スピリチュアル

予言、2025年問題などについて。

2024年のスタートが、あまりにも大きな災難から始まったこと、ほかにも悪い出来事が連続したために、これからの先行きを不安に思う人も多いようです。

また、スピリチュアル界隈とか予言の世界では、少し前から2025年問題というのがささやかれています。これは2025年に日本にすごいことが起きるというものです。

このすごいことというのが厄介で、たいてい悪いことや災害という類で言われています。予言によっては、(あえて書きませんが)月日まで指定されています。

予言的なものは、ネットでも結構昔から人気です。これから先、どうなるのか知りたいというのは、人情の面もあるからでしょう。特に世情が不安定であると、余計に未来がどうなるのか知りたくなる人も増えるのだと思います。

ただ、これも古くからよくあるパターンですが、自分(とか特定の組織)に注目を集めたいがために、わざと大げさに不安を煽るような予言をする者がいます。

目的は集金であったり、宗教などの組織に入会させたりするものが多いでしょう。現代では、承認欲求を満たしたり、動画などの再生数稼ぎや、セミナーなどの集客目的だったりなどの場合もあると思います。

ここで、ちょっと前を思い出してください。

コロナ禍のケースでは、果たして、コロナ前にコロナウィルスの病が世界的に流行って、自由がかなり制限される状況を予言した人がいたでしょうか? 病気の流行くらいの予言はあったかもしれませんが、コロナのことを正確に言い当てたような人は見受けられなかったと思います。

そして、コロナ禍になって、当時、いろいろな人が今後のことを語り出しましたが、その多くはやはり不安を煽り、悲惨な未来をイメージさせて、集客のネタにしたり、欲望的な意味で、自分になにがしかの注目を集めようとしたり人が少なくなかったように思います。

結構、化けの皮がはがれたと言いますか、コロナ禍という非日常的なことが起こって、その人の本性が見えたという場合もありました。

もちろん、皆さんのためを思って危機を訴えたとか、災難に備えさせようという気持ちの人もいたと思います。今の予言も、親切心から出ているケースもあるでしょう。

それでも、怖い予言をしてどうするのかという疑問が、個人的にはあります。

確かに何の備えもせず、能天気に生きるのがよいというわけではありません。実際、地震や台風など、日本では自然災害も多いのは周知の事実です。

私は阪神大震災を経験しましたが、当時、関西圏では地震の危機感は皆無に近く、神戸あたりでも、大地震など来るはずもないという一般的な雰囲気がありました。(実際は何度も大地震が過去に起きていたのですが)

しかし阪神大震災が起こって、その後からこの地域だけではなく、全国的にも地震に対する防災意識、対策が高まりました。そういった意味では、先に備えや引き締めの気持ちを抱かせるために、危機の予言もありかもしれません。

とはいえ、やはり怖い予言はあまり有意義ではないと思います。それは先述したように、そうしたことを利用して、利己的なものに誘導する力が働きやすいからです。
また、ただでさえネガティブな人が多くなっている時代に、希望をやる気を失わせることにもなりかねませんし、よい社会に変えていくにはどうすればよいかという思考や動きが停止し、受け身にただ運命を待つとか、怖いことが起きるのなら、今享楽的に生きればよいというような意識に囚われる人も出るでしょう。

一言で言えば、創造性が失われるわけです。

もしスピリチュアル傾向の人が言うように、人々の意識が現実を作るのなら、不安と恐怖の予言によって、多くの人の想念がそれになり、本当に未来は暗いものになりかねません。(逆に、たくさんの人が予想すると、その通りにならないという逆張り現実説もあるようですが)

タロットも占いだと思われていますので、先行き・未来についてどうなるのかタロットで見てほしい、見てみたいという人が結構います。むしろそれがタロットの使い方ではないの?と誤解している人もいるくらいです。

エンターテイメント・遊びの意味で、「今後どうなる?」と、タロットで見てみるのもありかもしれません。

しかし、私としては、特にマルセイユタロットでは、そういった使い方はあまりお勧めしないものです。

(マルセイユ)タロット使いは、魔法使いではありません。未来のことを当てたり、自我(エゴ)の思い通りに環境を変えたりするようなツール(と人)ではないのです。

恐ろしい未来がタロットで示されたとして、いったいそれが何の役に立つのでしょうか?

