スピリチュアル
マルセイユタロットと関係するものたち
マルセイユタロットには、古代からの密儀や秘められた歴史の象徴性が詰まっていると言われています。
それらは、マルセイユタロットそのものではありませんが、マルセイユタロットが何の目的で作られたのか、何を伝えようとしているのかを考察するうえでは、大変重要なものになります。
ただ、普通では、タロットはカードゲームの一種として作られ、使われたと見るのが正当なものになっていますし、占いに使う道具だという認識でさえ、結構新しい時代のものだと考えられ、やはり、タロットに何かの教義や思想、哲理、宇宙的な法則のようなものを見出すのは、異端といえば異端なのでしょう。
異端といえば、マルセイユタロットに関連するもので、中世ヨーロッパ、特に南仏地方を中心に広く信仰されていた異端キリスト教、カタリ派が思い浮かびます。
同時に、ほぼ同じ時代にヨーロッパで活躍していた神殿騎士団(テンプルナイツ・聖堂騎士団)も、最終的には異端派とされましたから、カタリ派とともに、中世ヨーロッパの裏面を見るには、また、マルセイユタロット的にも、はずせない派・団だと言えます。
私のタロット講義においては、当然ながら、カタリ派と神殿騎士団についても詳しく話しますが、このほかにも、隠されたものとしては、マグダラのマリア(イエス・キリストの妻であったと秘教的にはされている人物)関連の話、それに続く、一連の太古から続く女神崇拝、そして、グノーシス(神性の内在性を認識する教え)、聖杯伝説など、結局のところ、すべてはつながってくる話となります。
元をたどれば、この手の話は、エジプト、メソポタミア地方などの、古代の聖性や儀式、秘匿された高次の知識・智慧に行き着きますし、さらにいえば、最後には地球そのもの、宇宙そのもの、人とは何かということまで考察することになってきます。
ただの絵のついたカードというのに、見ようによっては、はなはだ壮大な世界観が内包されていると言えるのが、マルセイユタロットなのです。
ちなみに、今、日本でもっとも(占いに)使われているカードは、おそらくウェイト版(別の言い方ではライダー版)のタロットですが、そのタロットにしても、作られたのは20世紀初頭の話で、作成した人も団体(組織)もはっきりわかっている代物ですが、マルセイユタロットはそれに遡ることおよそ200年前であり、しかも誰が最初に基盤を作ったのかは、よくわかっていないところがあります。
それだけ、マルセイユタロットは古い時代の、普遍的でいながら、隠された何かを伝えているのだと考えられるわけです。
もちろん、古いものがいいと決まっているわけではなく、現代人の価値観では、むしろ新しいほうがよくて進んでいるという感覚でしょう。
私自身も、無条件に古いものがいいと言っているわけではなく、今の人が失った体系(システム・考え方・認識方法)が昔にはあり、それをそのまま復活させるのではなく、今とこれからに向けて、リニューアル・リバイバルさせ、かつてとこれからを今に融合・統合させて、真の意味でバランスのよい進化を果たしていこうという思いでいます。
そのツールとして、最適なもののひとつに、マルセイユタロットがあるということです。
そして、古いものと新しいものという考え方そのものが、過去から現在、未来へと、直線的な時間の流れで見ていく価値観に沿っています。
時間と空間は密接に関係しており、時間の感覚が変われば空間認識も変化すると予想されますので(その逆も言えます)、古代のものを今によみがえらせること(古代の認識のシステムを今に思い出すこと)は、これもまたひとつの「統合」といえるもので、二元の異質なものが統合されれば、新しい何か(境地・次元)として、一段上に進むことができると考えられます。
古きを知ることは、実は新しい流れに向かうことにもづながるのです。まさに温故知新というところでしょうか。
ところで、カタリ派と神殿騎士団には、日本に関連しての、ちょっとスピリチュアル的・メルヘン的な話があります。
まず、ふたつについて簡単に説明しますと、
カタリ派というのは、人間や世界を物質と霊の二元として分け、自身を浄化し、霊的なものに回帰することを説く、グノーシス的色彩を帯びた中世ヨーロッパのキリスト教異端派を言います。
清める意味のカタリから名前が付けられ、当時は南仏を中心に、かなりの信仰者がいましたし、一種の民衆運動、地域の独立運動のような状況にもなっていました。
一方、神殿騎士団は、キリスト教の聖地エルサレムを奪還するために組織された十字軍を機に、エルサレムの神殿(ソロモン王の神殿)あとで結成され、その後、中世ヨーロッパで大いに権勢をふるったと言われる騎士階級を中心とする組織です。
神殿騎士団は、最終的に異端派とされて、逮捕のお触れが教皇庁から出されましたので、騎士団たちの信奉している教えは、キリスト教(カトリック)のそれではないと噂されています。その教えが、やはりグノーシス的な異端のものであったのではないかと考えられているところがあるわけです。
それで、前世療法をする方に聞いた話では、不思議と、このふたつのどちらかに属していた過去世を持つ、日本人の方が少なくないというのです。
それも、日本の東では神殿騎士団、西ではカタリ派の記憶やデータを持つことが比較的、傾向としてあるようです。
