カードからの気づき

マルセイユタロットの「戦車」と成功

今日は、マルセイユタロットの「戦車」について少し書いてみたいと思います。

「戦車」のカードは、凛々しい男性が馬車のようなもの乗る姿がメインで描かれています。

しかし「戦車」という名前なのに、武器のようなものは特に見当たりません。乗っている人物も、剣ではなく、王笏のようなものを持っています。

マルセイユタロットでは、カードの数単体の意味だけではなく、その数までに至るものが含まれていると考えます。すなわち、7の数の「戦車」は、1から6までの過程を経てきている(獲得している)と見るわけです。

そういうことからも、「戦車」においては、戦いはすでに終わった部分と、これから先の戦いを見据えている両方の領分があると考えられ、特に今後の戦いには、物理的な武器ではないものが必要(逆に言えば物理的な武器は不要)ということかもしれません。

ところで、「戦車」の意味で、よく言われるのが「勝利」とか「成功」です。戦いに勝つことが成功でもあると考えるわけですね。

世の中で一般的に言われる「成功」とは、有名になるとかはあるかもしれませんが、結局は経済的側面が強いでしょう。現状の資本主義社会が、経済的価値を至上に置いているところがあるので、当然と言えば当然です。

ですが、物質的に恵まれていても、昔からよく言われているように、心の幸せ(充実)がないと成功とはいえないのかもしれません。従って、かつては「成功」を「成幸」と書くようなことも、一部の人では流行っていたようにも思います。

何事もふたつの質があるのは、宇宙や世の中の分類原則みたいなもので、モノだけでは満たされず、一方、ココロだけで満たされようとしても、モノが不足していると、普通の人は不自由さに苛まされます。

しかし、モノの飢餓感はモノでは解決できないことも多く、ココロの平穏さ、自信、自分を認めることによって、飢餓感から逃れられるきっかけになることもあります。

「戦車」にも馬が二頭いるように、単に「勝利」とか「成功」を願ったところで、片方だけの世界の進行(発展・充実)では、戦車は傾き、倒れ、進ことができなくなります。(実際の「戦車」の絵柄は、車輪の方向性がおかしく、物理的な運動ではないことを示唆していますが)

ですから、通常言われる「成功」も、お金やモノを獲得する、満たすだけでは成功とは言えず、ココロの満足や平静さも必要ということになります。(お金があれば自然に満たされると思っていても、そうもいかないのが人間です)

サクセスsuccessという言葉には、下から登って行く、次に進むというような意味合いが語源的に考えられるようです。がむしゃらにただ進むだけが成功ではないことが、語源からもわかるわけです。

それはいきなり成功が出現するのではなく、言わば、積み重ねが重要ということで、階段を上って成功に至る(近づく)ということがイメージされます。

成功に登る(行き着く)ためには、一段一段の確信、自信のようなものが必要と言えるでしょう。しかしながら、自分に自信を持てない人は多いものです。

さきほど、モノだけではなくココロも大事という、当たり前の成功概念を述べましたが、“自信”というところでは、目に見える結果によるものもありますが、それ以上に、内面やココロの領域での自信と落ち着きが大きな要素となるでしょう。

そこで様々な心理メソッドなども必要となってくるのですが、一方で、「運」というものに注目すると、自分は不運だとか、ついていないと思っている人は、当然ながら自信も持てていません。

これは(運も)思い込みと言えば、究極的にはそうかもしれませんが、学業、人間関係、仕事、健康などの分野で大きな問題があったり、人より問題が続いたりすると思うと、やはり不運だと感じるわけです。

負のサイクルのようなもので、現象としての問題がネガティブな感情を強化し、そのネガティブさが運を変える転換を阻害している(誰しも運の波があるのに、その波の運動が緩慢になったり、固定に近いものになったりする)おそれがあるのです。

ということで、自分が思っているネガティブ的な自身の運勢を、良いものに換えたり、開運したりしていくことをやってみるのもひとつの手です。(運というものが実際にあるとかないとかというより、運がよくないという思いが変わる手段、開運したかもしれないと感じるようになる方法が重要ということです)