それこそ、「こんな恐怖の未来がタロットからわかった!! 動画を見た人だけがわかる衝撃の未来!!!」という、おどろおどろしいサムネイル・タイトルで人を惹きつけ、動画再生数を稼ぐくらいです。(笑)

タロットを使う者は、タロットの奴隷(タロットの言いなりになること)でもありませんし、反対に、自分のエゴのためにタロットを都合よく扱うのも問題です。

予言のことに戻しますが、2025年にたとえ何かあるにしても、反省や備えをすることを忘れずにしつつも、何が起きるかなどはどうでもよいとし、今の自分を悔いなきように生きていくことだと思います。(不安になることを否定することでもないですし、ダメな一日、悔いのある日々もあるのが普通で、それも含めて人生を旅していると考えます)

ところで、マルセイユタロットは13番のカード以外は、見た目は特に恐怖を感じないものです。(16「神の家」も、ウェイト版ほど破壊の絵柄ではありません)

従って、どうせ先行きをタロットで見るのなら、「どうなる?」としてカードを引くよりも、「どうすれば(よい)未来を築けるか?」として引いたほうが建設的です。(ちなみに先述した「神の家」には、建設していく意味もあります。神への建設、すなわち神性の自分に適った選択と行動が意味されるのです)

そして、できれば、明るい未来を想像し、実際に皆さんで創造していきたいものです。


異世界転生ものの背景

私はアニメをよく見ます。

このところ、作品で目立って増えてきたのが、ライトノベルなどが原作の、異世界転生ものです。

たいてい、こちらの世界で不遇な身の上とか、ぱっとしない人生の者が異世界に転生し、無双するというパターンが多いです。

転生する時、転生者は以前の世界で暮らしていた内容を記憶し、さらに、その転生を司る神様のような存在が、転生者に特殊な能力を授けることも、お決まりです。

そして転生先は、なぜか中世ヨーロッパぽい文化(レベル)が多く、そこで現代人の知識がモノを言う(結局、主人公無双状態になる)ということもお約束みたいになっています。(笑)

このように、転生した主人公が苦労もなく、強すぎ、恵まれた人生を送ることがほとんどなので、転生ものは、現代人の現実逃避的感情が反映されたものとの批判も少なくないです。

確かに、このジャンルに限らずですが、アニメ全体が昔からよく言われるように、現実逃避的な傾向を持つのは否めないと感じます。

しかし、一概に転生ものの流行りが、現実逃避だという批判もどうかと思います。

作品は世相や時代を反映するものですし、もっというと、スピリチュアル的な目線では、大きな進化のうねり、宇宙的成長過程の一環ようなものも影響しているように思うからです。

漫画やアニメーションの分野は、イマジネーションの世界であり、そこには現実を超えたものも存在します。

時間的には、はるか古代から近未来、はては超未来まで表しているのがあるでしょうし、空間的にも、日本だけではなく、世界、そして宇宙、さらには多次元的な世界(宇宙)も表現されます。

言い換えれば、私たちの常識だと思っている現実の時空が超越された情報空間に接触しているのが漫画やアニメの表現だと、考えられるのです。

この意味では、非常にタロットと似ています。タロットも絵であり、イメージの世界と関係するからです。

私はたまたまアニメ好きな上に、(マルセイユ)タロットと深く関わってきましたので、超越的な情報がアニメにあふれていることに気づきました。

さて、話を異世界転生ものに戻します。

一見、安易な異世界転生ものですが、ここまで、テンプレ的な形で作品が数多生み出されている背景には、ずばり、今の社会の限界が投影されていると見ます。

異世界に転生して無双したいほど夢想(しゃれではありませんが)してしまうのは、それだけ現実生活・社会に希望が持てないからでもあるでしょう。

はっきり言えば、今の社会は楽しくない、苦しい、生きがいも感じられないのです。特に若者たち(年配の方もですが)が、どうしていいいのかわからず、混乱しているようにも感じます。