カタリ派の滅亡のことを小説として書いた、佐藤賢一氏の「オクシタニア」という本がありますが、その中で、面白いことに、カタリ派の人が、関西弁でしゃべっているシーンがあります。
日本人は、南仏に、あこがれや憧憬のような気持ちを持つ人もいて、前にも書きましたが、日本の女性に商品の購入者が多いと聞く、南仏発のコスメティックの会社ロクシタンも、そもそも「オクシタニア」という南仏の地域を指す言葉から来ています。(オック語が話される地域)
まあ、こうしたものは単なる偶然や、冷静に考えれば、たいした話でも何でもないのかもしれませんが、マルセイユタロットを愛好する者としては、何かの因果や因縁、つながりを感じるものです。
もう少し、非科学的、メルヘン的な話をしますと、世界にはおよそ、表と裏に分かれる、二元の関係性があり、それは立ち位置というか、好みと言いますか、輪廻転生を過程しても、どうも、表で普通に暮らしたり、支配構造に回る人たちと、裏で支える側とか、秘めていく側に回る者たちがいるように思います。
もちろん、バランス的には、その立ち位置を変えて、過去世から相互に繰り返していることも考えられますが、それでも、何か個人の特質のようなものがあるように思うわけです。
マルセイユタロットを好む人は、このうち、裏や影側といいますか、カタリ派や神殿騎士団のことを見ても、異端として弾圧される側に回ることが多かったので、どうしても、そういうデータを受けついでいるところがあるように思います。
それは、よい面も悪い面もあるでしょう。
もっと細かく言いますと、二元の中に、さらに二元の立ち位置があり、表でも裏の人、裏でも表の人、表中の表の人、裏中の裏の人という次元や立場があるものとも想像できます。
それによって、時には、表面的には裏切り者となったり、スパイになったりというネガティブなこともありますが、深くには、両面のバランスの調整ための重要な役割になることもあり、ポジティブなケースで言えば、異端ながら組織や社会に貢献する人(普通とは違う発想や行動力があることで、発明や革新をもたらすことができる人)になる場合もあるでしょう。
さて、あなたはどちらの傾向にひかれたり、実際の立場として置かれたりすることか多いでしょうか?
そんなことも夢想(笑)できるのが、マルセイユタロットの面白いところでもあります。
自分の夢は他人が叶えている
近畿の台風、北海道での大地震と自然の猛威が続き、日本に不安も広がっています。
災害で被害を受けられ方のお見舞いを申し上げるとともに、お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りいたします。
もはや、日本のどこにいても安心できない状況ですが、個人的には、個々人の限界もあるので、全体で日本を支え合うシステムが必要かと思っています。
あと、私は、昔、祈りなど現実的には効果がないと思っていた時代もありますが、心の不安は、少なくとも身体に影響はしますし、祈りによって、心が穏やかになるのであれば、たとえ現地や災害当事者方々に効果はなくても、祈っている本人には、何らかの落ち着きに向かわせるものがあると考えられますから、決して全くの無駄ではないと思います。
ただ、祈りのスピリチュアル的な効果から見ますと、不安のままに祈るより、まず気分を静めて、まだ大丈夫で守られている自分を思い、その感謝の気持ちのようなものが起こってから、土地や現地の方々のために祈るのがよいのではないかと思います。
つまりは、不安や恐怖の気持ちで祈ると、そのまま反映されてしまう恐れがあるということですね。これは、マルセイユタロットでの「月」を見て感じたことです。
人々の思念は、何らかの形では現実に反映されるのは、非科学的なようでいて、いずれ、その仕組みがわかる日が来るのではないかと思いますし、古代の人が大地を静める儀式をしていいたのも、迷信でやっていたわけでない、何らかの根拠があるはずだと想像できるからです。
さて、今日のテーマです。今日は、「自分の夢は他人が叶えている」のではないかというお話です。
若いうちはまだわかりませんが、中高年の年齢になってきて、ふと、自分の周囲(友人や知人など)を見ますと、意外なことに気づくことがあります。
それが、先述の、自分の夢が、他人によって叶えられているということです。これは負け惜しみとか嫉妬の気持ちでの、悪い意味で言うのではありません。
ここで言いたいのは、自分と他者のつながり、全体性の不思議さというものです。
タロットからでも言えることですが、よく、「他人は自分の心の鏡」ともたとえられ、そのようなことが、自分の抱いていた夢でも現れるのかもしれないという印象です。
皆さんもちょっと考えてみてください。自分がこういう職業につきたかったとか、こういう生活をしたかったとか、こういうことを叶えたいと思っていたことが、おそらく、自分の周辺で、まずそのひとつを叶えている人を見つけられるのではないかと思います。
また、もし世界中にその範囲を広げてみれば、誰かがきっと、あなたの夢を実現している人がいるはずです。
当たり前といえば、当たり前のような話なのでずか、それにしても、ちょっと不思議に思う話でもあります。
果たして、自分の夢や願望というものは、いったい、どこから来ているのでしょうか?
