カードからの気づき

友というもの。

友、友人、友達、ダチ、連れ、フレンド・・・いろいろな呼び方はありますが、私たちは人生で友と呼べる人と巡り会います。

その友と会う機会・きっかけを振り返ると、どこかに所属していた時ということが多いのではないでしょうか。

学生時代の友は学校、そして職場での友、趣味や学びの場所での友、地域や組織での友・・・こういった具合です。

すなわち母体があるのですね。とすれば、逆に言えば、友を得たい場合はなにかのグループ・組織・人が集まるところに自分も行けばよいことになります。

ただ、その母体にいた時に、なぜ友になれたのかを分析してみると、複数の機会継続する時間があったからと言えます。

まれには一回きりでの場所や集まりで友となる場合もあるでしょうが、やはり多くは、例えば学校など、ある程度一定期間同じ時を過ごす場合か、何度も集まりがあったケースで友となれたということが普通ではないでしょうか。

友の縁には自分が動くという行動・きっかけも必要かもしれませんが、クラス替えで偶然一緒だったので学生時代に友になれたという場合もあるように、偶然性の要素(目に見えないつながり要素)もあり、さらに今述べたように共有時間も重要であることがわかります。

マルセイユタロットの「恋人」と「運命の輪」は、特に「」というものを象徴するカードですが、まさにふたつのことを表しているように思います。

さて、それぞれの所属や母体での友が生まれると言いましたが、裏を返せば、その集まりに属してた時代の自分が相手と友人になったということですから、いつの時代にできた友人であるかによって、その友人と再会したり、つきあったりする時、その当時の自分と鏡のように出会っている可能性もあるのです。

ずっとつきあっている友人ではあっても、最初の出会った時を相手は記憶しているはずで、そうして今までのあなたを見つめてきたわけです。

ですから、今と過去のデータを友人が持っているとも言えます。反対に、その友人の分をあなたも持っていることになります。

二人が会って話をしたり、一緒に行動したりする時、過去と現在が交錯し、データ交換をお互いにして、無意識に整理している場合もあります。

「今」のあなたがあまり活き活きしていない場合、もし過去のあなたで輝いていた時代があるならば、その時の友人と会って、その時代のあなたのデータを再びダウンロードしてもよいでしょう。

昔を振り返ることは後ろ向きな悪いイメージもありますが、もちろんよいこともあり、今に勇気や自信を取り戻すきっかけにもなるのです。

それは自分の思い出だけではなく、友人(のあなたへのデータ・記憶)がサポートしてくれることもあり得るからです。

友・友人ですから、あなたをひどく扱ったり、マイナスを強調したり、悪く言ったりしないはずです。

時に苦言を述べる友ではあっても、それは本心ではあなたを励まし、応援してくれているでしょう。普通は友と過ごせば楽しいはずです。

ですから、その時その時の友というものは、あなたの生きてきたエネルギー・輝きを忘れないように、現在・未来に渡っても、それをあなたに示して、サポートする役割も自然にあるのです。

もちろん反対に見れば、あなたもあなたの友人に対してそうなのです。いわば、皆、マルセイユタロットに象徴される「天使」と言えるでしょう。友を大切にしましょう。


自分を規定する周囲の評価

自分のことは自分が一番よく知っているようで、案外知らないものです。

また「私は私」という意識は誰でもあるでしょうが、果たして、「本当の私はどんな私なのか?」とつきつめて考えていくと、わからなくなります。

意外にも、自分や私というものは、他者や周りの環境によって決められていることが多いものです。

妻だから夫だから、親だから、子だから、なになにの社員だから、誰それの友人だから、ここでは目立たない存在だから・・・などなどです。

ということは、人は外側のものによって規定されていると言え、言い換えれば、自己評価は他者によって決まっている他者の評価をもとに自分が決めているということができます。

つまり、周りから自分のことを悪く言われていれば自分をダメな人間と思うようになりますし、逆にほめられるとよい人間だと思ってしまうということです。

ただこのよい・悪いも自分の思いなので、一般的に善良で優れた人間とか、悪人や何の能力もない人間だという意味ではありません。

たとえば自分が「いい人間」だと思っていても、それは奢りみたいなもので、オレはすごいヤツだ、私は人よりずいぶん魅力あるのよね、という感じの高慢的なものになっていることもあるのです。

しかしながら、他者や周りの評価、もっと言うと、言葉かけや態度によって、人は自分を決めてしまうということは重要です。

ほめることばかりがよいことではないでしょうが、あまりに人をけなしたり、意味もなく叱ったり、感情に任せて怒ったりしていると、その向けられた相手は自分を「叱られるべきダメで小さな人間」と思ってしまうおそれがあります。

人間の思いというのはすごい力を持ち、それが継続されてひとつの思考パターン・型となった時、現実(行動になるので)と結びつきます。従って、本当に自分をそのようにしてしまうのです。

