スピリチュアル
生と死のシステム 死後の旅
私は大学時代、少し民俗学をやっていましたので、日本の伝統的な集落におけるいろいろな機能というものを、その時知りました。
よく環境が精神を作ると言いますが、逆に精神が環境を作ることもあり、それはどららでもあって、どちらでもないと言えます。
民俗学的な見方をしますと、伝統的な生活共同体においては、その両方のリンク性が、今より顕著であったことがわかります。
迷信を信じていると現代人から見れば思いがちの昔からの行事・風習なども、その村落共同体の生活を営んでいく意味においては、きちんと整合性が取れている(実際的理由がある)ことがほとんどです。
例えば、村の鎮守様、神社とかお寺、さらには祠が祀られているところなど、だいたいは環境的に汚してはまずいところだったり、あるいは不心得者や、部外からの勝手な侵入者を拒んだり、監視したりする機能を持っていることがあります。
東北大震災での津波被害(から守られたところ)の場所、近ごろの大雨による土砂・洪水災害などでも、まさにハザードマップに記されているがごとく、地域の大事な場所、安全な所、限界的な個所には、神社などの聖域があります。
このように、物理的な意味での環境的保存・警告としての機能が、聖なる場所などで配置されていたわけです。
それから、生と死ということで、生きている間での年齢別集団による社会教育、自立精神の醸成、男女の交際、結婚的なことにも働きがあり、さらには死後の世界への旅立ちにしても、日常的な宗教的行事によって、精神を安心させる機能も昔は自然と働いていたように思います。
葬式仏教と現代では揶揄されている日本独特の仏教観ですが、それも死にゆくものへの安堵として、精神に安全作用が働いていたと考えられます。
もうすぐお盆ですが、こうした先祖信仰も、それらの機能を担っていたと考えられます。(ちなみにお正月も先祖信仰と関係します)
私たち現代人は、「死」というものに鈍感であり、逆に非常に敏感過ぎる面もあります。つまりは、まともに死と向き合えないわけです。
こういう状態で、わけがわからず、死を迎えてしまいますと、精神的に混乱を迎えると言われます。
もちろん、死んだら終わりという唯物論的考えを採用すれば、そんな心配もいらないのですが、やはり、魂は永遠ということを考慮しますと、「死んだら、はいすべて終わり」というものではなさそうな気がします。
かつては、常日頃から仏教的行事を中心に、いわゆる法事的なことが行われ、死や先祖という観念にふれることが多かったものです。
ところが、もうだいぶん前から、共同体などというものは崩壊し、都市型社会で、さらに核家族化、独り身などの個人化も増大しました。それは必然的な時代の流れといえるものだったかもしれませんが、一方で、いろいろなものを破壊してきました。
そのひとつが、かつて持っていた日本人の死生観と、特に死後における霊的(サイキック的)イメージです。
どうやら、いろいろな資料を見て行くと、私たちはこの世とあの世の境目を正しく越えて行くことが、とても(死後)大事であることが霊的に言えるようです。
日本風に言えば、三途の川をきちんと渡ること、になりますね。
果たして、現代人は、自分が死んだあとの霊的世界のイメージ、いわば死後の旅のイメージに対して、どんなものを持っているのでしょうか?