もっと言いますと、自分個人の夢・願望というものは、本当にあなたのものなのでしょうか?
あなたの周囲、あるいは世界の誰かが同じような夢を見ている人がいて、それを叶えている人もいる、ということは、夢や願望は、人類に共通のパターンとかシナリオのようなもの(イメージ・元型)があり、それがダウンロードされて、願望となってくるのではないかと思うこともできます。
それでも、ひとりひとり、願望や夢が違うのは、やはり個性を持って生まれているからで、その中でも、共通した要素で括られて、そのグループ・特徴ごとにダウンロードされる夢のパターンが異なるのだと考えることもできます。
残念ながら、その夢を実際に叶えられるのは、その中の一握りの人なのかもしれません。
もし全体のシステムとして見た場合、その(夢の)データのある大元が「ひとつの巨大な思念体、または中枢コンピュータ」みたいなものだと想定できます。まあ、神とか宇宙とかと言ってもいいのかもしれませんが、そういう個人や時空の枠を超えた大きな何かです。
それ自体が夢を持つ(夢を見る)と考えましょう。想像の創造と言い換えてもよいです。
ただ、人間個人のように、ひとつの夢をその人のやり方で叶えていくだけでは、夢自体の現実的完成が保証できません。たった一人では、それが実現するかは心もとないわけです。(笑)
それで、夢のグループを作り上げ、多くの個性に任せて、どのように夢を現実化するかを見ます。それは保険のようなものでもありますし、一人一人のドラマが生み出される興味や面白さもあるでしょう。
こうして、私たち側からすれば、ひとりひとり、それぞれで頑張って、夢・願望を叶えようとしますが、現実には、うまく行く人もいれば、うまく行かない人もいて、悲喜こもごもの人生が形成されます。まさにひとりひとりの人生劇場です。
きっと、夢の型グループのうち、誰かは叶えられる使命というか宿命はあるのでしょう。ゴールは、ひとつはあったほうがいいでしょうから。
そういう選ばれた(人生の途中からでもありえると思います)人は、夢を現実に叶えることができます。
では、選ばれなかった人、または、頑張っても夢が実現しなかった人はどうでしょうか。
確かに、個人で見ればその通りで、人によっては夢の実現という意味では失敗人生と思う人もいるかもしれません。
しかし、グループや全体から見れば、その人も夢の実現者の一人であり、貢献者でもあるのです。
グループは競争システムで実現を進ませるのではなく、おそらく、共有エネルギー場のようなものがあり、ひとりひとり役割が違っても、元型の夢の実現には役立つようになっているからだと考えられるのです。
夢のグループは、一見、まったく自覚できないように見えますが、裏を返せば、自分がある願望・夢を抱いた時点で、その夢のグループに入っていることになりますから、逆の発想をすれば、簡単にグループを見分けることができます。
自分が夢を抱けば、当然、その夢の実現に対して興味が出ますから、それを実現している人や、実現しようとするための仕組み、事柄に目を向けたり、行動したりしていくことになります。
誰も抱いたことのない夢というのもあるかもしれませんが、それでも似たようなもの、またはヒントになるような発想とか、事象はあるはずです。それが夢のグループとして、見えないところで組織されているのかもしれないのです。
また、夢のグループの中でも、きっと、あなた(自分)にしかできない表現があると思います。それが個性を持っている特色でもあります。
この現実世界は、全体からすれば、半分(一部)しか認識できない(わからない)世界と言われます。逆に言えば、真実は隠されている(認識できない)ところもあるわけです。
もしそれがわかれば、自分の夢や願望が叶わなかった意味や理由もわかるでしょうし、本当は叶っていたことも知るかもしれません。
もっと言えば、グループ、あるいは全体性の意思と合一すれば、それは自分と同意になりますから、自分の夢は叶えられていたことを味わうことができるのだとイメージできます。
修業的なことをしている人では、その境地を、現実の個人で生きている世界において経験できるので、いつも満ち足りた気分になることもできるのではないでしょうか。
