タロットの使い方
選択と(霊的)自立
以前にも何度か書いておりますが、タロットへの質問は重要なことです。
しかし、矛盾するようですが、究極的には、質問はあまり意味をなしません。
ただ、それはあくまで他人向けのタロットリーディングにおいてのことです。タロットを自己活用の意味で使う場合は、質問はどのレベルにおいても大事になってくると考えられます。
一般的に、タロットに向かって質問(問いを)をする場合、「なになにはどうなりますか?」という形式を取ることが多いのではないでしょうか?
特に、「占い」としてタロットを使用する時は、そうなりがちです。それが悪いわけではありませんし、そのように聞きたい気持ちは、人として当然とも言えます。
なぜタロットに質問するのか?を考えてみれば、今起こっていることや、先行きが不安でわからないことがあるためと主に言えます。
すると、「このことはどうなるんだろう?」と未来目線で、人は質問をしたくなるわけです。これにはタロットからの情報を得て、不安をなしくたい、はっきりとした未来像を見たいという気持ちが含まれるでしょう。要は安心したいわけです。
しかし、これだと、タロットからの情報・示唆を得るだけで、受動的な態度となってしまいます。
あくまで不安を和らげ、少しでもほっとしたい、明るくなりたいということでは、先行きの情報を“占って”もよいかもしれませんが、情報をただ受け入れるだけでは、能動性の発動が起こりにくくなります。
ここて言う「能動性の発動」とは、自立に関した自らの(意思による)選択と行動を意味します。
先日のブログ再開(仮)の記事にも書いたように、「自我の確立」ということは、これからとても大切になってくることだと、私は考えております。それはマルセイユタロットが示す、自己の成長面をテーマにした見方からも言えることです。
それは、トータルな意味での自立ということ(テーマ)になるでしょう。
私たちの普通の人間としての成長から見ましても、赤ちゃんから子供、大人、老人へと移り変わって、途中で親から独立(自立)してくことになりますし、後半はむしろ、子供を育てたり、後進を育成するなど、保護、指導側にも回ります。(まあ、老後では逆に介護が必要になったり、人に助けてもらったりすることもあるかもしれませんが)
これと同様に、霊的な意味でも、私たちは自立を果たしていく必要があるものと考えられます。
「霊的な自立」というのは難しい言葉でもありますが、ひとつ言えるのは、受け取る側だけではなく、自らが創造し、選択し、その結果にも責任を持つというような態度があると思われます。
スピリチュアルな世界では、神や高次存在とつながるとか、神のパワーがあるところに行き、エネルギーをいただくとか、そういうことを言っている人も多いです。
ですが、これらの態度は、全部、受動的な発想から出ています。(一応、何らかの行動はあるので、すべてがそうであるというわけではないですが、発想・考え方のことを言っています)
これは、「外に神がいて、救ってもらう」(だからその神を信じ、神に適うルールを作り、きちんと守られているかを監視しなければならない)」という、宗教が支配のために使うものと似てくるようにもなってきます。(宗教が悪いと言っているのではなく、支配や依存構造になることが問題と言っています)
とは言え、霊的・精神的に未熟であったり、弱って助けを必要としたりしている場合が人には(段階・状況として)ありますから、別に受動的態度が悪いわけではありませんし、子供が親に保護してもらわないと生きられないように、私たちには、外からの(霊的・精神的な)救済・援助・補助が必要なケースはあります。
ですが、いつまでもそのような態度では、霊的・精神的自立ができなくなってしまいます。
外の神もまた過保護になり、場合によっては、悪魔的依存を生み出し、あまりよくないサイキック的存在を引き寄せてしまうこともあるでしょう。心理的には見えない存在を利用した共依存とも言えます。(見えない存在は自分で生み出していることもありますから、結局自作自演にもなりますが)
よって、最初の話に戻りますが、タロットに質問する場合でも、「どうなるか?」というようなものから(判断材料の一つとしてみるならば、そういう質問をしてもよいですが)なるべく離れ、「どうすればよいか?」とか、「どのような選択や解決方法が考えられるか?」「この状況で私ができることは何か?」というような形にするとよいと思われます。
そして、普段からも、「自分が選択する」「選ぶ・選べる」という意識を強く持ち、他人や大きな外部存在、洗脳的情報などと同化してしまわないよう注意することです。
