タロットの使い方

「思い」と「行動」の関係について

マルセイユタロットでは、特に「女帝」と「皇帝」で象徴されていますが、「思い」と「行動」ということについて、書いてみたいと思います。

「思い」と「行動」は、人間にとって、それが一致することは、実は一般に考えられているより、少ないのではないかと思います。

これが本能で生きる動物となると、ふたつは矛盾することなく、思い即行動、行動=思いの表現・動作ということになるでしょう。

しかし人間の場合、なまじ思考・想像という力をもっているために、なかなか行動に結びつかなかったり、思いと裏腹な行動を取ってしまったりします。

「行動」は、現実・実際においてわかるもの(見えるもの)ですが、逆に「思い」は見えないものです。

この点がまた誤解を呼びやすく、対人関係、人との交流において特に問題となります。

知識と情報は、私たちを進歩させますが、一方で、様々なデータを抱えることで、選択としては難しい状況を生み出していきます。

単純なコンピュータのように、データをある決まったルートで分析し、判断するのであれば、すぐに答えは見つかり、むしろデータはたくさんあったほうが確信を得やすいのですが、人間は、データをもとに、あれこれと想像を巡らし、結論へのルートが多様に散らばって行くため、いわゆる混乱や葛藤の状態を生みやすいと言えます。

ただ経験則によったり、何か自分なりの信念が強くあれば、知識、つまりデータが多くても、明確な答えは早く導き出せるでしょう。

ここのところが、経験を活かすことの良さ、強い意志や信念を抱くこと、あるいは何か使命や目的というものがあったほうがいいという理由につながります。

つまり、データをまとめるためのルート、または分類基準がはっきりしているということです。

こういう人は、悩むことが少ないので、行動も素早く、ストレートなことが多くなります。

そして、行動は自ずと結果を呼びます。

その結果が失敗か成功かというのは、その人の価値観が決めることなので、結局、いずれであっても、結果としてのデータがまた入ることになります。

これは実際の行動に関係したデータですから、あれこれ思考していた時のデータとはまた違います。

よって、かなりフィードバックとしてのものや、経験的・実際的データとして使えることになります。

すると、強い信念や目的意識のある人は、これらのデータをもとに、ますます、物事を有利に進めていく(シミュレーションを改善していき、よい結果にしていく)ことができます。

だからこそ、行動力のある人は、自分の思う、よりよい結果・成果を出しやすいのです。

ここから考えると、行動のためには、思いを整理して、シンプルにすることが重要であることがわかります。

面白いことに、マルセイユタロットでは「女帝」は「3」の数を持ち、同じ「3」つながりでは、そぎ落とすことを象徴する、「13」という(数だけの)カードがあります。

この二枚からも、思考を整理して、そぎ落とし、シンプルにしていくことで、次の数を持つ、「皇帝」の行動や、「節制」の救済につながっていくことが謳われているわけです。

しかし、整理する「方法」も重要です。

たくさん出た思考と想像、これをまとめ、整理し、シンプルにするには、やはり先述したように、目的を絞ることです。

人は多くのことをポジティブにもネガティブにも想像(つまりは創造でもあります)することができます。

それ自体は創造力としてすばらしいことです。(たとえネガティブなことであろうと)

心配性の人は、それだけいろいろなことを想像(イメージ世界の創造)することができるのです。

問題は自分の方向性を決めることができない、それが整理されていないことにあります。

単純な整理法でいうと、「今の自分は何をもっとも大切にしているのか」という「基準」「整理の観点・括り」を入れることです。

迷いは、いろいろなレベルでの正答を求めようとしていることに問題があります。

言ってみれば、たくさんの「自分」が、あれこれ、それぞれの価値観とレベルで意見しているようなものです。

ここでまとめ役として、「テーマ」を自分の中で掲げることです。

そのテーマが、「今、もっとも大切(重要)なこと」となるわけです。

それは「大きな意味での成長」ということかもしれませんし、「今の心地よさ」かもしれません。

また「愛情」の場合もあるでしょうし、「楽しさ」「損得、特にお金の得」「時間の効率」「スピード」「量」「味のおいしさ」などかもしれません。

選択における、その時その時のもっとも重要なひとつの基準を入れることで、思考・想像・感情(思い)を整理し、行動へと進ませます。

それから、「思い」から「行動」への方向を見るだけではなく、「行動」から「思い」へと逆の方向も見るとよいでしょう。

行動していること(外に表現されていること)が、自分の思いと一致しているか、そこに大きな違いがあれば、それは葛藤や歪みとして、自覚がなくても、奥底にねじれの感情として溜まっていく場合があります。

