スピリチュアル

ホ・オポノポノを例に 問題の内転換

ホ・オポノポノをご存知でしょうか?

ハワイの伝統的な癒し、問題解決法を簡略にアレンジしたと言われるメソッドです。

一昔前、スピリチュアル界では大変話題になり、書籍の出版、セミナーの開催など各地で行われ、基本の四つの言葉を唱えることが流行ったことがありました。

今ではブームも去ったかのように見えますが、このメソッドの効果は今でも十分にあると私自身は考えています。

とはいえ、私はマルセイユタロットが専門であり、ホ・オポノポノを深く学んだわけではないので、いい加減なことは言えませんが、実際の経験と、タロットの浄化システム・理(ことわり)のようなものを見てきても、同じようなところが、ホ・オポノポノにはあると考えられますので、まったくの思いつきで言っているのではありません。

タロットとホ・オポノポノには、見た目、共通点はありません。

しかしながら、浄化システムの本質では、先述した通り、似ていると言え、実は、およそ浄化に関するメソッドには、共通する仕組みのようなものがあると考えられ、そのために、まったく異なるツールやメソッドにおいても、本質的には共通するのだと推測できます。

これは癒しや浄化だけではなく、どんなことにも言え、例えば、西洋的なもので言いますと、タロット、カバラー、占星術、数秘など、別の体系同士であっても、やはり共通したものがあると考えられ、そこを理解すると、ただ表現の違いでしかないということに気づきます。

ということは、裏を返せば、宇宙全体には、本質的には同じ構造・システムがあると言え、それが民族や時代、方法によって表し方が異なっているだけなのだと思うことができます。

ですから、大きな意味では、どの方法をやっても効果はあり、本質・大元にに辿り着ける可能性はあると言えますし、そもそも私たち自身が本質と同じであることも、こうした理由から当然だと言えるのではないかと思います。

マルセイユタロットに流れる思想、グノーシスでは、端的に言えば、人は神であるということを伝えるものですが、このことは、さきほど述べた宇宙の本質と私たちの本質は同じであることを言っていると考えられます。

さて、私が今、またホ・オポノポノについて語っているのは、今の不安に満ちた社会状況に、ホ・オポノポノがとても効果的ではないかと思えたからです。

ただ、マルセイユタロットもそうなのですが、問題の解消を期待して、メソッド(タロットだと展開とリーディング)を行っても、あまり意味はないように感じます。いえ、それなりの意味はあるとは思いますが、本当のメソッド(の効果)にはならないおそれがあります。

ホ・オポノポノでも、問題の原因は外にあるのではなく、内(潜在意識)のインナーチャイルド、もしくは人類の集合的な問題意識(データ・パターン)にあると言われ、実際現れている外の問題は、その投影や、インナーチャイルドからの警告や叫び(訴え)であるとみなします。

この原理から言えば、外側の問題の解消を願って、ある言葉を唱えたり、方法を施したりしても、逆効果というか空しいところがあり、むしろ、解消を願うのではなく、淡々と、ひたすら内なるデータの浄化に努めるというほうがいいわけです。

つまりは、外のことをコントロールしようとしても無駄で、いわば、映画のスクリーン(写し出されている物語や人物)に向かって、「こうなってくれ」「ああしてほしい」と願っているようなものなので、それをしても肩透かし、素通りみたいになるわけです。

とはいっても、外側(現実)に起きている問題のインパクトは強烈で、不安で苦しく、恐れがあり、悩ましいものです。しかし、それこそがみたいなもので、リアリティが強烈だからこそ、それは内なる訴えとしても強烈だと見て、方向性を逆に見なければならないわけです。

これは、私自身も囚われることが多く、なかなか本当に内に向かうということは、言うは易し行うは難しなのですが、それでも、本当の平安は内にあるということが、体験によって少しずつ理解てきてくるようになると思います。

これも段階・過程のようなもので、内なる浄化が進めば、外なる刺激に惑わされる度合いが減少し、その本当のメッセージ性に気づくようになってくると考えられます。(これにはカルマ的のものとあると推測されます)

なかなかこの幻想(とはいえ、ある意味、実体でもあります)システムは強固で、生まれながらずっとそのように過ごしてきたわけですから、簡単に転換することはできないのが普通でしょう。

しかし、問題が起きる度、外から内への転換、マルセイユタロットで言えば、「吊るし」の逆さま状態に気づいていくことが増え、常識認知システムか崩壊しはじめ、本当の安心・平和へと自らを誘い、同時に、人類全体の流れもそれに向かうよう寄与していくでしょう。

