スピリチュアル
スピリチュアル、自己解放の道の落とし穴。2
前回の続きの記事となります。
スピリチュアルなことへの関心と学びの過程で陥る、ふたつの心理的な落とし穴について語っています。
今日は二つめのものです。
これは前回でもご紹介したように、あせりや無力感といった気持ちです。
もうひとつのものは傲慢さでしたが、これとは反対方向に見える空しさのような感情です。
しかし、実はどちらも根は一緒のことがあります。自分(の成長)を本当の意味で信用していなかったり、逆に過信していたりのことで問題となっているのですが、要は自己成長に対する認識バランスの問題なのです。
とにかく、(スピリチュアルや自己解放の道の)学びを続け、実践もして行くわけですが、それでも遅々として進まないというか、効果が感じられない場合があります。
この理由のひとつには、その方法や技術が自分には合っていないということが考えられます。
もし先生や師匠についている場合は、その先生の教え方に問題があるか、教え方はよくても自分とは相性(受け取るポイントや感じ方)が合わないというケースが考えられます。
あと、ここが重要なのですが、スピリチュアルな開花と言いますか、進展には時間がかかるということです。
もちろんある段階にはスピードをもって効果が出ることや、進んでいることを実感できる場合もありますが、ずっと同じペースで続くわけではなく、やはりほかのものと同様、山あり谷ありで、早い時もあれば遅い時もあるわけです。
古今東西、霊的な成長のためには、安全に行く場合、大体はコツコツとした修行と言いますか、飽きが来るような地道な努力、基礎訓練というものが反復されることが多いです。
何かがブレイクしたり、解放されたりする場合、物理法則のように、モノを動かす時に摩擦がかかるのと同じく、動くまでに大きな力が必要とされます。
そのエネルギーの充填まで待てず、あきらめてしまうこともあるのです。
月の満ち欠け・潮の満ち引きで象徴されるように、物事が成就するのには一定の法則とリズム・時間を刻むわけで、特に物理的世界に住む私たちには顕著に働くルールです。
それから、もちん幸せになるために学びをしていると思いますが、現世利益的な一般的価値観に基づく「幸せ」を求めて学びの効果を見ようとすると、あてがはずれることがあります。
欲求の充足もスピリチュアルな観点からは重要だと私は考えていますが、しかし低次の満足は、高次の満足とは質が異なり、低次をあくまで目標や基準にしていると、自分のやっていることがわからなくなる恐れもあります。
曰く、豊かになるべきなのにお金が入らない、意中の人を振り向かせることができない、仕事が見つからない・・・などと悩むのです。
ラッキーが起こるどころか、時には不幸とさえ思えるようなことも発生する場合があります。そうしてやはりこれまた、途中であきらめてしまうのです。
しかし、これには自分の浄化やバランス回復のために起こっていることもありますし、お試しのような形で本気度を試験されていることもあります。
多くの場合、自分の潜在的な恐れ・不安・ネガティブな感情が、スピリチュアルな学びと実践において閉じこめていたもののふたが開き、現実的に投影され始め、それを見て、よくないことが起こっているように思っています。
むしろ順調に学びが進んでいる証拠という場合もあるのです。
高次から見た発展や成長というものは、現実一般レベルでの幸運や利便さ、能力獲得ということではないのです。
従って、現実の価値基準で生きているほとんどの私たちにおいては、時にまったく効果がないと思ったり、全然進んでいないように感じられたりと、あせりや空虚感のようなものが出てくるわけです。
これとは別に、神や宇宙というものを相手にして、自分があまりに小さく感じ、何もできない存在だと打ちのめされる無力感もあります。
それも今までの現実的に生きてきた物理的人間としての自分と、マクロコスモス、大宇宙としての自分との融合過程における、その比較から来る無力感ですので、こらちも実は順調だと言ってもよいでしょう。
前回の落とし穴と含めて、大切なのは、他人と比較せず、あくまで自分を基準として相対値ではなく絶対値として成長を見ていくとよいということです。
スピリチュアル、自己解放の道の落とし穴。1
スピリチュアルなことに興味を抱き、学んだり、実践したりしていくうちにはまる心理的(一部霊的)落とし穴があります。
そのひとつが傲慢さで、もうひとつが逆の、あせり、あるいは無力感です。
