コミュニケーション

「気になる人」がいるということは。。。

誰でも、


「どうもあの人が気になる」

「あの人のことが気にくわない」

「あの人のやり方が嫌だ」


などと思うことはあるものです。


つまりは好きにしろ嫌いにしろ、気になる人というのは、まさしく「気になる」人なのです。


何を言っているの? 当たり前のことじゃないですか。


と思うでしょう。(笑)


ここのポイントは「」です。「」と言ってもいいかもしれません。


人や万物には「氣(気)」というものがあると考えられています。


この氣の概念は様々で、また国や地域、人が変われば「氣」のとらえ方、表現も変わってきます。


インドでいうプラーナ、西洋のエーテル、ハワイなどで言われるマナなども似たようなものと言えるでしょうし、また微妙に異なるものとも考えられます。


それでも、つまるところ、ある根源的な要素によって人も世界も構成されている(できるている)と想像できるものです。


この氣のようなものの性質が何種類かに細分化されていき、あるいは特徴を帯びると「個性」を持ち、私たち自身も形づくられてくると見ます。


とすると、「気になる」のは「氣になっている」ということで、「相手と自分の気が同じ「氣」になっている」「相手のある特質の氣と自分のそれとが反応している」ということになります。


スピリチュアルな世界では同じ気質のものが引き合うと考えられています。


ということは、たとえ対象の人が嫌いでも好きでも、あなたとその相手は同質のものによって引かれ合っているのだと言えるのです。


つきつめると、好き嫌いにかかわらず、あなたも相手も実は同じ部分を持つということであり、結局はやはり同じ人間なのだということです。


これを思うと、特にあなたが嫌いだと思う人、苦手な人、私とは違うと感じている人の見方の変化に気がついてきます。


そして、そのような人との関係改善や、時には仲良くなる可能性さえ秘めています。


タロットカードでいえば「太陽」に気づくというような感じです。


その具体については次回の記事で書かせていただきたいと思います。


自分と違うタイプの人とのつきあい

私自身もそういう傾向にありましたが、人によっては、少し石橋を叩いて渡るような慎重な気質の方がいますよね。


反面、タロットでいえば「愚者」タイプといえるような、もともと自由を好み、とにかく行動してみるという性質の人もいらっしゃいます。


何度もここで説明しているように、人にはあらゆる気質が潜在的に眠っていて、その時々に発現されていきます。


ただそれでも、生まれ持った性質や、育ってきた環境、社会からの影響などによって、ある気質に固定がちになります。


上記で挙げた2タイプの気質の人は、相互に魅力を感じ合い、友人やパートナーとして、相補の(相い補いあう)関係で無意識に選択している場合もあります。


また、タイプが違うため、双方にいらだちや時には怒りを感じることもあります。


慎重なタイプの人は、自由闊達に行動する人に対してあこがれを抱く反面、そうできない自分に苛立ちを感じ、自由過ぎるように見える相手に対して怒りや嫉妬を抱きます。


自由タイプの人は、「なんで動かないの?」「なぜ自由に生きないの?」と、やはり別のタイプの人に苛立ちや怒り、哀れみみたいなものを感じてしまうこともあるでしょう。


結局それは自分自身への感情であることが多いと言えます。


ただ、ここで大切なことは、別タイプの人とあなたは根源的に同じではあるのですが、まったく個人としては別でもあるという認識です。


自分と同じことを求めるのは、お酒が飲めない人に「お酒はおいしくて楽しいよ」とお酒を強要するようなもので、行きすぎた自分の押しつけは、相手にとっては苦痛でしかありません。


今、できないものはできないのです。


前にもお話ししましたが、上から目線で「あなたにもできるよ!」「あなたも私のようになれるよ!」と語っても、双方に大きな隔たりや気質の違いが際だっているのなら、その壁や段階はやはり長大であり、大きな重圧として相手にのしかかってきます。


最初は相手に対してあこがれで入っても、自分に益するところがない、自分とは違いすぎる、私のことは思ってくれない・・・というようなギャップを大きく感じてしまうと、とたんに手のひらを返したかのように、愛は憎しみにも変化してしまいます。