そのねじれがひどくなると、心身のアンバランス・不調として症状が現れることがあるのです。肉体がおかしくなるか、心がおかしくなるか、その両方の時もあります。

あるいは、スピリチュアル的に言えば、これまでのやり方では対処しづらい、外の現象の問題として現れます。

人は「思い」と「行動」が違うことが多くなる生物であることは、最初に述べた通りですが、それゆえ、両者がなるべく矛盾しないよう、整理と浄化(メンテナンス)を図っていく必要もあるのだと言えます。

タロットは心を絵柄として見える形て浮上させますので、まさに思いと行動の間を整理し、調和させていくツールとして、有効なものでもあるのです。


人のタイプ論について。

私たちはタイプ(型)に分けるのが結構好きなようです。

いわゆるタイプ論は、問題の把握や物事(人間)の整理において、とても便利なところがあります。

パターンやタイプ、型に当てはめることで、理解したり、対処したりすることもやりやすくなるからです。

そして、ここが重要なところですが、人には未知なことは既知としたい欲求(知りたい欲求)、不安定なものを安定させたい気持ちが働きます。

そのため、自分や他人がよくわからないような時、「あなたは、なになにのタイプなのよ」とか、「自分はこれこれのタイプだ」と言われたり、わかったりすると、安心するわけです。

これは人間においてだけではなく、問題が起きた時、心身の不調など原因不明のことがある時など、やはりタイプやパターンを調べて、それに当てはめ、どうやらこれと同じ、このタイプだなとわかると、とりあえず、ほっとできます。

また、こういうこともあります。

仕事や恋愛など、ある問題で悩んでいる時に、自分の「人としてのタイプ」を知るだけで、何だか問題か解決したような気分になることもあります。

占いなどでは、実はこういうことはよくあります。

「あなたの気質や運勢はこういう型だから・・・」と言われると、「そうか、今起きている問題はそれが原因だったのか」と、自分で自分を説得させてしまうわけです。

タロットにおいても、数秘的に見たり、四大元素的に見たりして、人間をある種の型・タイプに分けることがあります。

今述べたてきたような習性が人にはあるので、自分がタロットによって、あるタイプに分けられると、何か嬉しくなってしまう人もいます。

ただし、何事も反面要素があります。

タイプ論は確かに便利で、人を安心させたり、問題の把握・解決に利用できたりするところがありますが、「型にはまる」という言葉があるように、タイプに執心してしまうと、そこから「タイプ」が囚われになります。

いわゆる色メガネと言ってもいいでしょう。

タイプは自分や人を知るための技法であるのに、逆に、自分や人をタイプに押しつける、無理からにタイプに当てはめてしまうようになってしまうのです。

タイプこそが絶対で、正しいもので、これに当てはまらない人はおかしいというくらいになり、いついかなる時も、自分の信じるタイプ論で、人を区分けしないと気持ちが収まらなくなる人もいます。

言わば、人のためのタイプ論が、タイプ論のための人になっているわけです。

私はタロットにおける人のタイプ論も、講座で言及しますが、注意点として、それにこだわらないことも伝えています。

要するに、人は、あるタイプに分けられはしても、結局、すべてのタイプを持つ可能性がある存在なので、どれも当てはまらないとも言えるのです。

もともと持って生まれた性質や傾向、そして成長していく過程において身につけた様相というものもあって、それがタイプとして分けられることもあるのは事実でしょう。

しかしながら、それを超えられる可能性を持つのも人間です。マルセイユタロットでは、むしろそのことを伝えていると言ったほうがよいです。

とはいえ、無理して自分のタイプを変えようという意味ではありません。

超えるというのは、タイプを理解したうえで、タイプに囚われないということになります。

平たく言えば、どうだっていい(笑)という心境になるみたいなことです。

どのタイプであれ、自分に必ずどれも内在しており、その反応は人によって違いますが、タイプがわかるということ自体、自分も、そのタイプの一部があるということなのです。

そして、これも大切なことですが、タイプ・傾向して区分けされるのならば、言わば、人の得意・不得意みたいなものとして考え、それぞれの役割の分担、シェアによって全体が成り立つことを思えば、自分が楽になります。

