コミュニケーション

批判的な態度を修正する。

客観的になりすぎる傾向の人は注意が必要です。


客観的といえばよく聞こえますが、悪く言えば批判的・皮肉的でもあるということです。


安易な信用や熱中を防ぐ意味で、冷静さを保つ程度に適度にバランスが取れていればよいのですが、行きすぎた客観はやがて批判的な態度となり、それが癖になることもあります。


いわば、「まず批判ありき」の姿勢になってしまうということです。それはつまりは、人や物事のあら探しやネガティブさを見つけようとすることと同じになります。


そうしますと、ネガティブさの発見の達人になってしまい、必然的に自分もネガティブなものに同調するようになってきます。


外にネガティブさを見つけようとしていたのが、いつの間にか自分の物の見方自体がネガティブになってしまうのです。


それは時に慎重さや細かな観察力を自分にもたらすことはありますが、やはりマイナス思考、後ろ向き、消極思考になりがちです。


思考がそのような状態ですので、現実もそのようになり、自分自身を批判しなくてはならない状況を自ら生み出してしまうことになります。簡単に言えば、納得のいかない人生を歩んでしまうことになるということです。


それが無自覚のままさらに進むと、怖ろしいことに、自分が自分を批判しなければならない状況が楽しいとさえ思うようになってきます。なぜかと言いますと、批判することがその人の脳の喜び(の反応)につながっているからです。


なかなかここまで来ると脱却するのに難しくはなりますが、とにかく早い内に自分が批判的な態度をしていると思えば修正をしておくことです。


誰でも人は批判的になるものです。ですから批判している自分を責めたり、自分はなんて悪い人間なのだと思うこともいりません。反省はあっても責めすぎないということも重要です。責めるより、直すことです。


とはいえ、なかなか批判をすべて止めてしまうということは難しいと思います。


そこで私が自分でもやってきたのは、批判や非難をしてしまったと感じたら、その瞬間、批判した相手や物事に対し、「でも、よいこともある」という言葉を付け足すことです。


「あの人の言うことは間違っている」「あんなことは受け入れられない」・・・と思った瞬間に、「でも、よいこともある」とつぶやきます。


最初はつぶやくだけでよいのです。そうしないと長続きしません。


それでも、「よいこともある」と言っていることで、次第に実際によいこと、いい部分を見つけようとする心理が働くようになります。自動的なバランス修正と言ってもいいでしょう。


そうするとネガティブ一方だったものがポジティブも発見できるようになり、自分の批判癖もかなりましになってくるはずです。


このようにして批判癖を少しずつ直して行きましょう。


私のタロットの受講生で、自分から一切の批判することを止めた時から、運勢がすばらしく向上したという方がいらっしゃいました。この方は本当に悩みのないよい生活をされています。


皆さんもいきなりすべての批判はなくせなくても、バランスを図る意味で、批判した分だけ、ほかの人や物事(自分でもよい)でもよいので、褒めるように心がけるとよいでしょう。


タロットで見る「伝える」「話す」ことの問題。

マルセイユタロット・大アルカナに「法皇」(一般的には「法王」「教皇」と呼ばれる)カードがあります。


このカードの絵柄の特徴は一人の重厚な人物が数人と思われる人たちに対して、あるいはその人たち以外の者たちに向けて、何か話をしているかのように見えることです。


言い換えれば、「何かを伝えようとしている」ともいえます。


ところでタロットリーディングに来られる方などにもよくあることですが、人間関係の問題に「伝える」伝わる」という「伝達」が鍵になっていることがあります。


いや、人間関係だけではありません。一見「伝達」のことと無関係のように思えることでも、その根には「伝達」問題が隠されていることもあるのです。


まず表面的には、きちんとコミュニケーションができていないということがあげられます。


前にも書きましたが、日本人は以心伝心で相手に伝わると思っているところがあります。


それはそれでよいことでもあるのですが、反面、やはり自分だけの「思い込み」にとらわれることも少なくありません。


「言わなくてもわかるだろう」「気持ちは汲んでくれるはず・・・」などという期待・考えが、実は「あてがばすれていた」「誤解を呼んでいた」ということは皆さんも経験があるでしょう。


ですから、やはり相手がいる場合はしっかりと自分たちの意思・内容は伝えておくことだと感じます。


特に仕事関係や金銭の授受があるような場合は、伝え方も言葉以外の文書で双方が確認しておくことも大事になってくるでしょう。


また友人やパートナーとの間の親しい仲でも、意外に「言わなくてもわかっている」と思いがちです。


その中でも「気持ち」は案外と伝達されないものです。


もちろん表情や内容で読み取ることも可能なのですが、慣れている関係だからこそ見逃してしまうこともあるものです。


ですからそうした間柄においても、「気持ち」は折に触れ、「言っておく」「述べておく」ことはとても大切だと思います。


言われてみて初めて、「えー、そんなふうに思っていたの?」「気づかなかったわ・・・」ということでびっくりすることはあります。


タロットリーディングにおいて、「法皇」や他のコミュニケーションを示唆するカードが出る場合、こういった「伝達」問題、「うまく伝え合っているかどうか」ということをテーマに注目してみるとよいでしょう。