これはサクセス(成功)のための、土台づくりです。自分のココロがダメダメに支配されていては、戦いに出るどころではありません。まずは自信をつけるための手段を講じることです。

最初は自信の獲得というより、全ダメ状態からましな部分への発見の努力をし、ましからまあまあへ→結構行けるところもあるかも→いや、行ける→やれるよね→私って俺って、なかなか行ける人じゃね?(笑) というような感じに、少しずつ変化させていくわけです。

まさに、成功の語源をたどるようなものです。

もちろん、運だけではなく、自信が持てることがあればよいわけですから、得意な分野を伸ばすとか、新しく何か身に着けるとか、人に相談して、自分のよいところを探してもらうとか、ネガティブ・不安になってしまうココロの要素を分析して癒してもらうとか、ということからでもよいのです。

マルセイユタロットで言えば、車輪を持つカード同士で、「戦車」と「運命の輪」の連係作業みたいなところでしょうか。

自分における新たな自信サイクルを作り上げること、これが自分としての成功につながっていくと考えられます。

「運命の輪」でコンクリートを回して作り、それを道路にして、「戦車」として進んでいるようにも見えます。

人によっては、自分が進んだ後に道ができてしまう、開拓者としての役割の人もいますが、多くの人は、このようにコンクリートを作りつつ(練りつつ)、道を作って進んで行く方法が、成功への王道と言えましょう。


運命の輪」に見る時間感覚

マルセイユタロットの「運命の輪」のカードは、その象徴のひとつに“時間”があると考えられます。

時間と言っても、実はいろいろな種類があると考えられ、端的に、精神の時間と物理的な時間という区分けができますし、言い方を変えれば、一人一人の個別の時間と全体に共通の時間とも表現できます。

まあ、その区分けも、私たちが通常の意識でいるからのためのもので、私たちの今の存在形態が変化すれば、精神・物理の区分けもなくなるのかもしれません。

ところで「運命の輪」は回転体なので、言わば、時間は回転が生み出していると見ることもできます。実際、地球(惑星)の自転、公転が時間単位を表していることからもそれは言えます。

時間と空間も密接な関わりがありますが、あまりにも数学的な話になりますと、文系の私も難しく(苦笑)なりますので、そのあたりはふれません。

しかし、単位としての時間を見ることで、そこに独特の空間と言いますか、特徴あるリズムに影響される場所というのかが生まれるのではないかと考えます。

それは波のようなもので、奇しくも、「運命の輪」にも、絵柄の下方には(と見えるもの)が描かれているので、波的な状態は示唆されていると見て間違いないでしょう。

そして人の人生を思う時、様々なサイクルやリズム、タイミングがあるように思います。

色々な方面から、それが7年であったり、10年であったりと言われているのですが、これも皆に共通するような周期と、一人一人の特徴として強く現れる周期があるのではないかと思います。それが“運命”というものの一種の可能性もあります。(まさに「運命の輪」の名の通り)

あまり細かく分けるとややこしくなるので、あえて単純に、人には三つの期間・周期があるのではないかと想定してみます。

それは、「運命の輪」に三匹の動物のようなものが描かれていることからもヒントになります。

その三つですが、長期・中期・短期と言ってもいいですし、過去・現在・未来と認識する時間という分け方もできます。

過去・現在・未来は誰しもわかることで、メジャーな話ですから、ここでは、スパンの長さによる分け方とも言える長期・中期・短期をフォーカスします。

要は、人生を一生分として見る観点、若い頃、中年の頃、老人の頃みたいな数十年のスパンの観点一年二年の今現在を中心とした観点という分け方として見るとわかりやすいという話です。

これはマルセイユタロットの特別な方法になりますが、一枚の大アルカナのカードをほかのカードたちに含ませるという見方があります。

それを適用すると、「運命の輪」にもほかのカードたちが入って来るわけです。すると、時間をテーマにしたカードごとの違いが現れるようになります。

簡単に言えば、それぞれのカードが示す時間があるということです。

タロットの場合は数が多いので、一枚一枚の時間とすると難しくなりますが、それでもグループ分けすることで、何とか時間種の差を見ることができます。

それが、先述の長期・中期・短期的な見方と関係します。

西洋占星術の場合だと実はわかりやすいかもしれませんが、基本の7惑星それぞれの時間周期で見ることが可能です。

これは単に時間というものではなく、質の変わる空間とも言え、月時間、水星時間、金星時間、太陽時間、火星時間、木星時間、土星時間(以降、トランスサタニアン等もあり)と表現でき、それが地球の時間と空間とは異なるものになっていると感じられるものです。