マルセイユタロットの「運命の輪」にも、内なる声を聴くという象徴がありますが、それによって、外の運命ではなく、内なる運命が回り、変化すると言えます。

ホ・オポノポノは、方法としては、とても簡単です。

ただ、「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」と唱える(心の中でもよい)だけです。

詳しくは、ホ・オポノポノ関連書籍や、サイトをご覧いただければよいかと思います。

今こそ、必要なことではないかと思いましたので、ご紹介させていただきました。

もちろん、マルセイユタロットでも、すでに述べたように、同じような働きが本質的にはあると考えられますので、タロットを使って自身を浄化していくのもありです。

そうした方法は、タロット使っていると自然に降りてきますが(自分自身に合った方法とかカードが出ます)、タロットの場合は、カードの象徴性を知ったほうが効果的なので、それは自習されるか、誰かに学ばれることをお勧めします。

とにかく、大切なのは、問題をそのまま問題としてとらえよう、解決しようとすればするほど、問題は大きくなるか、いったん収まっても、形を変えて再び現れたりするということです。

ですから、問題の方向性を内側に転換して、問題自体を、むしろ手放す(赦す)ような態度で向き合えば、問題の本質に気づき、解決とか変容に向かうと思います。

それはなかなか難しい道かもしれませんが、結局、それが近道になる人が多いような気がします。

問題やピンチは、別の方向からすれば、本当にチャンス(「運命の輪」の転換、回転)なのです。


この世界 ループやバーチャルの話

人生、迷いと決断の連続と言えます。

たぶん終わってみれば(つまり死ぬと)、どちらでもよかった、何でもよかった、経験こそすべて・・・みたいな感想になるのではないかと想像します。

とはいえ、逆に終わりだからこそ、後悔もあって、ああすればよかった、あちらを選べばもっと違った人生になっていたのでは・・・と思うこともあるかもしれません。

映画やゲームの世界では、なになにルートとか、こちらの世界線・あちらの世界線、選択肢A,Bなどと言われて、複数のシナリオが用意されているものがあります。

私たちの人生も、ルートの違う、いわば平行世界のような、選択によって世界そのもの、人生そのものか大きく変わることが実際にあるのかもしれません。

一方で、これもよく創作ではありますが、ループ現象的に、どのルートを通っても、結局同じ結果になってしまうというパターンもあります。アニメではよく見かける設定ですが、これはどの作品を見ても怖いものです。

もしかすると、私たちは同じ時間・世界を、それこそ数千、数万の、恐ろしくたくさんの回数を刻み、永遠とも言える輪の中にはまっているのではないかと想像すると、恐怖があります。

例えば、輪廻転生(説)も、同じ人生ではないとはいえ、ある意味、ループで、巨視的に見たら、同じような時間を過ごしているようにも思えます。

実は私自身、既視感(デジャヴュ)を瞬間的に体験したことがあり、映画マトリックスの黒猫のシーンではないですが、確かに、ほんのわずかな時間の間に、まったく同じシーンを複数経験した感覚があったのです。それはビデオの巻き戻しと同じような感じでした。

こうなると、ループ説以上に、この世界がバーチャルリアリティであることにも実感が出てきます。

ループに説は、ネガティブなことばかりではなく、もし、天国のような自己陶酔の世界に自分がいれば、そこに永遠にループしていれば、幸せしかないことになります。(笑) ただ、これはこれで、ある意味、怖い話です。(こういう設定も、よく漫画やアニメの悪役が使う術でありますが)

そんな話は、非現実的で、他愛もない漫画やアニメ、映画の創作話か、と思うかもしれません。

しかし、この話をしているのは、結構、重要なことだと個人的には思っています。

それは、マルセイユタロットで言えば、「吊るし」に関係するもので、私たちの認識は、果たして正しいのかどうかという問題提起にもなります。

例えば、パソコンを扱っていて、パソコンの調子が悪く、うまく動かない場合は、パソコンの内部に問題(ソフトとかOSとか)と考えます。

でも、もしかすると、パソコンではなく、パソコンを使用している人間の脳とか、身体とかの異常で、そう見えている・感じているだけかもしれません。

さらには、パソコンも扱っている人間もすべて含む「自分認識している世界」自体が、機械のバグのように、瞬間的におかしくなっていると見れば、パソコンや人の問題ではなく、世界そのものの問題と言えます。

どれが本当のなのかは、よく考えるとわからなくなってきます。

私たちはループの中にいるのか、違うループ(輪)をいくつも渡り歩いているのか、逆に輪などなく、自分か誰かが世界を作っていて、その経験を映画のように味わっているのか、人生、世界、経験とは何かを想像すると、それはひとつの考えに限定できないと言えます。

とすると、考えの数だけ、人生やパターンはあるのではないでしょうか。

最初に、どの選択をしても同じとなる(とわかる)場合と、やはり、ひとひとつには意味があり、別ルートへと、選択の度に移動している(選択する人生が確かにある)と見る場合があると言いました。