自分が不得意なものに、得意な他人がいて、その逆に、他人が不得意なものが自分には得意なこともあります。

さらには、レベルという縦の発想を入れると、その得意分野を高度にしている、専門にしている人もいれば、一般レベル、平易レベルを得意としている人もいます。

不得意も同じで、不得意がかなり高度(つまり、超苦手)の人もいれば、食べず嫌いのように、少し学べば通常レベルになる人もいます。

そうした様々な分野において、レベルの違いがあるのも現実の人であり、社会です。それらで助け合い、提供し合い、世界が成り立っています。(全体で充足している、ただし、全体として完全でも、配分バランスの問題はあると考えられます)

タイプ論は、自分のタイプを知ることで、自分をよく理解し、安心させることができますが、行きすぎると、言い訳や執着になり、かえって自分の成長を遅らせます。

自分を知るだけではなく、他人を知り、それが自分の中にもあることを理解するうえでの一助となるのがタイプ論でもあります。

言い換えれば、タイプ論は、自分の個性を知り、自分らしく生きる指針として活用すると同時に、全体性への統合(自分自身、そして他人や外の世界との統合)の意味でも、使うことが求められます。

自分が「あるタイプ」だとわかって安心している段階から、次のステップに進みましょう。


マルセイユタロット、小アルカナと親しくなる。

私はマルセイユタロットを習った時に、大アルカナ(22枚の絵柄のついたカード)中心で使う方法と言いますか、流派だったので、どうしても小アルカナと言われる、ほかの56枚のカードたちと疎遠な感じが長い間続いていました。

最初にマルセイユタロットを教えるようになった頃は、まだある流派に属していましたから、あまりその状態は変わっていなかったと言えます。

しかし、そうした中でも、私は探究好きなので、例えば、生徒時代でも、関西における勉強会(これは今でも続いています)の時に、なるべく小アルカナを使用したり、そのリーディングについて、皆で検討する機会をあえて作ろうとしてきました。

そして流派から離脱、独立することで、否応なく、自分自身での研鑽、独自の道を歩まねばならなくなりました。

その結果、小アルカナとも向き合う時間が増え、今では、本当に小アルカナの世界も楽しくなっている自分を自覚します。

大アルカナは深く、また非常に広範囲で高度な内容を示すのですが、小アルカナは単純ようでいて、とてもバラエティに富み、すごく現実的・リアルなのです。身近な存在といってもいいでしょう。

それは頭で理解するだけではなく、心でも感じるもので、その両方が必要です。

マルセイユタロットリーダーや、マルセイユタロットを活用しようとする者は、どうしても小アルカナ、中でも数カードの記号的・トランプ的ともいえる絵柄になじめないところがあります。

