タロットの使い方

映画「スター・ウォーズ」から

スター・ウォーズ」という、スペースオペラの映画は、知っている人も多いかと思います。

現在、シリーズのエピソード9が上映されているようですね。最初の映画の公開が1977年ですから、もうかなり長い間、続いているわけです。

当時少年少女だった人も、今やおじさん・おばさんどころか、老年の域に来ていますよね。

映画に出ていた俳優女優も、亡くなっている人もいますし、引き続き出ている人も、役柄同様、年老いた存在として登場しています。

私は、結構このシリーズは好きなのですが、公開されるエピソード(物語の時系列の順ではありません)が、あとになればなるほど、全体的に話の作りと言いますか、人物描写が浅くなり、重要なターニングポイントになる心の変化の理由が、よいことであれ、悪いことであれ、至極単純と言いますか、葛藤が浅いよなあ・・・と思うことがあります。(ファンの人、すみません。でもシリーズは好きなんですよ)

まあそれはともかく、今日述べたいのは、映画「スター・ウォーズ」を例にしながら、語・ストーリー、ひいては、私たちの人生そのものも、観点を変えれば、まったく別のものになる可能性があることです。

それは、中心の観点の違いによるわけですが、何をテーマ・課題・主題として見るのかの違いとも言えます。

スター・ウォーズの最初の頃(エピソード4とかの頃)、私はまだ幼く、知識もなく、ただ映画で見せられる内容を、そのまま受け取っていたに過ぎません。一言で言えば、エンターテイメント性で見ていたということです。

いい者側がジェダイや反乱軍で、悪者側がダースべーダーとか帝国軍、そしてそれらの戦闘シーン、特にチャンバラ(笑)としてのライトセーバーでの立ち合いなど、面白く感じていました。

それがエピソード6から、さらに時系列は戻って、エピソード1・2・3と公開されていくにつれ、私自身も大人になってきましたし、物語自体が、親子・恋人・師弟関係などの濃い人間関係が鍵となって描かれるようになりましたので、まさに、観点は「人間関係」に移り、舞台は広大な宇宙なのに、狭い範囲の、しかも感情を中心とする話に、私の中では変化しました。

機械的な兵器、戦いなど、いわば物質的なエンターティメント性(フォースの扱いという魔法的な魅力もありましたが、これもまだ見方は単なる物質的見方の延長という感じでした)から、観点は、人間関係と心に変化してきたわけで、そうなると、「スターウォーズ」という星々の争いではなく、「親子喧嘩」とか「師弟争い」みたいな、人情ものに作品が変わったように見えたのです。

そして、新シリーズ、エピソード7・8・9(9はまだ未見ですが)くらいになってきますと、物語の時代もかなり進みましたが、見ているこちら、私自身も知識や経験とともに成長してきましたので、観点は多様化され、物語を超えた見方もするようになりました。

いわば、映画は題材であり、そこから、さらに発展した考察をしていくようになるわけです。

その代表的な見方が、スター・ウォーズという物語を象徴的に見るというものです。

これは、神話はあくまで神話であって、現実とは別(関係のないこと)に扱うのではなく、象徴として、私たち一人ひとりにも、さらには、実際の社会・世界にも存在している、ある種の型・パターン・構造を述べている、とする見方と同じです。

例えば、スター・ウォーズでは、対立が入れ子構造、あるいは形の違う比喩になっていて、マクロとミクロ、外側と内側、男性性と女性性、全体と個別などが、いろいろな形で示されています。

皆さんにもわかりやすいのが、強大な力で統一(支配)を目指す帝国側と、それに反抗する多国籍軍(多星籍群と言ったほうが適切ですが)の対比で、これが、フォースを扱う、闇側と光側として、シスのグループとジェダイのグループの対抗・争いによっても示されています。

ひとつの力、ワンオーダーとも言える統一的な支配側は、規律も厳しく、カリスマを除くと無個性で機械的、しかし、だからこそ、ひとまとまりの強さや武器の開発力も持ちます。

