カードからの気づき
悪い意味とされているカードたち
伝統的な流れを汲むタロットには、「悪魔」というカードがたいていあります。
そしてマルセイユタロットは、もっとも伝統的なタロットのひとつと考えられますので、当然、そのカードはあります。
というより、もしかすると、今の多くのタロットの源流でもあるかもしれませんので、このマルセイユタロットの「悪魔」から、色々なタロットの悪魔的なカードが描かれるようになったと言えるかもしれません。
もちろん、マルセイユタロット以前のタロットにも悪魔的なカードは存在しますので、「悪魔」カードの起源自体は相当古いと考えられます。
タロットはヨーロッパで作られたと思われますので(諸説ありますが)、キリスト教圏の思想や観念が反映していることは想定できます。
ということは、神と悪魔の対立、善悪の対比として、いわゆる世の中の悪いもの(コト)は悪魔のせいにするというのは一般的でもあったでしょうから、やはり「悪魔」のカードは、そういった諸悪を象徴するもので、カードとしては存在しなくてはならないもの(神や善があるのなら反対の概念も必要)であったと思えます。
このことからも、「悪魔」のカードの解釈が、悪いこと、悪いもの、悪い人、私たちを誘惑する悪い存在(コト)とされてしまうのも、仕方のないことかもしれません。
しかし、私たちが考えるマルセイユタロットの解釈では、カードにはよいも悪いもなく、中立として見ますので、「悪魔」のカードも決して悪いものばかりとは言えません。
ただ、普通に悪魔という言葉自体がもうネガティブな存在・意味として人類に染み付いているので、なかなかよい意味でとらえることは最初は難しいかもしれません。
ほかにも、他のタロットでは「死神」などと呼ばれる、マルセイユタロット大アルカナの「13」(名前のない「13番」)、さらには一般的には「塔」と呼ばれる、マルセイユタロット大アルカナ16番「神の家」も、悪い意味、凶的なカードにされているところがあります。
実はこれは、とても示唆的でもあると言えます。
私たちが普通(一般的)に「悪い」「凶」だと思っているカードたちが、もしそろい踏みとか複数の形で出たとしたのなら、そのこと自体が強調されている(ネガティブに注目されていること)とみなすことができます。
単純なタロット占いだと、これから悪いことが起きるとか、今何か不吉なことが起こっているみたいな解釈をするかもしれませんが、そのようなタロットの使い方をここで述べているわけではありません。
さきほど、示唆と述べたように、これらのカードで出ているからには、その意味をよく考えることが必要だと言っています。
さきほど、マルセイユタロットは、基本、中立解釈であると言いました。
となれば、これらのカードが出たということは、悪いことが起こるとするのではなく、これらのカードを通して、悪いと思うそのもの、言ってみれば悪いとか怖いとか不安とかに思う、自分自身を見直す(向き合う)ことがあると考えられるのです。
例えば、自分の中に行き過ぎた罪悪感や自虐感がないだろうかとか、自立から逃げ、何かに依存して生きる逃避的な態度を取り続けていないだろうかとか、何か世の中や環境、他人のせいにして、自分自身と向き合うことを避けていないだろうかとか、逃走ならぬ闘争をし続け、疲弊していないだろうかとか…様々な自分の中にあるネガティブを起こさせてしまう観念、ルール、縛りのようなものに気づいてもらうために、ネガティブと見えるカードが登場したのだと見てみるとよいかもしれません。
別に悪感情、悪い観念、ネガティブな思いを持つことがいけないと言っているのではありません。
それどころか、むしろ、よいこと、明るいこと、ポジティブばかりを思うのも不自然と言えます。(ポジティブシンキングのみは、やがて破綻を来します)
