不完全でいい、ただし…

DIYをしていて、指に結構なケガをしてしまいました。

痛いイメージが嫌な人には、申し訳ないですが、実は細い釘(まあ針に近いものなので、大事にはなっていません)で、指を貫通させてしまいました。

ということで、なかなかキーが打ちづらいので、しばらくブログを休止しようかと思いましたが、まあ何とか、短いものを書いてみることにします。

さて、スピリチュアルの話では、人の完全性を説くものがあります。

一説では、マルセイユタロットも、それを示していると言われます。

ただ常識的に考えて、人はとても完全な存在とは言えません。肉体は弱いですし、精神・メンタルも波があります。

人が完全であるのなら、なぜこのように悩みや争いも多く、皆が幸せな世界になっていないのか?ということです。

それに対してグノーシス思想では、この世界は神ではなく、悪魔が創ったからという神話さえあります。

この「神」というのを完全性に、「悪魔」を不完全性に置き換えると、結構、グノーシス神話の語るところが面白くなってきます。

結局、私たちは不完全性を持つからこそ、人間であり、現実という世界に存在することになるのだと思います。

だから、むしろ、完全性をいい意味であきらめるというのも、現実の世界を生きる上での、ひとつの過ごし方・考え方ではないかと考えます。

不完全性・悪魔性を受け入れる姿勢といいましょうか。

実は、タロットの大アルカナはそれを表しているところもあるのではないかとも思っています。

本当のレベルでは、私たちは神であり、完全なる性質を持つものの、その次元にいるのではなく、不完全性がデフォルトである世界に住んでいるわけです。

不完全さは、ペルソナ(仮面)状態と言え、その付け替えも許されているのが現実世界であり、大アルカナはそのペルソナの特徴と、うまい使い方をも表していると目されます。(小アルカナとの併用で、さらに具体化できます)

ただ重要なのは、完全性のある前提で、不完全性を活用するということです。

完全性を無視して不完全性を許容すると、その行いは、不完全世界を理想としたものなって、平たく言えば、その場限り、刹那的、損得勘定的な生き方になってしまうということです。

それは霊性なき活動、肉体衝動中心と言ってもいいです。

ですから、大アルカナ全体で完全性を意識しながら、現実世界では、全部あるから私は完璧だと超然(天使性だけの純粋性に浸るとか、生悟りのような姿勢でいる)とするのではなく、不完全性世界の中にいて、自分も自我的に不完全であることを認めて、大アルカナ一枚一枚を象徴としながら、時と場合による自分に変化させながら生きていくという態度が必要という話です。

完全であるからこそ不完全を知り(知ることができる)、不完全であるからこそ、完全を想うことができる(完全性に恋し、向上できる)わけです。

よく人と比べるから苦しくなると言われますが、上記観点を持てば、人と比べるのがこの世界では自然で、そこに実は壮大な完全性への想起が仕掛けられているというのが、本質的に面白いことなのだと気づくでしょう。

ということで、何かができなくてもいいですし、できるために努力することも、またすばらしいことになります。

そのままでいい(と思う)人はそのままでよく、改善したり、もっと言うと改悪したりしても自由なのが、不完全世界でもあるのです。

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