異世界転生もので、転生先に中世ヨーロッパぽいものが多いのは、もちろん、それがこうした作品のお約束(もとはゲーム世界からの引用と思われます)ではあるのですが、日本的な舞台だと日本人目線では異世界感がないのと、日本人は、中世ヨーロッパ(実際には近世に近いですが)の街並みとかお城が、(絵本などで)メルヘンチックにイメージとして刷り込まれているからだと想像されます。

当然ですが、いわゆる創作もので「異世界」ですから、実際の中近世ヨーロッパの文化とは別もので、都合よく、清潔化されていたり、魔法が当たり前のように存在していたりと、異世界転生ものならではのお約束、ご都合主義(苦笑)があります。

ただ、うがった見方ではありますが、深い観点からすれば、まず、近世からのヨーロッパが、大きく世界としての時代が変わってきた時点であり、現代社会の基礎となっている部分が色々と多いのも確かです。

となりますと、中世ヨーロッパという舞台が異世界転生もので選ばれるのも、単にイメージの刷り込みとかメルヘン的な意味だけではなく、現代につながる部分の変革前の時代であるからこそ、その時代に戻って、今の社会にならないように、変化のやり直しを行いたいという集合的心理が働いているようにも感じます。

転生ものには、イデアや理想が描かれる場合が結構あります。こちらの世界では不遇であった主人公が、転生先で力を得たがために、成し遂げたい、あるいはそいう社会で暮らしたいと思っていた理想社会のイメージを、少しずつ実現していくというパターンです。

それは人々の心や関係性に関わることで描かれ、本質的には文化レベルとか技術革新だけで生活が豊かになったり、人々が幸せになったりするわけではないことも表現されています。

転生する主人公は、一見、神様から特別な力を与えてもらったから、転生先ですごい人物になっていると思われがちですが、実際は、その人物本来の性格や行動力が発揮されて、尊敬を得たり、愛されたりしています。

こうした転生ものに、批判として多くあるのは、「環境が悪いから私は不幸なのだ」(言い換えれば、適切な環境・能力が与えてもらえれば自分は活躍できる、幸福になれる)という考え方を助長するというのがあります。

それは一理あると思います。自分自身を問題視せず、悪いことは他人や周りの責任にしてしまうという態度です。

ですが、たいていの転生ものは、お気楽なように見えつつも、先述したように、無条件で主人公たちが評価されているわけではなく、それなりの努力やアイデアの実行、本人の真っ当な思いも見受けられるものです。

責任転嫁の態度は自分の成長を阻害しますが、環境や社会自体が、自分自身を生きづらくさせるものであるのなら、自分のせいだけにするのもおかしな(苦しい)話です。

実際、私たちのいるこちらの世界、こちらの現実は、最初から理不尽なものと言えます。生まれた時から能力とか体力、家庭環境等、もしパラメーターで示されるのならば、一人一人本当にバラバラで、不平等極まりない世界です。

その中で、いわゆる普通の生活が過ごせ、幸せを感じるように生きるというのは、(便利さや技術は向上しても)時代が進化するほど難しくなっているように思います。

そうした中で、すべて自己責任の世界だと苦しいばかりですし、社会が変わる可能性が低くなります。また、時の為政者たちに騙され、奴隷扱いされていることにも気づきにくくなります。