ではどうすればいいのかですが、つまるところ、自己認識、自己洞察につきると言えるでしょう。


他人と比べてその違いに嘆くのではなく、同じ人間だけれども、個性の表れ方が違うのだと思うことです。


私は私、人は人ということです。


これができるようになるのには、自分で自分を認めるしかないのです。


それが自己洞察、自己認識によって得られていくのです。


昨日も書いたように 、人と比べることは「自分にフィードバックして自分を知るために利用する」のだということですね。


そして人に何かを伝えていく人は、特に自分が自由タイプの方は、慎重タイプの人に対して暴言になっていないか、気をつける必要があると感じます。


ともすれば「あんただからできるんだよ」と思われがちになるのです。


皆さんは本来タロットカードでいえば「愚者」なのですが、これは逆説的になりますが、普通に生きている限りでは「愚者」ではないのです。

人は「愚者」になれない強烈な悩みと苦しみを奥底で抱えているとも言えます。


自由、つまり「愚者」に人一倍あこがれながら、社会の中で自分の中の「愚者」を押し込めてきた人というのが、実は私たち多くの者でもあるのです。(ゆえに普通の人から見れば「愚者」は愚者となります)


ですからタロットでいえば「太陽」、つまり同じ目線や段階に降りていく姿勢が大切だということになります。


あなたには楽々と飛び越えられる溝でも、その人には一級河川の大河のように見えていることもあるのだということを忘れないようにしたいものです。


最初に「人にはあらゆる気質が潜在的に眠っている」と書いたように、タイプや気質が違ってもわかりあえないわけではありません。


あなたにすべてがあるのなら、すべてを理解することも潜在的には可能だからです。


それでもそれには段階や距離・表現の違いがあり、それが個性でもあり、そしてそれぞれの個性を尊重しつつ、人との違いから逆に共通点と和合性を見い出し、自分をさらに全体へと統合していくことが求められていると言えましょう。


知りたいと思うことで世界が成り立つ。

昨日の記事 と少し関連することを書きます。


私たちは結構「わかったふうになる」ことがよくあります。


人から話を聞いたり、何かの講義を受けたりしても、「ああ、それ知っているよ」「そんなことはわかっている」と思ったりします。


また実はあんまり知らないのに、知らないことがかっこ悪いと思って、さも「知ったか」のように演じてしまうこともあります。


何かを知ること、知りたいと思うことは人にとって大きな関心事なのでしょう。

人というのは誰でも好奇心に満ちていて、知りたい欲求、知的好奇心がとても旺盛な生き物ではないかと感じています。


知るために生まれてきたと言ってもいいいかもしれません。


ですから逆に知らないというのは、いろいろな意味で自分にとってマイナスなことと考えるのでしょう。


けれども、一人の人間が何もかも知っているなんてことはあり得ません。


確かに知識や経験がとても豊富で尊敬できる方は、この世界には数多くいらっしゃいますが、そのような方でも、やはりすべてをご存じというわけではないのです。


またもともと生まれた時からその人たちが天才だったわけではなく、当たり前ですが、誰もが赤ちゃんで無知だったわけです。


そこから努力の末か機会を見つけて好奇心を満たすなどされて、今のその人になられているのです。


つまり、誰も完璧ではないので、自分の足りない部分や知らないことなどは、他の人から学べばいいということになります。


だから早い段階から「知ったか」になってはいけないのです。まだまだ知りうることは、世界の人たちの誰かが持っているのです。


ここに、なぜ人それぞれが個性を持ち、興味も様々なのかという理由のひとつが隠されているような気がします。


「バラエティに富む(富んでいる)」ことそれ自体が「」であり、限りない宇宙や神からの恩恵だと言えます。


だからあなたは人と違ってもよいのですし、もしまだ自分が足りないと思う部分、知らないと思うことがあれば素直に誰かから進んで学べばいいわけです。


従って知らないことを恥じる必要もなければ、中途半場に知っているかのように演じなくてもよいのです。そのまま放置していることがもっともまずいと言えましょう。


そしてあなたが知っていることや経験したことは、ほかのそれを知らない誰かに伝えればいいことにもなります。


こうして、一人では限界のある学習や経験も、やはり世界の誰もが生徒になり先生にもなることで限界は突破され、全体として完全に近づくのです。


というより、おそらく全体ではもともと完全なのだと思います。(タロットカードの「世界」を参照ください)


