーシス的には、神の視線と自分の視線を一致させるのが、視線に力を復活させることになりますが、これらは特に、「力」から「審判」「世界に」至る過程で描かれていると言ってもよいです。
いわゆる第三の目の開眼も、視線に真の意味で力を宿らせることにつながると思われますし、そのことは、第三の目をいろいろなカードで象徴させているマルセイユタロットからも指摘できることです。
「太陽」や「月」になぜ視線(人物の顔)があるのかも、人の視線の力と関係していると想像されます。
とにかく、視線については、一般的には普段、ほとんど意識していないでしょうけれども、マルセイユタロットを扱っていると、視線について、文字通り注視することになり、意識的な視線と、無意識的な視線、それぞれの力について、思いを馳せるようになるでしょう。
そして、何事かを達成したい場合、よく言われるように、それに向けて視線が向くように、それがよく視線に入るように工夫する必要がありますが、反面、無意識に縛られている視線のほうも重要で、いくら視線に望ましいものを常に入れようとしても、無意識に注がれている視線の方向性によって、本当の視線は力を失っていますので、物事は現実化しにくいと言えます。
心理的に言いますと、自分の心が本当に向けている的(まと)が何なのかということで、囚われているもの、こだわっているもの、不安にさせたり、行動にブロックがかかったり、無意識のうちに取ってしまったりする行為など、その要因を探って解除させることであり、そのほうが、実は重要な場合もあるのです。
幸い、マルセイユタロットは、すでに述べたように、視線がはっきりしているため、使う技術によっては、意識と無意識の視線の方向を推測することが可能です。
無意識の視線とその的(まと)についても、完全ではないにしても、探索がかなりできることになります。
同じタロットではあっても、視線がはっきりしていないカード、視線はあっても、それに象徴システムとして機能させていない(つまり方向性などに、意味がきちんとつけられていない)ものは、視線の機能はあまり使えないことになります。
ここに、マルセイユタロットの良さのひとつがあげられるでしょう。
結局、言い方を換えれば、真実の視線(目)を取り戻すことが、マルセイユタロットに描かれている目的なのかもしれません。
覚醒と言ってしまえば簡単ですが、「目」は眠っている(眠らされている)ことと、起きていること(自ら起きること)、いわば、無明であることと、覚醒して悟ること(光明を得ていること)の違いとしてよく象徴されますので、目のシンボル図については、それこそ“注目”してみるとよいでしょう。