私たちに今必要なのは、むしろ外(社会やそれを普通に思わる環境・システム)がおかしいことに気づくことではないでしょうか。

究極的には、すべてを自分に帰せるという考えもスピリチュアル的にはできますが、それは相当深い次元での話だと思います。

異世界転生もの(の流行)は、現代の社会システムによる生き方が限界に来ていること、もはや、それでは、ほとんどの人が幸せと感じることが難しくなっていることを示唆していると考えます。

想像できるものには、創造の元型があります。

もし、アニメで想像した世界が、よいものを示しているのなら、それは私たちの心の中に元が存在していることになります。

それに幸せや心地よさを感じるのであれば、私たちはどのようなものがよいのか、すでに知っているわけです。

マルセイユタロットで言えば、「愚者」が「世界」(のカードの境地)を目指しているかのごとく、異世界転生ものを表現することで、現実を超えた、言わば天上世界的な理想を思い出そうとしているのです。

マルセイユタロットでは、21「世界」のカードと1「手品師」のカード、最後と最初のカードが細かくリンクしあうようにに描かれています。

まさに天上から地上へ、その本質が降ろされているようにも見えます。

現状(現実世界)は「手品師」として、こうした実際の社会の表現がなされていますが、同じもの(それはタロット的に言うと四大元素)を使いながら、もっと変えることができるとタロットは語っているようでもあります。

異世界転生ものは、私たちに、魂の故郷を思い出させ、今の社会には問題があって、それを変容させるべき時に来ていることを、軽いタッチで表現している作品だと感じます。

ですから逃避的ではあっても、癒され、希望や勇気、愛をも不思議と想起させる作品が結構あるように思うのです。


上を向いて歩こう

「上を向いて歩こう」という歌がありますが、このタイトルを思う時、私はマルセイユタロットの「愚者」を想起します。

興味深いことに、「上を向いて歩こう」の歌手、坂本九氏のほかの歌で「見上げてごらん夜の星を」」というのがありますが、この歌も「愚者」が、ちょうど17の「星」を見ているようなイメージが思い浮かびます。(「星」ではありますが、実は「太陽」のカードの意味と雰囲気もあります)

ともに永六輔氏の作詞ですね。歌手も作詞者もすでに故人であり、特に坂本九氏は、例の飛行機事故で亡くなられたという不幸なことがありましたが、世代ではないにしても、このふたつの歌は、なぜか、マルセイユタロットが浮かび、とても心に響くものがあります。※坂本九氏の「」は「隠者」の数であり、「隠者」と「愚者」の関係性「隠者」(導き)のランタン(光)とか、いろいろと面白い偶然性があると思います。

「上を向いて歩こう」では、「独りぼっちの夜」という歌詞が特に「愚者」ぽく感じます。

ただ、本来の「愚者」は、涙とか湿っぽいものではなく、むしろ逆で、ほがらか、楽天的、無邪気、極端に言えば能天気とさえ思えるものです。しかも独りぼっちではなく、犬のような動物が「愚者」の人物の後ろにいます。

それでも、「上を向いて歩こう」との共通点をあげると、やはり「上を向いている」ということと、その歌詞に、「幸せは雲の上に、幸せは空の上に」という部分があることでしょう。

マルセイユタロットの「愚者」も、上を向いて歩いているわけで、その関心は上方向で、いわば天上にあると言えます。

歌詞の「雲の上、空の上」が何を指す(示す)のか、いろいろな解釈があるでしょうが、マルセイユタロットの「愚者」になぞらえると、それは天上であり、宗教的には神の国、天国、スピリチュアル的には宇宙、大いなる世界、生死でいえば死後の世界、霊的世界、心理的に言えば集合意識、無意識や潜在意識、超越意識でつながる世界、認識でいえば、見えない世界、時間のない世界、永遠の世界、非日常の世界と言えましょうか。

その反対にあるのが、現実や地上的世界、時間の流れる私たちのいるこの世の普通の世界ということになりますが、「愚者」が上を向いているので、彼の関心はこちら、地上的世界にはあまり興味がないようにも見えます。

ところで、人はどんな時に上を向くのでしょうか?