そのそれぞれが、私たちのアストラルホディに影響し、私ちは地球にいながら、宇宙の時間と空間の質を味わっているとも言えましょう。

それと似たようなことが、マルセイユタロットでも見て取れるということです。ただ惑星時間のほうは、アストロロジー(占星術)のほうが、文字通り、星のロジックなのでわかりやすいとは思います。

タロットの場合は、さきほど述べた三つの時間観点を基に見ていくのがやりやすいでしょう。

その三つの観点をどう活かすのかについては、マルセイユタロット自体を学ばないとなかなか難しいです。

ただ、とてもシンプルに言えるのは、私たちは普段、ひとつの時間感覚だけに錯覚させられて、物理的な時間と空間の拘束に苛まされていると言っておきましょう。

肉体を持つ私たちには、それは仕方のないところはあるのですが、常識的な時間感覚のみに支配されていると、モノの見方も固定され、問題のとらえ方、解決方法への視野も狭められます。

もっと言うと、霊的(統合的)な解放になかなか進まないということも言えます。

「運命の輪」が、マルセイユタロットではなぜ大アルカナナンバー10(全体のほぼ半分)なのか、そしてあと11もの段階を完成(21の「世界」)まで必要なのか、こう説明するとわかってくる人もいるかもしれません。

「運命の輪」の中に留まるのか、その外に出るのか、あなたは試されているのです。


「愚者」と「13」の共通点から

マルセイユタロットのカードは、すべては異なっているのですが、よく見ると図像が似たようなカードもあれば、意味的に同じようなことを示唆しているカードもあります。

そういう意味では、ある事をテーマにグループ分けも可能ですし、逆に言えば、タロットカードをあるグループに分けることができたのなら、そこからグループのテーマ、共通する意味というものが浮上してくるでしょう。

さて、一見似ていないようで、その象徴性を学んでいく(つかんでいく)と似ていることがわかるというカード同士、組み合わせもタロットにはあります。

その一つ(の組)として、「愚者」と「13」を取り上げたいと思います。ただし、ここではマルセイユタロットの話をしておりますので、ほかのタロット種では今から話すことにはなりませんので、ご注意ください。

「愚者」と「13」、一見すると、あまり似ているところがないように思えます。いや、それどころか、絵柄や雰囲気はまるで違うように見えるかもしれません。

実際、図柄を見ていただければわかるように、「愚者」は旅姿の人物でどちらかといえばカラフルな服装をしており、深刻さも感じさせない、ラフな雰囲気があります。

一方、「13」は、全体的に黒い色が目立ち、骸骨姿の人物が大きな鎌をふるっているところからしても、何か恐怖や、ただならぬ雰囲気、真剣さを感じさせます。

そうすると、真逆とも言えるこの二枚の印象となります。

端的に言えば、楽観と悲観、気軽さと気重さ、おふざけと真剣さ、楽しさと恐怖みたいな対比・対立にも思えてきますし、それはその通りのところもあるのです。

ただ、あえて二枚の共通点を見るとしますと、どちらも人物が右に向かっています。

マルセイユタロットは方向性にも意味があり、右方向は進展や発展、変革、未来を示すと考えられています。(※図像的には、口伝の中で、数々の厳密な意味での共通点があるのですが、それは口伝ですのでここでは言及しません)

ということは、特に「13」はそう見えないかもしれませんが、右に向かっているのなら、何らかの進歩を示しているということになり、どちらも止まったり、戻ったりするわけではなく、成長のために前進していると考えられます。言い換えれば、(「13」でさえ)前向きなのです。

また、「愚者」は明らかに移動しているように見えますが、「13」も、さきほど言ったように、向かって右方向に進んでいると考えますと、両者には進む、移行するという共通項があることに気づきます。