ただ、過剰に悪いほうに傾いてしまうのはなぜなのかと、一度立ち止まる必要はあるだろうということです。
特に注意したいのは、過剰なる罪悪感です。(自虐でもあります)
これは「悪魔」とか「13」で象徴されることとして、よく出て来ます。
本当に罪を犯したわけでもないのに、自分自身をまるで罪人のように扱い、だから「こんな私は幸せになってはいけない」「一生懸命働いてこそ報われる」「人のために役に立たないとけない」「甘えたり、休んだりすることは許されない」と自分を駆り立て、他人の評価や許しを与えてもらう人生を追い求めることになります。
これは自分自身を何か欠けているもの、生きていてはいけない存在、そのままで生きる価値のない人間と、欠乏感・不完全性の烙印を自分に押したことから始まると考えられます。
その原因は、親とか兄弟姉妹とか家族的なこともあれば、学校生活や仕事などの中で、そう思わせられたことがあったからかもしれません。
またそういうことがあったとしても、自分の表面的な意識では忘れてしまっている可能性もあり、つまりは無意識の自動装置みたいになっていることがあります。
怖いのは、このような意識が自分の奥底で固まり、観念として定着してしまうと、受け取ることさえ満足にできなくなることです。
「私のような人間が、そんなもの、受け取れません」となって、お金や人間関係はもとより、健康になることさえ受け取らなくなってしまうのです。
受け取る時でも、「自分にご褒美」とか「せっかくだから」と、何か言い訳や免罪符を作っておかないと、受け取れないのです。
しかもそれで実態として欠乏感がさらに増すので、それを補おうとして、外の何かに依存したり、過剰に評価や承認を求めて無理をしたり、仕事や対人関係で問題が起きたり、うつとか病気になって、自分に注目してくれる状態(しかしエネルギー自体は消耗しているので動けないことも確かです)を作ろうとしたりします。
このような罪悪感、罪人意識のようなものと構造は、私自身の中にも結構あるので、痛いほどわかるところがあります。しかし、なかなか自分自身では気づけないところもあるのです。
ということで、マルセイユタロットという象徴の力を借りてみることも一助です。
悪いカードにされているものでも、結局は、人間の観念が作り出したものですから、それが自分の中にあって、自分自身を苦しめていると考えると、言わばすべての問題は自作自演の構造の中にあり、それを中立化したタロットの象徴によって、解除させることに役立てる可能性もあると思われるのです。
宇宙は不完全で、完璧ではないと思うこと
宇宙や世界は完全だという話は、スピリチュアル的な関連ではよく見かけます。
ただ、完全と完璧は同じではないので、ここが誤解のもとにもなっているようです。
自然の流れに沿うとか、もっと大きな規模で、宇宙や世界と一体化するという表現もありますが、もし完全と完璧が同じだと思っていると、宇宙は完璧だから、それに沿えば(一体となる感覚を得れば)、私も完璧だとなりかねません。
そして、その完璧さというものを地上的レベルの話に落としてしまうと、肉体的・物質的な繁栄、安心が(完璧に)得られるとなり、精神的にも悩みがなくなると錯覚する人もいるかもしれません。
スピリチュアル的なものに怪しさがあるのは、たいてい、地上的・物質的・肉体的レベルに矮小化されて語られることが一因でしょう。(その次元が悪いと言っているのではありません。統合することと、区別・分離することがあやふやになっていることに問題があるわけです)
ここで言っている「完璧」とは、一寸の狂いもなく、固定的で、人間的に見てミスも間違いも許されていない状態と見ていいでしょう。
どうですか、上記の文を読むだけで息苦しさとか、監視されているような気分が感じられませんか?