希望を抱いている時、夢を思い描いている時、ワクワクしている時など、比較的ポジティブな状態にいる(なった)場合に上を向くように思いますが、一方で、その反対の落ち込んだ時、我慢している時なども、無理矢理ですが、上を向くケースがあります。まさに、「上を向いて歩こう」のような、「涙がこぼれないように…」というような感じのシーンです。

また、「下を向くな、上を向け!」と言われることもあり、これは、元気を出せ、落ち込んでいる場合ではない、やることをやれと、叱咤激励されるような場合です。

これらから考えると、人が「上を向く」というのは、結局、希望・夢・元気・気の取り直しのような、ポジティブに向けてのものだと言えます。

たとえネガティブな気持ちになっていても、上を向くことで気分が変わり、少なくとも、落ち込み、沈んでいた気分を、なにがしか変えてくれる効果があるようです。

本来、ウキウキ・ルンルンであれば、下を向くことはほとんどないはずです。であれば、上を向いている時の気分を再現するために、あえて上を向くという方法もあるでしょう。

人は動作によって、完全ではなくても、気持ちを変えることが可能なこともあるのです。ですから、上を向くことは少しでも明るく生きようという意思の表れでもあるでしょう。

それで、天上の話に戻りますが、マルセイユタロットの「愚者」は天上に関心があり、そこを目指して旅をしていると言えます。

ですが、大アルカナ、次のナンバー1の「手品師」になると、この人物は斜め下方向を見ていて、「愚者」とは真逆です。

ところが、このふたつを並べてみると、版によって違うとは言え、「手品師」の視線の先、つまりは「愚者」の足元(地上)は、水色にぬられていることがわかります。実は水色はマルセイユタロットでは、天上的なものを示すと言われます。

ここに面白いマルセイユタロットからの示唆・仕掛けがあり、天上を目指していても、地上で学ぶ(経験)することがあり、そして地上にも天上(性)があることがわかります。

要は、陰陽ではないですが、天と地がセットになってはじめて本当の世界・宇宙があると言え、このふたつの統合が鍵であるようにも思えます。

ただ、地上が嫌で、早く天上に行きたいと思う人もいるかもしれません。しかしながら、マルセイユタロットは地上(性)も重視しており、大アルカナでも、かなりのカードが地上性での経験を示しています。

さきほど述べたように、地上にも天上性があるわけで、そのまた逆(天上に地上性)もありなのかもしれません。

私自身も、「愚者」のように、地上より天上志向が強く、上を向いて歩いて、足元、地上が疎かになることがしばしばですが(苦笑)、地上にも天上性があるのですから、捨てる神あれば拾う神ありで、さらに言えば、真の完成には、どうしても地上・天上の両方との統合が求められ、そのためには地上での限定的経験も必要不可欠なのでしょう。

まさに、上を見ながら、下を歩くという「愚者」スタイルです。

それでも、地上では楽しいこともある反面、実際つらいことも多いわけです。ですが、その起伏こそが、天上とは異なる特徴なのだと思われます。

「上を向いて歩こう」の歌詞でも、「悲しみは星のかげに、悲しみは月のかげに」という部分があります。これは、奇しくも(霊性中心の)占星術的に、すごいことにふれていると個人的には思いますが(永六輔氏は意図していないにしても)、ここでは、地上の悲しみ、つらさは星と月の影にあると言っておきましょう。

スピリチュアル的に言えば、まさに星々の影であるのが悲しみで、それはつまところ、幻想であることを示唆しているようでもあります。

悲しみの反対の楽しみ・喜びでさえも、逆に言うとかもしれません。結局は、感じるのは人ですが、それ自体はただのエネルギーの起伏と言えます。

それが地上の限定的・物理的世界では、あたかも本当のモノ・コトのように感じてしまうわけです。

そうは言っても、すべては幻想だからと割り切れるものでもありません。その実際感(リアリティ)からはなかなか逃れることができないものですし、本当につらい、苦しい(楽しい、うれしい)と誰もが感じるわけです。