ほとんどの人は考えたこともないというのが実情ではないでしょうか。
葬式仏教では、このイメージをうまくビジョン化することに成功していたように思います。それで先祖信仰とも合わさり、ご先祖や亡くなった親とか親戚、誰か縁のある人がお迎えに来て、無事、死後の旅がなされるという具合です。
けれども、今の人はそんなイメージもないですし、もし、死んだ後、魂が死を自覚したとしても、恐怖とか不安とかに苛まされ、見えるものも見えない状態におかれ、何かに囚われたり、逆にふらついたりして、旅そのものが出発できないおそれもあると考えられます。
一方で、意外に現代人に多い新興宗教(入信者)での死のイメージではどうかという話になりますが、それはそれでその宗教におけるイメージで死後の旅ができると思えますが、案外、新興宗教は規則が厳しく、罰則感も強くて、逆に死後、裁きがひどくなって、自らを地獄行きと決めつけるおそれもあるような気がします。
エジプトの「死者の書」にもあるように、古代から死後の旅立ちには注意が払われ、儀式化が生前からされていたと考えられます。
それらは時代によって、文化によって、変容していくのが常ではありますが、結局のところ、肉体と魂が癒着した状態の現実世界(この世)と、死を迎え、そこから魂が離れて、別の存在次元になるためのスムースな移行に向けて、神話とかイメージとか(宗教も含めて)が使われていたのだと想像できます。
裏を返せば、それだけ、死後の体(意識)への安全な移行は注意が必要だということでしょう。
今は、ライトスピリチュアルもそれなりに流行しているところもありますので、魂とか精神の世界を想像する人も多いでしょうが、どうもイメージとしては生きている間の充実に注意が行き、死後については希薄な気がします。いきなり宇宙に還るとか、愛に包まれるとかそんな抽象的なニュアンスのように見えます。(結局、死と向き合わず、結果的に避けていることになります)
「死」は誰しも訪れるものです。
事実ではないにしても、少なくとも、精神的に安心して死が迎えられる準備と、死後も大丈夫なのたど思える死後の旅へのイメージの構築が、案外重要なのかもしれません。
宗教も、共同体からのシステムも崩壊した現代、これまた頼りは自分自身、個人の努力ということになりそうです。(苦笑)
とりあえず、伝統的なものの死後システムのイメージは、それなりに安全と言えるかもしれません。
あと、個人的に思うのは、マルセイユタロットの大アルカナの絵図です。
これは伝統性も踏まえて、絵として、生きている時代の状態から、死後の状態も描いていると考えられるからです。つまりは、大アルカナのある種の進みが、そのまま死後の旅立ちのイメージを付与していることになるわけです。
マルセイユタロットをきちんと学んでいる者は、どこに自分が向かうのか知っています。
ゴールとか目標、さらには過程についても認識しているとなると、それだけ、道筋も確かになります。言い換えれば、生から死、そして次なるプロセスへの地図があるということです。
死後のためのイメージマップ、観念づくりは、リアリティが持てれば何でもいいのかもしれませんが、マルセイユタロットも、そのうちのひとつとして、特に現代人においては、知っておいて損はないのかなという気がします。
過去の選択、やり直し
人は誰でも、「あの時やり直すことができれば・・・」と思ったことがあるのではないでしょうか。
この、人生における選択のやり直しをテーマにした作品はたくさんあります。
アニメでは、定番と言ってもいいジャンルで、ループもの(結局何回も繰り返すことになるので)とか言われます。そうしますと、タイムマシンのようなものが登場したり、タイムリープしたりする場面が出てきたりします。
そういうもの(方法)があれば、あの時に戻ってみたいと思う人もいるでしょう。
私たちは、実際には過去に戻ることはできませんが、イメージや記憶の世界では戻ることができます。過去だけではなく、未来にも、あくまでイメージ上では行くことは可能です。
さて、そこで、過去の自分が重要な選択の岐路に立たされている時に本当に戻ることができたとして、今度は別の選択肢を選んだとしましょう。その後の人生はどうなっているでしょうか?