それに対して、ここで言う「完全」とは、動きもあり(流動的)、人間から見て狂いとか間違いのようなこと、理不尽と思えるようなことはあっても、非常に高いレベル・次元、または超全体ともいえる視座から見ると、バランスが取れている(バランスを取ろうといつも働いている)ように感じられるものと言えましょう。
そして、この「完全さ」こそが、宇宙(世界)の本質ではないかと思います。
ということは、通常の(常識的な)人間知見では、宇宙とか世界は理不尽に見えたり、間違っていると感じたりする可能性があるということです。
しかも動きがあるので、その動いている最中と言いますか、過程では、バランスも取られていない(アンバランスな)ように思えることもありそうです。
ところで、マルセイユタロットで「正義」というカードがあります。
天秤と剣をもった人物が、まるで裁判官のように見えるカードです。
絵柄を詳細に見ていくと、剣も天秤も、実は少し傾いていることがわかります。(実際、剣のほうは微妙ですが、天秤のほうは明らかに傾いています)
天秤は「はかり」であり、何かの重さを量る時、片方に載せた重りと、量られるものの重さを見ます。つまりは、つり合いによってバランスを見るものです。
物事か完璧であることを表すとすれば、この「正義」の天秤も、きっちりと並行になり、傾きがない状態となるでしょう。
「正義」という名前からしても、いかにも正しさを表しているようにも思え、そこから完璧さという意味も、一見出そうではあります。
しかしながら、マルセイユタロットの「正義」の天秤は傾いています。
ということは、この正義は単に、私たち人間レベルで思う正義ではなく、もっと大きな意味のもので、もしかすると宇宙的な正義なのかもしれません。
正義は人間レベルでさえも、どちらにも傾きますし、また、大きな観点では、どちらでもないかもしれないのです。
そしてマルセイユタロットの大アルカナの最高度、到達地点を示すと言われる「世界」というカードがあります。まさに名前も「世界」であるように、文字通り、世界や宇宙を表すとも考えられます。
この「世界」の図像も完璧な左右対称ではありませんし、リースの中の人物は、踊っているようにも見え、動きがあります。
詳しくは言いませんが、外の四つの生き物と、リースの中の人物が持っている道具類とは関連し(質的に同じもの)、それが変化している様を表現しています。
「世界」のカードは、意味的にも完全さを象徴しますが、完璧で停止しているわけでありません。それは説明したように図像からでも見て取れます。
要するに、「正義」とか「世界」を見ても、宇宙や世界は流動的で、一視点(部分)では完璧でないように見えるということです。
言い方を換えれば、宇宙・世界は不完全(に見える)構造を、あえて取っているわけです。
宇宙は不完全である、これがマルセイユタロット的に見た、個人的な見解です。
これがわかれば、私たちが不完全であり、完璧ではない状態と人生を経験するのも至極当然となります。
要は、宇宙さえも成長のために歩みを止めず、不完全な状態を作り続けて、永遠に到達しない完璧さを目指しいてるとも例えられます。
ですが、ここが重要なのですが、途中・過程においてではあっても、それ自体、すでに完全であるということです。
これもまた、私たち自身、人間や地上的な生活にもあてはまると考えれば、色々と納得できる点が出てきます。
ですから、私たちは完璧とか理想を目指してもいいのですが、それが手に入ったとしても、すべてが終わって(地上的・人間的価値観での)幸せになるわけではなく、いついかなる時も始まりであり、終わりであり、また途中なのだという認識でいると、自然とより調和できるのではないかと考えます。
何かが完成した瞬間、それは崩壊に向かい、また意味を変えれば、それは新たな創造でもあるという仕組みです。
マルセイユタロットで言えば、一枚一枚だけで判断するのではなく、大アルカナだけでも、22枚全体をもって考察し、その視座でもって、個別的なカードや人の問題などを見ていく必要があるわけです。
「正義」のカードには、自分が正義(正しい)と思っていることも含まれます。言わば、自分ルールです。正しいものがあると、反対に必ず間違いがあります。
誰もが自分なりの正しい・間違いの両面の線引きを持っています。それは、その時点であなたにとって必要な「正義」であり、ルールなのですが(多くは自分を守るためのもの)、いつかは、宇宙が成長する性質のように、あなた自身も成長を望みます。