どちらが正しいかも言えず、ただ見方・考え方でどちらでもあるのでしょう。

ガチガチの運命論のように、人生は大方、最初から決まっているという人と、いや、運命は自由に変えられるという人がいます。これも、考え方次第で、結論は出ないでしょう。

ただプログラミング説になってきますと、大元のプログラムと、ゲーム演者そのものが変えられる範囲のプログラム(いわばキャラが自己プログラミングできる範囲)とがあるように思われ、大元は変えられないにしても、自己プログラミングは、ある程度、レベルや難易度によって書き換えの許容範囲が変わってくるのではないかとイメージします。

ですから、個人において、悟るような人も出る(大元のプログラムに戻る)でしょうし、欲望のままに自堕落に生きてしまう人もいるのでしょう。

限界突破と言いますか、ある条件の規定値に達すると、制限がはずれ、次の範囲・レベルへと上昇するのかもしれません。それが学びとか、成長とか言われているように思います。

ですが、これでは、あくまで大元に操られるキャラクターゲームでしかありません。私たちはどこまで行っても単なるキャラなのか、実は大元なのか(大元になることができるのか)、ここが問題でもあります。たぶんどちらでもあるのだと思います。

これも「吊るし」と、そして「世界」のカードとの関係性で表せそうです。そして時間的にも有限と無限、つまり死と誕生の有限性と、それと対になる永遠性(完全・無限性)です。

ゲーム版世界の移行はループと言えますし、ゲームの大元に帰るのは、マトリックスやバーチャル世界からの脱出でもあるでしょう。

ループとバーチャルも対やセットで考えると、私たちは、いろいろな世界を経験し、ループしていくことで、既視感を認識し、ついにはそのループからの解脱に気づくことになるのではないかと思います。

それには、ひとつのレベルの世界から次のレベルの世界に移る時の感覚、つまりは次元上昇のようなものが非常に重要なファクターになるものと思われます。

次へ移っても、ループ説では、ループしていることには変わりないのですが、別の輪への移行が、たとえループ・繰り返しであっても、脱出・解脱のきっかけとなるのではないかということです。

ものすごく低い例え話で言えば、ゲームに熱中している子供が、ゲームをクリアーする瞬間、我に返る、あるいは母親からの「ごはん、できたわよ」とか「勉強しなさい」という声に気づく、みたいな感じです。(笑)

今日はわけのわからない話だったかもしれませんが、こんなことも、マルセイユタロットを見ていると、浮かんでくるので、面白いと思います。


新型コロナウィルスに関連して

私はあまり他人のブログとか見ないのでわからないのですが、どうなんでしょう、最近の巷の話題と言えば、やはり中国で発生した新型肺炎・コロナウィルス感染症の話でしょう。

ところが、ぱっと見たところ、あまりこのことについては、ふれないブロガーの方が多いように見えます。それどころか、中には、自分の商品やセミナーなどの告知に大変忙しい人や、現実無視かのような、「楽しく行きましょうー!」(笑)みたいなものも散見されます。

まあ、これらとは別に、陰謀論的な話で書いているものも見かけますが・・・(苦笑)

実際、現状では不安な方も多いと思いますが、医療の専門家でもない者が、うかつに書けないのも確かです。

でもメンタル的なことを書いている人はもともと多いのですから、こういう時こそ、何かメンタル面で落ち着く方法など書いていただけたらなあと思うのです。

私はタロティストなので、タロット関連で何か書くことにします。

タロットと聞くと、皆さんは、今後の状況を占ってほしいと、一般の人は思うかもしれません。

私自身は、このブログで書いているように、タロット占いはほとんどしませんし、そもそもタロット占いを教えている者でもないのです。ですが、占いを否定しているわけではなく、タロットの技術のひとつとしてはアリだと考えています。

こういう時に占うことには、マイナス点とプラス点があります。マイナス点は、状況判断だけの占いをしても何も解決しないということです。

また、もし悪いものが出てしまうと、ますます不安になり、心理的反応から、かえって悪い結果を引き寄せることもあります。

つまり、占いの予想を設計図にして、自分自身が、その過程と結果を起こしているわけです。タロットの場合は、絵柄があるので、特に強烈なカードの絵柄だと、心に刻印されてしまいがちで、自らがカードによる示唆の現実を引き起こしてしまうことは往々にしてあります。

逆によいことは、プラスや明るい予想が出た時は、安心感が出ることで、また、人によっては、たとえ占いで悪い結果であったとしても、薄々わかっていたことならば、通常知り得ない情報から、自分の感じていたことが知り得たことで、納得感が増して見切りがつき、次の行動が早くなることもあります。