そういうことをしていなくても、色々な人を見ていますと、普通の私たちにおいても、思考・感情、人生の経験、その他を通して認識力をあげていくことで、ある程度は似た状態を実感することも可能な気がします。
夢のグループがわかってきますと、不思議なもので、競争意識より、むしろシェア的な気持ちや、人を応援する気分が出てきます。
人々はやはり奥底ではつながっているものだと、こういう面からでもわかることがあるのです。
ネガティブを弱めるグッズ
人は想念の世界にも生きていますので、その(想念の)力が現実に作用することがあります。
精神やサイキックの世界では、そうしたことが普通に行われているものです。まあ、もちろん、悪用する人もいれば、よいことにも使えるわけで、力自体は中立であり、要は、その人の使い方次第、つまりは思い方次第ということですね。
皆さんも、心や思い方で、自分が変わって、それに伴い、人生や現実も変わるという話は、よく聞いたことがあると思います。
それだけ、人の持つ想念や心の力は強いものがあるわけです。
しかし、どういうわけか、人間は、ポジティブに思うことが難しく、逆にネガティブに思うことは易しいという特徴があります。
おそらく、これはもともとのことではなく、人間の歴史が作り出してきた、想念の癖のようなもの(になってしまっているもの)ではないかと推測されます。
本来は中立といいますか、むしろ愛や喜びで満たせる(満ちている)存在が人間だと思います。ただ、何かの影響で、不安や恐怖、心配などのネガティブなほうに誘導しやすい心の作用が働くようになっているのでしょう。
それに対抗するには、根本では、ネガティブ思考に舵を切らせている「何か」に気づき、それを浄化・解除する必要があると思うのですが、これはたぶん、一人だけの問題ではなく、人類全体に関わる大きな意識層のブロックがあると考えています。
それでも、一は全、全は一といわれるように、自分の解除が、全体の解除に結び付くこともあるのではないかと思います。
しかし、今日は、そういう全体的な話というより、個人それぞれができる簡単なことを述べてみたいと思います。
まず、考えとして大事なのは、常識を疑うということです。
タロットカードの「吊るし」ではありませんが、逆や反対のことはどうなのか? それは間違い、いけないことと必ずなるのか?と思うとよいでしょう。これはひねくれてやる(自分の正しさを主張するためにやる)のではなく、純粋に、素直に逆さまも考えてみるということです。
みんながそう言っているからとか、それが普通でみんなやっているからとか、そういう「みんな」は現実にはいないもので、いわば集団幻想規範のようなものです。
あなたはあなたという個性を持ち、みんなは違うのがこの世界でもあります。ということは、あなたの世界はあなたにあるわけです。
そうした見方が、ネガティブに誘導されるエネルギーからの解除のきっかけになることもあるでしょう。
あと、具体的には、幸運グッズを持つこともよいです。
あ、これは、よく雑誌の巻末とかに広告で掲載されている、お金を引き寄せる財布とか、恋人ができるアクセサリーとか、そういうものを言っているのではありません。しかし、ちょっと似ているところはあります。(苦笑)
ここで言っているのは、自分がそれを持っていると、安心したり、落ち着いたり、ポジティブになれたりするグッズです。
じゃ、やっぱり幸運グッズじゃないですか、と言われるかもしれませんが、さきほども述べたように、ああいうものと似ていると言えば似ているわけで、しかし、そんな大金払わなくても、たぶん、皆さんは持っていますよ、ということなのです。まあ、劇的な効果を謳うわけではありませんが。
自分が心配になったり、ネガティブになったりする時に、それを握ると安心するとか、それを見ると落ち着くとか、前にピンチの時には効果があったとか、そういうものが、ここでいう幸運グッズです。
むしろ、幸運グッズというより、精神安定グッズ、中立化グッズみたいなものですし、タリズマン(護符)のようなものと言ってもいいでしょう。
お金や恋人を引き寄せるのではなく、ネガティブな思考を中和させたり、それ以上、ネガティブな想念の力を増大させたりしないためのモノです。