一方、それに対抗する側は、多様性があるので、一人一人違いがあり、個性の強さを持っていますが、時に意見が食い違ったり、魔や闇に篭絡されたりして、帝国側の機械的なものに比して、いかにも人間的です。

こうしたものを見ていくと、単純に善悪、いいものと悪いものみたいなエンターテイメントで鑑賞していくことからはずれ、様々な二元構造の対立と葛藤、統合、混淆に思いを馳せ、宇宙や人間がそのような構造でできており、私たち人間がなぜ争いを続け、葛藤し続ける存在なのかにも、考えが及んでくるようになります。

そして、スター・ウォーズでは、フォースというものが、折に触れて重要視されます。

フォースは、物理的な私たちの考える力ではなく、宇宙に満ち溢れている、あるいは、万物そのものを創造する根源的なエネルギーのようなものとして描かれています。

これは、マルセイユタロットをしている者ならば、その名の通り、フランス語で「フォルス」英語のフォース、すなわち11の「力」のカードに象徴されていることだとわかるでしょう。

となりますと、タロットや、西洋魔法的な解釈や見方で、スター・ウォーズを鑑賞していくと、そこには、非常に深いものがあるのがわかります。霊的な見方ができると言ってもよいです。

また、私はグノーシスを探究している者なので、その観点からしても、光と闇の争いの描写から、グノーシス思想の型のうち、東方型(光と闇の勢力が原初から存在したという型)を見て取ることができ、象徴的に光を見ること、光を闇から回収していくことの重要性を、スター・ウォーズから、再認識させられます。

興味深いことに、グノーシス思想の東方型では、光の勢力が闇に一度取り込まれることで、世界創造の物語、すなわち、私たちという人間や、実際の世界が創られたという話があり、最後は、闇から再び光に戻ることで救済がなされます。スター・ウォーズのフォースを扱うジェダイの騎士、主人公たちの葛藤と救済に、この型を見ることができます。ちなみにマルセイユタロットでも、宮廷カードには「騎士」がいます。

このように、自分自身が成長したり、経験や知識が増えたりしていくことで、モノの見方は変わっていきます。同時に、単純なひとつのストーリーだけではなく、多重のストーリーを、ひとつのことからでも、見る(作る)ことが可能になってきます。

この仕組みは、タロットを学び、タロットの象徴性を理解し、自己の中にそれがあることを発見していく過程に似ています。

私たちは、映画などでも、作品を批判したり、評価したりします。出来不出来はやはりありますので、それは当然ではありますが、多様な見方ができるようになってきますと、観点を幾重にも移すことができますから、駄作と言われるものでもよいところが見えますし、一般的に良作とされるものでも、マイナス面が見て取れます。

そして、結局、どんなものにも自分が投影されることがわかり、言いも悪いもない次元に導かれます。もちろん、自分の好みはありますから、良し悪しや、面白い・面白くないはあっていいのです。

同時に、それを超えた見方と言いますか、上の次元に移行しますと、マルセイユタロットで言えば「恋人」から「審判」に上昇するようなものとして、世界のすばらしさ、創造のすごさに思い至るのです。


時間の流れと過去の自分

心理技法などでも、未来の自分になってみる、想像してみるという方法があります。

そしてもし、なりたい自分があるのなら、それを強くイメージしていけば、未来像の自分が本当に訪れるという人もいます。

この場合、時間の方向としては、イメージしている自分は、現在から未来の方向ですが、別の見方をしますと、未来の自分が現在(未来からすると過去)の自分を形成していると言え、時間は未来から現在(過去)へと、逆に流れているみたいになります。

時計的な時間の流れでは、過去→現在→未来に進むと私たちは認識していますが、想念の世界では、逆方向もありますし、時間は関係ない場合もあると言えます。

ちょっと余談ですが、普通の人と同じく、惰性的に、ただ時計的に時間の流れを見てしまうと、私たちは時の奴隷になるのかもしれません。

時間を超越するのは現実的には無理かもしれませんが、少なくとも、未来から過去へというように、逆方向の時間の流れを意識的にすると、かなり世界の認識が変わるのではないかと思っています。それが本格的にできた人は、成功したり、覚醒したりするのかもしれません。