それに、運気的な占いでは、いわゆる運気の流れ、情勢というものがわかりますから、波に乗るべきか、控えるべきかなどのタイミンク的なものもわかりやすいです。

それで、それを踏まえたうえで、今回の新型肺炎について、今後の日本での傾向と対策をテーマにカード占ってみたところ、悲惨なことにはならないだろうことがうかがえましたので、まずは、異常な不安を覚えている人は、気持ちを落ち着かせていただけたらと思います。

と言っても、このまま何もしないわけにはいかず、対策のやり方によっては、流行の拡大も懸念される暗示はありました。

対策の鍵は、意外に身近なところや基本にあり、誰もが思う当たり前のことをしっかり徹底してできるかということ、もうひとつは、政府や組織の体制の組み直し、末端まで指揮・情報の開示、徹底だということです。

おそらく、思ったより早く、治療法などの対策は出るのではないかと予想されますし、そうでなくとも若い世代の活躍や、新しい方法が考え出されて拡散が収まっていくようにも思います。ただ、先述しましたが、そういうのを期待して、ただ楽観するだけではだめだと思います。

「正負の法則」のディマティーニ氏によれば、すべてのことは、よいことと悪いことは等分で、完全にバランスが取れていると言います。

今回のことはかなりネガティブな世界的な事件ですが、それに見合うほどの、よいことも発生しているのです。

さて、スピリチュアルの世界では、自らの(真に)思うことが叶う世界だと言われます。(引き寄せの法則)

とすれば、極端なことを言えば、この新型コロナウィルス感染症のない世界、感染しない自分というものを完全に思うことができれば、それは実現されることになります。パラレルワールド風に言えば、この感染症のない世界、あっても問題のない世界に移行した自分ということです。

しかし、これは、その段階まで悟っている人、心がクリアーになって、完全な信じ込みや確信がある人にできる技です。

そういう人は、もはや普段から、日常的な、あるいは一般の人が抱く不安と、それによって生まれる(引き寄せる)実現の世界を超越する「心のシステム」が確立している人だと言えます。

多くの人に発信している、影響を持つカリスマ的なスピリチュアリスト、成功者のような人は、これができている人が(完全ではなくても、自信をもってやっている人が)多いと想像されます。

ですが、その段階に至っていない普通の人、もしくは、そうした心の傾向ではない人(不安の高い人、心配性の人など)は、発信者のやり方そのものでは難しい場合があるのです。

スポーツ選手に例えればわかると思います。

名選手がコーチや監督をしても、必ずしもうまく行かないのは、名選手自身では常識であり、メンタル・魂的にも生まれた時からの傾向で、普通にその名選手が思ってやってきたことというのが、一般的な選手にとっては非常識であり、理解を超えているところがあるわけです。

よって、レベルや段階、もしくは、その人個人に合った方法が必要なのです。この現実世界は個性の世界(一人ひとり違う世界)とも言えますから、共通する概念や大枠的な方向はあっても、細かな方法・具体策は、一人一人異なることが普通です。

ということで、スピリチュアルや精神世界に関心のある人の中ては、今回の感染症の件でも、自分の心の状態が大事だと信じ込み(それは間違いではないのですが)、感染症のない世界をイメージしたり、まったく情報を遮断して、なかったことにしてしまったりする方法、または、「楽観的に思えば、現実も楽観的なことで終わる」として、無為無策に、のんきに構える方法を取る・・・みいなことをしていても、逆に不安がどんどん増幅してしまったり、正しい情報が得られず、いざという時に慌てたりしてしまうことになります。

要するに、自分はどうすれば本当に安心(安心はできないでしょうが、落ち着いたり、冷静になれるかということ)できるかを考え、行動するということです。

それは情報を遮断することでもないでしょうし、デマを信じることでもないでしょう。他人のやり方が自分に合うとは限らず、一般論はあっても、個別での状況も違います。

自分の心が安心したり、明るい気持ち、少なくとも、悲観や悲嘆にくれたりしないようにするため、心を無理矢理、理想の現実にするよりも、事実を見て、情報を入れ(正しく知り)、準備と行動をしていくことで、心が落ち着くケースがあるのです。(パニックの行動とは違うので、注意が必要です)

そして、多くの人が今後の予想イメージで整理がついたり、希望が持てたりすることによって、ますます心は明るさと落ち着きを回復してきます。

だいたい、今の不安な状態を招いているのも、中国政府の初期の情報遮断・隠蔽、WHOや日本の政府、その他行政など、本来すべきことが、変な忖度、楽観、情報の誤った分析と準備不足・対応による結果であるわけで、今現在は、人々の先々のイメージに、ネガティブなことしか想像できなくなっており、それがさらに現実を悪くする世界に移行させようとしています。