これは心、想念の世界に関係しますから、いかに、自分がそれに対して思いがあるかによって、効果が違ってきます。そういう意味では、自分が信じているモノというのが、いいわけです。
例えば、神社・お寺のお守りなどは、霊的な力もあることはありますが、持つ人の想念のリアリティ感(効果がある、あの神社のお守りだからスゴイとかの実際の思い)が、現実に効果を及ぼすとも言えます。
小さいこどもは、それがぬいぐるみであったり、タオルやハンカチであったりします。これは、母親などの代わりになっているもので、その子にとっては、それがないと安心できないですし、あれば、本当に安らぐわけです。
ですから、大人であるあなたにとっても、それがペンでも、石でも、あなたが安心できる、これはすごいと思えば、それはネガティブ思考の防御になるのです。
ちなみに、私は、タロットがそれにもなっています。その効果は大きく、タロットをさわっているだけで、ずいぶんと心が安定するのを感じます。(マルセイユタロットには単なる心理効果以上のことが隠されてはいるのですが、それは今日は省きます)
タロット好きな人は、たいていそういうところがあるでしょうし、何もタロットでなくても、カード好きの人ならば、自分が使って信頼しているカードならば、自分を守ってくれる天使のような役割をするでしょう。
私も、不安が高い時は、リーディングではなくて、守護としてカードを引き、そのエネルギーを感じて、ネガティブなものを浄化していくことがあります。不思議と、そういう時は、それにふさわしい意味のカードが出るものです。
何度も言いますが、これは、想念の世界とリンクしますので、そのグッズを単なる機械的・物質的なものとして見ていては、ほとんど効果はありません。それへのリアルな思い(感情に近いもの)があるかどうかが重要です。
まあ、しかし、こういうものもあくまで補助ですので、それに依存し、願い事を叶えてくれるみたいな、それこそ、雑誌なんかで宣伝され、けたたましく売られているグッズのように思うと、かえって囚われてしまうので、注意が必要です。
いい機会ですから、ちょっとだけ幸運グッズの弊害を言っておきましょう。
大仰に宣伝されている幸運グッズを持つと、最初は効果があるように思うこともあるかもしれませんが、次第にそのグッズへの過剰な依存になり、実は、自分のエネルギーがそのグッズに奪わていくことになります。
そうすると、グッズのほうはエネルギーを持ってきますが、そういう力が入ると、必ずしも、いい方向にそれが使われるとは限らず、つまり力が強い分、悪いほうへ働く(共鳴する)力も強くなるわけです。
たとえば、お金がほしいと思って買った金運強化財布が、金運というエネルギーではなく、あなたの「お金がほしい」という強烈な想念のエネルギーを吸い、そうしたネガティブ(お金がほしいという、つまりはお金の不足)の状況に共鳴してくるようになるわけです。
まあ、心の底から、楽しくお金を使い、「金運財布さん、ありがとう」みたいな感じでやれる人は、効果もポジティブにあるかもしれません。
でも、たいてい、金運財布を買う人は、お金や態度に余裕がなく、切羽詰まって買う人が多いでしょうから、なかなか効果的なものにするのは難しいわけです。恋人引き寄せみたいなものも同じだと考えていいでしょう。
何より、外のものに依存すると、自分自身の内にある力から遠ざかり、いろいなものに影響を受けやすくなり、ますます自分に自信を失い、自分自身を生きられなくなります。
ということで、安全には、ほっとしたり、中立化したりするくらいのグッズを持つ程度がよいかと思います。
タロットを何の書物とするか。
タロットというものをどうとらえるかによって、実は、この世の中に対して、厭世的な見方になるか、楽天的なものになるかも決まってくるかもしれません。
そして、タロットを使うことが、安全か危険かという観点にしても、タロットへの考え方によると思われます。
ここからは、ちょっといつもより、スピリチュアルな話になりますので、あまり、この手の話に共鳴できない人は、今日は読まないほうがいいでしょう。
さて、皆さんは、この地上世界、言ってみれば地球の生活・(現実)世界は、どのように感じられているでしょうか?