いや、なじんではいても、読めない、活用できないといったほうが正しいかもしれません。

ここで、私自身が小アルカナとつきあってきた経験から言わせていただければ、まず、単純に、小アルカナと仲良くなることが重要です。

タロットの世界では、カードを人間のように扱って、自分と関係をつけていくという考え方があります。

そこから言えば、実際の人間関係のように、人を理解し、お近づきになるために、当然、相手とよくコミュニケーションしたり、時間を過ごしたりする必要があります。

ですから、小アルカナによくふれるようにすること、目にする時間を多くすることが大切なのです。

しかも、小アルカナは、実は私たちの現実世界を象徴しているものであり、次元でいえば低いのですが、それだけダイレクトに生活時間と空間に関係してくるのです。

言い換えれば、実際の生活において変化を及ぼすには、打って付けのカードたちなのです。

ここは厳密にいうと、変化を与えるというより、変化を見るというほうがふさわしいかもしれませんが、このあたりの微妙な感覚は講座やセミナーで説明したいと思います。

平たく言えば、小アルカナは占い的に使える世界だということです。

この占い的な世界は、人間のリアルな生活意識を安心させたり、逆にワクワクさせたりする意味では、重要な役割があるのです。

しかしながら、一方で、この小アルカナの世界に埋没してしまうと、意識が現実次元に固定され過ぎ、肉体や物質を超えた心理的・霊的な世界に飛翔することが難しくなります。

だからこそ、大アルカナの世界があり、大アルカナによって次元を転移するように、マルセイユタロットはできています。

マルセイユタロットが大アルカナと小アルカナで絵柄も構成もまったく違うようにしているのは、その違いを明確に示唆するためと考えられます。

その観点では、本当に数あるタロットの中でも、最初にマルセイユタロットを本格的に学べたのは、自分自身にとっては大きな天(と地)からの恩恵だったと実感しています。

もちろん人には個性があり、それぞれの学びや発展において、ふさわしいタロットと出会う(タロット以下のことでも)ようになっているものと思います。

私にとっては、マルセイユタロットが良かったということです。

話を戻しますが、そして今回の記事の終わりになりますが(笑)、マルセイユタロットの小アルカナは現実やリアルな世界と結びついていますので、あまり理想的・宗教的・精神的と言いますか、ピュアで高次に考えていくよりも、欲望渦巻いたり、ちょっとてした夢を見たり、お金やモノなど、実際の生活において関心が及ぶものと意識でとらえていくといいと思います。

そして、私たちの現実世界は、ある意味、ゲーム的なところがあります。

ですから、小アルカナはゲームとしてのトランプのように扱っていくと、なじみやすくなります。

ちなみに、マルセイユタロットの小アルカナは、ほぼトランプカードと同じ構造をしていますので、その点でも共通しているのです


ロマンと現実 そしてマルセイユタロット。

先にお知らせです。

4月から計画している東京でのマルセイユタロット講座ですが、開講が決定しております。

もともと少人数制の講座ですので、当然と言いますか、開講決定と同時に、残席わずか(ほぼあと1名)となっております。

個人的にはここのあたり(今月の新月)を境目にして、変化の波に来ている方が多いように感じており、この講座開講も、その流れの一環にあるように思います。受講を検討されている関東の方、どうぞ、この機会をご利用ください。

では本日の記事です。

今日は、ロマンと現実のふたつの必要性を考えてみたいと思います。

ところで、ここで述べる「ロマン」とは、小説の形式とか学術的定義とかではなく、単に夢とか空想、非現実的な状態を指すとします。

さて、ロマンにしろ、現実にしろ、それはどこに存在すると思いますか?

私たちの見ている場所・外側の環境にあるのでしょうか。

確かに「現実」に関しては、そうと言えるのかもしれません。

ではロマン(夢や冒険的なもの)はどうでしょうか。

こちらは見ている場所には存在しないからこそ「ロマン」と言えるのかもしれませんが、しかし、例えば恋愛モードになっていたり、願望がかないそうになったりすれば、外にロマンを見ている状態のようにも思います。

ですが、より詳しく探っていくと、結局、現実もロマンも、自分の見方・思いのなかに存在していることがわかります。

まったく同じ状況が外側で起こっていたとしても、それを夢のように思えるか、シビアな現実だと感じるかは個人次第と言えるからです。

となると、すべては現実でありながらロマンでもあり、その境目は実はなく、自分が創ってる、決めていると考えることもできます。

ただ、今日はそういうお話ではありません。

言いたいことを先に言います。

それはロマンは解放と束縛を生み、現実は生きる実感を感じさせるものであるということです。

こう書くと、何か、よくわかったようでわからない印象かもしれません。

まず、ロマンから説明します。

ロマンは夢や空想、文字通り、ロマンチックなものなので、フワフワしたものとなるのはわかると思います。

場合によっては、現実として実現していないこと、現実にはないがロマンというケースもあり、それだと尚さら(フワフワしたもの、実体のないもの)です。

しかし、非現実的だからこそ、現実を超えたものに接する機会がロマンにはあるのです。

現実とは、言い方を換えれば、その人がリアリティを覚える状態(現実感・実体感・本当にあると信じている感覚)のことです。

つまり個人の常識感覚で構築される世界でもあるので、いわば、その人の固定観念や価値観が反映されます。

しかし、ロマンはその人のリアリティとは異なるので、その人にとっては「ロマン」なのであり、それ(その人のロマン)は解釈を変えれば、まだ自分が感じていないリアリティでもあるわけです。

ということは、今のリアルを超えるリアル(まだ訪れていない、味わっていないリアル)がロマンには可能性として存在します。これをプラトン的に言えば、「イデア」と表現することもできるでしょう。