重要なのは、今後の希望や収束イメージが持てる、計画性・先見性、それに伴う実際の行動です。(マルセイユタロット、「女帝」と「皇帝」)

陰謀論ではありませんが、さすがに、今回の件では、皆さんも、日本はもとより、世界がおかしいことに気がついてきたでしょう。

一言で言えば、人が人であることが軽視されていて、もっとも大切にされているものが、国や政治、世界を動かしている者たちの間で、なぜか人ではなく、別にあることです。

霊性の堕落でもあり、欠落でもあり、逆に言えば、私たちに、真に大切なものは何か、失われていた心や魂、霊性を取り戻させるきっかけになるかもしれません。

心が現実を引き寄せるのなら、その心が安心し、落ち着き、明るくなるための、現実の行動、情報収集、訴え、運動も、時には必要でしょう。

ただ祈っていれば(祈りはよいものですが)、自分の事態が変わる可能性は現実的に低く、自分の心を変えるための「働きかけ」のほうが、先に求められることがあるのです。

おそらく、これも、「共生」と「真の自立」ということが、深くには、テーマとしてあると思います。

共生や助け合いと、自立は相反するようですが、高いレベルでは調和されるものです。一人一人が自立し、そして共生できる社会が望まれます。

マルセイユタロットでは、自立は「戦車」が表し、高次では、「神の家」が象徴します。そして共生的なものとしては、ふたつの壺を持つ女性的なカード、「節制」と「」で強調されるでしょう。(実際に、これらのカードは出ていました)

試練ではありますが、やはり、大きな流れとしては、私たち人類の転換が始まっているのだと感じます。


人間関係の問題(スピリチュアル)

人間関係は、人の悩み事の中でも、大きな位置を占めると言いますか、多く人が問題とするものです。

タロットリーディングでも、クライアントの悩み、質問ごととして、よくあるテーマです。

それもそのはずで、単純に考えても、自分以外の人間は、世界で何十億もの人がいるわけで、しかも、その一人一人が、自分とは異なる好み、志向、考え方、経験等、いわば個性的世界観を持っているわけですから、普通に生きていれば他人と必ず関わりますので、そこに衝突や葛藤が起きるのも当然と言えます。

とすると、これもまたシンプル(単純)に見れば、ふたつの解決策が考えられます。

ひとつは、この現実世界は、違う人たちの集まりでできているのだから、完全に分かり合えることはないと割り切る方法、もうひとつは、一種のゲームように見立て、違う人たちであっても、理解し、協力し合える道を求めていく(そのプロセスや方法を楽しんでいく)という方向です。

ああ、あとひとつ、完全に他人との接触を断って、一人で生きていくという道(人のいない世界・場所に行く方法)もないわけではないですが、これだけ世界中が開発され尽くした今となっては、他人のいない世界、もしくは他人からの影響を受けない場所などというものは、ほぼない言ってもいいでしょうから、現実的ではありませんね。

それに、この完全孤独の世界で生きることは、修行者みたいなもので、普通の人にとっては、つらく苦しい方法となるでしょう。

しかしながら、話は少しそれますが、現代の普通の世界においても、人との接触・関係をなるべく断って生活する人が増えているのも事実です。それは、いわゆるニートとか引きこもりと言われる人たちです。

もちろん、これにはいろいろな理由があるわけですが、人間関係の意味から見れば、人との関りによって自分が傷ついたり、面倒なことになったりするのを避けていると言え、中には、自分だけではなく、他人を傷つけてしまうことを恐れている人もいるでしょう。

要するに、人間関係の問題について、彼ら・彼女らなりの解決策が引きこもりなわけです。

言ってみれば、最初に述べた解決策・三番目の、「人のいない世界に行く」という道の、現実バージョン(自分が移動するのではなく、自分の環境自体一人にする策)と言えましょう。

このように見ると、引きこもりの人が増えているということは、人間関係のおそれ・不安が増大していると考えられます。

そして、話は戻ってきますが、人間関係の問題は、実は深刻化していると同時に、全体的には別の形で、解決に向かっているのではないかということです。

最初に単純思考から、解決策としては、割り切り(完全に理解し合うのは難しいとあきらめる)か、挑戦(理解への道を、ゲーム攻略みたいに楽しみながら求めていく)かという話をしました。

どちらにしても、根本は、人間には相互理解と相互不理解(無理解)があるからと言えます。

人は、お互いのことが完全にはわからないようにできているものの、理解し合える部分も少なくはないわけです。

ですから、「協力」の文字通り、力を合わせ、一人ではできないことも可能になります。(余談ながら、「協」の字は面白く、「十」の字と力三つの構成で成り立ち、タロット的でもあります。キリスト教的には、十字架のもとに力を合わせるみたいにも見えますね)

