カードからの気づき
ドラゴンボールとマルセイユタロット
アニメファンの私にとって、漫画家の鳥山明氏死去の報に衝撃を受けた矢先、声優のTARAKOさんもお亡くなりになるという、二重のショッキングな出来事があり、茫然としておりました。
とにかく、お二方のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。
鳥山氏の作品の「ドラゴンボール」については、特に40から60代の男性諸氏にとっては、日本の(世界においてもですが)かなりの数の人が何らかの形で接していて、皆さんに与えた影響力はすさまじいものがあったと思います。
ですから、その喪失感たるや、生半可なものではないでしょう。私も例にもれず、いまだ信じられない気持ちがあります。何か自分の生きてきた歴史の一部が抜け落ちような気分にさせられるのです。
一方、TARAKOさんは、アニメ「ちびまる子ちゃん」の声でおなじみであり、もはやサザエさん同様の国民的作品になっていることで広くその声は知られていることでしょう。ちびまる子ちゃんは、まさに年代的に私の小学生時代そのものに当たる(作者のさくらももこ氏と一歳違いです)ので、作品的に共感するシーンがたくさんありました。
TARAKOさんを知ったのは、「戦闘メカ・ザブングル」という作品(この作品はギャグテイストですが、設定的には深いものがある作品で、あのガンダムの富野氏が手掛けています)で、チルという少女を演じられていたのが最初だったと思います。デビューはそれよりちょっと前らしいですが。その特徴的な声優名と、独特の声からとても印象的だったのを覚えています。
鳥山氏もTARAKOさんもまだ60代と、お亡くなりになるお年ではありませんので、非常に驚いております。
さて、鳥山氏の作品の代名詞とも言える「ドラゴンボール」ですが、この作品は西遊記をモチーフに、初期の頃は主人公たちの冒険、その後はバトルものに変わっていきました。まあ、その変化は掲載されていた少年ジャンプの宿命でもありますね。
私自身、少年・青年期の頃は「ドラゴンボール」も、バトルものの時代が好きで、読みながら興奮しておりましたが、今となっては、むしろ初期の冒険メインの頃のほうが懐かしくもあり、また純粋さがあって味わいがあるように感じます。
実は、ドラゴンボールは、もとが西遊記なこともあるのか、マルセイユタロット的に見ても、興味深いところがあります。特に錬金術的なものとリンクするところが結構あるように思います。(西遊記自体、中国的な錬金術や、仏教的な悟りのための象徴的な話だと言われています)
まず、何と言っても、ドラゴンボールのタイトルの由来になっている7つの玉(ボール)、そしてその玉を全部集めると願いをかなえるために現れるドラゴン、シェンロン(神龍)が登場するという話です。
ドラゴンは、よく秘術的な世界で象徴される生き物です。西洋的ドラゴンと東洋的龍では違いが結構ありますが、ただ、共通しているのは、何らかのエネルギーの象徴ということです。
それは大地のエネルギーであったり、錬金術によってやがて金へと昇華していく物質の変化の例えであったりします。また、人間がコントロールしなければならない荒ぶるもの、本能的な衝動とか欲望なども表すことがあります。
西洋でも聖人とか騎士が、ドラゴンと戦うという話はよくあり、ファンタジー世界では、強大な力を持つ種族としておなじみです。
そして、7つの玉は、7という数と玉という暗示があります。玉は東洋の龍ではセットになっているもの(この場合は「ぎょく」ですが)で、龍にとって非常に大切なもので、それは宝であり、なおかつ、魂とか本質に近いものと言えます。
ちなみに、私自身は辰年生まれで、スピリチュアルな鑑定を受けると、不思議と龍に縁があるとよく言われるのと、自分自身が龍だったような時代があるようで、その時に、大事な玉をなくしてしまい、いまだその影響が私の記憶にあるということを言われたことがあります。(もちろん、そのまま信じているわけではなく、自己における象徴的なものとしてとらえています)
龍の玉は仏教的にも如意宝珠とも言われ、まさに願いを何でもかなえることのできる宝であるのですが、やはり、そこは例えや象徴として考えてみますと、統合的魂(完全性・神性・仏性)の分離したものと考えられるかもしれません。(仏教的には8つに分かれるのかもしれませんが)
実はマルセイユタロットにおいても、大アルカナを3段7列に置く、カモワン流では有名な配置図があります。ここに7という数が浮上します。言ってみれば、人間の完成には7つの大きな段階があるということを示唆するでしょう。