そして、マルセイユタロットを使って、イメージや象徴の世界に飛ぶ時、この究極のロマンともいえる「イデア」を見ることにもつながってきます。

そのことで、固定されていた自分のリアリティが一度破壊され、再構築されます。このことはマルセイユタロットの「女帝」「13」などでも象徴されていることです。

こうして新しいリアリティを獲得していきますが、それは前の自分の時よりよりも統合された状態であることが多く、つまりは次元の上昇や拡大と言ってもいいものです。

しかしながら、反対に下降と限定(固定)という方向になってしまうおそれが、ロマンにはあります。

こちらのほうがわかりやすいと思うのですが、ロマンは現実と違いますので、幻想や思い込みの世界にも通じるわけです。

現実逃避と言われるように、人は自分が感じているリアルの世界に苦しみやつらさを過大に味わうと、そこから逃れたい、不快を通常に戻したい、快にしていきたいという思いに駆られます。

身体的な作用でも当然現れますが、心の面でも同様です。従って、非現実的な世界を信じることによって、心の均衡を保ったり、それ以上傷ついたりしないようにロマンに逃げ込んだりするわけです。

ほかにも、現実では自分が認められない世界だと思うと、自分が認められている(存在する価値が多大にあると思う)ロマンの世界に固着(執着)することもあります。こちらは典型的なものとして、「中二病」が有名です。(笑)

こうした方向にロマンが利用されてしまうと、解放とはまったく逆の、束縛や閉じこもりになってしまいます。

一方、現実はロマンとは反対のものですが、本質的には、実体の世界(実体があると信じている世界)と言えます。実(じつ)がある、身(実・み)があるということで、形も大事です。

また先述したように、「現実」とは、一見、客観的で皆が同じく感じていることのようでも、本当は自分がリアリティを覚えている個別的なものでもあります。

ですから普遍的な現実と個人的な現実のふたつがあると考えることも可能です。

これは時間の感覚とよく似ています。

「時間」は大きく分けると、時計で計る、言わば惑星の回転を客観的・普遍的に見た時間と、個人個人の内面で感じる質的な時間とのふたつがあります。

これと同様に、全員が等しく感じる現実と、個人特有の現実があるということです。

それはともかく、いずれにしても、現実は実のある世界なので、それは言い換えれば、自分がリアルに生きていると実感する世界だと言えます。

地に足をつけているとか、確かに生活している、生きていると感じる実体(実態)感覚の世界です。

ロマンは夢の世界でもあるので、そこではリアルに生きているという感覚とは違ってきます。

「そこ(ロマン世界)にいることもある」というような一時的、待避的、特別的なのがロマンです。

対して、現実は日常であり、普通であり、ノーマルな状態です。だからこそ、そこに実(じつ)、生命・ライフ感覚があります。

もしロマンに実(じつ)を感じ、ロマン(空想やイメージの)世界の住人・生き物たちが生命感覚を持ってリアルに感じられるとすれば、それはその人にとってロマンはもはや現実に近い状態となります。

一時的にはそれでもいいのですが、きちんと万人の感じる共通現実(個人の現実とは別)と区別しておく必要があります。

そうしないと、混乱しますし、とても生きづらく、場合によっては危険です。

しかし逆に言えば、その区別さえしっかりすることができれば、現実を超えた多重の世界の情報と生命に接することができ、人生の色合いが増えます。

タロット(に描かれるもの)は、ロマン側のものでもありますが、その調整と活用によっては、現実(特に個人の思う現実)を豊かにしたり、生きやすくしたりします。

ロマンのうまい現実への活用と言い換えてもいいでしょう。

人は強固な現実感覚だけでは息がつまり、ライフ感はあっても、続けていると消耗感も発生します。

ですから、適度なロマンが必要なのです。それは逃避であってもいい場合があります。

また一方で、ロマンや夢だけでは、まさに非現実を生きることになり、厭世観が強まって生きる力をなくしたり、「タナトス」という死や破壊に向かうのエネルギーに翻弄されたりします。