人に本来ある、神性や完全性をますます矮小化し、曇らせる要因となります。

マルセイユタロットの「力」のカードは、自分にそれを回復させる意味もあります。

よく自分を変えるのには外側ではなく、内側(心)からだと言われますが、環境である外側を変えて内に働きかけることもできます。

自分の評価が低いと感じている場合、まずは好きなものを持つことが大切なのですが、少なくとも自分を悪く言ったり、可能性をいつも否定したりするような人・環境からはなるべく離れる(避ける)ことが重要です。

やはりポジティブに思う人の多い環境に身を置くほうがよいでしょう。

もちろんあなたを思って叱ってくれる人も大切ですが、ストレス社会の昨今、結構叱る人は愛がなく、自分の感情をぶつけている人が多いのが現状で、教育的に厳しく言われるにしても、その理由や改善方法の提示のないものは受け入れがたいものです。

社会で普通に働き、生きているだけでも精神的なダメージを受け、評価されたり、ほめたりすることは意外に少ないものです。

だからむしろ、ほめられたり、心地よいポジティブな見方をしてもらったりするほうが多い環境にあえて自分を置くほうが、感情のバランスから見ても効果的なことはあると考えられます。

周りにそういう人がいないという時は、自分で自分を鏡に向かってほめてもよいでしょう。

最初は照れくさく、ほめることができにくい場合でも、「まあまあです」とか「結構頑張っている私です」「この私の部分も悪くないじゃない」など、まずはマイナスからフラットやゼロに戻すような物言いでよいと思います。

精神世界では周囲も自分の投影・鏡だと言われます。

ならば、ちょっと冗談みたいな話ですが、本当の鏡と自分自身を使って、鏡に映る自分によって自分の内面を変化させることも可能でしょう。投影の逆利用みたいなものです。

自己評価が上がれば、その分、あなたの世界も変わるでしょう。


数はタロット考察のひとつの窓

タロットの中には数・ナンバーを持っているものがあり、そのため数との関連をもって解説されることがあります。言わば、タロットの数秘術的な扱いです。

ただ、ここでも何度か記事で書いていますように、タロットは絵柄の象徴性がメインですので、数を中心に置くと、主客逆転してしまい、混乱が起きます。

もちろん、数とは無関係にナンバーがタロットにふられているわけではありませんが、数の象徴性と完全にカードを一致させるのは難しいですし、実は次元やレベルの違いだと言えます。

簡単に言えば、根源は同じでも表現方法やレベルが違えば、異なって見えるようになるということですね。周辺だけを見ていても、数もタロットもバラバラにしか見えません。

さて、そんなタロットと数の関係なのですが、タロットと数をリンクさせていく(関連させて解釈する方法)にはいろいろな技法があります。

そのひとつに、単数や数字根で見るというものがあります。これは要は数と言えば、突き詰めれば「ひと桁」のものしかありませんので、タロットにふられている数を、ひと桁数字で関係させてみるというようなものです。

例えば、4の数を持つ「女帝」と14の数になっている「節制」は、同じ「4」という数を共有していると見ます。つまり、「4」で象徴される数のエネルギー・表現がともに内在すると解釈するわけです。

これは下一桁だけではなく、中の数字を足して数字根(ひと桁)にしていく方法もありますので、「13」も「1+3」で実は「4」のエネルギーを持つと考えることもできます。

そんなこと言うと関係性にキリがなくなるのでは?と思いますが、まあ、そういうところは確かにあります。(笑)

タロットはたいていローマ数字がついていますので、ローマ数字の特徴を見れば、また違った関係性を見ることもできます。

例えば、「18」と算用数字で書いてしまえば、そこには「1」と「8」の数しかありません。(それぞれ足せば「9」もあると言えますが)

しかしタロットの「18」の数を持つ「月」のカードは、ローマ数字では「10」(文字化けの恐れがありますので、あえて算用数字で表記します)と「5」と「3」の数が並んでいるのがわかります。厳密に見ると、「3」も「1」が三つと言えますから、「1」があるとも言えます。

ということは、その三つ(4つ)の数の複合体で、それぞれの数のエネルギー、もしくは合計の数に成長していく過程を持つと想定することもできます。

こう考えると、どの枠組やルールをもってタロットを観察するかによって、関係性・関連性も変化していくことがわかります。

そのルールこそがひとつのであり、次元やフィールドと見てもよいでしょう。

「数」だけでも、このようにたくさんの見方があるわけですから、ましてや絵柄を細かく分類した方法で見るとなると、どれだけの「型」や「窓」があるのかと驚くことになります。

数百・数千の窓によって観察されたタロットから、あなたがどんなストーリーを紡ぎ出すのかは、まさにあなたの知性や知識・そして感性や感情を含めた総合的な処理能力によるのです。

ではタロットがなぜ存在するのかの意味も、逆から考えれば見えてくるものもあるでしょう。

どうですか?占いのためだけにタロットが存在しているとあなたは思いますか?