チャクラも7つで表すことが普通ですし、曜日のもとになった(古典)占星術的な惑星の配置も7つです。古今東西で表現されてきたように、おそらく霊的に7つの段階、7つの区分のようなものがあることは普遍的な概念であった可能性が高いです。
グノーシス(神話)的には、7つというのは悪魔的な、私たちの悟り(完成)を阻む障害の数にもなってきますが、逆にいうと、これらを克服すると、完成に至るわけですから、ある意味、この7つを知ることは重要な要素になるわけです。
つまり、マルセイユタロット的に見れば、細かく言えば大アルカナで象徴される21の自らの分身があり、それを大きな範疇でとらえると、7つになるというわけです。
ドラゴンボールを7つ集めると、願いをかなえることができるという話は、マルセイユタロットの観点からは、私たちは地上では常に7つに分離されている魂があり、それを拾い集め、霊的に向上していかなくてはならないという教訓・啓示として考えることができます。
漫画・アニメの「ドラゴンボール」では、ドラゴンボールが結局、亡くなった人を生き返らせる道具の意味で使われることが多くなりました。
これも象徴的に考えますと、私たちは魂が分離している間は、言わば死んでいる状態であり、7つが統合されて初めて本当の生者として再生されるという話にも思えます。マルセイユタロットにある「審判」のカードで甦った状態です。
少年漫画誌のために描かれた作品ですから、鳥山氏や制作陣が秘伝的なものを描こうとしていたわけではないでしょうし、そういった知識を盛り込んだものでもないでしょう。
しかし、こうした二次元的な作品は、インスピレーションや想念の世界とつながることが多く、そうした世界から自然に受け取っているところも見受けられます。
ですから、知らず知らず、魂の象徴的な話と関連するケースがあるのです。
孫悟空という主人公は、もちろん西遊記から取れられた名前ですが、それだけに悟空という名前に、「空(くう)を悟る」という仏教的な意味合いが付与されています。
空を悟るために、私たちは旅に出て、いろいろな冒険をし、分離された魂を集め、本当の自分を再生する(出会う)ことになるのです。まさに、これはマルセイユタロットでいう、大アルカナの旅です。
鳥山氏は乗り物やメカがお好きだったようで、その驚愕する画力で、秀逸なデザイン性の乗り物を発明して描きました。奇しくも、マルセイユタロット的には、最初の段階の完成を意味する7の「戦車」が乗り物として登場します。
「ドラゴンボール」の孫悟空は、最初は筋斗雲という、これまた西遊記に出て来る雲の乗り物に乗っていましたが、空を飛ぶ技術(舞空術)をマスターしてからは、雲にも乗らなくなりました。
なお、筋斗雲は心が曇っていたり、邪なものを持っていたりすると乗れないという代物で、もとは悟空の師匠・亀仙人の乗り物でしたが、亀仙人がスケベ心(笑)を持っていたために乗れなくなり、悟空に譲った(もとは亀を助けたお礼で悟空に贈られたもの)という経緯があります。その悟空も、先述したように、筋斗雲は不必要となりました。
そして、マルセイユタロットの「戦車」は、実際的な乗り物のように見えて、本当は霊的な乗り物だと言われます。「ドラゴンボール」において、筋斗雲でさえ登場しなくなっていき、やがて自力で空を飛ぶことが普通になるというのは、こうした霊的な乗り物に乗り換えているという象徴にも思えますし、鳥(鷲)として翼を持ち、自由性を獲得し、やがて天上に回帰するという話にも通じます。(鳥山氏と、鳥山氏を世に送り出した当時の編集者・鳥嶋氏と、「鳥」が重なるところも象徴的です)
というようなわけで、意図していなくても、「ドラゴンボール」というのは、結構、マルセイユタロットに描かれる口伝的な内容にリンクしているところもあるという話をいたしました。
何より、私たちが失われがちな冒険心と可能性(チャレンジ精神)、ワクワク感を思い出させる作品が、「ドラゴンボール」でもありました。「ドラゴンボール」のアニメ初期のエンディング、「ロマンティックあげるよ」の歌詞さながらです。
鳥山氏はじめ、ドラゴンボールを生み出してくれた方々に感謝の気持ちを送りたいと存じます。
年初に当たり、マルセイユタロットから。
明けましておめでとうございます。
と言ってもいられない、元旦からの災害、事件の数々に日本は見舞われています。災害や事故に遭われました方々にお見舞いと、犠牲になられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