ここが現実と人間の仕組みをよく表していると思います。

ところで、マルセイユタロットでも、カバラーの生命の木も象徴もそうですが、神のような宇宙的元型的状態(エネルギー)が、現実としての人や物事に個性的に表現されていく過程が示されています。これを逆に辿れば、人は神・宇宙・原初に戻ることができると考えられています。

一方、降りる、上がるという型ではなく、交互に回転(交替)していくという見方を取ることもでき、そうすると、神と人は、まるで並行次元のように、ただ形態の違う同じ存在というとらえ方ができます。

今の、まさに「人間」として存在する次元や時代があり、同時に、神のような存在になる次元や時代があると見るわけです。

このふたつは、おそらく逆転した世界状態としてあり、なにもかも反対・反転した意味にあるのではないかと考えられます。(この中間に、人間でいう「死」の状態があるとも想定できます)

もしかすると、ふたつの状態・次元を統括する、さらなる大宇宙の意志、存在次元があるのかもしれませんが、とにかく、このようにして見ると、私たちが「ただの人間」でいる状態には(大宇宙からすれば)、必然性があると考えられます。

そして、話はまた、人間関係に戻ってきます。

人間状態にある今の時代(次元)では、神状態とは違い、相互理解がなかなかにできにくい状況になっているでしょう。それは肉体と個性(自我)を持って、強固にその中にいると思い込まされる仕組みがあるからだと考えられます。

従って、私たちが、他人・相手のことが理解できず、人間関係に葛藤や悩みを起こすのは、心(人間性)の問題というより、人間自体の(霊的)構造の問題であると言い換えることができます。

この理屈からすれば、最初に述べた解決策のひとつ、割り切りを取るのもあながち、間違いとは言えません。しょせん、人はわかりあえない構造を持つからです。

割り切り法を取れば、話しが通じる相手、相性のよい相手を中心に人間関係を形成し、自分とは合わない人、考えの違う人などと、極力関わらない、あるいは、ビジネスライクにその場限りの対処でつきあっていくということができます。

ここで大事なのは、割り切り法は、自分も相手に理解してもらおうと過剰に求めないことです。相手には相手の考え・世界があり、話し合うことはあっても、無理矢理、お互いの世界を共通させることはせず、それは押しつけも、押し付けられもしないという意味になります。

一方、人は分かり合えない構造を持つのであれば、なおさら、それに挑戦していこうという立場も出ます。創造的対策とでも言いましょうか。

おそらく、このように理解しにくい個別の世界観を持つ人間たちであふれる次元が作られているのも、ゲームで言えばハンディがあるようなもので、最初から全員分かり合えていたら、何も新しい創造が生まれないという欠点を補うためではないかと想像できます。

違う考え同士の者がぶつかり合うことで、そこで妥協もあれば、両者が統合した第三のアイデアも生じる可能性もあります。

完全に分かり合えなくとも、一部の協力で、何かが新しく生まれることもあるのです。また、わかり合えない構造を補助するために、機械や装置も発明されるかもしれませんし、違う考えや文化、言語間のコミュニケーションの方法も、実際、様々に開発されてきました。

そもそも、男女の結婚というのも、まさに人間ならではの特徴と言え、最初は違うもの同士が和合するわけですから(やがて別れることもありますが)、相互理解へのチャレンジ、創造と言えましょう。(二人から子供も生まれますし、共同生活の過程で、一人の時には思いもつかなかったことが現れます)

人間関係の問題は、断ち切りや割り切りも、重要な対策と言えますし、違う世界観・考え・経験を持つ者同士、何とか理解しよう、協力し合おうとする挑戦の道は、苦しさがあっても、それ以上の喜びももたらせます。

これも、人間だから味わえることと言えます。私たちは、なぜかはわかりませんが、神ではなく、人間としての時代に存在しています。その理由は今はわからなくとも、必ず合理的な(宇宙的)理由があるのだと思います。

ただ、すでに時代は神への方向へ交替しつつあるように感じますし、上下型で言いますと、多くの人が下降ではなく、上昇への梯子を、かなり無意識下においても登り始めている気がします。

引きこもり現象も、一見、人間関係からの逃避のような、ネガティブなものに見えますが、一方で、もはや「人間」の型における、相互理解の難しさのピークの結果として現れているのではないかと思います。

いわば、人間としての構造の限界であり、人間経験の終了、物質次元での個々の理解や交流を何とかしていこうとする、挑戦の時代が終わりを迎えようとしているからではないでしょうか。

神的な存在になっていくと、おそらく、個々の意識はありながらも、集合的で巨大なひとつの意識に統合されていくと考えられ、すると、以心伝心的になり、言葉や行動で語らず(示さず)とも、お互いのことがわかるようになっていくはずです。そのような構造に人が変わっていくとでも言いましょうか。