となると、今までの自分ルール、正義感(観)は古くなり、バージョンアップが必要となります。
古いもののほうが気持ちが一見安定し、楽なので、それにしがみつきやすいのですが、そうすると、抵抗となって、全体(自然)の流れとの乖離が生じます。
それが自分にふりかかる、問題・悩みのようなものとして現れます。
自分自身が自分を今までのルールで支配(守護)してきたのですが、それが守りどころか、自分を苦しめるもの、錯覚として変ってしまっているのに気づかないのです。
自分がバランスを取ろうと、回復させようと、あるいは何かを変えようと、必死になっても状態が悪いままの(よいほうにならないと強烈な思いが出る)時、自分の中の正義ルールを見直す必要があるかもしれません。
宇宙は不完全で完全だという禅問答のようなものにはなりますが、とにかく、完璧さを求めて、それに執着している自分に気づくことは重要です。
不完全でいい、もっと平たく言えば、ダメでもいい(ダメな状態も自然)、うまくいかなくてもいいとし、こうでないといけないというような思いを緩めることから始めるとよいでしょう。
ただ理想とか夢を持ってはいけないとか、あきらめる、何もしないくていい、と言っているのではありません。
自分自身と世の中の不完全さを認めることで(それを放置することとは別ですが)、実は完全さの意味(次元の上昇)に近づくと言いたいわけなのです。
自然や宇宙に委ね、流れに任せる前に。
マルセイユタロットに「星」というカードがあります。
絵柄を見てもわかるように、女性(女神と言われている)がふたつの壺から水のようなものを流しており、見ているとゆったりとした、穏やかな気分になります。
大いなるもの、自然や宇宙に委ねるというような感覚になる人もいるでしょうし、実際、そのような意味合いも「星」からは出ます。
そして、これに「運命の輪」が加わると、その回転するものの絵柄から、自然な流れというのが、より一層、協調されるように思います。
ところで、自然に委ねるとか、自然の流れに任せるという言葉はとてもよいように思いますが、なかなか私たちはそうした心境にはなりにくいものです。
それはやはり、外側の事態や環境に振り回されることが多いからと言えます。
それでも、スピリチュアルなことに関心のある方の多くは、自然の流れに任せるような態度をよしとしています。たとえ実行できなくても、意識することが重要だというわけですね。
宗教的表現になると、宇宙とか自然というものを「神」と例える場合もあり、曰く、神のご意思に従うとか、神の思し召しなどの言い方になることがあります。
しかしながら、そのような心境・態度は究極的には善いもの(人間の自我的な意味での良いというのとは違い、大きな観点からの話で、です)だと考えられるものの、先述したように、私たちは環境的にそのようになりにくいですし、また頭だけでわかった風になって心がけようとしても、かえって「自然に任せること」が、自分を悪化させてしまうことがあることにも注意が必要です。
自然に任せているのに、なぜ自分が悪化するのかと言えば、内的に自分が不調和、不自然なままであるからです。
内と外の親縁性とか、鏡写しとか、シンクロとか聞いたことがあると思いますが、おそらくこれは真実でしょう。つまり、内と外はつまるところ、同じものを表現や場の違いとして、人がただ認識しているだけだと想像できます。
平たく言えば、自分が思っていることが外に表現されることであり、逆の、外に起こっていることは、自分の中で起きている状態でもあるわけです。
とすれば、いくら、自然に任せる、自然の流れに委ねるとしても、自分の内側が任せられない、委ねられない状態であると、当然内外の一致現象により、外側にも不自然、不調和を見ることになります。
そして、自分の表面意識で、神や自然に任せようとしても、それは言わば自然(神)を自分がコントロールしようというものと同じになり、ますます内外の乖離とか葛藤を経験していくことになります。
時計で言えば、自分の持っている時計が狂っているのに気付かず、外の時計とのズレを見て、外の時計に合わそうと自分の行動を強制しているようなものになります。
自分の時計が狂って18時を示しているのに、外はすでに20時なので、慌てて20時に自分の行動を修正するみたいに、常に外側の時計に意識を向け、それに合うように行動しようとすることが、本人としては自然に委ねる、自然の流れに任せるみたいに思ってしまっているということです。