ただ、その移行の質が違うのです。

「愚者」は物理的に移動しているように見えますし、またここが盲点でもあるのですが、左側(の何らかのこと)から逃げていると見ることも可能なのです。

そして「13」は鎌をふるっています。西洋的に言えば、この鎌は麦を刈る鎌で、人を傷つける武器ではありません。

ただ刈ることが強調されて、骨姿とあいまって怖い意味合いにされているところがあります。けれども作物の収獲のための鎌ですから、むしろ、喜ばしいところもあるのです。

ということは、「13」の移行とは、物理的にただ進んだり、逃げたりするというより、精神性も含めて、何か自分が撒いた種が実って、それを刈り取るような象徴性があり、過程を経て、何らかの実り(結果)を得てから次に進という意味が見出されるのです。

よって「13」の移行・進展とは、自らの行為(の結果)を受け止めて自分を改革し、次に向かうことになるのです。一言で言えば、逃げられない進行であり、言わば、先に進むためには、終わらせたり、処理を施したりすることが求められるのです。

この二枚の共通性(のひとつ)は先述しように、進み、移行するということなのですが、それぞれで性質が違うということが重要です。

ですから、タロットリーディングで「愚者」が出れば逃げることもOKですし、楽しく移動すること、旅をしたり、気分を変えるために引っ越ししたり、簡単に転職してみたりすることも許容される感じになります。

本来なら「愚者」は冒険の雰囲気のあるカードですが、左側から逃げていると解釈すれば、「君子危うきに近寄らず」のように、あえて(左のものから)避けることも意味されます。

しかし「13」の場合は、「愚者」とは違い、きちんと状況(他人)や自己と向き合うことが必要でいい加減なまま次に向かうと、逆に厳しい状態になるおそれがあります。

ですが、「13」も「愚者」と共通して、進むこと、移行すること、成長への視点があるわけですから、「愚者」よりも大きな改善、変革、チェンジの可能性がある(というより、それを志すこと)と言えます。

「13」は厳しいかもしれませんが、それも撒いた種がそのような形で実ってきたわけですから、放置せず刈り取ること、すなわち真剣に対処し、うやむやにせず、きっぱりと終結を選択し、新しい道に進むこと、新しい自分になること、よりよい環境にしていくことの決意により、「13」のエネルギーが動き、あなたを新世界へと導くでしょう。

また、タロットリーディングで「愚者」と「13」が一緒に出るような場合、一刻も早い脱出を表している場合があります。それは逃げて自分を守るというようなケースも考えられます。

「13」は逃げられないと言いましたが、それは逃避することが不可能と言っているのではなく、むしろ逃げも含めた自己改革を示唆していることがあります。

「13」の場合、安易にただ逃げることがダメなだけで、逃げるためには何を行うべきか、問題を解決して脱出するにはどうすべきかということを検討し、実行する必要があるのです。

ましてや、単に逃げもOKな(笑)「愚者」も同時に出たとなると、退避、脱出、変転のススメが強く出ていると見られます。

日本人では結構我慢してしまう人も多くて、そのために逃げ時を誤り、心身の故障や経済的損失、依存性の膠着、洗脳完成に陥ってしまうようなことがあります。

視点を変えれば、ほかの方法や生き方もたくさんあるのです。最悪の事態にならないように、そして本当の成長のために次に向かうことでも、逃げることも選択のひとつと考えておきましょう。

そして、「愚者」と「13」では、その逃げにも性質が違うように、「進む」に対しても、がむしゃらにただ前進するのではなく、状況により分けて対応していくことも考えましょう。


迷いや悩み 天上的・地上的見方

人間生きていれば、迷いや悩みの連続と言えます。

その程度は人それぞれであり、ほとんど悩みなしの人もいれば、毎日、いや毎時間、何かしら悩みを思って過ごしてしまう人もいるでしょう。

私はもともと不安を感じる傾向が強いので、なかなか安心という境地にはなれず、いつも悩みを抱えている種の人間です。

ただ、そうした私だからこそ、特にマルセイユタロットを通して、自分のこのような傾向に対し、どうすればよいのかも考え、実践してきました。

今日は、そういった話を少々したいと思います。

まず、悩みを解決する前に、自分がどういう種類の人間であるかを自覚しておくとよいでしょう。

この世の中は、誰一人として同じ人間のいない世界ですから、いわゆる個性というものがあり、他人の意見とか解決法は参考にはなっても、自分にぴったり適合するとは限らないからです。