マルセイユタロット的に言えば「力」のカードと関係し、力、フォルス(フォース)を他人に簡単に明け渡さないようにするということです。
どうにもならないとか、どうしようもないとか、無理だとか、(投げやりな意味で)自然に任すとかの受動的態度の日常的継続、あるいは、特段の意思なき態度を取り続けることは、たちまちのうちに、外の巨大なパワーに飲まれ、自分が自分でなくなって、ただのエネルギー発電装置として利用されることになります。
自分の選択権を意識しないと、大きな影響力を持つ人に、自分の持つパワーを提供してしまうことになるのです。
だから悪い意味でカリスマ性を持つ人は、どんどんエネルギー的に肥え太り(見ようによっては、その人はとても魅力的存在に映ります)、またそういう人は「もっと食べたい」という欲求も出るので、ますます自分の下に引き寄せようと、誘蛾灯のような餌をたくさん撒くことになります。
自らが自立的意思を持たないと、このような人の格好の餌食になります。これがマルセイユタロットの「悪魔」の、悪い意味での構造・仕組みです。
確かに、私たちには与えられているものも多く、それなしでは生活も世界も成り立ちません。ですが、それを生み出した者も、受け取る(利用する)者も、自己の創造性・能動性・選択性が働いているのです。
概念、あるいは観念として、外の神とか仏とか、天使とか、高次存在などを置くことは、時と場合によってはよいと思います。
さらに、それらとコンタクトしたり、守ってもらったり、示唆を与えてもらったりするのも、ある段階や、ひとつの(エンターティメント的)表現としてありでしょう。
しかし、真の自立のためには、少しずつ、そうした保護や依存から離れ、独立を目指していく必要があります。それは自分自身の神性を認識するというグノーシス的なことと一致します。
普段の行い、そしてタロットを使うことにあっても、受動的になり過ぎないように注意し、自己が選択できることを意識し、あくまで、そのための情報や判断材料として得るということにして、(どんな)結果においても(なっても)責任を持つ態度が大事になるでしょう。
ゲームやアニメーションではよく知られる言葉に「世界線」というのがありますが、これは自分の選択によって変わる多元世界の流れを意味します。つまりは、枝分かれするたくさんの世界(パラレルワールド)のことです。
無限の可能性とは言いませんが、少なくとも、かなりの数の選択肢による別の(結果の)世界が、瞬間瞬間にあると仮定します。
選択する瞬間の「今」は、本来ならば、何の枷もない自由な状態(無限のパラレルワールドがある)と言えますが、おそらく現実時空に生きる私たちには、過去・現在・未来の意識による縛り(因果関係とか、自己評価による限界・信じているルール・観念)があります。
そのため、世界線は無限ではなく、現意識による限界や壁のようなものはあるでしょう。
しかし、それでも、何の選択意識もなく、ただ流されるままに受動的に生きていると、他者や大きな集団的エネルギーにより、世界線は自動的に選択され、結果、あなたは自分の望む世界とは違う、まさに相手の思うつぼの世界に移行されられることになるわけです。
ですから、自分自身を取り戻すためにも、また霊的成長・自立のためにも、能動的・自己選択的態度を意識することなのです。
ただ、何事も、習慣化されてしまったものは、楽に、簡単には修正できません。マルセイユタロット「神の家」のレンガ積みのように、ひとつひとつ経験を積み重ねていくことが求められます。
「神の家」が出ましたが、ちなみに選択を意味するカードには、「恋人」もあります。マルセイユタロットでは、同じローマ数字で「6」の数を持っていることも必然的です。
ということで、タロットへの質問も、能動性・選択性が出るよう工夫してみましょうという話です。その意図は、トータルな自立に向けての作業(訓練)であるということなのです。
タロットによる分析あるいは俯瞰
タロットの大アルカナと小アルカナ。
このふたつの使い方には、様々な方法があります。
ところで、人は、困ったり、悩みや問題を抱えていたりすると、その解決策を模索します。
この時、分析的な解決の指向性と、俯瞰的あるいは直感的な解決指向性との方向があるように思います。
そして、大アルカナは統合的・直感的(直観でもあります)に使え、小アルカナは分析的な方向性に奏功します。(考えによっては、その逆の使い道もありますが)
小アルカナは4組に分かれているので、それを分析要素として見るわけです。
大アルカナは、全部で22枚ありますが、一枚一枚が、実は第五元素的なものと見ることができ、この第五元素というのが、小アルカナの4組(四大元素を象徴)の大元にになっている概念なのです。