こうなると、もはや今までやっていた人同士の(チャレンジ的な)交流の方法は古いものになり、また割り切り的な方法も、意味がなくなってきます。

引きこもりを全面的に肯定するわけではないですが、これまでの社会の仕組み・状態、人間関係の構築のやり方が、根本的に変わろうとしているのかもしれず、そのひとつが引きこもりの人たちを生んでいる(異質な見せ方でありながらも、時代の移行を象徴させている)可能性があるということです。

今は割り切り法、挑戦の方法など、それぞれの人が人間関係で採る道は混沌としています。

ただ、人間性や人格ばかりにフォーカスせず、人の構造自体に思いを馳せ、自身の愛を広げ、優しい世界をイメージしていくことは、重要だと思います。


災害や事件の意味を考える

日本には元号があり、今年は新しい「令和」になったばかりです。

このブログの読者層は、書いている私自身が昭和生まれなところもあり、昭和生まれの人が多いと予想しますが(苦笑)、平成の方もいらっしゃるかと思います。

いずれにしても、令和とは違う時代に今まで生きてきたわけで、その時代の流れや空気というものは感じて来たことでしょう。

そして、タロットなどに関係する人は、ただ普通に思う(見えるものの)時代の雰囲気だけではなく、背景に、霊的ともいえる、見えない領域における時代の空気、変化があることを実感したり、想像したりする人も少なくありません。

このブログでも、令和になってから何度かふれているように、日本の元号の分け方で見れば、やはりその元号の時代独特の意味合いが、物・心(霊)両面とともにあり、昭和・平成、そして令和へと変化してきているのを感じます。

ところで、先日、台風19号を東日本を中心に大きな被害を出して駆け抜けて行きました。発生当初からその巨大さゆえに不安視され、非常な危機感をもって伝えられていたところですが、東京あたりは想定されているほどでもなかったかもしれませんが、やはり、各地で堤防決壊による洪水など、多大な被害をもたらしました。

昨年は、中国地方を中心に降り続いた西日本豪雨、関西で立て続けに襲来した台風など、西日本でもかなり被害が出ましたし、毎年のように、九州地方の災害も起こっており、今年も佐賀などで大きな被害があり、関東でも、先の台風15号によって、特に千葉には甚大な被害が出ました。

思えば、平成から巨大な地震が各地を襲い、天変地異、災害が頻繁かつ、強力になってきたと言えます。

そして、こうした自然災害だけではなく、凶悪な殺人事件や、常識で考えられない事件なども起き、国民の生活として、精神的にも経済的にも余裕がなくなってきている気がします。

テクノロジーと情報通信機能は進化したものの、皆、将来が安心できるような暮らしができなくなってきて、不安に思う人が潜在的にも増大しているように思います。

スピリチュアルな世界では、現実に起こることは、人々の深層的な意識、心の様相、霊的なレベルと結びついていると言われ、この考えから行くと、環境・状況が悪いから私たちが不安になるのではなく、私たちの心が逆に環境に投影されている(引き起こす)と言うことになります。

それは、今の私たち(の意識)だけではなく、過去からずっと積もり積もった歪みのようなものが、ついには臨界点を迎えて、爆発するようなことになっているのかもしれません。

地震発生のメカニズムは、一応、プレートテクトニクス説で、プレートの沈み込みによって起こると言われ、これも言ってみれば、プレートの歪みによるものです。つまりは、やはり歪みとか衝突が物理的にもあるわけです。

これを象徴的に、心の状態だとすると、鬱積したネガティブな何かとか、葛藤したり、対立したりする心と言えなくもありません。

地球がガイア生命体のようなものだと仮定すれば、地球の生命体としての自浄作用、修正運動のようなものが、特に今になって大きく働く時代になった可能性があります。

これは蓄積による歪みを治そうというもので、治療と言えば治療のような意味になるのでしょうが、もうひとつ、別の考えもできます。

それは、新しい生命体に変化するために、体(精神)を作り変えているということです。地球と人は、実は霊的には一心同体のものと見ますと、私たち自体も、何か新しい人間に変容するために、地球とともに生まれ変わろうとしているのかもしれません。

大きな変容と言えば、マルセイユタロットでは「13」または、「神の家」のカードが思い浮かびます。

大きく変わると書いて「大変」という文字になります。そう、変化・変容には、それが大きなものであるほど大変であり、変わる当事者からすれば、破壊(が来ている、壊されている)と感じるようなことも起きるわけです。