要するに、自分の内側が整っていない(調和していない)のに、いくら大きなものに委ねようとしても、何より自分自身が委ねさせてくれず、無理からやろうとすると、そのズレをますます認識させられる結果が、外側、事象として起こって来ることになるのです。
自分が緩んでいない状態では、委ねる、任せるどころではないのです。そんな自分を放置(自然に任せるとするような態度を)していると、ますますネジが締まって行くばかりなのです。
自然に任せるというのは、意識的にというか、表面意識が強引にするのではなく、気が付けば(潜在意識・無意識領域から)そういう心境になっていた、そういう態度になっていたというようなものと言えます。
大事なのは、自分が自分に任せられるかです。それには、内なる会話、強制ではなく共生、自身のあらゆる面を認め、許可していく作業が必要となってきます。
また自然に任せられない自分を責めるのでもなく、そんなコントロール癖のある自分自身も受け入れていくことです。
これは別に自分が悪いわけでもなく、自己の存在価値とは無縁のことです。ただ取る手段に偏りとか、不自然さがあるだけです。
言ってみれば、私たちは誰しもが、実は常に自然や宇宙に任せている状況であり、言い換えればその一部で、それそのものなのです。
従って、任せるとか委ねるとかの発想自体がおかしいわけです。
それは自分と自然(自分自身の内側)を分離してしまっている見方と言えます。
マルセイユタロットで言えば、数の逆をたどり、「太陽」→「月」→「星」と内的な状態にしていけば、自然との一致感が、より実感できるものと考えられます。
それは「太陽」のように自分の内的統合を目標・イデア図として、「月」のような影、感情、見えない部分を探り受容し、そうすると、「星」の女神のような素の状態で、自然に水を流していく(流れていく)状態になるわけです。
瞑想とかして、宇宙や自然と一体化みたいな方法もよいのですが、その前に自分自身と向き合うことが、もっと重要かもしれません。
緊張と緩和、そして中毒現象
私たちは、日頃、結構緊張を強いられています。
その緊張は身体的にはもちろん、精神的にも及んでいます。現代人はむしろ精神的な緊張が多く、そのために身体までも強張っていると考えたほうがよいかもしれません。
いずれにしろ、緊張により、心も体も固まってしまうわけで、そうすると、その両方に滞りが生じます。
滞りですから、循環もうまくいかず、澱んだり、濁ったり、固定されたりしていくわけです。
それが肉体的には凝りとか炎症とかになって痛み、不快感になり、精神的には気分の沈み、落ち込み、不安、頑固、ヒステリーなどを起こすと考えられます。
そもそも肉体に不快感あれば、気分は悪くなりますし、その逆で、気持ちが落ち込めば、体も動きません。
ただ、何も緊張が悪いわけではなく、言わば、緊張は人の自然な現象・防衛反応でもあります。
原始の時代に危険の多い世界で、緊張していないと、獣や敵に襲われ、防御や逃げることが遅くなり、命も危ないことになります。
しかし現代人は、そういった命の危険性はなくても、遺伝的に気持ちとともに反応してしまう仕組みが強く残っていて、それがひっきりなしに起こっていると言えましょう。
人やモノが多く、常にいろいろなことに気遣う複雑な社会に生きるようになってしまったことによるのかもしれません。
ちなみにマルセイユタロットの「隠者」というカードは、俗世間から離れて一人孤独に修行している人物の絵ですが、このような環境においてこそ、精神的・霊的に集中ができ、落ち着き、向上もかなうのでしょう。
もっとも「隠者」クラスになれば、いざとなれば、世間に降りてきて、それ相応の智慧と力を見せることはできるでしょうが。
ともかくも、普通の現代人は、過緊張になっている人か多いということです。
しかしながら、世の理として、緊張が永遠に続くわけではありません。必ず、逆の作用が働きます。それが緩和、緩める方向です。
放っておいても自然に緩んでいくわけですが、この緊張と緩和のペース・バランスが、非常に過激、急激になるケースがあります。
言ってみれば、伸びきったゴムが突然切れたり、縮もうと急速に戻ったりするようなことです。
ゆっくり伸びて、ゆっくり縮めばいいのですが、今の私たちは緊張は長くかかっても、緩めることがいきなりや強烈になり、線で表せば急降下するような形になりがちです。
緊張はゆっくりと言いましたが、その、ためていく量が尋常ではないものになっていることが問題かもしれません。