従って、4組が統合されたもの(第五元素)として、大アルカナを考察することが可能になります。
悩みや問題は、要素別に分析したほうがはっきりと対処方法がわかったり、優先事項が判明したりすることもあるので、小アルカナを使って要素別(4組・四大元素別)に見るとよいわけです。
一方、細かな要素を見過ぎるがゆえに、大局的な見方ができず、かえって迷ってしまうこともあります。
「要するにこういうことなのね」「一言で表せばこうだ」「全体的には間違っていない」とか、そういう視点だと楽になる場合もありますし、どこに向かえばいいのか、ゴールのようなものから、今必要なことが逆算できるケースもあるでしょう。
分析的に見る場合、小アルカナを単純に使う方法があります。
ひとつご紹介すると、小アルカナの数カード(スート・数札)の一番(エース)を代表とし(特にマルセイユタロットは一番が絵になっているので、1の数札で代表するのに適しています)、剣・杯・杖・玉(ソード・カップ・ワンド・コイン)の4枚を取り出します。
ついで、大アルカナ22枚をシャッフルし、さきほどの小アルカナ・エース4組の位置に引いて、1枚ずつ置きます。(重ねてもいいですし、すぐ下に置いてもよいです)
正逆は取らない方がわかりやすいので、トランプシャッフルをして、カードを繰るとよいでしょう。
そうして、4組別に、出た大アルカナによって判断していきます。
ウェイト版のように、もともと数カードにも絵があるようなものだと、大アルカナと併用させる必要もないかもしれませんが、マルセイユ版は数カードは記号のようなものになっていますので、その意味を見るのには、大アルカナを併用させたほうがわかりやすいのです。
4組には、いろいろな解釈がありますが、こういうシンプルな分析に使う場合は、最初から単純な意味にしておくとよく、例えば、剣は学習・知識、杯は心・人間関係、杖は仕事・行動、玉はお金・経済みたいな感じです。
大アルカナを引くことで、4組の重要度もわかりますので、何を優先し、集中すればよいのかが明確になります。(4組の優先順位だけではなく、4組別のそれぞれにおいても、例えば「玉(お金)」では何が大事なのかということも、大アルカナの象徴性によってわかります)
これとは反対の、いろいろあり過ぎて(考え過ぎて)わけがわからなくなった人は、大アルカナを一枚から三枚程度、引けばよいでしょう。これも正逆はなしのほうがいいです。
そうして全体的にカードを眺め、意味というより、直感的に絵を見て、まさに“感じる”がごとく、あり方や大きな方向性を知るようにします。
もちろん、自分用だけではなく、タロットリーダーの人は、クライアントの悩みや状況に応じて、こうした分析的小アルカナの活用と、大局的大アルカナの活用を、相手に施していくことができます。
タロットはよくできていますので、様々な使い分けも可能なのです。
直感性 タロットの絵柄がどう見えるか
この前は、一枚など、少ない枚数のタロットを引いて、直感的に読むというお話をしました。
タロットは絵柄でできていますので、クライアントやタロットを見る側の人にとって、引いたタロットがどのように見えるのか、感じるのかということが重要なわけです。
読み手、タロットリーダー側は、それに解釈を加えたり、タロットの意味を、相手の情報と重ね合わせたりして、タロットの受けて側と共同で最善と思える答えや判断、指針を出していきます。
さて、そうなると、タロットをもともと勉強していた人とか、タロットリーダー自身が自分でタロットを見る時は別として、普通はタロット(の意味)を知らない人が、受け手側として、その絵柄を見るわけです。
すると、やはり、直感性をもって、絵柄のことを受け取ることになり、むしろ、そういう(直感)スタイルがノーマルでしょう。
一部のスピ系の人などでは、思考よりも直感・感性(で受けとったもの)のほうが正しいという人もいますが、実は、直感とか感性というのも怪しいところはあります。
むしろ知識とか思考ほうが普遍的であり、数学の答えのように、共通の正しさということを現実レベルで引き出しやすい性質があります。
直感も、次元の高いレベルまで引き上げられていると、それは通常の思考や知識を超えて、特殊な言い方をすれば「神の領域」に入るため、その正しさレベルもぐっと上がります。
しかし、低次の直感とでもいうべきもの、言い換えれば、個人の(囚われの)枠、フィルターを通した感性では、好き嫌いレベルにも等しいことがあり、それはファンタジー(自分の思う心地よい幻想)での選択になっている場合も多々あります。
ですから、感性とか、自分のありのまま(本来の自分が望むこと)に従うという判断にも間違い(というより幻想)が潜んでいて、危険でもあるわけです。(「本来の自分」と信じる存在が、幻想であれば元も子もないですから)