さて、ここまでは「伝達」ということの表面的な問題のことを扱ってきました。


実は裏にはもっと心理的なことが隠されています。


そのことについて次回でお話したいと思います。


自分の好きな役割

先日の土日と2日間ほど旅行をしておりました。


これは近いうちに個人名でのタロット講座及び各種講座展開を、新たに屋号をつけてひとつの「機関」としてスタートするための、いわば記念旅行みたいなものでした。


タロットでいえば、「13」と「愚者」を並べたような感じです。


新しい機関の内容については、いずれまたここでも発表したいと思っています。


さて、この旅は今までもルームの提供などでご協力いただいていたマルセタロー氏とともに行っておりました。


面白いもので、旅でのそれぞれの役割は自然と決まっていました。


私は企画・コーディネート全般。マルセ氏は現地でのコミュニケート実体験のファーストコンタクトなど担当していました。


タロットカードでいえば私が「女帝」で、マルセ氏が「皇帝」や「手品師」を担うといったところです。奇しくもソウルカードは私は「女帝」で、マルセ氏は「皇帝」をもっています。


そういうこともあって、役割分担がうまくできていたのでしょう。


ただここで大切なことは、「役割を自然に楽しめる」ということです。いわば、これが今日のテーマでもあります。


たとえば、今回の旅でもマルセ氏と私の役割を変えたとしても、それなりに旅行は成立したと思います。


そしてもしこれが完全に仕事だとしたのならば、自分があまり向いていない、したくないといったものでも、やらねばなりませんし、強制力によってとにかく行うことでしょう。


けれども、やはり人にはある程度自分の好きな役割というものがあります。


旅ということでいえば、私の場合は、旅行を企画し、宿やルートを手配し、メンバーが楽しめる観光地を選択してスムースな行動ができるようスケジュールを組み、なおかつ案内していくのが楽しみであり、何よりもそれによってほかのメンバーが喜んでもらうことを見るのが好きなのです。


従って逆に誰かにコーディネートされて、至れり尽くせりで「どうぞ、目一杯堪能してください」と実際に提供されても、あまり楽しくはないかもしれません。


人から見ればコーディネートすることで忙しく働き、まるで旅を全然楽しんでいないように見えても、本人は添乗員的なことをすることで実は楽しみ、喜んでいるのです。


これとはまったく逆の人もいるでしょう。たとえば、何より自分が体験してエンジョイすることで、その喜びの波動を自然に周囲にもたらし、他人も影響を受けて楽しんでいくというタイプの人です。


旅を例にしましたが、ほかのことでも同じです。


自分が楽しめることは、他人にとってはそうではないこともあり、また人が楽しんでないように自分が思っていても、その人は実は結構楽しんでいることもあるということです。


結局、人の感じ方はいろいろなのです。どこで、どのようなポイントで楽しめるのかは人によって違います。それが個性でもあり、意外にも大きな天命的なものともつながっている場合もあるのです。


これはタロットカードでは、「恋人」カードと「審判」カードのつながりで見ることができます。


そうすると自分の楽しめる役割を行えば、仕事でも遊びでも喜びとなるということが見えてきます。



皆さんも自分が楽しめる役割は何なのか、思い出してみてください。それは他人に期待されたり、押しつけられたり、言われたりすることではなく、自分が気付き、知っていることでもあるのです。


ひとつのルートの危険性

昨日は、人との差異や多様さの考察が重要だというお話をしました。
今日もその関連になります。
人は何か困ったことが生じた時、問題が起こった時にまずは自分で何とかしようとしますよね。
しかし、一人ではどうにもならない場合、知人や専門家、いろいろな方法に頼ろうとします。
それは当たり前の流れ・行為であり、いいも悪いもありません。
ところがこの流れに、狭い枠のようなもの、あるいはひとつのパイプラインのようなものだけしかないと設定すると、自分の問題の解決に支障が出てきます。
それはそうでしょう。ひとつのルートしかない、狭い枠でしか助ける方法がないというのなら、それだけ限られた救済策・解決策しかないことになるからです。
ちょっと想像してみてください。あなたがインターネットを使って何か調べごとをするとした場合、今ならたいてい検索エンジンを使うはずです。
その検索エンジンがひとつしかなく、しかも、ヒット数が極端に少ない、いつも同じパターンしか検索してこないとなれば、それしか情報がない(と思う)ことになります。
もちろん、あまりに検索数が少なく、有益な情報がないとなればそういうシステム自体が問題だとして、別の方法での探索を実行してくことでしょう。
ただその検索システムに絶対の信頼を寄せる心理的状態にあなたがなっていたとしたら、たとえヒット数が少なくても、または少し違和感を持つ情報が検索されたとしても、それを信じてしまうかもしれませんし、ほかを調べようとしなくなるかもしれません。
このことはマスメディアを通じた洗脳的操作の危惧を疑うもこともできるのですが、私が今回言いたいのはそういうことではありません。
この度強調したいことは、視野が狭くなることの危険性です。
ある事や人への絶対的な信頼特別なルートだけの依存、こうしたことは非常に危ういものをはらんでいます。
それは自分の見方・考え方が偏るだけではなく、そのルートを失った時に自分自身の崩壊や喪失につながるからです。
これは情報だけのことではありません。
感情の伴う人間関係についても言えることなのです。いや、むしろこちらの方が当てはまることかもしれません。
一人の人への絶対的な信頼や依存は、その人を失うことになった時、あるいはその人への信頼を疑わざるを得ないと自分が感じるようなことが起こった時、あなたのアイデンティティは一気に崩壊に向かう危険性があるのです。
それはあなたのアイデンティティ(この場合は自分が自分である証のような感覚)が、依存していた人に文字通り依拠していていた(その人が自分を作っていた)からです。
いわば大きな太い柱によって支えられていたのが、その柱を失うか、柱が折れてしまったかのような感覚と言ってもいいでしょう。ただし、その柱は自分で幻想的に太くしていた可能性もあります。
これは誰かを絶対的に信頼してはいけないということではありません。健全な愛に基づく信頼は強固なものです。
そうではなく、自分のアイデンティティがあやふやなままで絶対的な外側のものを作ってしまってはいけないということです。
自分というものを持って、外のものとは並立の関係でいるのが望ましいのです。
できればたくさんの人やモノへの興味、助け合いという心をもってカバーしあっていると楽でしょう。
そのためにこの世界は多様性に満ちているのです。
(タロットカードの「世界」も、ひとつには「多様さ」を意味します)