もちろん、万人に効く薬とか方法もあるわけですから、「人」として共通の部分もあるにはあります。しかし、やはり悩みとその解消(対応)には、基本的にオーダーメイドの世界だと思ったほうがよいでしょう。

例えば、感じ方が平均的な人より敏感な場合もありますし、もともと幸せ(幸福・安心)を感じやすい人と、そうではない人がいると言われています。(もはや遺伝子レベルの話ですが)

Aさんにとってはこの程度で幸せとか安心だと思うのに対し、Bさんではその半分以下なこともあるのです。

従って、自分が一般的(これも数値では出にくいので、何が一般とか平均かと言われると難しいのですが)なものと比べて、高いのか低いのか、また、何をもって安心とか幸せと感じるのかということを、少しは知っておいたほうがよいのです。

次に、本日のテーマでもあるのですが、特に言及したいのが、悩みについて、地上的観点から見るか、天上的観点から見るかを考えるということです。

このふたつは、言い換えると現実的か精神的か、短期的か長期的かでもあり、要するに、人生全体(長期・天上)としての見方をするか、その場その場でのシーン(短期・地上)として見るかということでもあります。

ちなみにマルセイユタロットでは、天上的が大アルカナで、地上的が小アルカナといったところであり、さらに大アルカナの中でも、より天上的か地上的かも問えますし、小アルカナでは地上的な中でも、どういった性質が優先されたり、重視されたりするべきかということも、タロットリーディング(またはタロットの活用)によってわかります。

ここではマルセイユタロットを持たない人でも、このふたつの観点(地上的・天上的)を持ったほうが、悩みに適切に対処しやすい面があることを述べておきます。

人間の現実的・地上的悩みと言えば、マルセイユタロットの小アルカナ4組に象徴されるのですが、それは知識・情報・価値に関すること、心や感情、関係性・承認に関すること、行動や生きがい、情熱に関すること、お金・経済・健康に関することなどとして、主にあげられます。

このすべては基本、地上的であり、究極的なことを言えば、亡くなってしまえば消えるものです。(笑)

そう、この亡くなってしまえば消えるものという見方が天上的と言えます。天上的な観点は、言わば、人生の終わり(亡くなった時に振り返るような)視点です。

一方の地上的な観点は、まさに現実で悩んでいることになり、生きていれば必ず誰しもに起こる悩み事と言えましょう。

これは人生の経過中の見方になりますし、生まれた時から今まで、またこれからも含む観点で、そうすると、一見全体的なようでいて、実は「今」この時(の選択や対応)が重要なポイントとなるものです。そういう意味からも、やはり、経過中の観点というのが妥当かもしれません。

先述したように、地上的な悩みのほぼすべては、死んでしまうと消えると思えるものです。

それは、生きている間に比べられる「差」から生じていることがほとんどだからです。

他人と比べるだけではなく、自分自身の中でも比べるわけですが、それは肉体という存在があってのことで、これがなくなれば、問題は心のものくらいになりますが、それも現実的な問題は不足感(満たされていないこと、快ちよくない状態)から出ているものであり、不足を感じることができなくなれば消失するものでもあります。

死ぬとおそらく肉体がないことで、不足感(ほとんどは肉体を通して感じているものであるから)とか不快感もなくなると思われますが、もし肉体がないのに、肉体があるように思ってしまうと、それは結構つらいことになるのかもしれません。

食事で例えれば、お腹が減ることはないのに飢餓感はあり、でも食べることができないという、奇妙な状態です。

たぶんこれが(生きていた時の)執着であり、執着が強いと、お金であれ、愛情であれ、モノであれ、肉体あっての自分として、相手や対象を認識し、それを信じ込んでいると、死後、大変なことになると危惧されます。

