スピリチュアル
人生劇場
皆様もこれまでの人生を振り返ってみて、自分にいい影響を及ぼした、与えてくれた人物のことを思い浮かべてください。
・
・
・
・
いかがですか。
きっと優しい、穏やかな、そして安心した気持ちになることでしょう。
今度は反対に、この人は嫌だった、きつかった、思い出したくもない・・・というような人を少しだけでもいいのでイメージしてください。
・
・
・
中にはブロックがかかって記憶にふれることすらできないかもしれませんが、そのような方は無理にしなくても結構です。でも嫌なヤツと思っていたら、意外にすぐに思い浮かんだかもしれませんね。
さて、これで何をしようとしているのかと言えば、人を思い出す時の自分の気持ちの変化を感じてもらうことも大切なのですが、実は自分にとってあまり好ましくなかった、むしろ嫌いだったような人物がどんな役割をもっていたのかを見てもらうためです。
このことはタロットを使えばさらに効果的にできるのですが(私の講座でやることがあります)、タロットを使わなくても、「振り返る」という、ただそれだけのことで、ある程度客観視できます。
それは「時間」という緩衝材があるからですね。
時間というのは一面すばらしいもので、私たちに直接のショックを与えないように、あるいは楽しみ・喜びも何度でも味わえるようにしてくれるとても有り難い存在でもあるのです。
それはさておき、こう考えましょう。
自分にとって特別な人というのは、いわば自分にインパクトを与えた人物です。ということはよい影響を与えてくれた人も当然そうなりますし、逆に自分にとってつらいと感じた人もそうなります。
この両者はまったく別の行為や感情ではあるものの、ともに自分には何らかの意味で強い影響があったわけです。
いってみれば陰陽かもしれません。
だからといって、たとえばひどいことをする人やいじめをする人を肯定するというわけではありません。
ただなにがしかインパクトが強いということは、人生をシナリオや劇場のように客観的に見れば、それだけ意味があるのだと考えることもできるということです。
物語でも強烈な印象をともなう登場人物とはどんな役割でしょうか? だいたい主人公にいろいろなことを考えさせ行動を促す人であり、ターニングポイントに現れがちです。
マイナスと思える人物との関わりは観客として見れば心苦しいです。
いじめ続けられる主人公をずっと見ているのはたまったものではありません。主人公が相手に立ち向かうか、救いの手を差し伸べてくれる人が現れるか、環境が変化するかしないと、つらいくて見ているほうもやりきれないでしょう。
物語は演じるほう(演者)はその場その場でストーリーを新たに創作することはなく、ただシナリオと演出をもとに魅せていくということをするだけです。
これとは異なるのが実際の人生劇場です。
シナリオはその場で自分で書き換えていくことが可能です。おそらく設定の大きな枠組はもともとあるのかもしれませんが、魂的には自分でそれを選び、書いたとも言われています。
そして細かい設定や演出、シナリオ自体は白紙であり、やりながら作っていくということが人の人生だと考えられます。
その時現れる様々な登場人物でも、良きにつけ悪しきにつけ、インパクトを持つ人物はあなたに何らかの指針を与えていると想像できます。
それをまたどのようにシナリオに組み込み、演出し、自分にとって価値あるストーリーにするのかはまさに自分に任されているとも言えましょう。
あなたが見ていて気持ちのいい、感動したストーリーというものが映画やドラマでもあるはずです。
それは登場人物の皆が皆、最初から仲良しこよしでいて、主人公に何の葛藤もなく・・・の物語ではおそらくなかったでしょう。
そしてどのように主人公たちが変わっていったのか、どうしてあなたが気持ちがよいとそれに感じたのかを思えば、自分の実際の人生のシナリオづくりにも役立つでしょう。
仕事の意味
昨日仕事の話をしましたので、今日も仕事に関することを書きたいと思います。
ところで皆さんは、今、大金を手にしたら仕事など辞めて好きなことして暮らしたいと思う方が多いかもしれません。
「ああ、宝くじが当たったなら今すぐにでもこの仕事が辞められるのに・・・」と考えたこともあるでしょう。