つまりは、自分の中にエゴや欲求、さらにはいろいろと植え付けられた観念とか思い込み、そして肉体的・精神的・心霊(サイキック)的障害(病気・不健康・疲労・ストレス・ブロック・アンバランス・憑依など)も個人個人にはあって、それらが感性・直感に影響を及ぼしていることは普通にあるのです。(影響のない人はいないくらいです)
そのため、より浄化した状態で、直感的チャンネルの感度を上げておいたほうが精度もよくなり、判断の正しさも増すと考えられます。
アンテナを磨くという表現にもなるでしょうが、アンテナばかりを磨いていてもダメで、そのアンテナのある土台そのものもクリアで堅固にしておかないといけないわけです。
こうしてはじめて、直感は通常の思考を超えたものをもたらすと言えましょう。
ただ、女性の場合は、もともとアンテナの伸びが長く、土台をしっかりすることと、長い分だけ磨く意識が復活(これらは、愛と学びによる自他の受容と表現してもよいです)すれば、巫女化して、宗教的表現で言えば、神や天使とつながりやすくなると思われます。
つまりは、男性より、直感は開きやすい、調整しやすい(その気になれば、さび付いていたアンテナの修理も早い)というわけです。
男性は逆に、比喩的に言えば、アンテナが短く、知識と思考の土台(塔)を積み上げ、(神の怒りにふれないようにして(変なプライドや驕りに毒されないこと))、バベルの塔を築いて行く必要があります。
ともあれ、直感の性別的な違いはあるとはいえ、そして、誰しもに、個人的な曇りや囚われが直感にはありますが、それがかえって、タロットを活用する要素にもなるのです。
まさに反転的活用です。
直感に歪みがあるのが普通ならば、タロットの絵柄を見て、どう見えるか? どう感じるか? ということそのものが、その人個人の(ある意味認知的)歪みを表していると見ることも可能になります。
では、歪みであるかどうかを、どう判断するのかですが、それが読み手側のタロット(の象徴)への知識となります。知識は普遍的なものであることは先述した通りです。
ユング的に言えば、人類の元型を象徴するのがタロットカードたち(特に大アルカナ)です。
例えば、「皇帝」は一般的な意味合いでは、人物像としては父親や夫、実際的でリーダーシップのあるような男性的人物像です。
それなのに、あるクライアントが「皇帝」のカードを見た時、「弱弱しい」とか「怖い」とか、「悲しそう」とか、「軽薄に見える」とか、「女性的に感じる」とか、さらには女性から見て「恋人」に感じた、見えたとかいう場合は、元型像から逸脱したり、その元型像で表される人物に、何らかのトラウマ・囚われ・投影等があるように見受けられるわけです。つまりは歪みです。
そうした、受け手側で明らかになった歪みのイメージを、読み手側のほうは、タロットの共通で普遍的な象徴により浄化し、癒し、中立性(個人から全体性への物語)に変容させることができ、それはすなわち、解放であり、個人の救済となるのです。
大アルカナの中でも、特に「救済」を意味するカードに「節制」がありますが、「節制」の絵柄では、天使が壺の水を交互に混ぜ合わせている図像になっています。
ふたつの壺は、言わば、クライアントとタロットリーダーであり、両者によって調整され、救いがもたらされるようになっているのです。(深くには、読み手側もクライアントとの人類的共通因子によって、タロットを使うことで浄化されて行きます)
これはタロットの心理的活用テクニックではありますが、マルセイユタロットとしての構造・象徴体系を理解していないと、有効には働きかけられません。(知識が必要であることの意味)
いずれにしても、タロットの絵柄がどう見えるのか、どう感じられるのかは、非常に重要なことなのです。
「世界」からの視線
このところ、暗く悲惨なニュースなどがあったところですが、冬至を越えた翌日、太陽の一層の輝きも見え(これは地域によりますが)希望というのも感じました。
私たちは日々悩み、生きています。
時には何のために生きているのか、わからなくなることもあるでしょう。
無理に生きる意味を見つけようとしなくてもよいとは思いますが、些細なことでもいいので、「このために生きる」とか、とりあえず「この理由があるから」という、こじつけ、短期的・長期的、何でもよいので、自分にとっての生きる意味を持っておくことはよいのではないかと思います。
まずは短期的なところからでもいいと思います。
例えば、おいしいものを明日食べたいとか、疲れているので癒されに行こうとか、あの作品は面白うそうなので見てみようとか、しょーもなくはあるかもしませんが、小さくとも、生きるモチベーションにならないわけではありません。(苦笑)