ところで、数の上でも、ある区切りを示す「10」を持つマルセイユタロットのカードは「運命の輪」であり、そこには輪にまたがる2匹の動物が描かれています。
実はこの2匹の動物が、さきほど申し上げたふたつの落とし穴の感情を表していると言ってもよいものです。(これも「運命の輪」のひとつの見方に過ぎません)
さてまずは、「傲慢」の落とし穴。
これは、ほかの学びの分野全般にも言えることですが、知識が入ってくると、「自分は人より進んでいる」という意識が生じてくるもので、それが自分の発展を必然的にストップさせてしまう結果となります。
特にスピリチュアルなことに関心を持つ人の間では、こうしたことが結構あります。
学習しているうちにグループを形成していくことも多いので、そのグループ全体がこうした傲慢さでもって他人を見下すようになることもあります。
新興宗教の組織などではよくあることで、人を見下しているのがわからず、「他人は救われていない」と意味を変換させて、自分が救済者の役割を洗脳されて演じようとします。
やっかいなのは、これは知らず知らず、見えない病のように進行していくことで、気がつけば、とんでもない傲慢な人間になっていることがあるのです。
小規模の成功を収めたり、講師などをして、人にモノを教えていくようになると、「先生」などと呼ばれることもあって、ますます拍車がかかります。
このようなことは、レベルが違いますが霊的修行などでも起こり、それは極めて危険な状態である言われています。昔の人はこれを「天狗つき」と呼んでいました。
私自身も注意を払い、謙虚さを忘れないよう、戒めを持つようにしています。
有り難いことに、人によってはその傲慢状態や天狗つきになる前に、天使(的存在・エネルギー)からシンクロニシティや、インパクトある経験として、警告を起こしてくれるのですが、それに気がつかないと大変なことなるおそれがあります。
うまく行かないこと、ショックなことでもそうした警告としての側面もあるのです。
マルセイユタロットでは「正義」のカードが、結構そのような役割を象徴的に担うことがあります。(ほかのカードでもあります)
ともかく、うまく行きすぎているような時は実は注意すべき時で、自分が傲慢になっていないか、自分(たち)だけが(神や天使に)選ばれているとか、進化しているとか思わないことです。(思うことで大きな仕事や社会的使命を果たせることもあるので、一概には言えませんが)
だいたい選ばれている感覚をもたせるというのは、悪魔(ネガティブ)存在・低次的存在がよく使う手でもあるのです。悪魔にも天狗にも「羽」があることを忘れてはなりません。シルエット的にはあなたの信じている「天使」に見えるかもしれないのです。
霊的向上や、深くに自己解放の道を進もうとすると、それを阻んだり、それ以上進ませないようにしたりするための役割を持つ存在(あるいはエネルギー)がいます。
これは究極的には自分の分身でもあると言えるのですが、別存在として実在すると考えることもできます。(この矛盾構造を理解するのが、宇宙のからくりを解き明かすヒントだと見ています)
機能的には、段階的にひとつひとつ達成して初めて次に進めるという安全装置の面もあり、一概に「悪」とは決めつけられません。
いずれにしても、傲慢な自己世界の罠(落とし穴)にはまってしまうと、もはや冷静に自分と周囲を見ることができなくなりますが、これの怖ろしいところは、自分や同じ罠にはまっているグループの人たちの間では、自分たちが一見、とても進んでいたり、気持ちの良い状態にいると錯覚してしまうことです。
そのような人たちの書く文章や口から発する言葉は、いいことを書いている(言っている)ようで、どこか非常に上から目線の嫌悪感や傲慢さが見え隠れするようなものになっています。
何かあまりにも快楽的に気持ちが良すぎていたり、気づきが少ないままよいことばかり起き続けていたり、自分と仲間以外、友人やつき合う人がいなくなっていったりする場合は注意が必要です。
とはいえ、多かれ少なかれ、スピリチュアルなことを志す人は罹患してしまう過程ですし、完全にこれから逃れられることも難しいと思いますが、自覚をやはり常に持ち、折に触れ自身を省みる必要はあるでしょう。
人は皆、全員先生であり、生徒なのです。
またマルセイユタロットの場合は、自分を冷静に投影することができますので、これらのチェックを計ることもできます。
落とし穴のひとつの説明が長くなりましたので、もうひとつの落とし穴については、続き(明後日の記事)でお話いたします。
目標達成、願望実現の方向性