ただ、よほど今の仕事や職場が大変な方は別として、おそらく実際に大金を手にして仕事を辞めてしまっても、何か物足りなさを感じると思います。
しばらくは仕事から解放された気持ちで楽しく、旅行へ行ったり、好きなモノを買ったり、おいしいものを食べたり、趣味をしたりして過ごして行くでしょう。
そしてそれなりに充実感はあると思います。
けれどもやがてあなたは次第に空しくなってくるでしょう。
そして何が物足りないのかといっても、自分が人や社会に貢献していないということが一番の理由だと気がつくことになります。
人は自分が無価値だということに非常に存在の危うさを感じ、生きる希望も失います。逆にいえば、自分が誰かの、あるいは何かの役に立っている、少しでも価値ある存在なのだと思うことで生きていけると言えます。
もちろん家族やパートナー、仲間、友人がいれば自分の存在価値も確かめることができ、仕事がなくても大丈夫でしょう。
ただ世間一般的に仕事をしていない人、あるいは何かに貢献していない人は通常の時間やフィールドからはずされる傾向にあります。
具体的には時間が他の人と合わなかったり、場所が異なったりすることが増え、一緒に活動する人がいなくなってくるということになります。
するとあなたは孤独を感じ、自分が何のために生きているのかわからなくなります。
思えば「仕事」というのは、「仕える事」と書きます。
さきほど、人は人に、あるいは社会に、または何か自分以外のものに対して貢献していると思える時、生きる力となると説明してきました。
ということは、仕事は生活の糧を得るためのことが大部分とはいえ、本質的には仕える事をすることで、自分の価値を確かめている作業でもあるといえます。
その意味では「仕事」とは何かに仕えている事をする行為だと解釈でき、その仕える対象は究極的には「天」や「宇宙」「神」といったような大きな存在を仮定しても成り立ちます。
たとえ孤独であっても、自分は天に仕えているという意識を持てば、それは「仕事」を意味し、収入や給料の多寡、あるなしとは関係なくボランティアでも何でも自分はいつも仕事を行っていることになります。
そして今やっているあなたの仕事自体が実はもう仕えていることなので、大きくいえば天に貢献しているとも言えます。
また職が変わっても自分の意識次第で、自分の存在価値を仕事によって常に置くことができるのだということでもあります。
スピ系の人とグルメの関係
仕事柄、いわゆる世間でいうスピリチュアルな傾向の人たちと会うこともあるわけですが、なぜかこういう人たちの中には食べ物にとてもこだわりを持つ方が多い気がします。
もちろんこうした人達は自分の心身の健康にも気遣う人も少なくないので、自然、自分が取り入れる食べ物についてはこだわりを持つことになるのでしょう。
ただそれとは別の意味もあると思います。
それは、よく考えてみますと、バランス論に行き着くものです。
ここでいうバランス論とは、宇宙・森羅万象・世の中は陰陽、プラス・マイナスのような相反するエネルギー、要素・状態で成り立ち、バランスが必然的にとられているという考え方のことを言います。
ここで間違わないでほしいのは、陰と陽、男女のような個々に別々で存在しているわけではなく、ふたつがひとつであるのが当たり前というか、ふたつでないと存在できない、ふたつ合わさる状態がノーマルなのだという見方です。
言ってみれば、単にひとつの状態をふたつの局面(とらえ方)で見たに過ぎないのが実状です。
でも実際にみんなが夫婦やパートナーでいるわけではないですよね。それでも人として存在していられるのは、どこか別の人や形・状態・レベルでもうひとつを得ているか、自分が知らない形でもう一方のエネルギーが存在しているのだと見るわけです。
あなたは今は独身でパートナーもいないかもしれませんが、大きな世界観として想定すればどこかにあなたの伴侶は生きているとも言えますし、別の片方のエネルギーとして(一つではなく複数もあり得ます)動物、植物、もしくは何かの状態などで存在しているとも言えます。
いずれにしても肝心なのは、片方だけで存在できない状態がノーマルな宇宙観と言いますか、摂理であり仕組みだとするのですね。