さて、私が使うマルセイユタロットの展開技法では、現実の普通に流れる時間の次元と、想念の、いわば時間の流れがひとつではない世界の次元とを同時に見ることがあり、想念の世界に意識を向けることで、時間と言いますか、平行存在している(平行世界の)自分を確認することが可能です。

そして、これまた不思議なことに、「今」の意識が変わると、最初に認識していた(当てはめていた)平行存在の自分が、物語(ストーリー)とともに、変わっていくのが普通です。

言ってみれば、想念の世界で時間旅行をしながら、自分で自分を癒したり、希望を持たせたり、問題にあらかじめ対処したりしているわけです。

ということは、時間操作そのものが自己の操作(その逆もあり)に近く、ほとんど同意義かもしれません。

このことは、マルセイユタロットの「運命の輪」の、重大な象徴事項ではないかと推測しています。

ところで、私たちは未来について、明るい、あるいは理想の想像をしやすい人と、そうではない人に分かれるような気がします。

まあ、ポジティブ思考の人とネガティブ思考の人の区分けに似ているでしょうか。

そして、さきほど、「今」の意識が変われば、平行世界存在の自分も変わるという話をしましたように、結局、今がどんな状態であるかによって、未来のイメージもよくなるか、悪くなるかが違ってくるように思います。これは当たり前と言えば、当たり前の話です。

だいたい、今が好調であれば、未来も明るく希望に満ちたものになりますし、逆に、今が不安でいっぱい、八方塞がりのような状態では、未来に希望と持てと言うほうが無理です。もし日本の未来に希望が持てない人が多いとすれば、それは、今の状況によるわけです。

ということで、ネガティブ思考の人、今があまり思わしくない人は、なかなか未来を明るく照らすことは難しいのは当然かもしれません。

そこで、未来の(明るい)イメージが難しいのなら、逆に過去に目を向けるという方法もあります。

というと、過去のトラウマとか、潜在意識のブロックなどを解放・癒して行きましょう、みたいな話が多くなりますが、今回は似ていますが、それではありません。

もっと当たり前で、誰でもできることです。

例えば、あなたがすでに読んだ本とか、学んだこと、かつて深く関わっていた人との文章やメール、仕事やプライベートの写真、動画など、何でもよいので、とにかく、結構自分が色濃く関わっていたとか、熱心にしていたとか、取り憑かれていた(笑)というようなもので、過去の何か(物質的に残っているもの)を取り出してみてください。

文章とか絵などが一番よいかもしれません。

そして、それを“今の”あなたの目線、思い、知識で冷静に読んだり、見たり、手に取ったりしてみてください。

どうでしょうか?

当時を思い出すことはあるでしょうが、おそらく、当時とは違う感覚があり、どこか冷めていたり、反対に、当時とは別の意味で、感動したり、心を打たれたりしたのではないでしょうか。

そう、あなたは時間を超えて、過去には戻りましたが、今のあなたは、すでにその当時から変わっていますので、昔のままのあなたではなく、明らかに変容した自分が、過去(の自分)を見ている形になるのです。

そして、ここが肝心なのですが、今のあなたは、その過去のあなたが種をまき、成長(変化)した人なのです。

過去のその時は、とても大変だったり、時には思い出したくなかったりすることかもしれません。それでも、そのことは確かにあったわけで、過去のその自分は、いまだ存在としてはある(あなたが振り返るまで存在していた)と見てもよいです。

その存在がいるからこそ、今のあなたへと移行することができたとも言え、過去の自分は、ひとつのステーションやターミナルとして、あなたを、またそこから新たに旅立たせていたのです。

さらに、今のあなたが過去の自分(存在)を再訪問したことで、過去の自分もまた変化し、新たなストーリーの位置に収まります。(分岐すると言ってもいいでしょう)