あと、長期的というのも、時に有効です。
人間、意外にゴールと言いますか、遠い目的地を決めていないがために、現在迷ったり、どうしていいのかわからなくなったりすることがあります。ひいては、生きる目的・力を見失うことにもなりかねません。
どこに向かうのか、わからない状態では、現在地に迷うのも仕方がないというわけです。
自分が達成したいこと、あるいはそんな具体的なことではなくても、人生の最後の目的、せめてこうなっていたら(こういうもの(境地とか精神でもよい)を得ていたら)OKという遠いゴール設定をしておくと、今の自分に、その目的地からの光が当たります。
マルセイユタロットには、人間成長の道筋・指針としての大アルカナ図があります。これは数順に並べていくものですが、最終カードは、大アルカナの最大の数を持つ21の「世界」となります。
つまりは、マルセイユタロット的に言えば、この「世界」から数の少ないほうのカードを向く(見る)、ということになります。
面白いことに、「世界」のカードに描かれている中央の人物は、これまでの道を振り返るかのように、向かって左側を向いています。
この、自分にとっての「世界」のカードに該当するものを決めておくと、今の自分の立ち位置、またはそれがわからなくても、何をすればいいのか、何を評価し、何をあまり悩まなくていいのかが明確になります。
目的地・ゴールが、精神的な充実や満足感なら、物質や環境的なことに一喜一憂しても仕方ないということになりますし、その反対に、物質的に恵まれて終わりたいということであれば、お金の稼ぎ方とか使い方も逆算して、より具体的になってくるのではないでしょうか。
タロットだけではなく、カバラーの「生命の木」を使えば、中央の柱を文字通り、中央・基本として考え、一番上のケテル、真ん中のティファレト、イエソド、マルクトと、それぞれを段階別の目標として、抽象性から具体性へと降下して思考すれば、現在(現実・通常)の位置・次元とも言えるマルクトで何をすべきか、どう生きればよいのかという「イメージ」が出てくるでしょう。
もちろん、タロットでもそれは可能てすし、タロットの場合は絵があり、その絵柄自体が象徴ですから、自分の生活・人生とリンクさせることがしやすく、迷子になってて、空しくなっている自分に、「世界」(のカード)から光明を指すことができます。
それはまた霊的には、「隠者」の光(ランタン)でもあります。
グノーシス的には、水(透明ゆえに光を通し、輝くことになります)とも関係し、キリスト教の洗礼の儀式ともつながりますが、水といえば、タロットでは天使が象徴されますから、天使の絵柄が、私たちに光を見せてくれているのだと言い換えることもできます。
目的地から今やることを見るというのは、目的地まで予定通り到達していない自分にいらだちや、不安が襲って来るようにも思えますが、ここで言っている目的地からの視点は、むしろ、今を楽にするためのもので、「これだけやっていればOK」「これを得ていたらよしとする」みたいな感じで、カードの「13」の象徴とも関係するものです。
言わば、本質と表面の違いを区分けするようなものて、目的(地)の本質を見ていれば、今の自分、過去の自分、これからの自分の「本質」のみをたどって行けばよく、その他のことは、表面的・演出的なものであるとわかって、安心することもあるという話なのです。
「運命の輪」から見る「運」
マルセイユタロットの「運命の輪」
文字通り、運命を象徴するようなカードと言えますが、その絵柄の特殊性(他のカードに比べて絵的に人物的要素がない)からしても、面白いカードで、様々な解釈が可能です。
タロットの大アルカナは22枚ありますが、このうち、ある区分けでは、10をひとシリーズ、1セットと見て、都合2セットの20枚とし、残りの二枚は「愚者」と「世界」にするものがあります。
これには、前回の記事にも出た「10」の数に関係するところが大ですが、ともかく、20枚、10を1セットとする2セットの、最初(数の少ないほうの)のシリーズの終わりが、「10」の数を持つ「運命の輪」のカードとなるわけです。
もし、「運命の輪」の示すことの大テーマが「運命」であるならば、いわゆる私たちの考える「運命」というものは、ここで一区切りを迎えることになります。
ということは、マルセイユタロットから見れば、運命のというものは、次のセットに進むとなくなる、あるいは、概念や考え方として、まったく別モノになるということが予想されます。
次の(10)セットとは、「力」から「審判」です。これらのカードと、今までの「運命の輪」までのカードたちとを比べると、明らかに違いがあるのがわかるでしょう。