ですから、せめて、時々、あえて上を向いて(歩く)ことで、地上性の喜びはここだけしか味わえないとかみしめ、逆の、つらさ・悲しみは、天上の戻る(行く)ための旅路、通過点だと思うと、何とか進むことができるのではと考えます。

そして、実は、「愚者」に犬がいるように、私たちは独りぼっちのようで独りぼっちではなく、常に寄り添っている(霊的、あるいは人によってはそれを体現している実際的)存在がいるのだと意識(見つける、見つけようと)することで、自暴自棄になったりするのを防いだり、客観性を得られたりすることもあるでしょう。

最後に、私たちは、本当は誰もが星や月を超えた世界を知っています。

星や月の影を超えたところに、私たちの本当の故郷があるのです。この現実の世界がつらく・苦しいものと思う方もたくさんいらっしゃるでしょう。それはグノーシス的に言えば、本当の場所でないから当然です。

しかし、これまた逆説的になりますが、だからと言って逃避的に生きたり、自らの死を図ったりしても、真に逃れることはできないとグノーシスは教えます。

脱出のヒントは「認識」にあるのです。だから、グノーシス(知ること、認識、叡智)なのです。

それが象徴されているのが、マルセイユタロットだと(私は)思っています。


マルセイユタロット、太陽系意識

マルセイユタロット、特に大アルカナは、自分自身に(他者に対しての場合もあります)気づきを連続でもたらしてくれるカードだと言えます。

まずは、カード一枚一枚の象徴を学ぶ必要がありますが、一通り学習したあとは、各々のレベルや状態によって、気づきがやってくる、あるいは、自ら発見をしていくという形になります。

ですから、基本の知識を入れたあとからが、タロットより学ぶことの本番というわけです。

基本の知識というのは、普遍的・元型的なもので、いわば、誰にもあてはまるような全体的・抽象的意味が多いです。

それでも、タロットカードの面白いところは、個人的にも示唆を与えるということなのです。換言すれば、その人でしかわからない意味とか、教えが出て来るということです。

そして、最初に学んだ全体的・共通的ともいえる意味と重ね合わせて、私たちが個人として生かされている部分と、それが実は全体性とつながり、発展とも関係していることを知って、図形的には円のような感覚・思想が形成されてくる仕組みになっています。

そこで、見方を変えますと(反転させますと)、私たちは新たに気づきとか発見を行っているのではなく、もともと知っていた(あったもの)を思い出す、復活させていたということにもなるのです。

マルセイユタロットの大アルカナ、20の数の「審判」には、復活という意味もありますが、もし、大アルカナの数の順に成長や発展がもたらされるという説を採り入れるのなら、まさに、21という大アルカナ最後の数のカード「世界」の直前で、完全に復活する(思い出す)状態になったことを表していると考えられます。

ただし、最初にも述べたように、タロットカードの象徴性を知るための基本の学習は必須です。それがあって、個別的な気づきもカードから得られるのです。

しかも、個別性と全体性が、システマチックに機能し、配置されている整合性や緻密性がないと、個人と全体の統合への示唆も困難と言えます。それがマルセイユタロットにはあります。

マルセイユタロットが、ある種、この世界の縮図モデルのようなものを描いているとすれば、この世界そのものが、一見、デタラメ、無意味のように思えていて、実はすべてに意味があるのではと感じて来るので、マルセイユタロットも、そのようにできており、やはり高次の設計に基づいていると想定できます。

まあ、あくまで、この世界に意味はなく、ランダム・無秩序な世界であると信じるのなら、(マルセイユ)タロットとこの世界を比較する意味もないわけですが。

しかし、この世界(宇宙)には、例えば物理法則のような、何らかの法則・秩序があることは、一般的に知られています。さらに、私たちがまだ知り得ていないものもあるでしょう。