ものすごく緊張の時間(量)をためて、一気に解放する、弛緩させることが日常的に繰り返されている、それが現代人の特徴かと感じます。
マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の高速回転です。
いつも高速回転しているので、文字通り、目まぐるしい生活、慌しい日常となります。
カードの名前の通り、「運命」さえも急転直下することもあります。これは幸運と不運、山と谷の差が激しい状態とも言えます。
ここでは今、幸運と言いましたが、実は客観的に見た幸運というより、主観的にまず不運とか嫌なこと(緊張を強いられること)があって、それが積もり積もって、やがて解放(弛緩)のための事が突然起き、それがちょっとした、ほっとするようなものであっても、本人には幸運、とてもいいことのように感じ、まるでつかの間の天国にいる気分にさせるわけです。
本人目線で相対的ギャップが激しいため、ほんの少しの解放でも、とてつもない報酬、喜びと感じられる仕組みです。
この天国にさせる道具は、何も麻薬とかギャンブルとかが必要なわけではなく(これらをしている人は、より深刻ですが)、それこそお菓子、コーヒー・紅茶、お酒、パン、揚げ物などの飲食物、し好品、癒しためのグッズ、愚痴を言う、人への相談、いじめ、けんか、悲劇の主人公、マッサージ、整体、ヒーリング、ネットサーフィン、動画視聴、SNS投稿、病院診察、いきなりの運動、歌う、叫ぶ、好きなものへの消費行動など、人それぞれで、何でもいいのです。
そして問題なのは、カードでは、「運命の輪」の続き番号の「力」と「吊るし」の逆状態が起きることです。
それは、つかの間の天国を味わいたいために、緊張を自らに課すことを起こしていくという逆転現象です。
しかしながら自分の自覚する意識(顕在)ではわからず、潜在意識の力が作用して、潜在意識が望む現象を引き起こすとも言えます。「力」のカードのライオンを、悪い意味で無意識のうちに解放させるみたいなものです。
こうして、(自覚のない)中毒現象、「運命の輪」での逆回転とでも言えるようなことが始まります。
別のカードで表現すれば、「悪魔」にとらわれた人物、「13」と「節制」の二枚を逆位置で並べて、苦しいことから救われるかのように見せかける中毒現象(緊張と自虐、そしてその弛緩と中毒的処方)でもあります。
「運命の輪」が表すように、同じ回転パターンを繰り返していないか、無意識の奴隷になっていないか、自分で精査し、気づく必要があります。
これには、いい意味での「吊るし」の意識が重要で、反転して逆から考察することにより、気づきが生じます。
例えば、何々を食べるから体と心が悪くなるというのではなく、体を悪くさせたいから、悪いと思われるものを食べるみたいなことです。
で、なぜに好き好んで自分は体を悪くさせたいのか?という視点になって(そんなことは普通は考えられないと思いますが)はじめて、問題の本質が見えてくるわけです。
緊張と緩和に戻りますが、もっと楽な緊張と緩和のレベルを本来はすればよいのに、激しいパターンで、言わばギャンブル的興奮によって、自分自身を慰めている、刺激しているのです。
そうしないと、自分が生きている実感が得られないほど、心が麻痺しているわけです。
結局、自分自身の本当の部分をないがしろにしてきたことで、そうなっているとも言えます。
外に何かの解決を求めるより、やはり自分自身の内側に関心を向け、心を寄せることが重要なのです。
聞くだけでも変化はある。
マルセイユタロットにはペアとなるカードの概念があります。
その中に、大アルカナ2番の「斎王」(一般的には「女教皇」)と5番の「法皇」(一般的には「教皇」とか「法王」)のペアがあります。
このペアには様々な二人一組としての象徴と意味がありますが(これは講座でお伝えしています)、絵柄だけ見ても、「斎王」が話を聞いて、「法皇」が話をしているように見えます。
まさにインプットとアウトプットと言えます。もし仮に、何かを学ぶこととすれば、この両方は重要です。
まず、やはりインプット、話を聞くことから始まるのは、「斎王」が2番で、「法皇」よりも先に来ていることからわかります。
ただ先述したように、アウトプットあってのインプットであり、よく言われるように、ただ話を聞くだけでは、本当に理解したとは言い難いことが多いです。
しかしながら、今の風潮として、目に見える結果を重視するところがあり、極論すれば、過程はどうでもよく、結果さえ出ればよいという感じがあります。