そうした立場でモノを考えますと、いろいろと面白いことが見えてきます。「なるほど、そうなのか」と、結構目に見えない操作に気がついてくることもあります。
先述した「スピリチュアルな人たちには食べ物にこだわりを持ち、案外とグルメな方が多い」というのも、すなわちそうした人々は精神世界傾向が普段の状態なのですから、反対の物質(食べ物)に強く関心が行くのもバランス的に当然なことだと考えられるわけです。
精神のエネルギーを消費すると、やはり肉体を持つ人間であれば、食べ物を消費してのエネルギーへの変換が図られるでしょう。
だからその意味でも食べたくなりますし、仕事としてもボランティアとしても何か相談をしているような人は、いわば相手やクライアントに喜びのエネルギーを与える役をしているのですから、今度は自分にも喜びを与える必要が出てきます。
それをある人にとっては精神とは逆の、物質つまり食べ物からとなり、それも自分が喜ぶおいしいものを、ということになってくるのだと想像できます。
純粋に身体的な健康ということで考えると、必ずしもおいしいもの・グルメは体にいいものではなく、むしろ摂取が過剰になれば悪いものだと言えますが、それを精神や心のことと結びつけると、そうとは言い切れないところもあるのだと思います。
そして、やはりここにもバランス論が働くのですが、何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」で、やり過ぎ・食べ過ぎ・取りすぎには注意が必要ですね。
そのバランスを取るために、何かの代償は払わねばならないことになります。
また食べ物とは別に、スピリチュアルな人がお金に苦しんだり、お金に執着したり、ドロドロとした人間関係にとらわれてしまったりするのも、バランス論的に見ると、これも当然に思えてきますし、その解消方法への気づきも得ることができるでしょう。
このことはまた別項か、メルマガなどで書かせてもらいたいと思います。
感じることをどうとらえるか。
これは結構私自身にも言えることなのですが、自分の感覚をいきなり疑うところから入ってしまうことがあるのですね。
感じ、感情、感覚、タロットをする前はこういうものに興味と関心を抱きながら、あふやふやなものは否定するか疑問符をつけて無視しようとする傾向がありました。
しかし一方で都合のよい感覚は信じようと固執するところもありました。
感じるということは実は人間において基本的な当たり前のことで、原始では生存のためには、おそらくこれが最優先された判断材料だったと推測されます。
いわば本能に基づいたものともいえるかもしれません。それゆえ、タロットカードで感情をもっとも表現している「月」のカードでは、本能部分を象徴する「ザリガニ」が描かれています。
しかし、次第に蓄積された経験による判断というものが重視されるようになると、それが口伝えになったり、本になったりしてデータや情報とされ、やがて知識となって物事の判断の重要なファクターになったと考えられます。
現代はその最たるものかもしれません。
そして逆に感性や本能的な感覚といったものは排除され、非合理なものとして扱われることが多くなりました。
タロットをやるようになって、私は次第に気がついてきました。感情・感覚というものはすべての中のひとつであり、判断の重要な要素でもあるのだと。
これは知識が正しくて感覚が間違いとか、感性を重視して知性はあとでよいとか、そういう優劣の問題ではないということです。すへでは等しく、ある表現や次元での違いでもあります。
このことは四大元素を理解していけば自然とわかってきます。
それと、さらに大切なことは、私たちは感じることを許可していないことが多いという実態です。
実は感じていることに評価を下すからおかしくなるのです。それはタロットでいえば杯(カップ)を剣(ソード)で理解しようとするようなものです。
感覚に評価をしようとする癖になると、やがて最初から感じない自分にする傾向になります。
なぜならもし感覚が間違っているということになれば、不安や恐れが強くなるばかりか、行動も結果も間違っていると自分が思うことになるからです。
怖い、いやだと感じている自分の感覚を認めると、自分が痛んでいることを認めてしまうことになるからでもあります。