未来から(それは「今」でもありますが)のあなたが、過去の自分に想念的に関わり、両方が変化し、新たなストーリーが紡がれます。

もしかすると、過去では「失敗だった」とか「あのように選択すれは良かった」と思うことでさえも、まったく同じ環境というわけには当然行きませんが、時と設定を変えつつ、今後、似たようなことをやり直す(やり直せる)こともあるのです。

これが、未来から過去への時間の流れの効果です。

過去は終わっていません。「終わった」「変えられない」という集合意識的な事実のように思われている出来事は確かにあります。

しかしながら、個人になればなるほど、まさしく個別のことなので、自分がどのように思うかによっては、過去は記憶でもありますから、変わることは本当にあります。

公的な事実のように思われている世界の歴史も、国よって認識が違い、その世界はある意味、国よって別物(別世界にいる)と言えます。

そして、なかったことが今からの働きかけで、あることにされるこありますし、反対に、あったことが、過去ではなく、これからのやり方で、なかったことにされることもあるわけです。

時間が流れて行けば、そのことは事実として固まってしまうことさえあります。おそらく、歴史なんていうものは、そうして作り上げられた部分も少なくないのだと思います。

今回言っていることは、マルセイユタロットの「隠者」(後ろ向きに歩いていると言われます)と「運命の輪」(運命・時間・巡りを象徴)の合体のような意味で、過去を見ながら、過去から見れば未来の自分(それは今の自分でもあるわけですが)、その存在が、かつての自分と出来事(の意味)を変えていくことができ、それが積み重なることで、新たな「自分の歴史としての過去」が誕生し、今の自分(過去からすると未来の自分)と、さらに、未来の自分(今の自分から見た未来の自分)さえ、変わってくることがありますよ、ということです。

無理矢理、未来に希望を持たせよう、明るくさせようとするよりも、このように、過去に目を向けることで、結果的に自然に、未来に希望が見えてくるようになるのです。

そうすると、もしかすかると、マルセイユタロットの「正義」も「節制」も、別次元の自分の姿ということが言えるのかもしれません。裁くのも、救済するのも自分だということです。


ささやかな救いの世界

今の時代、情報機器とシステムの急速な発達によって、誰もが自分から発信することが簡単になりました。

ちょっと前は、文章で、そして次第に映像や動画でと移っていき、おそらく、ほとんど普通の状態と変わらないくらいリアルな感じで、すぐに思いついたら、あらゆるところから自由に発信できるようになるのもすぐでしょう。

そうなると、いわゆるメディアというものが、企業とか組織だけではなく、普通に個人それぞれが情報局、発信・放送局になってくるわけで、テレビ的に言えば、人口分だけチャンネルがあるようなものと言えます。本当に選びたい放題で迷いますね。(笑)

とはいえ、そうなってきますと、テレビで視聴率が気にされるように(まあ、これはお金を出すスポンサーの意向が関係しているわけですが)、自分の発信や情報は多くの人にどう見られているのか、そもそもそ関心を持ってくれているのか・・・というような不安も出て来るものと思います。

いや、すでに、SNSではそのような状態になっているとも言えます。

目立つ人、エッジの立つ人、とても個性的な人、コンテンツや内容が面白く、それを皆に提供できる人・・・このような人は、ますます持てはやされ、人気者となり、カリスマ化されることでしょう。

一方で、前にも書いたことがありますが、これだけ誰でも気軽に自分から表現や発信ができる時代になってきますと、それにうまく適応できなかったり、自分から特によいと思えるものを出せなかったりする人も、それだけ多く出ることになると思います。

簡単になったとは言え、例えば動画でも、それなりに企画力や編集技術などがいりますし、文章を書くことや、話しをするのが苦手だったり、そもそもネットとはいえ、人前で何かを表現するというのには抵抗があったりする人もいるでしょう。

ですから、この、メディア表現の過渡期とも言える時代のこれからとして、ますます二極化が進むのではないとかと危惧しています。

その二極とは、どんどん自己表現・自己発信して、自我としての自信、言い換えれば、自分自身を生きているという実感を持つ者(平たく言えば、人生が充実していると感じる人)と、一方では、多くの人に埋もれ、目立つこともなく、得意なものがあるとは自分で思えず、平均以下のように自身を思い、自我が喪失気味になる人(人生が空しい、つまらないと思う人)との二極です。