このような状況では、タロットをする者にとって、あるいはタロットに関心がある方は、やはり、どうしても、「今年はどうなのか?」とタロットを引き(展開し)たくなると思います。
そうでなくても、年始にはタロットを引くのが恒例という方もいらっしゃるでしょう。
私も状況とは関係なく、毎年、全体と個別(自分)について、マルセイユタロットを引いております。
ただ、昨年末の記事にも書きましたが、このように「年をテーマにタロットを引くこと」には、占い的な見方と、そうではない見方の二つがあると思えます。
前者は、主に「どうなるか(どんな年なるのか)」という見方であり、後者はそれ以外で、代表的なものには、「(今年は)どうすればよいか」とか、「(今年には)どんな課題や意味があるのか(を見て、その対処方法も考える)」というようなものです。
言い方を換えれば、受動か能動かの違いと言えましょう。
別にどちらかがよくて、どちらかが悪いと言いたいのでありません。「どうなる?」ということに関心があるのも人情ですし、かと言って、受け身だけの姿勢では、マルセイユタロットで言えば「運命の輪」に翻弄される、輪の中の二匹の動物のようになるばかりです。
物事の変革には、自分から打って出る、自分が変えていくという能動的態度も必要でしょう。それでも、意識高い系(笑)ではないですが、そうした積極的な姿勢ばかりが強調されるのも、人間、苦しいものです。
一人の力では、できないことも多いですし、(自己の)無価値観にとらわれる人も多くなっているからです。
特に今の日本人の多くは、自分に価値が認められないという方が増えていると思います。
昨年には、ラノベ・アニメに、「異世界転生もの」が増えている理由を書きましたが、そこからさらに付け加えると、自分に価値があるのか(いや、ない)、何かの役に立てるのか(いや、役立たずだ)という無価値感を多くの人が感じているからこそ、異世界で自分の価値が認められる環境に転生したいという物語が描かれるのだと感じます。
無価値感は、つまるところ、生きる価値につながります。“自分は生きていていい(存在な)のか”という究極のテーマです。
スピリチュアリストや心理系の方々は、自己尊重、自分に価値を自身で認められる大切さを言います。
ですが、現代社会の中でそれを獲得・回復するのは容易なことではないでしょう。たとえ一時的にそれができても、これだけ多くの人と比較される情報過多の時代にあっては、自分に自信や価値を持つことはなかなか困難だと思えます。
私たちの現実は、一人一人違った個性をもった人と共存してる世界です。ゆえに比較はつきものであり、資本主義自由経済のもとでは、価値を決める中心は競争になります。
当然ながら、どの分野においても勝ち負けが出て、少数の勝者とたくさんの敗者という構図になります。そうなりますと、たとえどこかで勝っていても、どこかでは負けるという仕組みにもなってきます。
言わば、誰もが敗者の感覚を持つことになります。それが自己の無価値感にも関係してきます。
結局、この個性の世界を、比較と競争だけに価値を決めていくシステムにすると、逆に没個性となり、自分に対しての無価値感が増大していくことになると考えられます。
ですから、それを逆手に取り、一人一人違うということは、比較ではなく、加不足・得意不得意など、アンバランス性を助け合うことによって補い合い、完全性を全員で作り出し、共有し合うという観点が大切になるのではと思います。
実は、今年について、全体向けに引いたマルセイユタロットカードは「正義」でした。「正義」は公平なバランスを象徴するカードでもあります。
マルセイユタロットの大アルカナは(目指すべき)時代性も表すと私は考えており、その思想では、「正義」から「節制」までの時代へのシフトというものを見ています。ですから「正義」に始まり、「節制」へ至るというのが、ある意味、近年においての目指すべき完成型だと言えるわけです。
「節制」は、救済の天使を象徴します。この天使は、ふたつの壺を混ぜ併せていることから考えても、助け合いの精神と行動が示唆されていると見ていいでしょう。
自分はなになにができないということで、無価値感に襲われても、誰かを助ける、誰かの役に少しでも立つという実感で、自己の価値は高まります。
誰かの欠点は誰かの長所でカバーでき、個々として不完全でも、全体として見れば、実は完全なる世界であるという自覚が、皆にできる次元です。
それは生きていて当然と思える世界であり、生きているから助けられ、助けることができるのだということが当たり前の感覚の社会でもあるでしょう。