時には相手がいる場合は、自分がいやだと思っていると、逆に相手にいやなことをされているということになり、相手を否定することにつながるので、相手が親やパートナーなど通常社会的に否定できない人であるケースには葛藤が生じるので、それならば最初から感じないようにしたほうがよいという選択をします。
ここのあたりは難しい話にはなってきますが、やはり自分が感じていることそのものに許可をしていくことが自分の解放やノーマルな自分に戻すためにも必要なことではないかと思います。
人間はいろいろな感情をもった生き物です。喜怒哀楽、状況や人に感じていくのは当たり前なのだと思うことです。
自分が感じることを許す、許可する、このことが感性や感覚を鋭くし、さらに自分を解放していく第一歩なのかもしれません。
大事なのは、自分の感じていることに評価(いい、悪いと決めつけること)をしないという態度でしょう。
ただ感じるている自分がいるのだと思うだけでいいのです。
感覚に悪いという評価することも問題ですが、いいと評価するのも決してよいことばかりではないのです。
この感覚は正しいと固執するようになると、傲慢になったり、それこそ得体の知れない信仰を信じ切ったりするような危険性があります。
私も目に見えない世界の感覚をつかむのもいい悪いからではなく、感じていることを許すのが最初だと教わりました。いいか悪いかは、さらにその上の境地や次元にならないと判断できないわけです。
これは「運命の輪」というカード(マルセイユタロット)に描かれている犬と猿にいる間は、いいも悪いも判断できないということと同様です。つまりはスフィンクスになるための過程と考えるのです。
集団の力
ちょっとお知らせです。
私の講座を受けられた方のために、メルマガとレターを用意しているのですが、現在HPも含めてすべて変革しているところで、新しいドメイン名でメルマガも送りたいため、お待ちいただいている方にはしばらくの猶予をお願いいたします。
さて、話は変わり、
あなたは集団の力というものを信じますか?
もちん物理的には一人よりもたくさんの人数の力が合わされば、大きな力が出るのは当たり前のことです。
実は心理的な部分、精神的な世界でもこれはある面言えることなのです。
たとえばタロット講座でも複数の人がいたほうが、理解が早くなることがありますし、個々の問題の解決力が早くなることもあります。
これは理屈で見た場合、たくさんの人がいたほうが、それだけの意見が出ることも多いので、いわば多角的視点をともなって、思っても見なかった解決策がカードから読み取れるということがあるためです。
ですから多様性こそ解決策の(出る)大きな要素でもあるのです。
しかしそうした論理的なことだけではなく、目に見えない世界での効果もあると考えられます。
それはたくさんの人の思念が集まると、それだけパワーを生み出すということです。ただ同じ方向性(波動・波長)を持つ必要性があります。
一致団結することは物理的なことだけではなく、力を発揮するには精神的な面でも重要なことです。
また自分の問題が違う形で他の人の問題と奥底ではつながっており、自分の解決が人の解決にもつながり、その逆、人の解決が自分の解決にも影響を及ぼすのです。
それから集団だけではなく、突出した一人の力があれば、その影響が他の人にも及び、普段では発揮できない力が普通の人にまで出ることもあります。
それらにはやはり「多くの人が信じる」ということが大切で、信じる人か多けはれ多いほど、その信じられたことは影響と力を持ち、現実に作用します。
多くの思いはちょうど波のように拡大しつつ、伝播していくのです。
整理しましょう。
集団の力は物理的にも精神的に影響が大きいこと。
意思統一が重要であること。
一人のカリスマ的な力は、ほかの通常の人にまで普段以上の力を出すことに作用すること。
信念(信じること、確信)が力になり、現実化に大きく影響すること。
信じる思念も伝播していくこと。
ということで、集団の力、あなどってはいけません(いいも悪いも両方あります)し、一人の力では難しい問題も、多くの人が集まれば(共同すれば)スピードも力も増していくことが可能なのです。