よって、やはり終活に向けては、肉体・モノから来る執着をどんどん薄くしていくようにするのがよいのではと考えられます。(これも無理にすると、逆効果ではありますが)

それはさておき、実際の生きている間のことが問題ですよね。

しかし、ここでも、地上的観点ではなく、天上的観点で悩みや問題を思うと、不思議と、いい意味のあきらめが出たり、これもよい意味で、どうでもよくなってきたりする時があります。

長い目で見ると、あるいは、人生の最後から見ると、今、悩んでいることはどうなんだろう?という見方です。

その人でなければ、そのモノでなければ、その〇〇でなければ、本当にダメなのかどうか? ほかでもよいのでないか? あるいは、それがなくても生きること自体、自分という本質には問題がないのではないか?

と、このように思っていくと、悩みはあっても、何とかなる、悩みを受け入れて生きて行こうという感じになる場合があります。

大事なのは、肉体・物質としてはかられる「量」ではなく、経験した「質」だと、天上的観点からは言えます。

ただし、つらい、哀しい、悔しいなど、否定的な性質の類がたくさんあり過ぎると、それを何とかしたいという思いの後悔が残り、結局執着にもつながりますから、こうならないような、地上的対応、観点は必要かと思います。

また天上的観点が過剰になっているケースでの問題は、無気力感、厭世観、独善的気質を生み出してしまうことです。本当の天上的観点とは、何を最後(最期)に持って行くことができるか(量・肉体・物質ではなくて)なのです。

すると、何もなかった、生まれないほうがよかったみたいなことでは、(人生の)終わりから見ても本当に空しいものになってしまいます。

もしかすると、死後の裁判では、「何もなかったのなら、今度は何かある人生を経験せよ」と裁きが下るかもしれません。あくまで、輪廻転生とかカルマ的なものがあると仮定した場合の話ですが。

天上的観点ばかりを言っていますが、地上的観点も重要です。むしろ、スピリチュアル傾向のある人は、この地上的観点をもっと入れたほうが、悩みに対しても有効と言えます。

地上的観点の特徴は、時間・空間限定ということです。また、個性(一人一人違い)があることも言えます。

要は、効率性と個別性があるということです。効率性があるので、正解と間違いははっきりしますし、非効率なものは間違いと言えるケースも出るわけです。

個別性では、正解と間違いの区別は難しく、ひとり一人の正解は違うとも言えます。

それを考慮したうえで、特に時間限定を意識して選択すると、地上的観点では効果が高くなります。それに空間(場所)も、それに応じた効果のあるなし、効率・非効率があるので、そこも無視できないところではあります。

つまるところ、地上的観点から、悩みに対しては、短期的な効果での最善を目指して行動し、同時に、天上的観点として、人生の終わりから眺めることで、悩みへの受容精神(受け入れる気持ち)を併せ持つとよいと思います。

地上的に見てダメな時や、どうしようもないと思えるような場合においては、経験の質を取る(地上的な吉、満足、快楽、安心、幸せが得られるかどうかという観点ではなく、それから何が質として得られるか、どういう意味があるのかを考える)という見方をすると、(新たな)生きる道も現れて来るでしょう。

一言で言えば、「何とかする(しよう)」という気持ちと、「何とかなる」という思いとの両方を、悩みに応じて持つという感じでしょうか。

マルセイユタロットで例えるなら、「世界」のカードと「手品師」のカードの同時象徴性のようなことです。

どの道、あなたはあちらの「世界」に行くのですが、「手品師」として、今いる現実で、もがいて色々と試し、経験することも、こちらの「世界」では重要だと考えられます。

そしてまた、謎かけのような話(笑)ですが、あちらとはこちらでもあり、こちらはあちらでもあるのが、マルセイユタロットからの示唆になります。


ドラゴンボールとマルセイユタロット

アニメファンの私にとって、漫画家の鳥山明氏死去の報に衝撃を受けた矢先、声優のTARAKOさんもお亡くなりになるという、二重のショッキングな出来事があり、茫然としておりました。

とにかく、お二方のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。

鳥山氏の作品の「ドラゴンボール」については、特に40から60代の男性諸氏にとっては、日本の(世界においてもですが)かなりの数の人が何らかの形で接していて、皆さんに与えた影響力はすさまじいものがあったと思います。