ですから、実行することがやたらと強調され、行動を起こしていない者は結果も出せない(それはある意味、この三次元では理に適っていることとは考えられますが)、あえて関西弁で言うと、実際にやってなんぼ(笑)の世界と語られます。
とは言え、私自身はタロットをやって来て思うのですが、聴く(聞く)ことだけでも、実は大きな変化があるのではないかということです。
マルセイユタロットの概論、そして一枚一枚の意味などについて聞き、様々な関連事項の話を受け入れていくだけで、実際に私の世界観は激変したと言ってもよいです。
そのうち、それは確実に自分の中に浸透し、物事の見方から考え方まで一変し、それがいつの間にか、行動とか外側の現象にまで変化を及ぼしていたと考えられます。
別にタロットに限らず、自分にとって衝撃的内容の話は、話を聞くだけで、その人に大きな変化をもたらすものと思われます。
「斎王」と強く関連するカードの一枚に、16番「神の家」(一般的には「塔」)がありますが、その絵柄の指し示す通り、衝撃的な内容は、人をひっくり返すものと言えるでしょう。(「神の家」にはひっくり返った人が描かれています)
「神の家」についてもう少しふれると、ひっくり返った人がいると同時に、レンガ積みの建物は強固に組み上がり、マルセイユ版の解釈のひとつでは、この建物は壊れているのではなく、逆に完成(実際の家で例えると棟上げみたいなもので、本当の完成にはさらなる過程がありますが)するものと伝えれています。
ですから、何かの話を聞いて驚くのは今までの自分であり、実は新たな知見をもとに、もともと本当にある本質(自己の魂)の部分が露わになったり、強固になったりするという解釈もできるのです。
言い換えれば自我の衝撃的破壊により、トータルな部分の自己の認識が深まってくるということです。
もちろん、既知の内容であっても、新たな感覚を得ることがあります。これは逆に言うと、自分が変化した、あるいは、変化しつつあるからでしょう。
外は同じのように見えても、内が変われば外も変化することになるのです。
それでも衝撃的な内容であれば、無理矢理でも、強制力のように内にインパクトを与え、変化する可能性も高まります。
※ここで言う衝撃的内容というのは、単にびっくりする話、知らなかった話というのではなく、自分の深い心の部分や魂レベルに届く、感情も揺り動かす話を言っています。
だからと言って、アウトプットや実行をなしがしろにしていいという話ではありません。
しかし、今回言いたいのは、話を聞くだけでも効果(の可能性)はすでに始まっていることがあるということです。
むしろ、いきなり話も聞かずに、慌てて始めてしまうより、じっくりと話を聞き、時には何度も繰り返し聞くことで、理解が深められ、余計なものに手を出したり、支離滅裂に行動してしまったりすることが少なくなると言えます。
いつもより関心が出る話、あれっ?とちょっと気になるというような話は、あなたの何かのアンテナがキャッチしている可能性がありますので、よく話を聞いてみることです。
また、時間を置いて、以前聞いた話をもう一度聞くと、かなり印象が違うこともあるでしょう。
今の自分の変化に伴い、ぴったりの内容が偶然のように、必然的に提示される場合(シンクロニシティ)もあり、それを受け入れてみるのもよいかもしれません。
ここで注意することは、心地よいこと(話)ばかり聞くのではなく、少々耳の痛い話や、理解が今はできない話であっても、聞き入れておくと、あとで効果とか変化が出て来ることがあるということです。
自分とは違う意見も聞いてみることで、視野は広がります。
ただし、あまりにも苦痛なものとか、心が拒否してしまうもの、暴力的な内容、幼過ぎて聞くに絶えないものなど、悪い意味で違和感の激しいものは、聞かなくてよいというサインだと思います。
それと、あまりに同じ話とか人物に傾倒するのも危険です。それはもう洗脳状態と言えるからです。(最近の選挙や政治関連などでも、そういうことが顕著になってきています)
その意味でも、たとえ同じ分野であっても、違う人の話とか意見を聞いたほうがよいのです。
物事はすべて正しいと言えますが、すべてどこか間違いとも言える(高い次元ではすべてひとつの表現と言え、しかしひとつひとつのレベルでは、しょせん人間のフィルターによる考察なので完璧ではない)と思いますので、主観的な受容の精神と、客観的な選別を意識するとよいでしょう。
要するに、聞く態度にも女性性と男性性があり、その両方のバランスが重要だということです。