とても楽しかったり、美しかったり、生きていることがすばらしいと思える人もあれば、つらく、苦しいことばかりの世の中だと感じている人もいるでしょう。
本人はまあまあだなと思っていても、世界全体を見回せば、戦争や争い、犯罪や残酷なことも少なくない世の中です。また、いろいろな意味で不公平や矛盾にも満ちているように見えます。
あるいは、世間の人は普通によい暮らしをしている(幸せな)人が多いのに、自分は不幸だ、厳しい人生にいると思っている人もいるかもしれません。
ここで、結局、自分の感じ方次第といえばそれまでで、もし、すべて自分が見ているものは、自分の(作り出した)幻想だとすると、外側の世界は自己の投影像みたいなもので、世界が悲しいところと感じるのは、自分がそう決めているからだと考えることもできます。
では、自分が幸せで満足、平和な状態になれば、実際の外の世界もそうなるのかというと、これは究極的な問いであり、難しい問題です。
なぜなら、誰も、他人の本当の気持ちや、その人の見ている世界がわからないからで、誰か(の内)が平和になったから、世界が平和になったという検証は、ほかの人からは、できないわけです。
その誰か、他人でさえ、自分の生み出したものであるかもしれないのならば、つまるところ、すべては自分に帰結することになります。
で、この「自分が世界(自分が創造しているのが世界)」ということは、ひとまず置いておき、私たちが、誰もが共通して見ている実在する現実世界があると仮定します。
すると、やはり、自分だけではない多くの他人にいる社会や世界があり、それがすばらしいと見えるか、あまりそうとは思えないと見えるかの違いは、人によって出で来ると思います。
最初に述べた、厭世的か楽天的かということでいえば、この現実の世界から逃れたいと思うか、この世界を楽しみたいと思うかの違いのようなものです。
そこで、(マルセイユ)タロットです。
実は、タロットは、この世界から逃れるための書物と取る立場と、この世界を充実して生きるため(あるいは遊ぶため)の指針とする立場と、大きくわけて、ふたつの考え方(とらえ方)があるように思います。
スピリチュアルな考えの人には、「私はなになに星(系)から来た」みたいな、魂の宇宙人説を唱える人がいます。
そして、たとえそれであっても、ふたつの立場があり、この地球を楽しむ(遊ぶ)ために来たという人と、地球を修行の場と見てあえて鍛えるために来た、または何らかの要因で、地球に落とされた(いわば刑務所のようなところに囚われた)という人がいます。(地球の人を救いに来たという人もいますが)
要するに、ここでも楽天的に地球旅行をしに来たというような見方と、苦しい修行や何か浄化・服務のために来たという厭世的・悲観的な立場があるわけです。
何にしても、楽天的にとらえたほうが、何事も楽しいのは間違いありませんが、どうしても楽天的になれない人もいるような気がします。
メンタルを鍛えたり、浄化したり、あるいは強く洗脳されたりすれば、楽天性が出るのかもしれませんが、現実を直視すればするほど、そう楽天的になれない部分もあるのではないでしょうか。
「どうせなら楽しんしゃえ!」と能天気になれる場合は別としても、現実的に、ここ(地球・現実)にいるのは仕方ないのだから、それこそ、この環境で、やれること、できることに注力して、少しでも自分の生活と、できれば周囲の世界をよくしていくのがいいというのが常識的だと思います。
そのためにタロットを使うという立場があってもいいでしょうし、もしタロットを使わなければならないとすれば、実際(現実・地上生活)をよくしていくためのものとして使うのが、普通になるのも当然といえます。
それは端的にいえば、占い的な使い方と言ってもいいかもしれません。
これは、現実の自分、地球にいる自分を地上に適応させて行こうという方向性でもあるので、当然地上(地球)と結びつき、いわば安定を求めるものなので、地球生活的には安全な使い方と言えます。(ただメンタル・精神の世界で見た場合、もし占いを依存的に使用する場合は、安全とはいえませんが)
一方、「この世界は本来、自分のいるべき世界ではない」という違和感があり、「この地球の現実は厳しすぎる、悲惨なことが多く、レベルが低すぎる」という見方をする人は、タロットを現実・地球からの脱出という神秘啓蒙書のような目で見ます。
しかし、そのような人でも、実際には肉体をもって、地球・地上生活をしなくてはならないので、そことのギャップ、葛藤に常に苛まされます。
人によっては、肉体的な問題(病など)が出たり、精神的にバランスを崩したりする人もいるかもしれません。
なかなか現実・地上との折り合いがつかず、そのために、現実逃避になったり、上記のような肉体・精神のバランスを取るのが難しくなったりするわけです。
この意味で、タロットを地上(地球)脱出の書として扱うことは、常識的に見て、危険でもあるわけです。
しかし、タロットはさすがに、ただの啓蒙書ではないところがあり、いきなりの脱出を示唆せず、順を追っての脱獄(笑)を示しているように思います。