例えば好きな人がいて、結婚する可能性もあったのに、自分のせいで結婚できなかったことがあった場合、過去に戻った時に、その人と結婚できるような選択と行動をしたとします。
おそらく、その後の人生は変わっていたでしょう。相手が違うのですから、別の人生とかシーンになっていくのは当然予想されることです。
しかしながら、タロットで言えば「象徴的」というとらえ方で本質を見ていけば、実はあまり変わらない人生になるのではないかとも思うのです。
過去で人とか物事の選択をたとえ変えても、自分の今の人生は大きな意味では変わらないとでも言えましょうか。
なぜ過去の選択肢を変えても、大きな意味で人生は変わらないと考えられるのかと言えば、それは過去に戻った自分がまさに現在の自分だからです。(笑)
つまり、変わっていない自分がいくら過去に戻って選択を変えたとしても、結局、その後も今の(過去に戻る前の自分と)同じ自分の考え・感情・行動なわけですから、似たような人生になっていくと予想されるのです。
スピリチュアル的な表現で言えば、自分の波動が変わっていないので、どのような選択をしても本質的には同じことになるみたいなものです。
過去に戻って何度も人生をやり直す有名なアニメでは「シュタインズゲート」とか「魔法少女まどか☆マギカ」など超有名どころでありますが、こういう作品群でも描かれていたように、何度やっても同じ結果に収束する(プロセスとか経緯の違いあっても結果は同じことになる)わけです。
先述の「シュタインズゲート」では、「ダイバージェンスメーター」の変動ということで、この数値が1%を超えると、結果の違う世界に行けるという話になっていました。
この数値変動に当たるのが、私たちの意識レベルではないかと、スピリチュアル的には考えられます。要するに、私たちの意識が同レベルのままでは、選択は違っても、本質的な選択は同じなので、結果も同じに収束するのではないかというわけです。
※(今の意識のままで記憶を保持したまま戻ると、過去の自分より意識が上がっている可能性が高いので、人生とか結果が大きく変わることはありそうですが、過去の自分が選択肢を当時とは別のものにするという想定では、当人はその時代のレベルのままですから、違う選択をしてもレベル的には同じ結果になるのではないかという話です)
ですから、もし過去の選択で後悔している場合、あの時の自分がいくらその時あった別の選択肢を選んでいたとしても、今の自分と似たような人生になっていたと考えると、後悔も少なくなるでしょう。
過去は総じて美化されるものですし、そもそも私たちの記憶というのは、事実とはまた別モノ(物語)ですから。(笑)
ということで、過去を悔むより、今とこれから、たとえ残り少ない人生でも、少しでも自分らしく(「これでいいのだ」というバカポンパパのような思いで)生きていけばよいと思うのです。
ああでも、今の自分がいるのも、過去における膨大な選択の末に築き上げた結果ですから、もし悔んだり、苦しかったりしている過去の自分がいた場合、その者たちを成仏させるためにも、今の自分を受け入れ、今後の自分を認めることは大事だと思います。
自分でできなくても、まずは誰か別の人に言ってもらうのも入口としてはよいでしょう。
あるテレビドラマで
俳優の田村正和氏が永眠されました。ご冥福をお祈り申し上げます。
田村氏と言えば、私の中では、意外にコメディタッチのドラマのほうが印象深く、言わずと知れた「古畑任三郎」は有名ですが、他局系列のテレビドラマでは、「パパはニュースキャスター」など、そういうちょっとコメディ系の役を演じられていたのを覚えています。
同系列のその他では、「うちの子にかぎって…」というドラマで先生役もされていました。
そのことで思い出したことがあります。
そのドラマの第二期だったと思いますが、ある一話がとてもすばらしく、見たあと、当時大学生であった私は、高校時代の友人(よくドラマとか映画の話をしていました)に、ちょっと興奮気味に(笑)、それを語っていました。
とは言え、今となっては、内容をほとんど忘れていまして、タイトルにインパクトがあったので、うっすらとした記憶を頼りに、ネットで検索して調べてみました。今は便利な時代で、ネットのおかげで、その内容を改めて思い出すことができました。