何か目的や目標を達成(願望実現)するのには、大まかに分けてふたつの方向性(方法)があるように思います。
ひとつは、達成したいことを強くイメージしたり、詳細に計画したりというようなものです。
そしてもうひとつは、これとはまったく逆に、いったん目標を思いはするものの、あとは自然に任せるという放置気味のやり方です。
前者がいいのか、後者がいいのか、世間では様々な人が書籍・セミナーなどで方法論について述べています。
おそらく、私の見るところ、願望実現のテーマに関わらず、「こうすればうまく行く」といったものは、基本はその通りなのだと考えています。
ただ、それが全員に当てはまる普遍的・再現性のあるものかどうかは確定できないことです。そこが一般的な「科学」とは異なる点です。
精神世界や心理的なテクニックは、特に形がはっきりしなかったり、目に見えなかったりすることが多いので、非科学的・非論理的に思われがちです。
まだ心理系はデータを取るなどして、ある程度の再現性を見い出されることもないわけではありませんが、心の中の問題は細かく見れば一人一人違っていると言え、厳密には科学実験のようには行かないでしょう。
それを認識したうえで、それでもあえて私が言いたいのは、ある人がうまく行ったのなら、その方法は誰かに人に当てはまる可能性もあるということです。
ここからは一般「科学」とはまるで違って、一種の信仰とか宗教的世界観になってしまいますが、なぜなら人は全員違うようで、皆共通しているところもあるからです。いわゆる「全は一、一は全」というスピリチュアルな思想に基づくものです。
話が逸れましたが、目標達成・願望実現には明確にイメージしたり、計画したりする方法と、そうではない緩やかなもの(何か大いなるものに任せる)のふたつが多く語られるということで、これらは普遍的と言えないまでも、使えたり、考察したりする部分があるのではと言っているわけです。
先程、人は皆ひとつでありつつ、それぞれまた別(一は全、全は一)であることをお話しましたが、これを適用すると、共通することはあっても、個性としては違う表現になるというのがこの世界のルールと言えます。
ならば、目標達成の方法が大まかに二種方向としても、個人的にはどちらかの方法に向いていたり、実際に役立ったりするのかは違ってくると言えます。
ここが非常に大切だと思います。
つまり、願望実現法は確かに大まかな共通的方法はあるものの、人によって適用できるかどうか(使えるかどうか、合っているかどうか)は異なるということです。
もしふたつの方向性があるのなら、そのどちらかに合う人もあれば、両方の中間みたいなことが役に立つという人もいるのです。
古の叡智であり宇宙法則をシンプルに挙げていると言われる「ヘルメスの法則」を適用すれば、ふたつの方向性があるのなら、それはどちらも真実であり、ただの程度の違いでしかないということになりますから、両端の極にそれぞれのふたつの方向性を置いておけば、その間の目盛り分だけ個性が出現するということになります。
それでもアバウトに目盛り・ポイントを取り出してみるとすれば、以下のようなことになります。
●強く願望をイメージしたり、詳細に計画したりする方法
●願望を思うものの、あとは自然・宇宙、天(神・仏)・自己の神性等、大いなるものにお任せする方法
●強く願望をイメージして、なおかつ、大いなるもの(上記のもの)に任せる方法
●大いなるものに任せるのが基本だが、願望実現を細かなステップに分けたり(詳細化)、フィードバックして軌道修正したりする方法
おそらくこの中に(もちろんそれ以外でも)、自分に合った方法があると思います。
合うかどうかということはやってみないとわかりませんので、まずはレベルの低い、小さな目標達成から試してみるとよいのではないかと思います。
均衡を破って飛翔する。
平穏な状態というのは望ましいことではありますが、それが行き過ぎると何も刺激や動きのない停止や膠着状態となることもあります。
一番いいのは、周りの状況は動いていても、常に平静な内面で対応できることでしょう。言い方を変えれば、安定を求めるのでなく、すべては変転していくことを知りながら、その状況を心から楽しめるというイメージです。
ただ、なかなかそういった境地にまでなるのは難しいと言えます。
そこで、まずは世の中も自分も、「同じ状況が永遠に続くことはない」と認識することが大事だと思えます。
つまり、安定を求める心をなくすということに近いです。けれども、人間の心理としては安心や安全、すなわち安定を欲するのは致仕方のないことです。