ですから、その喪失感たるや、生半可なものではないでしょう。私も例にもれず、いまだ信じられない気持ちがあります。何か自分の生きてきた歴史の一部が抜け落ちような気分にさせられるのです。

一方、TARAKOさんは、アニメ「ちびまる子ちゃん」の声でおなじみであり、もはやサザエさん同様の国民的作品になっていることで広くその声は知られていることでしょう。ちびまる子ちゃんは、まさに年代的に私の小学生時代そのものに当たる(作者のさくらももこ氏と一歳違いです)ので、作品的に共感するシーンがたくさんありました。

TARAKOさんを知ったのは、「戦闘メカ・ザブングル」という作品(この作品はギャグテイストですが、設定的には深いものがある作品で、あのガンダムの富野氏が手掛けています)で、チルという少女を演じられていたのが最初だったと思います。デビューはそれよりちょっと前らしいですが。その特徴的な声優名と、独特の声からとても印象的だったのを覚えています。

鳥山氏もTARAKOさんもまだ60代と、お亡くなりになるお年ではありませんので、非常に驚いております。

さて、鳥山氏の作品の代名詞とも言える「ドラゴンボール」ですが、この作品は西遊記をモチーフに、初期の頃は主人公たちの冒険、その後はバトルものに変わっていきました。まあ、その変化は掲載されていた少年ジャンプの宿命でもありますね。

私自身、少年・青年期の頃は「ドラゴンボール」も、バトルものの時代が好きで、読みながら興奮しておりましたが、今となっては、むしろ初期の冒険メインの頃のほうが懐かしくもあり、また純粋さがあって味わいがあるように感じます。

実は、ドラゴンボールは、もとが西遊記なこともあるのか、マルセイユタロット的に見ても、興味深いところがあります。特に錬金術的なものとリンクするところが結構あるように思います。(西遊記自体、中国的な錬金術や、仏教的な悟りのための象徴的な話だと言われています)

まず、何と言っても、ドラゴンボールのタイトルの由来になっている7つの玉(ボール)、そしてその玉を全部集めると願いをかなえるために現れるドラゴン、シェンロン(神龍)が登場するという話です。

ドラゴンは、よく秘術的な世界で象徴される生き物です。西洋的ドラゴンと東洋的龍では違いが結構ありますが、ただ、共通しているのは、何らかのエネルギーの象徴ということです。

それは大地のエネルギーであったり、錬金術によってやがて金へと昇華していく物質の変化の例えであったりします。また、人間がコントロールしなければならない荒ぶるもの、本能的な衝動とか欲望なども表すことがあります。

西洋でも聖人とか騎士が、ドラゴンと戦うという話はよくあり、ファンタジー世界では、強大な力を持つ種族としておなじみです。

そして、7つの玉は、7という数と玉という暗示があります。玉は東洋の龍ではセットになっているもの(この場合は「ぎょく」ですが)で、龍にとって非常に大切なもので、それは宝であり、なおかつ、魂とか本質に近いものと言えます。

ちなみに、私自身は辰年生まれで、スピリチュアルな鑑定を受けると、不思議と龍に縁があるとよく言われるのと、自分自身が龍だったような時代があるようで、その時に、大事な玉をなくしてしまい、いまだその影響が私の記憶にあるということを言われたことがあります。(もちろん、そのまま信じているわけではなく、自己における象徴的なものとしてとらえています)

龍の玉は仏教的にも如意宝珠とも言われ、まさに願いを何でもかなえることのできる宝であるのですが、やはり、そこは例えや象徴として考えてみますと、統合的魂(完全性・神性・仏性)の分離したものと考えられるかもしれません。(仏教的には8つに分かれるのかもしれませんが)

実はマルセイユタロットにおいても、大アルカナを3段7列に置く、カモワン流では有名な配置図があります。ここに7という数が浮上します。言ってみれば、人間の完成には7つの大きな段階があるということを示唆するでしょう。