やはり第二期だったようで、その話は、第9話「転校少女にナニが起こったか?」でした。
タイトル自体は、確か、同じTBS系のドラマのふたつを掛け合わせたような、遊びタイトルだったと思いますが、ともかく、題名の通り、女の子が転校してくる話でした。
今思うと、アニメとか映画でよくあるような、パターン・お約束とも言える話なのですが、舞台である東京の小学校のクラス(小学校)に、ある日、北海道から女の子が転校してきます。
その子と北海道にいた頃知り合いだったクラスの男の子(その時は忘れていて、あとで思い出す)がいて、その女の子と不思議ともいえる体験をします。女の子は、わずかの期間でまた転校してしまい、男の子はショックを受けるのですが、実は、その男の子以外、誰も転校してきた女の子のことは記憶にないという、現実なのか夢なのか、わからないような結末の話になっています。
まるで大林宣彦監督の「時をかける少女」の逆バージョンみたいでもあり(学校の理科の実験室など登場しますし、おそらくかなり意識されていたと想像、そういえばこのドラマと同じ年には、大林監督の「さびしんぼう」も公開されていました)、全体的には、往年のNHK少年ドラマシリーズ(私はこのシリーズがとても好きでした)の雰囲気もありました。
田村正和氏は、そのクラスの担任の先生を演じていて、男の子から不思議な体験をしたことを話されますが、きちんと話を聞いたうえで、「先生もそういうことはある、一瞬だけど長い時間を経験したかのような夢を見ることがあるらしい」というようなことを話されていたように思います。まあ、生徒の話を否定もせず、かといって完全に信じるわけでもなくという、よい教科書的な対応といえば対応ですよね。
ドラマでは少年の夢だったのではないかという感じの演出があり、例えば、現実には夏の話なのに、女の子と会っている時は、冬の雪が降っているシーン(東京なのに北海道的になっている)になるなど、明らかに演出意図として、現実の世界と想像の世界との区別をしていたように見えます。
しかし少年と少女は、同じ傷をつけ合うというシーンがあり、女の子がいなくなったあとに男の子は、自分の指に血が流れているのに気づくことで、「やっぱりあれは本当のことだったんだ」とつぶやく場面がありました。
この同じ傷という、一種の合言葉や鍵のようなものが演出されていたのが心にくいです。(現実と夢の世界を行き来するための鍵と考えられます。それが「傷」であることに、とても深いものを感じます)
私たちは、誰でもというわけではないですが、ファンタジー好きな人や夢見がちな人、あるいは普通の人でも、何かとても苦しい状況に置かれていたり、自分が消えてしまいたいような目に遭っていたりすると、別の世界に逃避しようとします。
よい言い方をすれば避難でもあり、ある種の別次元の創造、あるいは転送・シフトと言ってもよいです。
スピリチュアル系でも、この世界は幾つもの次元、平行世界、多世界が重なって存在し、自分の波動や周波数、選択意図によって、そういった別次元・ほかの宇宙を旅する(移動する)と考える人もいます。
その場合、現状とはまるで違う異次元のようなところにジャンプしてしまうのではなく、たいていは、ほとんど今いる世界と似たような感じの世界で、少しだけ違う世界に、まずは移ると言われます。
それはあまりに違う宇宙・次元だと、その差が大きく、さすがに無理があるということだからでしょう。大きな川や海を渡るには、小刻みに島を通って行ったほうが行きやすく、安全でもあるからとも言えます。
ちなみにUFOは、この次元転移を可能している乗り物という説があります。
それはともかく、田村氏演じた先生の言葉ではないですが、長時間と思えた間が一瞬だっというような時間感覚の狂いとか、実際とは似てはいても、ちょっと違う幻のような世界に、意識が飛んでしまうようなこともあるのだと思え、それは現実的に考えますと、先述したように心理的な逃避、あるいは自分を守りたい強い気持ちが働いていたからではないかと推察されます。
このドラマの男の子は、おそらくクラスの中では平凡な存在で、毎日が特別に沸き立つ時間ではなかったのでしょう。