あくまで、私たちの今の認識レベルが、それ止まりだから法則が理解できず意味のない世界だと誤解している可能性があります。

認識レベルが高度になれば、まだわかってない(知り得ていない)法則やルールというものがわかってきて、理不尽でしかないと思えた運命というものでさえも、見事に規則正しいものであったとわかる日がくるのかもしれません。

ただ、それでは、人生の面白さもほとんどなくなってしまうでしょう。

知らないことは怖さとか不安もある反面、未知部分が残されていると、非常に魅力的で冒険の余地があり、楽しさも生まれます。

そうすると、私たちが生まれて来る理由も、言い方は悪いですが、ゲームのようなものと言えるのかもしれません。

高度なゲームになればなるほど、一筋縄では解き明かせないゲーム設定・ルールがあり、ゲームをしながら、ゲームのルールを解明していくことも同時に楽しめる仕組みになると思われます。

創作ストーリーでもよく言われますが、作者を超える設定はできないというものがあります。

それにならえば、もし、マルセイユタロットが何らかの世界や宇宙の法則を描いていると言っても、それは創作者(たち)を超えたレベルは描けていないことになります。

とはいえ、創作者が相当高度な者(たち)だとすれば、私たちが何とか届きそうなレベルの可能性を、あえて示していることも考えられます。

さきほど、大アルカナの数順に(真の)復活が近づく、すなわち完成していくという話をしましたが、数の大きいカードには、星とか月とか太陽とか天体が描かれています。

ということは、星々、惑星の世界が、私たちにとって高いレベルの世界であると考えることもできます。

占星術的には、天球の世界です。しかし、古典占星術とか伝説的な話には、惑星を超えた世界の話もあります。

推測ですが、もしかすると、大アルカナの最後、21「世界」のカードに到達したとしても、それは星々の世界、もっと具体的に言いますと、太陽系の範囲内をやっと超えるレベルなのかもしれません。

とはいえ、それは大変な次元の上昇とも考えられます。

現実的には、私たちはせいぜい太陽は別として、地球と月しか意識しない世界にいますから、太陽系を超えるということは、壮大な意識の拡大になります。

これは、物理的な距離からみた宇宙の話ではなく、「太陽系」をひとつの象徴や、ひとまとまりのシステムのようにとらえてみる話です。

要するに、私たちの意識は、太陽系の中(範囲)に閉じ込められており、その解放、拡大が言われているのではないかということです。

たぶん占星術をやっている人には、感覚的にも体験してくると思いますが、惑星それぞれの単位時間とか知覚というものがあるはずです。

地球を中心として、月、水星、金星的なものが近いですから、こうしたものは、より身近で強く感じることでしょう。

それが火星、木星、土星、さらには、トランスサタニアンを入れると、天王星、海王星、冥王星と続きます。遠いものは、それだけ希薄に感じるかもしれませんが、逆に言うと、本当は強く、私たちの通常意識を超えさせる何かをもっていると言えます。

物理的な距離の話ではないと言っておきながら、惑星の距離からの影響を述べているのは矛盾しますが、私が言いたいのは、物理的な感覚だけでとらえてはならないということです。あくまで象徴として見るわけです。