しかし、最終的には、本当の意味で、誰もが簡単に自己を発信できるようになれば、それが当たり前となるので、定番の自己紹介みたいな形で、自己表現の世界は、一度、フラットなものに統合されていくのではないかと予想しています。二極化はそれまでの間の、移行期に起きる特徴と推測しています。

しかし、移行期がどれだけ続くかは、まだ予想がつきませんので、しばらくは、前述した二極化で、特に後者の人は、自分を見失い、世界に落胆、ひどくなれば絶望することもあるかもしれません。

ここで重要なのが、やはりリアルな関係や交流、ふれあいだと思います。しかも、何かリーダー的な一人のもとに集まるという(集団・組織的な)ものではなく、一対一とか、少数グループによる交流、ふれあいみたいなものが特に重要でしょう。

精神の世界では、距離や場所は関係ありませんが、現実の世界では、やはり、それは無視できないものです。つまり、直接会うのと、ネットをや何かを介してのものだと、情報・交流の質が違うと言えます。直接会い、話すことで、響く世界があるとでも言いましょうか。

スピリチュアルなことで言えば、それはアストラル空間やその世界の話に関係すると考えられますが、人との、特に生身の交流によって感情の刺激が起こり、それによって不快なことや嫌な気持ちも生じる一方で、逆に、心地よさ、いわゆる「愛」というものを感じる世界が、心の中に現れます。

それがまさに「救い」となることがあるのです。これはマルセイユタロットで言えば、「節制」のカードに象徴されることだと私は思います。

皮肉なことに、人は人によって傷つきますが、同時に、人によっても救われ、つまりは、人の気持ち(心)を避けていては救いも訪れない仕組みが、どうやらこの世界にはあるようなのです。

ということで、昔からも言われていましたが、ますます、これからの時代は、特に自己表現が苦手だったり、ポジティブに多くの人と交流できなかったりする人は、だからこそ、極少数の人とのリアルな関係、あるいは(特に直接会話するような)時間を大切にするとよいかと思います。ただ、そういう人やグループに依存するという意味ではありません。

なお、タロットを学ぶ人は、これを他人に対するタロットリーディングによって、行える場合があります。

他人リーディングと言っても、何もプロでする必要はありません。

ボランティアでも、趣味でも、自分がタロットリーディングが少しできるということで、他人に対し、リーディングする機会を持つことができるわけです。

普通、なかなか他人といきなり接するのは難しいものです。

ですが、「タロットリーディングができます」と言えば、それをきっかけに、人と会話する機会が持てます。もちろん、リーディングを行うことで、相手も自分も、問題における何らかの解決策、指針、癒しなどを得ることもできるでしょう。

でもそれ(リーディングによる問題解決)が目的でなくてもよいわけで、とにかく、ライブやリアルで人と会話したり、時間を過ごしたりすることが、タロットリーディングによってできるわけです。

こうすると、いわば空虚で乾き、色のなかった自分の心の状態にも潤いが与えられ、少しは自分がいてよかったこと、生きていく価値のあることを思い出すこともあるでしょう。

そのことを多くの人に発信できなくても、自分(と相手と)の中では、確かなものとして存在することができ、外の世界はどうあれ、愛の世界(エネルギー)を自分にチャージすることができます。

別に自分を無理に高めたり、評価したりしなくてもよいのです。

人は人、自分は自分てす。それでも、この世の中、人と比べ、落ち込んでしまう自分がいることもあるでしょう。

そうした外の世界や時間は無視できないものではありますが、これとは別に、自分の世界、自分に流れる優しくゆっくりとした世界もあるのだと思ってください。

そして、それは閉じこもっていては逆に見つかりにくく、またたくさんの人と関わってしまうと、エネルギーを失い、閉じこもりたくなります。

だから、ほんの少しの人とリアルに関わるそうした時間と空間を持てばよいのだと思います。

さらに、そうした人物(相手)に自分がなってあげると、意外に(自他に)救いをもたらすことができるのではないかと想像します。そのツールとして、タロット使ってみるのはいかがでしょうか。