そういう退屈な日常的なところに、非日常的な特別体験を欲する気持ちが生じ、それは裏を返すと、自分を認めてほしい、自分の生活が単調で、面白くない(自分が生きていない、もっと言うと死んでいる)ものだと(自覚はなくても)思っていたのかもしれません。
その気持ちが、ついに、かつて幼馴染で仲良かった女の子が転校してくるという白昼夢のような体験を創造(想像)させ、自分が特別であること、この世界(しかし現実というより男の子の創った世界のほうですが)に自分は必要で、求められている、つまりは生きていてよいということを確認したい気持ちにつながっていたのだと推測します。
つまり、転校してきた女の子は、男の子にとっての女神であり、自分を生み出し、無条件的に愛を注ぐ母的な役割(自分の存在と価値を認めてくれる女性)で、もっと言うと、彼自身でもあるのです。
すると、私には「世界」のカードと「吊るし」のカードとの関係が浮かびます
このドラマの男の子ではありませんが、もしかすると、私たちは、いつもある世界(自分の見ている世界、体験している世界)を創り上げているのかもしれません。今あなたが現実だと思う世界さえも、創造され、破壊され、変化され、また作り直されている可能性もあります。
また多くの人は、実際に、睡眠中に夢を見ることで、このような異世界体験、別次元創造と転移を経験していると言えます。
私自身、実は小学生の時に好きだった女の子が、成長してきて、その子と少し会話することで、気づきを得るというような夢を見たことがあります。
この夢は、皮肉にも、癒しを与えてくれるというより、学びになると言ったほうがよく、まさにほろ苦い感じで、その夢のあと起きてしまいましたが(笑)。これなど、初恋の相手を材料にして、内的に自分との語らいをしているとも言えます。
ということで、現実逃避も悪いことではないですし、しかし、自分の都合のよい異世界ばかりを創り上げて、そこに居座ってしまうと、それはそれで問題となることもあるでしょう。タロットで言えば、ひとつところに固執しない、旅する「愚者」意識がいいのではないかと思います。
現実の世界は本当に現実なのか?、そして現実を創り上げている重要素は時間と空間と言われるように、そのふたつにあると考えられ、その中で「時間」に着目すると、空想のような世界に行っている時間というのは、現実の(流れる)時間とは違っており、私たちの固定観念としての時間(現実と思っている時間、現実での時間)に揺らぎや破壊(変容)を生じさせるのではないかという気がします。
ドラマで男の子の経験したことは、ファンタジーで、ただ夢を見ていたとか、妄想していたとか、心理的な防衛の世界に耽溺(埋没)していたと考えるのは普通ですが、一方で、私たちに、現実を超えた世界、霊的な次元というテーマを想起させ、もしも現実が牢獄(私たち自身が作っているもの)であるならば、そこからの脱出を示唆するものとして見ることもできるのではないかと思います。
それはこれからの時代にこそ、実は重要になってくるのだと感じさせます。
スタンドアローンコンプレックス
今日はふと、「スタンドアローンコンプレックス」という言葉を思い出しました。
この言葉と言いますか、概念は、(またしてもアニメネタですが…)、攻殻機動隊(士郎正宗氏の漫画が原作のアニメ)に登場するものです。
この概念は実はとても難しく、上記アニメ作品の中でも、見た人によって解釈が色々とあるようで・・・私も説明しづらいです。
ですから、ここでは、攻殻機動隊とは切り離して、私の別の勝手な意味に置き換えて、スピリチュアル的に述べたいと思います。
スタンドアローンコンプレックス、直訳すると「孤立孤独複合体」というようなことになるかもしれませんが、「コンプレックス」の部分を、心理的に使う意味のコンプレックス、感情の複合、複雑な感情状態、つまりは劣等感とか抑圧された欲望などとして取ってしまうと、また違って来るので、とりあえず、今回は単純にコンプレックスは「複合(体)」という意味で見ます。
マルセイユタロットで、人類の霊的な進化や成長を考えていくと、私たちは、やがて複合体的な生命へと変容していくのではないかと想像できます。