このように見てきますと、あまりに現実・個人レベルでタロットを使っていくと、もったいないということがわかります。

太陽系意識を超えることがひとつの目標であるならば、私たちは、包括(統合)した拡大的な意識を持っていく必要があります。

共有感覚を養うというのも、そのきっかけになるでしょう。ですから、ふたつの壺の水を混ぜ合わせている節制」が、数からしても、重要な位置にいるのです。

ところが、その前に「13」というカードがあり、後ろには15「悪魔」というカードもあります。

このふたつは自我に大きく関わってきます。

統合的・霊的な成長を図っていくためには、いきなり全体性へ飛ぶのは危険で、自我の確固とした構築が重要になってきます。

自分というものがなければ、全体性の中で見失い、自己犠牲や、ただの組織の歯車になりかねません。

ゲームにおいても、巨大なラスボスに挑むには、自分の特徴・特技を知って、さらに自分にはない特質を持つ他人と協力し合って、はじめて倒すことが可能になってきます。

真理の解明(というゲーム)でも同様でしょう。

マルセイユタロットの大アルカナの流れには、自我の確立、破壊、再構築、全体への帰納と拡大みたいなものが描かれています。

やはり、マルセイユタロットは、私たちの霊的な覚醒と発展を期しているものだと、何度見ても、私自身は思うところです。


不完全でいい、ただし…

DIYをしていて、指に結構なケガをしてしまいました。

痛いイメージが嫌な人には、申し訳ないですが、実は細い釘(まあ針に近いものなので、大事にはなっていません)で、指を貫通させてしまいました。

ということで、なかなかキーが打ちづらいので、しばらくブログを休止しようかと思いましたが、まあ何とか、短いものを書いてみることにします。

さて、スピリチュアルの話では、人の完全性を説くものがあります。

一説では、マルセイユタロットも、それを示していると言われます。

ただ常識的に考えて、人はとても完全な存在とは言えません。肉体は弱いですし、精神・メンタルも波があります。

人が完全であるのなら、なぜこのように悩みや争いも多く、皆が幸せな世界になっていないのか?ということです。

それに対してグノーシス思想では、この世界は神ではなく、悪魔が創ったからという神話さえあります。

この「神」というのを完全性に、「悪魔」を不完全性に置き換えると、結構、グノーシス神話の語るところが面白くなってきます。

結局、私たちは不完全性を持つからこそ、人間であり、現実という世界に存在することになるのだと思います。

だから、むしろ、完全性をいい意味であきらめるというのも、現実の世界を生きる上での、ひとつの過ごし方・考え方ではないかと考えます。

不完全性・悪魔性を受け入れる姿勢といいましょうか。

実は、タロットの大アルカナはそれを表しているところもあるのではないかとも思っています。

本当のレベルでは、私たちは神であり、完全なる性質を持つものの、その次元にいるのではなく、不完全性がデフォルトである世界に住んでいるわけです。

不完全さは、ペルソナ(仮面)状態と言え、その付け替えも許されているのが現実世界であり、大アルカナはそのペルソナの特徴と、うまい使い方をも表していると目されます。(小アルカナとの併用で、さらに具体化できます)

ただ重要なのは、完全性のある前提で、不完全性を活用するということです。

完全性を無視して不完全性を許容すると、その行いは、不完全世界を理想としたものなって、平たく言えば、その場限り、刹那的、損得勘定的な生き方になってしまうということです。

それは霊性なき活動、肉体衝動中心と言ってもいいです。

ですから、大アルカナ全体で完全性を意識しながら、現実世界では、全部あるから私は完璧だと超然(天使性だけの純粋性に浸るとか、生悟りのような姿勢でいる)とするのではなく、不完全性世界の中にいて、自分も自我的に不完全であることを認めて、大アルカナ一枚一枚を象徴としながら、時と場合による自分に変化させながら生きていくという態度が必要という話です。

完全であるからこそ不完全を知り(知ることができる)、不完全であるからこそ、完全を想うことができる(完全性に恋し、向上できる)わけです。

よく人と比べるから苦しくなると言われますが、上記観点を持てば、人と比べるのがこの世界では自然で、そこに実は壮大な完全性への想起が仕掛けられているというのが、本質的に面白いことなのだと気づくでしょう。

ということで、何かができなくてもいいですし、できるために努力することも、またすばらしいことになります。

そのままでいい(と思う)人はそのままでよく、改善したり、もっと言うと改悪したりしても自由なのが、不完全世界でもあるのです。


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