自由の前の不自由な殻

今は自由ということが尊ばれている時代です。もちろんそれが悪いわけではありません。

自由は誰もがあこがれ、それを目指します。いわば、人類の歴史は自由を求めての葛藤と争い、克服の歴史だったようなものです。

しかし、自由を本当に知るためには不自由な状態を逆に味わっておかねばならないという皮肉なところがあります。

不自由さや束縛されていることが自覚できて初めて、次の自由を目指すことができると言えます。

人間において完全自由というのはまずありえないでしょう。肉体があり、物理法則という縛りがあり、さらには通常、時間による縛りもあるからです。

スピリチュアルな世界観では、いわゆる「り」状態に至れば、物理的ともいえる制約から逃れ、まさしく自由になるのだと言いますが、果たしてそれは精神状態のことを言うのか、はたまた本当に空を飛んだり、肉体を変形させたり、過去や未来に自由に行き来できたりする物理も超越した存在のことを言うのか、これはわかりません。

後者だとかなり荒唐無稽な、漫画やアニメ的なイメージにもなります。(一説にはそういう話もあります)

ただ普通に考えると、悟りとは一種の精神的なことであり、完全な物理法則等の縛りから解放されることなのだとは言い難いように思います。

それでもおそらくは、そのような物理的制約を気にしなくなる、苦や障害とは感じなくなる境地であると推察されます。もっと言えば、それらも楽しくなる、面白くなる世界と言えましょうか。

これならば、悟りや完全とは言わないまでも、私たち一般の者でも、ある程度目指すのことの出来るところだと考えられます。

そこで話は戻りますが、自由になるためには前提として不自由さが必要と言いました。そして不自由さを自覚することが解放(次への自由)のステップだとも指摘しました。

そんなこと当たり前で簡単じゃん、と思うかもしれませんが、案外これが難しいのです。ほとんどの人は自分のつながれている綱、つまり縛りについて気が付いていません。大きなもので言えば、私たちは皆洗脳されてつながれているようなものです。

普通は生きていく中で、ただ何となく違和感があったり、時折息苦しい感じがする程度で、通常はなかなか自分の縛りに気がつかず、ずっと一生そのままということもありえます。

それが顕著に現象として出るのは、やはり何かのトラブルや試練、自分ではよくないと思う状況、うまく行かないと思う事柄が発生した時です。

具体的には病気であったり、仕事の問題であったり、パートナー・家族、人間関係の問題であったりします。お金・経済的な問題のことも多いです。

それは、実は自分の中に「何かの縛り」があることに気がつく(かもしれない)きっかけとなっているのです。気がつけば、小さいといえども「ある覚醒」となります。

マルセイユタロットでいえば、大きな意味では「悪魔」と「神の家」であり、また「13」とも言え、一枚で象徴するならば「恋人」や「運命の輪」、「審判」だとも考えることができます。

ここで縛りというのは思い込みであったり、正しいと信じていたことであったりする自分ルール・信念のことがほとんどです。(その意味では「正義」のカードとも関連します)

しかしそれはたいてい外からもたらされており、例えば親や世間の常識、学校や職場で信じ込まされてきたものと言えます。

とはいえ、それは今までは必要な自分の殻であったわけです。

「殻」と言うと悪いイメージがありますが、「殻」なのですから、自分を守る防護壁でもあるのです。殻がなければ、あなたはむき出しのままで無防備に傷つき、倒れていたことでしょう。

しかしながら、もうその殻がなくてもよい状態にあなたが成長し始めていたり、殻を脱ぎ捨てて新しい殻を身にまとうべき段階に来たりしていた場合、上記のようなこと(試練・事件)が発生するのです。

よく勘違いされるのは、「気づきがありました」「やっと縛りから解放できました」「自分はもう自由です」と、セッションやカウンセリング、セラピーなどでその状態になったとしても、実は新たな殻・柵の中に入り直したに過ぎないことがあるのです。

でも新たな枠ですから、今までの枠よりかは大きく、自由性があります

動物園の檻に入れられている状態から、サファリパークみたいに少し自由性を伴った大きな檻に移行したと言ってもいいでしょう。決して自然の元いた自由な場所に帰ったわけではありませんが。

この動物園の動物たちが「元いた自由な場所」に例えられる所こそが、実はまさにもともとの私たちの本質・状態、故郷なのだと言うことができます。

マルセイユタロットはそこに戻るための、あるいは気付くための学びのプロセスが描写されたカードだと述べることができます。

ただ、それもいきなり一気に戻れるわけではありませんので、少しずつのステップが必要なのです。

一気にやってしまうのは脱走に近くなりますので、監視員の目から逃れるのも大変であり、一時的に成功しても捕まえにくる部隊によって追われる運命になって、気が安まりません。それでも挑戦したい人はやってみるとよいでしょう。これがいわゆる荒行ということになります。