「正義」が出たということは、表面的には厳しい状況、自律(自立)性、現実を直視することなどが表され、決断力、規則やルールが必要であることがうかがえるものですが、その奥底には、本当の価値を取り戻すための宇宙的(本来の霊的な普遍の)バランス復活のための、各々の気づきが示されているではないかと思えます。
これを「そうなっていく」という、受動的なメッセージとして受け止めるのもよいのですが、「そうしていく」という能動的で強い意志を持つほうが、実現力は高まるように思います。
今年は不穏なスタートではあるのですが、だからこそ、私たちが忘れていた本質の部分、隠されていたよい面がクローズアップされて、現実にも表現されていくものだと推測されます。
2024年は、まだ始まったばかりなのです。
「悪魔」の束縛と解放
今日はタイトルの通り、「悪魔」のカードから、束縛と解放について考えてみます。
なお、最初に、勘違いしないように強調しておきますが、束縛している「悪魔」からの解放という意味ではありません。それだと、「悪魔」は悪い意味だけになってしまいます。
「悪魔」というカードには、束縛と、その反対の解放の、両方の意味があることを述べたいわけです。
今回は悪魔とは何か?というテーマではありません(これはとても興味深いテーマではあるのですが)ので、悪魔自体への深堀りはしません。
その代わり、「悪魔」がもたらす、ふたつの矛盾する力にふれたいと思います。それが先述した「束縛」と「解放」なのです。
マルセイユタロットの「悪魔」は、二人の人物をつなぎとめています。そして、悪魔も、つながれた人たちも、皆笑っているところが注目されます。
ということは、この状態が三人にとって楽しいとかうれしいものであるように想像できます。ただし、「悪魔」は舌を出していますが、つながれている人たちはそうではなく、まるで悪魔を崇拝しているかのような、恍惚の表情を浮かべています。
このことから、悪魔とふたりの人物との間には、絶対的な力関係、言ってみれば「悪魔」の強大な力がうかがえるわけです。それでも、つながれた人は喜んでいます。
私たちが「悪魔」のカードを客観的に見れば、つながれた人物たちはかわいそうに見えますし、愚かにも思えます。それは悪魔に束縛されていると見ているからです。
けれども、「悪魔」は解放をももたらすと言えば、どうでしょうか。絵柄からは信じられないかもしれません。
一般的に悪魔は、神という善に対抗する悪い存在とかエネルギーと考えられています。
神と悪魔という絶対的な二元による対立、対比の構図では、そうなってしまいます。しかし、世の中、白黒はっきりとすべてが決まるわけではありません。いわゆるグレーゾーンもありますし、悪にも正義はあり、また正義が必ずしも善とは言えないでしょう。
一元や統合的な意味では、善も悪も、神も悪魔もない、そのように決まらない世界もあると考えられます。
マルセイユタロットの大アルカナは、もうかなり知られていることですが、数順に進化成長が行われるとか、統合過程を示しているとか言われています。
すると、「悪魔」は15番目に位置するもので、21「世界」のゴールの途中でもあるわけです。面白いことに、15「悪魔」の次のカードは16「神の家」となっていて、悪魔と神という名前がつくカードが、隣同士に並ぶ構造になっています。
つまりは、マルセイユタロットでは、二元対立は描かれていても、それが最終境地とか最高度のものではなく、あくまで過程に過ぎないことを示しているように思えます。
要は、マルセイユタロットの「悪魔」のカードは、一般的なネガティブオンリーの悪魔や、善なる神・至高神に反発したり、神を信仰する者を堕落させたりする存在ではない可能性があるということです。(そういうニュアンスがないとは言いませんが)
そこで、「悪魔」の解放(の意味)なのです。
マルセイユタロットでは、8の「正義」のカードより、「悪魔」のほうが、15という上の数になっています。ということは、「正義」よりも高度な概念が「悪魔」にはあるということです。
言わば、下手な正義思想よりも悪魔のほうがまさっていると言ってもよいのです。
下手な正義思想とは、自分の信じているものが絶対に正しいと思うような態度です。頑固な正義感と言ってもいいかもしれません。また(低次の)純粋さとでも言いましょうか。
正義は大切ですが、すべてのことが正しい、信じてよいというものでもないでしょう。
人の成長や意識の拡大には、実は疑いも必要だと考えられます。今の自分の段階では、正しいものと正しくないもの、あるいは善と悪とか、何かにつけて線引きしているものがあるはずです。