タロットは、これからの時代、意外に、必要で、よいツールになるのかもしれません。


自分(人間)の世界とタロットの世界

タロットカードを習う時、どうやって学ぶのかという方法と、どのタロットを選ぶのかという問題と言いますか、テーマがあると思います。

前者(学び方)は、書物やネットなどで独学するという方法、タロットを教える機関や先生から学ぶ方法が、まずは検討されるでしょう。

後者(タロットの選択)は、結局、前者と関係してくることが多いのですが、たまたまタロットを教える教室・先生の扱うタロットがそれだったからなどの理由で、自分が決めるより、学ぶところによって決められている場合もあります。

もちろん、最初からこの種類のタロットを学びたいという、自分の意志で選択した人もいるでしょう。

まあ、しかし、多くの人は、最初にタロットを習う時、私自身もそうでしたが、タロットに対して詳しくないですので、そもそもタロットにたくさん種類があることなども知らず、つまるところ、自分と(ある種の)タロットとの出会いは、表向き、偶然のようなものではないかと思います。

とは言え、世の中に偶然はないという説もありますから、そこから考えますと、自分とタロットとの出会いも、必然、または出会うべき(選ぶべき)運命みたいなものがあるのかもしれません。特に、たくさん種類のある中で、好きになったり、熱中したりするタロット種には、特別な縁があるのだと思ってもいいのではないでしょうか。

これが、よく私が述べている「自分がタロットを選んでいるようでいて、タロットがあなたを選んでいる」という意味やニュアンスになります。

今まで、上記の言葉は、私自身も、タロットとの縁ということで、何気なく、生徒さんに使ってきましたが、今になって改めて考えてみますと、案外、もっと深い意味合いもあるものだと気づいてきました。

それは、物事の見方には、最低でもふたつの方向性があるということです。(最低でも、ですから、二つ以上もあることは当然言えます)

つまり、自分を中心に見た(自分から見た)方向性と、相手側から見た方向性です。

これらが、どちらか一方に極端に偏ると、それこそ文字通り「偏り」になり、偏向した見方・考え方になるのではないでしょうか。

自分中心がひどいと、まさに自己中になりますし、相手側中心になり過ぎると、自己がないがしろにされ、犠牲精神を生み出しがちです。

主体性を持ちつつも、客観性も入れるというバランスが重要なわけです。

そして、こうした主客二方向の見方とは別に、さらに、モノとココロのように分けることもできます。

私たちは、通常、自分が主体となって、モノを見ます。

相手が人間(や生物)の場合は、相手側の気持ちとか心を考慮することを、自然にやっています。相手を思いやるとか、慮るとか、配慮するとか、こういう言葉が出るのも、相手が人であり、感情を持つからです。

また、少なくとも、相手とコミュニケーションができる存在だと思っているから、相手のことも気にするわけです。

しかし、相手や向こうが単なる「モノ」だとすると、コミュニケーションも取れませんし、当然気持ちなんかもないですから、一方的に主体である自分の選択、思いだけになります。

常識的にはそうなのですが、果たして、相手側は、モノとは言えど、本当に無機質なただのモノでしかないのでしょうか?

霊的レベルにまで考えて行きますと、そうとも言えなくなってくる(言わば、モノにもココロがある)領域が立ち現れると言います。

これは考えようによっては、自分が心を与えているような状態と見てもいいのかもしれませんし(マルセイユタロットの「手品師」と「世界」の二枚は、ひとつにはこれを表現していると考えられます)、また、仮にモノにココロがあるということではないにしても、とにかく、モノのような物質側・相手側から、自分側に向かっていく方向性(自分がモノを見ている意志や状態とは別の、新たな意思のようなもの)が現れると想定することができます。

思えば、精神やスピリチュアルな世界では、自分とは逆方向からの視線とか、現実空間とは異質の世界(例えばエーテル・アストラル空間)のことが言われ、時に、「見られている」「生かされている」「見守られている」「私たちは大きな存在の中にいる」などと、表現されている気がします。