しかし、その前に、一人一人が独立意識を持ち、心理的には自我の完成(個性の完成)という状態を全員が獲得しないと、それは難しいのではないかという気もしています。
ともあれ、一人一人がよい意味で孤立し、言い換えれば真の意味で独立(自立)し(他者に依存するような未熟な状態ではなく)、そのうえでネットワーク的に全員がつながるような意識になれば、まさにひとつの巨大な生命としての複合体となり、新たな進化を遂げることになるのではないかと考えるわけです。
この過程において、独立意識、自立状態が必須条件であると思うのは、もし、まだ未成熟な依存性を持つ人間であると、ネットワークがつながったとしても、誰か強烈な個性を持った者の意識によって乗っ取られたり、洗脳されたりして、いいように使われてしまう危険性があるからです。
また、反対に言えば、カリスマ的な人や、力を持った人に頼り過ぎ、依存して、自らを犠牲に捧げてしまうようなこともあり得るかもしれません。
そうなると、ネットワークは単なる支配の道具、あるいは混沌の弱肉強食の世界に逆戻りという感じになるでしょう。
肉体意識、物質意識がまだ強くある今のような三次元的認識が中心であるならば、ネットワークがあっても、肉体と物質にフォーカスすれば、その亜空間のようなネット社会的洗脳から逃れることもまだできるかもしれません。(まあ、もうすでに難しくなってきていますが…)
しかし、肉体意識が希薄になり、精神の状態のほうがメインの体(初期の霊的な体みたいなもの)にシフトし始めると、いわば見えない世界のほうが実存性を持ち、思いの世界が実質的に力と影響を持つことになり(形のような力を持つ)、そのため、ネットワークで形成される世界の中で、誰かの強力な意思につかまってしまうと、なかなか抜け出すことができなくなってしまうおそれを感じます。
要するに、意思や意識の力をコントロールできないままでは、誰かを支配したり、反対に操られたりすることが容易にできてしまう世界となるのです。
よって、一人一人の成熟性、独立(自立)性、コントロール力の完成が必要であり、そのうえで全員でつながり合うことができれば、個性を活かしあい、助け合い、協力し合い、言ってみれば、ひとつの巨大なコンピューターがネットワークによつてできあがるわけで、情報処理、解決能力は想像を絶するレベルに至ると考えられます。(これもアニメネタですが、「とある科学の電磁砲(レールガン)」でのシスターズのネットワークを利用する、一方通行アクセラレータさんみたいなものです(笑))
しかし、だからと言って、一人一人がコンピューターの歯車、機械の一部、ロボット化するわけではなく、きちんと固有の意思も持ち、自分の希望を叶えるのには、その他全員の力も簡単に援用することができる社会(世界)という感じです。
まさに、一人はみんなのため、みんなは一人のためを体現する世界と言えます。
これが実現するには、自分と他人が本当の意味で理解し合えるレベルに達していないと、低次の自我、いわゆるエゴによって、バラバラなまま、自分勝手に動いてしまうことになり、とてもネットワークを活かせる状況にはならないでしょう。
ということで、いきなりワンネスとか、統合とかいう前に、自分自身が真に独立・自立していく状態を作り上げる必要があるのです。
見かけは「分離」でもあるので、たぶんスピ系の人には嫌がれる言葉ではありますが、私自身は分離(の自覚と本当の個別理解)こそ統合の前段階だと考えています。
それと同時に、協力し合わないとやっていけないのでは、という意識の醸成、気づきも重要だと思っています。
個人ではなく、全体性から見る意識・視点といいますか。
しかしこれも未成熟のまま全体から見ようとすると、やれ全体主義だとか共産主義だとかで、旧来の管理システム的な発想、さらにはその延長の世界統一政府、ワンオーダーの世界みたいなものになってしまいますので、結局、一人一人の独立・孤立・自立・個性の完成(そのためには調整浄化も必要)が重要だと言えます。
余談ですが、そういえば、攻殻機動隊のアニメでは、「笑い男」の話で、確かワクチンの利権に関わるものがあった気がしますが、なんだか、今の世の中とリンクしているところもあるように思いますね。(断っておきますが、私は陰謀論者のようなワクチン絶対反対派ではないですよ、また全面的・無批判にワクチンを許容しているものでもないですが)