ただ、意識が拡大・向上したり、知識が本当の意味で増大したりすれば、以前の自分とは異なり、良いもの・悪いものとの線引きは消え、もっと包括的に、大きな目で見ることが可能になります。
ちょうど、小さい頃信じていたものが、大人になれば裏も表もわかって、単純なものでは見られなくなるのと似ています。
この意識の拡大に、「悪魔」は効果的に働くのです。まず、「悪魔」の象徴による「疑い」とか「抵抗」というものが(意識に)現れます。
これは本当に正しいのか? ほかの方法とか裏の理由があるのではないか? これに従うことはよいことなのか? あの人・あの組織に従ってきたけれども、それで本当によかったのか? このルール・規則は守るべきことなのか? 自分の本当の気持ちはどうなのか? 常識と非常識の境目は?…など、こうしたものが自分の中に湧き起こり、それを支援する力が「悪魔」のパワーと言えます。
体制を疑い、破壊をも辞さない勢力は、体制を守りたい側からは「悪魔」とは呼ばれることはよくあります。
自分一人の中でも、これまでと変わらない自分と、変わりたい自分とが葛藤することがあります。悪魔は、その両方への力があります。
しかし、その本質は、「自由」がテーマと言えます。なかなかわかりづらいかもしれませんが、(マルセイユタロットの)「悪魔」が表す本質は、「自由」への希求と個人的には考えています。
自分がいかに自由でいられるか、これによって「悪魔」は、破壊者側にも保守側にも回る気がします。
ただ、「悪魔」の自由にも限界があり、さらに自由になるには、それこそ「神の家」の段階が必要だとも言えます。
それでも、「悪魔」によってもたらされる自由は、それまで束縛されていたものからの解放でもあるでしょう。言い換えれば、下手な正義から混沌(疑いや葛藤)を経て、次の自由を獲得するための力です。
自分よりもっと自由で魅力的な人がいる、それは自分が自由になるためのモデルでもあります。そういう人に魅かれるのも、ある意味、当然と言えます。
しかし、そうしたモデル(つまり「悪魔」)によって解放された自分も、あまりにモデルを絶対視すると、そのうち、モデルによる束縛が生じます。
たとえモデルの人が縛ろうとはしていなくても、自分自身が自らを縛ってしまうのです。簡単に言えば、理想が崇拝になり、その幻想に囚われるのです。
本当の善的なものと、疑いなき心というのは似ているようで違います。自分が、誰かや何かを崇拝するようになることは、まったくの疑いを知らない子供のような幼さに堕してしまうことでもあります。
皮肉なことに、神に疑いを持つのが悪魔なので、悪魔はまさに矛盾する存在として、純粋な心に濁りを与えつつも、ひとつの教義や思想に染まり過ぎることから、救いももたらします。
こうして、「悪魔」は私たちに、解放、そしてまた束縛を与え、次なる解放のための(真の、あるいは自身の中にある)神の力を入れる(起動させる)準備を行うのです。
「法皇」と「隠者」その存在
マルセイユタロットの大アルカナを見ますと、似たようなカードがあることがわかります。
その中で、今日は、教えるとか伝えるということで、似たカードを取り上げたいと思います。
端的に言えば、それらのカードとして、「法皇」(一般的には法王とか教皇とか呼ばれていますが、キリスト教のその立場の者ではないと考えられるので、あえて違う呼び名をしています)、「隠者」があげられるでしょう。
ほかにも、告げる・話すというテーマを含めますと、「恋人」とか「審判」、それに「太陽」なんかも人物が複数いる画像ですので、何か告げている、語っていると見ていいかもしれません。(もっとも、すべてのカードが、何かしらを私たちに伝えているということでは、全部が当てはまるわけですが(笑))
実は、それら三枚、特に「恋人」と「審判」については、伝える・告げるの意味で、とても深い内容を示すことができるのですが、それはまた別の話として、本日は、「法皇」と「隠者」での話とします。
「法皇」と「隠者」、先述したように、“伝える・教える”のテーマでは共通していると言えます。
しかし、たとえ同じようなテーマで見たとしても、どのカードもまったく同じ図像(画像)というものはありません。
その違いこそが、細かな意味の違いにもなっています。
言わば、(同じと見る)テーマは「あり方」であり、カード同士の絵柄の違いは「やり方」でもあると言えるでしょう。
「法皇」と「隠者」でも、伝えるというあり方は同じでも、その伝え方(やり方)が異なるわけです。