チャクラも7つで表すことが普通ですし、曜日のもとになった(古典)占星術的な惑星の配置も7つです。古今東西で表現されてきたように、おそらく霊的に7つの段階、7つの区分のようなものがあることは普遍的な概念であった可能性が高いです。

グノーシス(神話)的には、7つというのは悪魔的な、私たちの悟り(完成)を阻む障害の数にもなってきますが、逆にいうと、これらを克服すると、完成に至るわけですから、ある意味、この7つを知ることは重要な要素になるわけです。

つまり、マルセイユタロット的に見れば、細かく言えば大アルカナで象徴される21の自らの分身があり、それを大きな範疇でとらえると、7つになるというわけです。

ドラゴンボールを7つ集めると、願いをかなえることができるという話は、マルセイユタロットの観点からは、私たちは地上では常に7つに分離されている魂があり、それを拾い集め、霊的に向上していかなくてはならないという教訓・啓示として考えることができます。

漫画・アニメの「ドラゴンボール」では、ドラゴンボールが結局、亡くなった人を生き返らせる道具の意味で使われることが多くなりました。

これも象徴的に考えますと、私たちは魂が分離している間は、言わば死んでいる状態であり、7つが統合されて初めて本当の生者として再生されるという話にも思えます。マルセイユタロットにある「審判」のカードで甦った状態です。

少年漫画誌のために描かれた作品ですから、鳥山氏や制作陣が秘伝的なものを描こうとしていたわけではないでしょうし、そういった知識を盛り込んだものでもないでしょう。

しかし、こうした二次元的な作品は、インスピレーションや想念の世界とつながることが多く、そうした世界から自然に受け取っているところも見受けられます。

ですから、知らず知らず、魂の象徴的な話と関連するケースがあるのです。

孫悟空という主人公は、もちろん西遊記から取れられた名前ですが、それだけに悟空という名前に、「空(くう)を悟る」という仏教的な意味合いが付与されています。

空を悟るために、私たちは旅に出て、いろいろな冒険をし、分離された魂を集め、本当の自分を再生する(出会う)ことになるのです。まさに、これはマルセイユタロットでいう、大アルカナの旅です。

鳥山氏は乗り物やメカがお好きだったようで、その驚愕する画力で、秀逸なデザイン性の乗り物を発明して描きました。奇しくも、マルセイユタロット的には、最初の段階の完成を意味する7の「戦車」が乗り物として登場します。

「ドラゴンボール」の孫悟空は、最初は筋斗雲という、これまた西遊記に出て来る雲の乗り物に乗っていましたが、空を飛ぶ技術(舞空術)をマスターしてからは、雲にも乗らなくなりました。

なお、筋斗雲は心が曇っていたり、邪なものを持っていたりすると乗れないという代物で、もとは悟空の師匠・亀仙人の乗り物でしたが、亀仙人がスケベ心(笑)を持っていたために乗れなくなり、悟空に譲った(もとは亀を助けたお礼で悟空に贈られたもの)という経緯があります。その悟空も、先述したように、筋斗雲は不必要となりました。

そして、マルセイユタロットの「戦車」は、実際的な乗り物のように見えて、本当は霊的な乗り物だと言われます。「ドラゴンボール」において、筋斗雲でさえ登場しなくなっていき、やがて自力で空を飛ぶことが普通になるというのは、こうした霊的な乗り物に乗り換えているという象徴にも思えますし、鳥(鷲)として翼を持ち、自由性を獲得し、やがて天上に回帰するという話にも通じます。(鳥山氏と、鳥山氏を世に送り出した当時の編集者・鳥嶋氏と、「鳥」が重なるところも象徴的です)

というようなわけで、意図していなくても、「ドラゴンボール」というのは、結構、マルセイユタロットに描かれる口伝的な内容にリンクしているところもあるという話をいたしました。

何より、私たちが失われがちな冒険心と可能性(チャレンジ精神)、ワクワク感を思い出させる作品が、「ドラゴンボール」でもありました。「ドラゴンボール」のアニメ初期のエンディング、「ロマンティックあげるよ」の歌詞さながらです。

鳥山氏はじめ、ドラゴンボールを生み出してくれた方々に感謝の気持ちを送りたいと存じます。


Top