そのひとつは、大アルカナと小アルカナに分かれていること、大アルカナでも、地上生活を示唆する絵柄が半分はあることなどからわかります。
すべては、一元から二元の分離と還元ととらえれば、星や天に帰りたいと思っている人でも、悪いことばかりではなく、地上・地球に来た、よい意味が何かあるはずです。
そして、一足飛びに帰るのではなく、たとえ、ほかの楽天的な、地球観光を楽しんでいるような人にはなれなくても、段階を追って、地上生活に何とか順応(妥協)しながら、脱出していく方法があるのだと考えられます。
あまりに物質・地上的ものを忌避していると、お金や肉体の問題に悩まされ、そこ(地上・肉体)からすぐに抜けられないのですから、苦しい状態を現実に生み出します。ボディ・フィジカル部分も、ないがしろにはできないということです。
それでも、本当の故郷や目指すべきところへ帰還するためには、やがて物質や肉体を超えていく必要があると考えられます。地上的・地球波動になじみすぎると、目的を忘れ、麻薬摂取したような、酩酊と欺瞞な状態に浸かることになるでしょう。
郷(地球)に入りては郷(地球)に従えの気持ちや実践をしながら、奥底では、帰還の志をいつも持ち、忘れないというのが、脱出のためには重要ではないかと考えます。
現実的には、自分が他の星の生まれ(魂を持つ)とか、この世界が本当の世界ではないと思う、というような考えは、言わば、中二病みたいな(苦笑)もので、一般的にはバカらしいものですが、しかし、この考えでもって、救われる心があるのも事実だと思います。
あなたの感じている、地球・地上生活での違和感は、本物かもしれないということです。
中にはもう、この星(地球)の生活にはうんざりだと思っている人もいるかもしれません。(ちなみに輪廻転生説を入れると、地球に輪廻転生することは、一時的退避ではあっても、真の脱出はしていないことにもなります)
常識や多くの人が感じたり、思ったりすることが、正解とは限らないのです。
けれども、やはりこの世界に存在しているわけなので、まったくの現実逃避をしていては始まりません。囚われているのなら、解放や脱出の手段を講じていく必要があります。
マルセイユタロットは、もしかすると、そうした者たちへの脱出指南書かもしれないのです。(ということは、脱出した存在から、もたらされたものの可能性があります)
さらに言うと、マルセイユタロットに出会う縁も、脱出の機縁と関係があり、この世界の牢獄性に心が気づいている(魂が覚醒しはじめた)からかもしれません。
とはいえ、それは、あくまで、タロットをこの世界からの脱出や、あるべきところに帰還するためという話に共鳴できるタイプの人です。
普通は、占いやリーディングに興味をもって学ぶとか、自己変革でも、そういうスピリチュアルな脱出の話ではなく、心理的・現実的に自分を見つめて、変化・変容させたいというものになるでしょう。それはそれでいいのです。
まあ、どれであっても、マルセイユタロットはそれ相応の力と効力を発揮してくれるところが、また面白く、すごいところです。
幸せは、自分が幸せになることでしかない。
スピリチュアル系、あるいは心理系の話で、自分が幸せになること、イコール、世界の平和、他者の調和にもつながるというものがあります。
簡単に言ってしまえば、何より自分が幸せになること、自己の幸福感が第一だということになります。
ところで、仏教用語に「天上天下唯我独尊」という言葉があります。これを、ある悟り的な境地を示すとするか、戒め風な解釈と取るかについては、出典はともかくとして、人それぞれだと思います。
なぜ、この言葉を出したのかと言いますと、さきほどの、自分の幸せが第一ということの意味について、まさにこの言葉と関係すると言いますか、その解釈の違いで似たことになるからなのです。
もし、「天上天下唯我独尊」が、天上・天下(天地あらゆる世界)において、私という存在はただ一人であるという意味だとして、その一人というのが、個性やオリジナリティを象徴するのか、はたまた、すべての人は私であり、あなたであり、ただひとつの存在でしかないのが本質だとするのか、さらには、ワールドイズマイン、世界は私であり、私は世界なので、私を中心にすべてが回っているから我に従えというような、傲慢な態度、自己陶酔の極致を示すのかによって、まったく解釈が変わってくることになります。
同様に、自分の幸せが第一という意味も、別の解釈をしていくと、
1.自分が幸せになることで、すべてが幸せに見えてくる
※裏返しで、自分かせ不幸だから、他者も不幸に見える、不幸な出来事にフォーカスされる
2.自分の幸せが一番だから、他者は私が幸せになるよう貢献・奉仕すべき
3.自分はすごい幸せな人なので、自分についてくればあなたも幸せになれる
4.世界・宇宙は自分というか、ただひとつなので、自分の幸せは、ほかの幸せとならざるを得ない
5.自分の幸せは他者から与えられるものではなく、自分自身によるもの
などが考えられます。