一方、変わるべき存在が、あまりにも頑固で強固、古いものにとらわれ過ぎている時は、その分、変化する力も激しいものになると想像されます。

イソップ物語の「北風と太陽」の話ではありませんが、意固地になればなるほど、余計な力を入れなくてはならなくなります。それがまた自分を苦しめることになります。

私たちが古いものを手放し、新しい価値観へと変貌を遂げる時代(そのプロセスの初めの時代)として、令和になっているのだと思います。

それから、これだけ、巨大な災害が起きるというのも、人々の意識と考えが、個人単位では太刀打ちできないということを思い知らせされている気がします。言ってみれば身勝手な、自我欲求としてのエゴの世界からの脱却の要請です。

今の災害レベルは、個人はもちろん、地方自体単位のレベルでさえも、その被害の対応、処理になすすべがないほどです。かといって、国に全部お任せ、国が何とかしろ、と言っていても始まらないのです。

阪神大震災から東北大震災を経験して、私たち日本人は、ボランティア精神や助け合いの行動、義援金などで、相互に思いやる気持ちと、民間レベルでも行動していく機運が高まりました。

災害は受けた者には悲惨で、時には絶望にもかられる苦しいものですが、一方で、私たち全体としての意識に変化を生み出します。

もはや、個人がどうのとか言っている場合ではなく、明日は我が身と思い、全体で支え合う仕組みを考え、国や政府を動かしていく必要があると思います。まずは私たちの意識を、見えるものだけではなく、精神の面で変えていくことも求められます。

さきほど、タロットで「13」と「神の家」を出しましが、「13」の次は、14の「節制」に続き、16「神の家」は、17「星」へと進みます。

「節制」はまさに、助け合い、相互扶助的な象徴カードであり、救済を意味する天使が描かれています。

そして「星」には女神がおり、穏やかに、すべてのものに惜しみなく愛やエネルギーを捧げています。ここには調和が描かれています。「節制」も「星」も、ふたつの壺と水があるのが象徴的です。

個人主義に走り、一部の勝者と大量の敗者のようなピラミッド社会を、特に経済的な構造として続けていく限り、人々の精神・心も同じ構造を取り、自分さえよければいい、自分が勝者や生き残りになればいいという思考になりがちです。

自己責任という言葉がよく言われます。確かに、幼い精神で、うかつな行動を起こすものは自業自得で「自己責任」であると言えますが、最近の風潮は、自己責任によって、まさに自分の責任(全体としての責任)逃れをし、あらゆるものから関わり合いたくないという心を助長しているようにも思います。

それはでも、人々の心が病んでしまっている(それもありますが)というより、そのようにさせている(させてきた)社会の問題・構造も大きいと思います。(他人のことなど考えられない、余裕のない世界にされてきたと言いますか)

人の価値を、ただ能力のあるなし、経済の多寡、情報通かどうかなど、特に量(計る幅ともいえます)的に見ていては、この傾向にますます拍車がかかると思います。

確かに、今の実状は、自分の生活だけで精一杯の人が多く、他人に構っていられないと思います。

ですが、ふと立ち止まり、なぜ、そうした気持ちにさせられているのかという「構造」に少し思いを馳せ、小さなことからでも、他者、国、地球など「全体」というものの視点で見る心を思い出すことが重要かと感じます。

人々の小さな行動と気づきも、それが多くの人で集合して行けば、巨大なものとなって、変革の力に変わります。

仕方ないとか、今までの常識とか、一人ではどうにもならないとか、それこそがある意味、洗脳でもあるのです。

現実を変えるには、自己の中で創造することが大事です。アイデアを、今の状態ではない新しいものとして考え、イメージを創り出すのです。妄想に逃げるのではなく、地上に生きながら、地上ではないところからのアイデアを持ってくるわけです。

これは、マルセイユタロットでいうところの、「女帝」と「皇帝」の関係にもなるのです。

大きな災害は、逆に見ると、それだけの規模や危機感を持たないと、人々の意識が全体性・集合性の方向に向かない状態であるからだと言えます。これ以上、犠牲者(明日は自分になるおそれもあります)を増やさないようにするためには、私たち自身にかかっているわけです。

また、デマに流されたり、誰か救世主を待つ、先の時代を待つなどという姿勢になったりせず、自らが成長し、自己を確立していくことも重要です。

愛や平和を叫ぶだけでは(そう思う気持ちは非常に大切ですが)、あまり変化はないと言えます。

個としての確立を目指し、そのうえで全体レベルに統合していくことで、自他ともに救済できる力が発揮されると考えます。(単純に言えば、自分を救うには、他人も救う協力体制があれば、どちらも救われるということ、それは実は自己や他人が、ともに同じレベルに成熟しないと持ちにくく、少なくとも、自分が未熟でエゴ的な状態、依存的な状態であると出にくい発想なのです、もう「成功」という概念自体を変える時代に来ていると言えます)

地球や世界は、すでに変わろうとしてはいますが、そのスイッチを本当に押し、稼働させるには、あなた自身の思いが必要なのです。


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