話すことが好きか嫌いか。

私は今は人前でお話する仕事をしています。


まあ、お話と言ってもタロットが中心ですが。(笑)


皆さんは講師のような仕事をする人は、みんなもともとコミュニケーションがうまかった人だと思っていませんか?


でも、決して皆さん最初からコミュニケーション上手だったというわけではありません。


私は今でも人前で話す時は緊張しますし、知らない人がたくさん集まる会やセミナーなどに出た場合などは、貝みたいになって、コミュニケートする能力を著しく欠いています。言ってみれば、いまだコミュニケーションベタです。(苦笑)


飲み会なんかでも積極的に話しかけるタイプではなく、時にポツンと料理を食べている(お酒が飲めませんので・・・)ことも少なくありません。


学生時代の体育の時間でも、ペアとなって体操をするという場合において、相手に話しかけることができず、最後まで残ってしまい、結局先生とペアになるということさえありました。(^_^;)


ということで、いまだ大勢の中では苦手です。


でもそんな私でもタロットの講師をしていられるのは、実は話すこと自体は嫌いではなかったからなのです。


とはいえ、昔は自信がなかったり、技術ももちろん未熟だったりして(今もうまいわけではありませんが・・・)、話す機会があっても意識的にうまく活用することができていなかったのですね。


「なんだ、話すこと自体は嫌いじゃないんだから、やはり才能があるんでしょ」


なんて思っているあなた。


そんなことはありません。よーく考えてみてください。


誰でも、人間だったら自分をわかってほしい、思いや考えを伝えたいという気持ちは多少なりともあるはずなのです。あなたもほかの誰もが話すことは本当は好きなはずです。


ずっと自分だけの世界でコミュニケーションして満足している人は、誰一人いないでしょう。


たとえ独り言を言うだけで十分という人でも、それは自分と会話しているのです。


ですから「誰かに話をしたい」という思いに正直に向き合い、「自分がこう見られたらいやだ」とか、「どのように思われるのか不安」という気持ちを少しずつはずしていけば、「話嫌いである自分」というものは本当にそうだったのかどうかがわかってきます。


実は多くの場合、「話したくない」「話せるはずがない」と、自分で自分を縛って思いこんでいるのです。


もっと記憶を遡り、「人前で話をして恥をかいてしまった」とか、親が寡黙だったりおしゃべりをとがめたりして、あなたの「話す欲求」が抑えられてきていなかったかを見るとよいです。


そうすると「あなたを活躍させたくない」あなたのエゴが存在していたことに気がつくでしょう。


いえ、そのエゴは悪い存在ではなく、あなたをその時傷ついた心に再び陥らせたくないために、むしろあなたを守るためにそうしている(フレームの中にいさせている)とも言えます。


しかし大人になったあなたは、エゴの助けを借りずに自分で自分を守る方法を探究してください


それは結局、エゴがいなくても自信が持てる自分になるということになるでしょう。


その簡単な方法のひとつは、思わず語りたくなる、話したくなる好きなことを見つけることです。


そうすれば、その好きなことを相手にわかってもらうために、どうお話すればよいのかということに意識が向かれ、自然に伝達の気持ちと訓練が積極的に出てくるようになるでしょう。


もちろん慣れ(つまり経験)というのも大切で、最初は誰でも緊張しますので、それが当たり前だと開き直るくらいで始めるのがいいでしょう。


結局失敗を恐れない勇気、自分を変えるという決意(タロットでいうと「」)は、やはり多少なりとも必要になってきます。


話し下手、話し嫌いだと思っているあなたは、実は心の中は多弁であることは多いものです。


本当は誰しも話したいはずだと、再び自分の意識に目を向けてみるのも自分の心の解放につながっていくことでしょう。



Top