おそらく、どれが正しいとか間違いなどはないと思います。例えば、アンケートをしてみて、一番多いものが正しいのかといえば、そうではないでしょう。
結局、自分が一番しっくりするものが、あなたの答えとなるわけです。
ただ、このように列挙すると、パターンは見えてくると思います。
1と4は本質的には似ています。自分の思い込みで悟りもどきというか、自己洗脳みたいにするレベルか、もっと高いレベルで「一」なるものを実感するかによる違いと言え、どちらにしても自他一体感の中に幸せの波動の同調性を生み出している感じがします。しかし、一歩間違えれば、先述したように、洗脳や陶酔、熱狂を生み出しかねない姿勢です。
2と3はタロットで言えば、「悪魔」のカードのようなもので、自己存在(エゴ)を強固に拡大、肥大させたもので、自分の独特の世界を作り、自分の幸福感に他者を巻き込ませるような形です。ただ、巻き込まれている人も、一種の幸せ感を味わっており、見ようによっては、関わっている人、皆幸せであると言えます。(つまり、本当の世界の幸せではなく、中心人物が作りだした世界観においての世界(幻想・内部世界)での幸せを共有している状態)
そして、5は心理的な見方・要因で考えたものと言えます。力(タロットの「力」とも関係)の扱いや自他の責任といったことにも関連します。
他人や外の環境・状態から幸せが与えられると思っている人は、幸せの拠り所が外側なので、いつまで経っても外の状況に自分の幸せ感が左右されるという、根本的な幸せ感の心理的所在問題について言及しているものです。
結局、自分が幸せを選択すること、他人や外の状況にかかわらず、自分自身が幸せだと思う状態になればよいわけで、それは自分の側に選択権や力のコントロールレバーがある状態です。ということは、自分の幸福・幸せが第一だと言い換えてもよくなります。
しかし、1から5のどれをとっても、自分の幸せが第一というのも、強く思いすぎると、バランス的におかしくなるおそれは秘めています。簡単に言えば、低次のわがままを生み出しかねないということです。
それでも、究極的なことを言えば、幸せとは、現実に生きている限り、自分が感じるものです。たとえ他者が幸せであることを第一だとしても、それは、「他者が幸せであることが自分の幸せ」(と自らが感じること)なのですから、つまるところ、自分の感覚によるわけです。
すると、万人が幸せになるという(客観的な)ことは、現実的にはあり得ないことがわかります。なぜなら、幸せとは先述したように、個人的な思い・感覚の中にあるものだからです。どんなに環境を整えても、誰か一人はそれを幸せだと思わない人が必ずいるはずです。
ですから、言い換えれば、幸せは主観でしかなく、その(幸せの)存在は一人一人の内にあるのです。
そこで、さらに考えてほしいことがあります。
例えば、世界でも人気の「ナルト」という忍者漫画・アニメでは、最終戦争みたいな時に、地上の全員が幻想の幸せ感・イメージの世界に取り込まれるという敵の忍術が出ました。それは一人一人、幸せ・幸福だと思えるエピソード・ストーリーに閉じこめられるというものです。ですから一人一人、幸福のストーリーは違うわけですが、それでもその術がさめない(解けない)限り、一人一人は確実に幸せを味わっているのです。
主人公たちは、これは空しい仮の幸せだと嫌い、正しい元の世界を取り戻そうとしますが、その状態は果たして完全に不幸、悪だと言えるのでしょうか? 確かに他者から与えられているので、先述した5の理由としては、間違っている幸せですが、それでも、偽・仮想ではあっても、それぞれ本人が感じている意味では本物の幸せなのですから、あながち、間違っているとも言い難いです。
「マトリックス」という映画でも、卵状のカプセルに一生閉じこめられ、エネルギーを奪われる代わりに、幻想の世界で喜怒哀楽、悲喜こもごもを味わえる仮想現実世界に、人類が取り込まれていたことが描かれました。
もしその仮想世界で、一人一人、幸せになる物語を経験できることになっていたら、それは万人に共通の幸せ王国、天国になっているかもしれません。その他、映画やアニメなどでは、バーチャルな世界での幸せと、現実での幸せについて描き、幸せの定義を投げかけている作品は多くあります。
話はそれましたが、このように自分の幸せというものを見つめていくと、いろいろなことに気がついてきますし、時には、わけがわからなくなることもあります。
究極的に自己が幸せと感じるもの、判断することが、どんな幸せの種類であろうと左右しているのであれば、自分が幸せになることが第一という考えは、間違ってはいないことになります。いや、それどころか、それしかない(自分が幸せになることしか、幸せになる方法はない)と言ってもいいかもしれません。
と同時に、他者・外部という存在があるからこそ、不幸を感じることもでき、幸せというものは、不幸という反対の定義で二元一対になっていると見れば、自他の違いが不幸と幸せを感じさせていることになります。
これは別の見方をすれば、不幸と幸せは同じものと、一見不可解な結論にも導かれます。
あとは、皆さんにおいても、考えてみてください。