ちょっとわかりづらくなってきましたので、理論や考察はさておき、皆さんには、シンプルに、タロットに対してふたつの方向性を見てくださいと言っておきます。

例えば、よく、タロットを習うと、最初のほうに、「好きなカードとか嫌いなカードとか、気になるカードなど挙げて見ましょう」みたいなことがあると思います。

その時、あなたが選んだカードは、確かに、自分の気持ちや感情が、そのテーマ(好き・嫌いなど)によって選んだものではありますが、先述したように、相手側からの方向もあると考えますと、そのカードが、あなたのそのテーマの感情を選んだのです。

もし、好きなカードで「太陽」を選んだのなら、あなたは「太陽」の絵柄を見て、気持ちよいとか明るいとかで、好きな感じがして選んだのかもしれません。

このように、常識的には、「太陽」の絵柄が好きだから選んだという見方になりますが、カードの「太陽」側からすると、あなたの「好き」には「太陽」が関係している、「太陽」があなたに「好き」の感情を思い出させている(選ばせている)、「太陽」があなたに「好き」の感情を見たのであり、もっと言うと、「太陽」があなたに「好き」を生み出したということになります。

こうしたふたつの方向性で見ていくと、自分が主体の場合は、タロットに対する質問をカードに当てはめようとして考えますが、カート側が主体となってきますと、カードが、あなたにその質問を選ばせたことになります。

質問したのは私なのに、それはおかしいと思われるでしょうが、カードが主体の場合は、もはや質問する前に、タロットは出る準備をしていたと言ってもよいのです。(笑)

ここにおいて、単純に見ても、タロットリーディングにはふたつの世界人間側中心の世界と、タロットカードの象徴の世界、サイキック的に表現すると、タロットの精霊の世界とのふたつが、最低あることになります。(つまり読み方としてもふたつある)

こうして考えると、一見シンプルなようでいて、すごく奥が深いのがタロットというものなのです。


責任・原因は、自分か他人か?

今起きていること、さらには過去や未来の問題まで、それは果たして、自分が引き起こしているのか、他者や環境によって起こされているのか、このテーマは、難しいところがあると思います。

常識的には、自分だけが問題を起こしているわけではなく、不慮の事故や災害、こらちは何もしていないのに、相手側から理不尽なことをされるなど、たぶん、皆さんの経験的にも、とても自分だけが原因とは思えないものでしょう。

しかし、精神世界とかスピリチュアルな話、または、ある心理的な分野では、実はこの世界は自分が創造しているため、すべては自分に責任がある、つまりは自分が引き起こしているという考えを述べる人もいます。

あるいは、因縁とかカルマみたいなことで、結局、どれも自分に関係しているという話(無関係に偶然起こっているわけではないという話)もあります。

おそらく、自分だけとか、他者・環境側のせいだけにするとか、そういう、どちらか一方的な原因に帰することは、バランスを欠き、葛藤を呼ぶのではないかと思います。

すべての問題が、自分だけの要因からと見ると、どうしても、見えない世界とか、常識を超えた分野を考えないとならなくなり、それは、現実の通常意識では、完全に把握することは、「悟り」にでも至っていない限り、困難だと思われます。

さらに、その態度(自分にすべて原因がある)では、過剰に自己責任を思い、やらなくてもよいこと、考えなくてもよいことまで負担して、自己犠牲を多大に払ってしまうことになるかもしれません。

これでは、生きるのが苦しくなるだけです。自分の人生は過去(世)や未来(世)の自分より、まずは「今現在の自分にある」ことをしっかり自覚したほうがよいでしょう。

反対に、自分以外のことに全部原因や責任があるとしてしまうと、それこそ、無責任な話になり、成長することができませんし、他者に迷惑がかかります。

私はマルセイユタロットを見ていまして、問題の自己の責任・原因と他者(その他の要因による)責任・原因とのテーマは、ある種のルールや世界観を考えて取り扱うと、うまく行くのではないかと思っています。