想念の世界と現実世界
いくつかある私の趣味の中で、アニメ鑑賞は結構な割合を占めておりますので、ここでも、度々、アニメの話題になることはご容赦ください。(苦笑)
最近見たアニメのうちで、よかったもののひとつに、「裏世界ピクニック」というものがありました。
女子大生が異世界というか、裏世界にピクニックに行くという話で、これだけ聞くと何やら楽しげな、ライトな作品のようにに思えますが、内容は結構ホラー的な要素が多く、怖いといえば怖い作品です。
まあしかし、“ピクニック”と題名についているように、主人公ふたり組の会話や、ちょっと百合っぽい(笑)友情に和まされ、気軽な感じも、やはりあります。
さて、この作品では、巷に流れる都市伝説のようなものがモチーフとなっていて、実際に都市伝説として存在する話からヒントを得て、裏世界の演出がなされているようです。
ちょっと前のアニメ作品に、「虚構推理」というものがありましたが、この作品では、事実かどうかよりも、人々がその話をどう信じるか、思うかのほうが重要というテーマの話がありました。
ふたつの作品から、私たちの思いの力というか、想念が生み出す世界というものが浮かびます。
これは生きているうちには確認できないので、何とも言えないのですが(笑)、いわゆる死後の世界は、同じ波動とかレベルものが集まり、思いがすぐに現実になってしまう世界であると聞きます。
ここでいう現実とは、私たちの生きている世界の、物理的な現実というより、主体の想念が相対化されると言いますか、思ったことが叶ったように見えてしまう世界になるという感じの現実です。
幸いでもあり不幸でもあるのですが、私たちの生きている世界は、思ったことがすぐ現実にはなりませんし、人それぞれがバラバラに自分の思いや願いというものを内面に描いています。もし、それらがすべて現実化したのなら、とんでもない、非常に混乱した世界になってしまいます。
それが死後の世界では、物理的・時間的障壁がなくなり、イメージの世界に住むみたいな感覚で、人の想念と自分の想念の世界が同居し、その中に漂うようなものとなるのかもしれません。
まあ、あちら側では、だんだんと自分と他人の境界線もあやふやになっていくと考えられ、だからこそ、自分のも人のも、想念がそのまま表れても混乱はないのだと想像できます。
それで、タロットの世界も、言わばイメージとか想念の世界に近いものだと考えられます。
ですから、タロットの種類によって別々の世界があるとも言え、それは現実(私たちの認識する、生きているこちら)の世界とも無関係ではないように感じます。
例えば、同じタロット(種)を扱う人が増えれば増えるだけ、想念世界での、そのタロットワールド(タロットの国、タロットの神殿・住人)も強化されるのではないかと思えます。
ただ数だけではなく、質もあるので、現実の人たちの、そのタロットへの思いや扱いの度合い、性質によって、想念世界のタロットの国も変化し、そしてまた、そのタロットの国から、現実の私たちの世界に影響も及ぶのだと思います。
結局、「類は友を呼ぶ」の法則ではないですが、同じタロットと言っても、タロットの種類とか使い方によって想念の世界も異なり、こちらとあちらの相互作用によって、ますます現実でのタロットのエネルギーと言いますか、性質も決まってくるように感じます。
話がアニメに戻りますが、「裏世界ピクニック」のよいところは、日本アニメと言えば、かなりの面で、お約束のように高校生が主人公であり、その年代環境が舞台設定としてあるのが多いのですが、「裏世界ピクニック」は大学生で、ほかに大人がまあまあ出るので、ちょっと変わった感じで新鮮でした。
また「裏世界ピクニック」の二人組の描写によって、怖いところでも、一緒に探検してくれる友人がいると、案外、人間って、冒険したり、チャレンジできたりするものだと改めて思います。
タロッテイストは、ある意味、いつも裏世界に行っているようなもので、「愚者」の絵にあるように、犬のようなパートナーとも一緒なのだと思うと、ワクワクするものでもあります。