結局、伝えあい、響き会うことであなた自身も世界も成長していくのです。


そう考えるとまさしく、「会い」「遭い」は「愛」となるでしょう。


あの人のいうことが納得できない時

あなたが学んでいる人や、参考にしている人、上司・先輩・友人含めていろいろな方がいらっしゃるでしょう。


時には本やインターネットなどの提供されている情報から、ある人の思想を学んだり、影響を受けさせてもらっていることもあります。


しかし、悲しいかな、私たち人間は感情によって様々なことを見てしまう傾向があります。


感情が入ると、学びや助言・アドバイス的なことも、かなりの屈折を伴うようになります。いわば感情の色メガネや感情のフィルターを通して見るようなものです。


そうすると、いくら言っていることや書いていることが正論であっても、感情によってゆがめられているため、たとえばその人のことが嫌いであれば、どんなことを言われても、あなたは受け付けようとしなくなるでしょう。


ところでタロットに流れているもので、四大元素の考え方があります。特徴的には小アルカナの四つの組(スート)にそれが表されています。


すなわち、風・水・火・地と呼ばれるエレメントのことであり、タロットでは剣(ソード)・杯(カップ)・杖(ワンド)・玉(コイン)の象徴で示されています。


このうち、判断や知識的なものは、風(剣)がたとえられ、感情的なものは「水(杯)」で示されます。


人の言うことを感情で聞くということは、風(剣)を水(杯)で受け止めるということになるのです。


剣を水で満たされた杯に入れるとどうなるでしょうか?


水は剣で切ることはできませんし、そのままずっと水に浸していればさび付いて、刃がボロボロになるかもしれません。


剣の鋭さも水の中ではあいまいになってしまい、効果も消えてしまうことになります。(大きな意味で言えば、水は逆に剣を受け止める愛(杯・鞘)にもなる可能性は含まれてはいるのですが、今回はこのことはふれません)


何が言いたいのかといえば、論の内容と自分の感情は切り離して考えてみる必要があるということです。もっといえば、話をしている人への思いとその内容は区別したほうがよいということになります。


目下の者や自分が敬意を表していない人物に忠告されると、「あんたに言われたくないよ」と思いがちです。私もあります。(笑)


でも、もしその言っている人と切り離して、語られている内容自体を取り出してみると、意外に当たっているというか、自分には必要なことだったということに気がつくのです。


その証拠に、もしあなたが尊敬していると思っている人に同じことを言われると、おそらく素直に受け入れられるはずです。


剣は杯と切り離すことで、鋭い刃先を効果的に使うことができるのです。特に決断事項のある人、自分を革新したいと思っている人には、誰に言われようが、その人ではなく、言っている内容自体を見るべきでしょう。


とはいえ、こういうこともあります。


「言っていることとやっていることが違う」ということが何度も続いている人を見る場合です。


これは確かに前述の「内容と人とは切り離して考えることも大切」なのですが、だからこそ、そのふたつを区別していった時、最終的にはその人(言っている人)自体の評価にもつながるのです。


「言っていることはすばらしい」「確かにその通りであり、そのことは自分に有意義で活用させてもらおう」となりますが、次にその言っている人の行動がその通りでないことを何度も目にしていれば、やはりそれは「言っていることを真にその人が理解できていない」か、やはり「口先だけのことである」証明にほかなりません。


切り離すからこそ、具体的に感情にとらわれず判断が可能になってくるのです。


このことは私たちにまた別のことを示唆します。


それは「発言することには気をつけなればならない」ということです。自分の言葉に責任を持つということでしょうか。特に人に助言したり、アドバイスしたり、何かを教えたりする人にはこのことは重要です。