タロットのよいところは、絵なので、絵の違いを視認することができるという点です。口で説明されるより、文字通り、一目瞭然なのです。
だから、タロット理解の基本は、その絵をよく観察することから始まります。
「法皇」と「隠者」の絵を見て、違いを確認してみますと、やはり場所と人数の差がわかります。
「法皇」では、中心は法皇自身ではありますが、法皇の話を聞きに来ているような人たちも描かれています。一方、「隠者」はただ一人です。
場所も、宗教施設(教会)のような公会堂的なところで描かれているのが「法皇」ですが、「隠者」は場所は特定できず、背景がないと言ってもいいくらいです。
ここから、「法皇」は実際の人間のいる場所、多くの一般的な人々に語っていたり、伝えていたりするのがわかりますし、反対に「隠者」は、その名の通り、隠れた者(場所)で、伝えようとしている対象者も定かではではないという雰囲気が見えます。
法皇は確実に人間でしょうが、もしかすると、隠者は通常の人間ではない存在ということも考えられます。隠れた者という名前からしても、隠者は私たちの目には見えない存在なのかもしれません。
タロットはいろいろな解釈方法があり、例えば、すべてのカードを現実性に置き換えることも可能ですし、逆に、現実を超えるイデアとかイメージ、形而上的世界や見えない領域(物質次元を超えた世界)を表すこともできます。
その意味で、隠者を実際に存在する人物と見れば、孤高でその分野の深い専門知識(あるいは技術)を持つ者と解釈できます。
しかし、違う見方をすれば、やはり、人間を超えた存在という解釈もできるわけです。
そうすると、法皇が人間レベル(実際の人間)での先生とか伝道師を表すのに対し、隠者は見えない世界や高次の、人間を超越した存在の教師ということを象徴している可能性があります。
タロットの学びにおいて、そういう、ふたつの教師・伝達者が必要であることを表しているようにも思います。
いや、そもそも、私の考えるタロットの学び(目的)自体が、人の霊的向上、覚醒(思い出しでもあります)にあるとすれば、すべてのことにおいて、ふたりと言いますか、ふたつの異なる次元からの先生がいると言えるのかもしれません。
そして長年、マルセイユタロットを教えている身の上としては、自分自身が「法皇」の立場になったとしても、「隠者」から教えられること、伝えられることを常に意識せよという教訓のようにも感じられます。
法皇は一般レベルからすれば、その道の先生かもしれませんが、しょせんは人でもあります。ですから、法皇と言えど、まだまだ高いレベルから見れば、未熟者で初心者みたいなものです。
実は、隠者世界から見れば、マルセイユタロットの「手品師」なのかもしれません。ローマ数字も、「法皇」は5であり、縦棒が重なる並びの4から「V」の字になって、新たな段階であるのがわかります。
またローマ数字的暗号で見れば、次の6「恋人」から5に1(Vに縦棒)が加わっているので、本当の意味での次の始まりは「恋人」からとも言えます。
ここがまたマルセイユタロットのすごいところですが、事実、「手品師」と「恋人」は似たような絵柄の表現(詳しくはあえて言いません)が見られ、意図的な配置だと考えられます。
話が少しそれましたが、現実に先生の先生(先生を教えた先生)も人間として存在しますが、「隠者」の場合は、人間を超えた教師を象徴することがあるというわけです。
「隠者」は「斎王」(通常は女教皇と呼ばれるカード)とも関係し、例えば、教える・伝えるという本日のテーマでは、斎王からいきなり隠者に飛ぶ(逆を言えば、隠者から斎王に降りる)教えられ方、伝えられ方もあると考えられます。
斎王は女性(性)ですから、女性(性)は、見えない領域の教師からダイレクトに教えられることが、比較的容易なのかもしれません。
一方、男性(性)である法皇は、隠者から受け取るには、何らかの装置とか儀式が必要な気もしますし、斎王を通して、隠者と接触、もしくは隠者レベルの発動が起こることも想像されます。
ただ、人間の世界で生き、その世界での伝達、教育をわかりやすくして行くならば(あるいは学ぶのならば)、法皇の存在や段階は重要なものであり、法皇によって、まさに実際の理解が進むことも、タロットからは言えるでしょう。
(人間の)先生やテキストがなくても、隠者的レベルからの示唆と学びは可能かもしれません。
しかしながら、人間世界での学び、また、自分が普通の人間の状態からもっと成長していくためには、「法皇」に象徴される人間の先生(実際の教師、人間としての先達)、教えられる場所(学校など)、一緒に学び生徒たち(クラスメートや同志)、一般化された教書・テキスト(これは本を持つ斎王の範囲かもしれませんが)がいるということも、それこそ“教えられている”気がします。