その違いを何(どんな意味や象徴)と取るのか?によって、10セットのシリーズの意味合いも変わるでしょう。
ただ、「運命の輪」の「運命」ということを中心(テーマ)としますと、「運命」と呼ばれるものの質が、ここを境にして変わることは言えるかと思います。
「運命の輪」の絵柄の特徴は、車輪に三匹の動物たちが一緒に描かれていることです。
車輪の円周上にいるのが二匹で、車輪の上にいるのが一匹です。この三匹の位置が、いろいろと解釈が可能であり、面白いと言えるのです。
「運命」は、厳密に言いますと、「運」と「命」に分けられる言葉で、本当はそれぞれについて考察が必要ですが、ここでは、シンプルに「運」だけで見てみます。
すると、「運命の輪」の動物たち、それぞれが運の特徴を表していると考えることもできます。
輪の中にいるとも言える二匹の動物は、輪がクルクルと回れば、二匹の位置は入れ替わって見ることもできます。上に向かっている動物も、下に向かっている動物も、輪にくっついているわけですから、輪が回転すれば、立場(方向)は逆になります。
ということは、本質的に、この二匹は同じなのです。ただ、輪の中にいては、それがわかりません。二匹の動物たちは、それぞれが「オレはオレ」「ワタシはワタシ」と思い、オレは上に向かうもので、ワタシは下に行くものだと認識していることでしょう。
ですが、輪の上に乗っている動物から見れば、上に向かう動物も、下に行く動物も、輪が回転すれば入れ替わるだけで、方向性に上も下もないことに気づきます。
ここに「運」をあてはめますと、輪の中の動物二匹は、運が良い・悪い(上とか下とかの位置)と思う私たちの心とも言えますし、環境(モノ)と精神のように、ふたつのことによって規定される「運」とも表現できます。
一方、輪の上の動物は、それらの「運」とは違う認識にあって、もしこの動物の位置に相当する運があるとしても、それは、もっと大きな宇宙的なものであるとも言えます。むしろ単なる機械的・リズム的なものかもしれません。
私たちのほとんどは、現実において、運の良し悪しを思うことが多いですが、それは、この「運命の輪」における輪の中の二匹の動物の位置のように、入れ替わりつつも、実は本質的には同じもの(別の言い方をすれば、いいも悪いもないもの)だと例えることができます。
いい・悪いを決めているのは、輪の中にいること(それに気づかないこと)と、その位置が直線的(円ではない認識)であること、すなわち、統合的認識に至っていないことにあると言えます。
極端な言い方をすれば、自分の運の良し悪しを決めているのは、ほかならぬ自分であるということです。
輪の上の動物の位置からすれば、おそらく見えていなかった因果関係というものも現れ、すべては原因があり、その結果であることがわかり、運という偶然ではなかったこと、良いを選び、悪しきを避けていても、本質的には、回転の演出で振り回されていたに過ぎないことに思い至るのだと想像します。
そのような境地は、ある意味、小悟り(中悟りかもですが)とも言え、だからこそ、10を2セットとして見た場合の、ひとつのシリーズの終わりと見ることができるわけです。
そして、「運命の輪」の段階で、人間的・凡夫的な、運命に振り回される状況を脱することが示唆されているのだと推測できます。
そんなことは、修行僧でもあるまいし、できるわけがないと思うでしょう。
確かに全体的には無理でも、実際の生活のひとつのシーン、あるいは問題において、「運命の輪」的見方をしていくことで、回転の演出から少しずつ逃れることができるのではないかと思います。
二匹の動物の位置ではなく、俯瞰した輪の上にいる動物の視点です。中立性と言い換えてもいいでしょう。
普段においても、運が悪いとか良いとかの断定的言い方を避け、そういう物言いをしている時、自分は何をもって良いとし、悪いと決めているのかを探ると、違う意識(認識)が出てくるかと思います。
ただ無理矢理、中立性を思ったり、悟るふりをしたりしても逆効果だと思います。
人間として、実際の生活において運の良し悪しを思うことは普通ですし、運気的な流れというのも、ある次元では存在していると考えられます。
運の良し悪しを感じることで、神仏やその守護、反対の悪魔的な力やその影響、さらには因縁めいたものとかの、別次元の考察に至ることもあり得ます。(すなわち多重なる世界の認識と、自己の再構築が進む、一時的には混乱もあり得ますが)
ですから運を排除して考えるのではなく、運を受け入れつつ、極端な二元的観点(良し悪し、一喜一憂するような態度)から離れて行くというような姿勢がよいように思います。