言うからには自分もその通りの行動や態度、結果が示されないと説得力や人間の信頼を失うのです。


傷ついた時に人がいる。

人間は強くもありますが、弱いものでもあります。


健康であったり、仕事やプライベートが順調であったりする時はいいのですが、病や自分が不振になった時は弱気になるのが普通です。


また自分が誰かに責められた、強く言われたなどのことがあっても心には傷がつくものです。


そんな時、やはり一人でもあなたの味方になってくれる人、あるいは話を聴いてくれる人がいることは、とても大きな支えになります。


「愚痴をこぼしてはいけない」「弱気になってはいけない」「マイナス思考からポジティブに変えなくてはいけない」「相手ではなく、自分に原因があると思って対処しないといけない」・・・世の中にはこういうメッセージがあふれかえっています。


それはもっともなことではあるのですが、ややもするとやり過ぎたり、誤った解釈をしてしまったりして、必要以上に自分を責めてしまうことがあります。


自分を責めずとも、とにかく「悪いことは言ってはいけない」「愚痴ってはならない」と、ほとんどを自分の胸にしまい込む場合もあります。


けれども、ちょっと待ってください。


聖人君子や、よほど訓練のできた人以外は、一般的にすべて前向きに、明るいことしか言わないなんてできはしません。


嫌なことがあったり、ショックなことがあったりすれば、愚痴ってしまう、弱気になってしまうのもむしろ当然です。


何か自分にトラブル、特に人との問題があった場合、おそらく自分にもまずいところはあるでしょう。

しかし何かの出来事で自分にダメージを受けたことと、自分が正しいか正しくないか、あるいは悪いことを言ってはいけないかどうかなどのこととはだということを考えてほしいのです。


内容はともかくとして、自分がショックを受けダメージを食らったことは事実なのです。


極端なことを言えば、人に危害を与えようとした者が、相手の抵抗にあい逆に負傷したとなれば、非はもちろん危害を加えようとした者にありますが、その者が怪我をしたことも確かだということです。


ですから、まずは事の正否、善悪、価値判断はひとまず置いておいて、自分の受けたショック自体のケアーが必要とされるのです。


その意味において、愚痴ってしまう、ネガティブなことを話してしまうのも悪いことではありません。


そしてこんな時には、自分の話をとにかく聴いてくれる人がいれば、もやもやした気持ちを離すことができます。


まさに「話す」は「離す」につながり、先述したダメージのケアの最初の部分が自動的に施されていきます。


そうすると、落ち着きを取り戻し、あるいは癒され、「よく考えみれば、自分にも悪いことがあった」と気がつくことができるのです。これは自己正当化するのとは別種のものです。


燃え上がった火を消す時間、処理があってこそ、冷静に自分を事態を振り返ってみたり、自分を取り戻したりすることができると言えましょう。


それに必要なのは、やはり「」なのです。


逆にいえば、友人や家族が困った時には、そこでいきなり話をしている人物(の内容)が正しいかどうかを判断したり、自分の意見を述べたりするのではなく、まずはその人の話を受け容れるということを心がけてみてください。


これはパートナーシップを築いていく時にもとても役に立つことです。


私も妻の話を聞くことが、ある意味、とても訓練になっています。(苦笑) 


男性(女性でも男性的、リーダー的な人、正しいことにこだわる人)は特に相手の話を聴く前に意見を差し挟んだりしがちですから、注意しましょう。 


また受け容れること自体にとても抵抗のある場合は、パートナーやその人の話に自分でも気がつかないまさに「抵抗」が隠されていることもあります。これはちょっと別の話になりますので、機会を改めます。


今、話を聴いてくれる人がいないあなたも、タロットを習って仲間を見つけることも可能です。


またあなた自身が「味方になって話を聴く」態度をしていくことで、あなたにもそのような相手が得られるでしょう。


自分がしてほしいことは、先に自分からしたり、与えたりすればよいのです。


人間完成の道を示すと言われるカモワンタロットの「タロットマンダラ」においても、「斎王」として人の話を聴くことが先で重要であることは、「言うこと、伝えること」を意味する「法皇」が後に来ていることから見てもわかることなのです。



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