マルセイユタロットのような象徴道具を正しく使うことで、このロマンと現実の間をスムースに移行・交流することが可能になります。


カードの第一印象から脱却・超越する

マルセイユタロットの大アルカナを見ていますと、特に女性的なカード中で、とても優しく、慈愛に満ちたカードがあります。

それはたいてい、天使的・女神的な絵柄であり、また象徴的に「」に関係するものが描かれています。

水は流れるものであり、形があればそれに沿い、器に注がれれば満ちていき、やがてはあふれ出ます。

このことから、満ち足りること、浄化すること、流れに任せていくことなどが浮かびます。

もちろん、そのような「水」でも、多すぎて溺れたり、つかみどころがなかったりと、マイナス面もあります。

とはいえ、全体的には、「水」に関係する絵柄のカードは、ほっとするものが多いです。

一方、これに対し、剣や刃物状のものが描かれているカードは、厳しいところがあります。

マルセイユタロットの大アルカナでは、「正義」とか「13」のカードが典型的でしょうか。

また剣が描かれていなくても、厳格に見えるカードはあります。

それは男性的なカードに、やはり多いかもしれませんが、女性のように見えるカードでも、それはあります。

ちなみに「正義」の人物は「女神」として表され、女性であると言われます。

タロットカードは、「絵」なので、このようにまず、見た目の第一印象ともいえるものが、どうしても強く見る側に入ります。

それは重要なことではあるのですが、実は、それ(見た目)だけではないのです。

むしろ、第一印象から逃れる意味や象徴性というのを会得・理解することが、次の段階に進むために、非常に大切なことです。

このことは、私たちの日常生活の場面においても言えることです。

第一印象・外見は、その人となりを表すことが多いものですが、しかし、つきあったり、深く交流したりしてみないと、その人の本当のところ、あるいは別の面はわかりません。

怖そうに見えても、意外にシャイで優しい人だったということもあれば、いつも笑顔で穏やかな人が、腹黒かったり、かなり葛藤を抱えていたりして、人に嫌われないよう、癖のように作り笑顔で過ごしていたということもありえます。

こうした二面性、多面性(多重性)は、当たり前のように、人にも物語にも社会にも、構造として存在します。

単純に現れている一面だけを見て、判断することは、素直なようでいて、実は危険でもあり、未熟でもあると言えます。

物語・ストーリーでも、わかりやすい勧善懲悪スタイル、最初から悪者と善人が明確で、最後は正義の味方によって悪者が退治されるみたいなお話は、スカッとするかもしれませんが、ストーリー作法としても入り口ではあっても、最低レベルのものです。

現実の人間・社会がそうであるように、人はそう単純なものでなく、悪人にも善に見える理由があり、善人も立場や状況、見る人の価値観によって悪となります。

「正義」ひとつとっても、ある人の正義は、ほかの人の不正義や悪にもなり、時代や国、社会の一般的価値観によって、いかようにでも「正義」の概念と定義は変わります。

そうすると、本質的には、世の中にいい人なんていませんし、悪い人もいないのです。

それを決めているのは、自分自身であり、その線引きこそが、あなたのルールであり、「正義」ということになります。

ということで、タロットカードの大アルカナ一枚一枚を見ながら、見た目の第一印象をまず感じつつ、それとは異なる意味合いを見出すことで、世の中の多重構造を知ることができます。

それは結局、自分自身の多重性でもあるのです。

ただ、当然ながら絵柄の最初の頃の印象(見た目・イメージ)だけでは、それを探ることはできません。

だからこそ、感覚だけではなく、一枚一枚の象徴的知識が必要となるのです。それがないことには、単純な絵柄のイメージだけの印象と意味に留まります。(逆に知識に引っ張られ過ぎるのも問題ですが)

それは人間でいえば、ひとつのペルソナだけ見て、その人を判断しているようなものです。

これはまた、最近のネットやSNSから発せられる情報を、そのまま鵜呑みにして信じてしまうことと似ています。

特に裏や陰謀論を明かすと見せかけているものが表面的なものであり、普通の情報・表の情報ののように見えるものに、裏や陰謀があるというような反転構造などにも気がつくことができません。(もちろん、様々なケースが存在します)

タロットはいろいろな面で、神性的な自分自身を取り戻すための象徴体系であると実感します。

しかしそれも、人によってどれ(どの状態)を志すか、タロットをどの次元に置いて活用するかによって変わってくるものです。

少なくとも、怖く見えるカードに、とても有り難い救いを見たり、柔和で優しく見えるカードに、厳しい面を見たりすることができるようにはしたいものです。


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