しかし、よく自分あるいは人の人生でも、振り返ってみればずっと安定が続くというようなことはなく、必ず、何か問題または変化がやってくることに気がつきます。
それが環境の変化のこともあれば、心境の変化ということもあります。ただ、だいたいは心境の変化は環境の変化に伴うことが大きいです。
こうして見ると、私たちは心を変えるために環境を変えさせられていると言うこともできます。
固定や安定を望めば望むほど、いつか環境が自分を変えてしまうことに恐れを抱くことになり、しがみついたエネルギーの分だけ、そこからはがされた時の衝撃度合いは強烈なものがあると想像できます。
いわば、同じものを望むと逆にそれから変えさせられる運命が回ってくるということですし、しがみつけばつくほど、環境の変化へのショックも大きいということです。(特に死ぬ時にしがみついていれば、とてつもない思念が残るでしょう。それが残留エネルギーとなって心霊化することがあると考えられます)
自分の霊的な発展や成長、意識の拡大という点から見ると、最初のほうにも記したように、環境が変化したり激変したりしても、心境は穏やかであったり、楽しめたりするようになるのが個人の進化とも言えます。
いろいなことが起こり、変化していくのも、もしかするとそうした意識の成長のために起こっているのかもしれませんし、もっと言えば、自分で起こしているとも考えられます。
ですから人は何かに満足しても、また次を求め、「もっと刺激がほしい」という気持ちが生じるのだと推測されます。
これはマルセイユタロットでいえば、「悪魔」のエネルギーと結びつきますが、結局そのエネルギー・欲求というのも自己成長のためと思えば、「悪魔」の役割の一面も見えてきます。
ということで、何か変に安定してしまっている、型にはまり過ぎていると感じていたら、変革の行動を起こす時に来ていると言えます。
あなたが高いレベルに達していない限り、遅かれ早かれ、環境のほうがあなたに変化を起こさせるからです。
タロットでいえば、「運命の輪」の回転を回すということになります。
その方法は時間を早める(決断のスピードを速める)、誰かに動かしてもらう(セミナー参加や学び受けたりして人の刺激を受ける)、ふたつの極のどちらかにあえて意識を傾けるなどの方法があります。
最後の「どちらかの極に傾ける」とは、簡単に言えば「何かを徹底的にすること」で、言ってみれば「集中」に近いですが、その内容自体はよいことだけとは限りません。前にも書きましたが、堕落方向と思われることへの集中でも「運命の輪」の回転は速くなることがあるのです。
また情報や技術・さらには感情においても、受けて入ればかりの人は、逆方向の、外に出す、実践する、つまり何かしらの形でアウトプットすることによって、回転が速くなる場合がありす。
ここで挙げているのは、積極的な不均衡推移への意図であり、実は宇宙はどの局面でもバランスが取られているものではありますが、あえて今の均衡を崩すことで、さらに大きな均衡を自分に呼ぶという方法なのです。
本来は放置していても、生きている限り、その作業は勝手に進められるものですが、自分の意志を働かせることで、そのスピードを加速させることになり、意識の拡大も早くなります。その分、外で起こることを穏やかに楽しめる心境にも、早く近づくことになるのです。
この世の中は結構ものすごいアトラクションにあふれているワンダーランドなので、何も考えずに惰性で生きていても楽しめるものですが、それは子供の感覚に過ぎませんし、まさに幼いレベルです。
意識的な生活を心がけることで、幼子が親にアトラクションに乗せられて喜んでいるレベルの世界から、さらに別の自分で楽しめるアトラクションの世界へと飛翔する可能性が生まれるのです。
アニメ「猫の恩返し」を見て。
今日からジブリの新作が公開されるということで、テレビ系列でもジブリ作品がよく放映されています。
アニメ好きの私ではありますが、個人的にはジブリの作品、特に宮崎監督の作品は初期を除いて、あまり好きではありません。
理由はグノーシスの気づきを阻む要因が多いからです。ただ今日はそのことがテーマではないので書きません。また、ジブリでも少しリアリティを感じさせる作品は好きですし、好きではないものも違う視線で見ると、制作者の意図を超えてインスピレーションを得ることも可能です。
さて、昨日は「猫の恩返し」をテレビでやっていました。たまたま見ていたのですが、今の目線でこの作品を見ると、結構いろいろな気づきがありました。