そのうえで、隠者的、人間を超えたレベルの何か(存在だけとは限りません)からの教示があるのでしょう。
法皇は人間世界の人物なので多種多様、かつ、たくさんの人がいるでしょうが、おそらく隠者は、極めて限られた存在しかいない(特化した存在)と想像できます。
法皇は一般化・普遍化・平行方向とも言えますが、隠者では、個別化・特別化・上下方向だと考えられますので、なおさらです。
そうしますと、「法皇」を無視しての「隠者」へのコンタクトは、混乱(非体系化・混沌・独善)の危険性がありますので、やはり、「隠者」の前に「法皇」というマルセイユタロットの並びは、正しい道(王道)なのかもしれません。
完全性・不完全性・中間性
時期的に同じようなことを思うのか、不完全性と完全性について書こうかと考えて、ふと昨年の12月の記事を見ますと、すでにそれについて書いていたものがありました。
ということで、昨年のものを再度紹介しつつ、補足したいと思います。
去年の記事の前文は省いたほうがよいので、あえて文章を掲載し直します。
●昨年の記事
『さて、スピリチュアルの話では、人の完全性を説くものがあります。
一説では、マルセイユタロットも、それを示していると言われます。
ただ常識的に考えて、人はとても完全な存在とは言えません。肉体は弱いですし、精神・メンタルも波があります。
人が完全であるのなら、なぜこのように悩みや争いも多く、皆が幸せな世界になっていないのか?ということです。
それに対してグノーシス思想では、この世界は神ではなく、悪魔が創ったからという神話さえあります。
この「神」というのを完全性に、「悪魔」を不完全性に置き換えると、結構、グノーシス神話の語るところが面白くなってきます。
結局、私たちは不完全性を持つからこそ、人間であり、現実という世界に存在することになるのだと思います。
だから、むしろ、完全性をいい意味であきらめるというのも、現実の世界を生きる上での、ひとつの過ごし方・考え方ではないかと考えます。
不完全性・悪魔性を受け入れる姿勢といいましょうか。
実は、タロットの大アルカナはそれを表しているところもあるのではないかとも思っています。
本当のレベルでは、私たちは神であり、完全なる性質を持つものの、その次元にいるのではなく、不完全性がデフォルトである世界に住んでいるわけです。
不完全さは、ペルソナ(仮面)状態と言え、その付け替えも許されているのが現実世界であり、大アルカナはそのペルソナの特徴と、うまい使い方をも表していると目されます。(小アルカナとの併用で、さらに具体化できます)
ただ重要なのは、完全性のある前提で、不完全性を活用するということです。
完全性を無視して不完全性を許容すると、その行いは、不完全世界を理想としたものなって、平たく言えば、その場限り、刹那的、損得勘定的な生き方になってしまうということです。
それは霊性なき活動、肉体衝動中心と言ってもいいです。
ですから、大アルカナ全体で完全性を意識しながら、現実世界では、全部あるから私は完璧だと超然(天使性だけの純粋性に浸るとか、生悟りのような姿勢でいる)とするのではなく、不完全性世界の中にいて、自分も自我的に不完全であることを認めて、大アルカナ一枚一枚を象徴としながら、時と場合による自分に変化させながら生きていくという態度が必要という話です。
完全であるからこそ不完全を知り(知ることができる)、不完全であるからこそ、完全を想うことができる(完全性に恋し、向上できる)わけです。
よく人と比べるから苦しくなると言われますが、上記観点を持てば、人と比べるのがこの世界では自然で、そこに実は壮大な完全性への想起が仕掛けられているというのが、本質的に面白いことなのだと気づくでしょう。
ということで、何かができなくてもいいですし、できるために努力することも、またすばらしいことになります。
そのままでいい(と思う)人はそのままでよく、改善したり、もっと言うと改悪したりしても自由なのが、不完全世界でもあるのです。』
▼ここから補足です。
マルセイユタロットの構成では、全体的に三つに分かれ、さらに詳細にすれば、四つや、もっとたくさんの数にも分かれると考えられます。
しかし、ここでは「3」と「4」を基本とします。
今回は人間の完全性と不完全性、言い換えれば、神性と人間性(悪魔性とか、神性以外のほかの部分を含む)の違いがテーマなので、それをもとにした分け方で考えます。