まず、1.常識や現実的な世界観と、2.心の中の世界観、さらには、3.見えない世界、スピリチュアルのような、総合的な世界観を想定し、それぞれの違いを考えます。

1の世界では、物質や見える世界が中心ですから、あまり見えない世界のことよりも、実際にわかる、計る(計算できる)、実体として把握できるようなことで、責任の範囲も決まって来ます。もしくは、決めて行きます。

つまりは、自己の責任と、他者の責任との範囲が明確にあるということです。

もちろん、状況によって、その区分けは変わってきますが、ここで言いたいのは、この世界観では、自分だけとか他者だけとかという決めつけではなく、分相応に、しかも見えない、得体の知れない原因ではなく、きちんと見える範囲とか法律・ルールに基づいたうえで存在するということです。

逆に言えば、法律とかルールで決められていないところは不明確になりがちなので、あやふやな面もあります。そういう場合は、次の2に移行することもあります。

2では、心の中の世界なので、自分がどう思うかによって決まってくる世界観です。従って、この世界では、自分(の原因)がほぼすべてになってきます。

自分の心によって、自分の感じ方、行動も変わってきますので、逆に言いますと、自分の思い(心)が変われば、自分の世界(見え方、解釈、行動)も変わってくることになります。

ただ、心の中の世界は、自分が自覚している部分と、潜在的・無意識的な無自覚部分とがありますから、無自覚なところが原因のものは、場合によっては専門的探査と、それによる自己の気づきが必要になります。

わかっちゃいるけどやめられないとか、現実の世界での見方では、どうしても原因がわからず、同じような問題を引き起こしてしまう、続いてしまっているというような時は、こうした潜在意識の中の問題が要因と考えられることもあります。

また、現実では、他者や環境が存在しますから、そうしたものが自分に働きかけたり、原因として刻まれていたりすることもあります。

しかし、その場合でも、自分がどう思うか、感じるか、解釈するかの世界が心の世界なので、結局、自分の原因が主となってくるのです。(現実の世界観を無視するのではなく、現実の世界観での原因を見ることも併用し、例えば環境を変えるなどの自分の心や思い方以外での対応策も試みることです)

最後は3になります。これはもう、見えない世界を含むことですから、常識や現実認識の世界観の考え方は通じないものとなります。

この3の世界観に立てば、一言で言えば、2の世界観とは別の意味で、自分がすべての原因となりますが、他者も自分みたいな世界になってきますから、いわば世界をひとつとして、すべて関係する(過去・現在・未来という時系列を超えての考えも含む)と見ることになります。

こうした世界観では、自分が原因とか、他人が原因とかとの区別もなくなるわけです。

もう少し、個別的な意味で考えるとすれば、すべての問題は、自己の成長のためであり、自分(意識する自分にとっては)「起きている」ことになり、意識していない自分においては「起こしている」となるでしょう。

問題を受け入れ、淡々とこなしていくというような心境で、「ありがたい」という気持ちが、どんなことであっても、大なり小なり、生じるかもしれません。

以上のようなことで、同じ問題であっても、このように世界(観)を分けて考えてみることで、自分の責任、他者の責任、自己の要因、ほかの要因というものをバランスよくとらえることができるのではないかと思います。

まあ、平たく言えば、「世界」の使い分けです。

どうにも原因がわらず悩み切った時は、最後には3で考えたほうが楽になることもありますし、仕事の面では、1のほうが納得することもあります。

2などは、自分が中心ですから、たいていのことは(解釈の意味では)自分で何とかしてしまえることになります。心の達人になれば、同じ環境に遇っても、いかに自分の世界を楽にしてしまえるかが、2によってわかります。

あと、タロットがあると、実際に、どの世界(観)を自分は、このことで適用すべきかがわかることもあります。

タロットカード、大アルカナの最終境地と言われる「世界」のカードから見れば、ほかのカードは、臨機応変に世界観を変えていくための示唆と考えることもできます。

このように、まさに「世界」の見方を変えてくれるのが、またタロットの良さと言えるでしょう。


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