安全に行くためには、ひとつの殻に気付いてはまた次の殻に入り、そしてその殻を破ってさらに大きな次の殻に入るという繰り返しがよいです。

そうこうしているうちに殻の破り方のコツがわかってきて、スピードもアップし、ガンガンガンと小気味よく殻を空手の瓦割りのように(笑)、連続割りしていくこともできてくるでしょう。

やはりそう考えると、人生をゲームだととらえて、楽しみながら殻破りをしていくことがポイントのように思えます。


学びの方法。先生、師匠。

何かを習ったり、学んだりするということは、何らかの自分の向上・進展のためだと思います。

この時、学習するのには書籍や、最近ではインターネットなどの情報からというのもありますが、時代は進んでも、まだまだ「人から」ということを無視することはできません。

やはり今でも一番効果的なのは、人から直接学んだり、教えてもらったりすることでしょう。

そうなると、人対人のことになりますので、そこに感情が間に入ったり、人間的な利害関係がからんだり、純粋な学びだけではないものが交流することもあります。

気持ちとなると、お互いの尊敬、信頼、愛情などというよい面もあれば、依存、嫉妬、支配、敵意、卑下、萎縮、高慢など・・ネガティブなものも存在します。

そこで、前にも書いたことがあると思いますが、人に学ぶ時は、その学びたい技術や知識習得のみを目的とするのか、先生の人格とか人となり、生き方・考え方もトータルに学びたいのかということを区別したほうがよいでしょう。(その中間ももちろんありますが、意識的に分けて見てみるというのは大切です)

前者の場合は、教わりたい知識・技術以外には目をつぶり、人格などは無視して割り切り、ただ内容を習得するのだいう姿勢で学びます。いわばその人を、物理的なテキスト扱いするようなものです。

そんな人間味のない・・とか、そんな打算的な・・と批判する人もいらっしゃるでしょうが、たとえば何かの専門家という人は、結構変わっている人も多く、だからこそ極めているところもあるのですが、だからといって社会的・人間的に尊敬できる人かどうかは別です。

その人のすべてを学ばなくてはいけないということはありません。学校の先生でも、その教科以外のことが優れているとは限らないのです。

もし教える人があなたより経験の少ない分野のことを話すとすれば、あなたより劣っていると言っては語弊がありますが、経験・知識不足のことは当然あるはずです。

しかし、あなたが学びたいと思っているのは、あなたが習得したい分野においては優秀であったり、知識や技術があったりするからでしょう。

そこに人間的感情を入れすぎるので、誤解が出たり、学習の効率が悪くなったりするのです。

また、その技術そのもはとてもよいものなのに、教える先生との相性や、人間性が今ひとつであったばかりに、学ぶ内容・技術さえも嫌になってしまったということはあります。

学校時代でも先生が嫌いだったから勉強も嫌になったという人や、逆の、先生が好きだったからその教科はよく勉強して成績も良かったという人もいらっしゃるでしょう。

好き嫌いの感情がモチベーションにつながることはありますが、教えてもらう内容と混同してしまっては、せっかくの機会も失うことにもなりかねませんので、冷静な峻別も時に必要です。

さて、では一方の人間性も含めてトータルに学びたいとなれば、これはマルセイユタロットでは「隠者」的なお人から学ぶ・・と言え、いわば「先生」と言うより、「師匠」になります。

※ただとらえ方によっては、「先生」のほうが人格も学べそうな雰囲気で、「師匠」というほうが何か特化した技術のみに優れているというニュアンスもありますので、自分の納得する言葉で考えてください。

とはいえ、現代社会においてなかなかトータルに学べる人というのは少ないと思いますし、それこそキリストとかお釈迦様みたいな人物を想定しないといけないかもしれません。

それでも全てとは行かなくても、なかなか人格的にもすばらしいという先生もいます。で、意外にその人が「技術が一番」というわけではない場合に悩むわけです。(またその先生とは違う技術も学びたい場合

その時は、その先生の生き方・考え方・人間性を自分にも活かしたい、目標やモデルにしたいとあなたが心から思うのならば学び続けていけばよいでしょう。

ただどうしても技術が気になるのでしたら、先述したように、技術部分は自分で割り切って、ほかの優れた先生に学ぶということもあります。

人格的に優れている先生ならば、その旨、正直に話せば理解してくれると思います。

いずれにしても、どんな人でも実は学べる部分はあるものですし、反対に、この人が絶対であると思わないことです。先生も師匠も人間です。尊敬はしても、依存や崇拝対象ではないのです。

また先生自体も変化しますし、もちろん学んでいるあなた自身も変わっていくからです。


Top