「3」の場合、神性、人間性、そしてその中間性として分けられ、「4」の場合は、「3」に、人間より低次の世界とか階層を加えたものとすることができます。
ですが「4」はまた、元型的なもの、設計的なもの、形が作られていく状態のもの、実際(現実)での活動が行われる世界や状況というような、世界観や次元で表すこともできます。
とにかく、人間には、単純に人間としての部分と活動があるわけではないということです。
マルセイユタロットの「恋人」カードは、これをよく表現しいると言えます。
恋人という名前がついていますが、人は人間同士や現実世界での恋をするだけではなく、天上への恋もあるのです。この恋というのが、思考であり、志向であり、嗜好とも言えます。
人間世界での恋も、天上世界への恋も、人間であるからこそ、不完全な部分を補うために、自らが起こしているのかもしれません。
不完全を補うというのは、つまりは完全になりたい、戻りたいという思い(反応・衝動)です。
完全性は神性でもあるので、要は、神になりたい、あるいは、もともと神(完全)であるのなら、それに還りたいというようなことにもなります。
しかし、完全であると、まったく動きがない状態とも言えますし、違いが見えない世界になります。ひとつだけの世界と言ってもよいでしょう。
そうすると、おかしな(とても人間的な)表現になりますが、神性側も人間側(人間次元)に恋をすることになるのかもしれません。
要するに、変化ある世界、違いある世界体験への望みです。
そうして、私たちはまた神から人間へと次元転換するのでしょう。(あくまで説や物語として聞いてください)
ところが、人間になったらなったで、不完全な思いに苛まされます。人やモノと比べ、悩みがつきません。
それは差異があってのものであり、それこそが豊かさを実感する原因なのですが、逆に不足や貧しさ、苦難をも感じさせるものにもなっています。
「恋人」カードの人間たちが迷っているように見えたり、人を取り合ったりしているように見えるのも、こうした状況をよく示しているように感じます。
一言で言えば、人間世界の苦しみは、すべて不完全性への思いから来ていると言え、それは、完全性を知っているから起こるものでもあります。
従って私たちは、悩み・苦しみが起きる時は、完全性とよくリンクしているのだと言い換えることができまます。
むしろ、何も問題がない、順調(過ぎる)というのは、不完全なのに完全であるという幻想に浸っているか、騙されているかの可能性もあります。
常に問題や悩みあってこそ、私たちは天上(神)とつながり、それを想起させたり、霊的な向上(霊性の回復)を進展させたりするのだと言うことです。
単に苦しみの中だけにもがいていては、人間性やそれ以下の次元で停滞し、固着することになり、それこそ、永遠に不完全性の世界に閉じ込められる精神にもなりかねません。
神に祈ることは、神に救ってほしいという思いもあるかもしれませんが、おそらく、マルセイユタロット的な指針からは、自分の天上(神性)由来を思い出し、そのリンクを強めることにあるように思います。
そうすることで、一時的な人間性・不完全性を楽しんだり、楽しめないにしても、崇高な目的を思い出して、生きがいをこの現実世界においても見つけることができたりするようになるかもしれません。
幸い、マルセイユタロットの教えでは、天上と地上、神と人間との間を取り持つ、天使(性)が存在する言われます。
この天使的(中間的)意識と活動が、非常に重要ではないかと思います。
いわゆる羽の生えた天使がいるというのではなく、あくまで象徴として考え、自分にも他人にも天使的な役割を持つ部分があり、それを認めるということになるでしょうか。
それは端的には、カードでは「節制」で表されるものです。
人間だけでは弱く、不完全なものなので、すぐに(悪魔的とも言える)誘惑や、過剰な自我(エゴ)の欲求に流されてしまうこともあります。それは高いレベルから見れば悪いことでもなく、もともとそうした経験も欲していたのかもしれません。
しかし、そこに中間の天使性を入れることで、私たちは必要以上に地上性や悪魔性に浸ることから救われる可能性があります。一人ではなく、天使とともに協力するからこその安心感や救済です。
いずれにしても、実は人間も天使も、悪魔も神も、すべて自分自身であるというのも、マルセイユタロットから見た話であり、壮大な自作自演の世界の劇をしていると言えば、その通りなのかもしれません。
それでも、人は最後のカーテンコールを目指し、決して無駄でない成長の物語を続けているのだと感じます。