この作品も作品そのものは私の好みではないですが、しかし前述のように見方を変えると極めて示唆に富む作品に変化するのです。
一番面白かったのは、主人公の女子高生がファンタジーの(猫の)世界に連れて行かれた時、「猫になってもいいかなぁ・・」と思う度に、自分が人間から猫化していくという演出です。
主人公を救い出す紳士な猫人形は、「自分を強く持て、自分の時間で生きろ」と主人公にアドバイスします。
このあたりが多分に心理的・スピリチュアル的表現になっているのです。
簡単にいえば、そして制作側からのメッセージとして見れば、このことから私たちに対して、「自分として生きること、誰かや周囲に流されず、自分をしっかり持って主体的に生きよう」ということでもあると思います。ファンタジーや空想世界を利用するのは、アニメ的表現の特徴ですし、お決まりと言ってもいいでしょう。
これは確かに大切なことです。
ただ、タロットをやっている私から見れば、それは現実の生活をまずしっかり生き抜くための基礎知識であって、いわば当たり前の第一段階だと見ます。
今回、私がこの映画で感じたのは、意識の揺らぎによる世界の変化ということです。これは第二段階の生き方と言えるでしょうか。また自分意識の選択というテーマもあります。
人はともすると、自分を生きるのではなく、誰かの期待する人間像や社会から植え付けられるモデルで生きようとします。
実はほとんどの人は無意識のうちに、そうして生きていると言えましょう。
つまり、最初のこの映画のテーマのように、多くの人はしっかり自分とその時間で生きておらず、現実でいながら、ほかの人の世界観というファンタジーで生かされているようなものなのです。
ただここで、では「自分」とは何であり、誰であるのか? 自分を生きるとはどういうことなのかと突き詰めて行くと、おそらく誰しもあやふやなものになってくると思います。
なぜならば、人(個人・個性)は、対比、対人、対物で決まるからです。結局、自分以外のことによって、自分が規定される(違いが決まる)ので、外のモノと比べて「自分」だと自らが認識するわけです。
ということは、自分というものは「削ぎ落とされた他人との違い」と極論することもできるかもしれません。それでもそれは外見や目に見える範囲でのことです。
内側(心)まで人と違うのかどうかはわかりません。
自分の心や思考と思っていても、やはり人の思想や情報に影響され、自分で形成した信念によって自分というものを幻想的に創り上げているだけかもしれないのです。
ということは、自分というものは、とどのつまり、あやふやな存在だということで、「自分探し」の困難さ、「自分を生きる」という本当の意味での難しさはここにあると考えられます。
そこで、これを反転させてみます。
結局、自分というものがわからないものであるならば、逆に自分を自由に変えていくこともできるのだと。そういう存在が人間だと考えることもできるわけです。つまりは自分でモデルや形式を選べるのです。
「猫の恩返し」に戻りますが、人間である主人公が猫になりたければ猫になることもできますし(象徴なので現実の猫になるというわけではもちろんありません)、もっと言えば別の動物や人間にもなることも可能なわけです。
さらには時空ということもポイントで、時間と空間が特に現実を認識させるうえで重要な役割を持ち、場所の質と時間のリズムによって意識が変わり、人(人間性)すらチェンジしていくことにもなるのです。
(マルセイユタロットの「運命の輪」)
先に「意識の揺らぎ」という表現を文章中でしましたが、意識を変えてほかの人間に切り替える(自分が変容する、自分を着せ替える)には、意識を揺るがせる工夫がいるわけです。
それは実はファンタジーや空想、時には妄想にさえヒントがあります。
通常、人の意識が揺らぐのは、とてもインパクトのあることが起きる(つらいこと、苦しいこと、反対にものずこい喜びなど)か、自分の個というものをなくすような全体性の体験(没我)をすることで生じます。
自分と思っているものを喪失することで、別の意識(のパターン)を自分に移し替えることができると言ってもいいでしょう。
マルセイユタロットの「13」の秘密もここに隠されています。
ただ、自分を変えられる・選べると言っても、奴隷として洗脳させられている場合(無意識のあうちに、ある役割をさせられているの)と、主体的に自分でわかって選択している場合との違いが、死活の意味で大きく、それがグノーシス(自分の神性の認識)につながるものと考えています。