タロットの使い方
感謝の方法
このブログでも何度か「感謝すること」の大切さについてお話してきたところです。
その理由についても、ちょっとスピリチュアル的な意味を持ちつつ、論理的にも証明しようとしました。
それで今日は「なぜ感謝することがいいのか」という理由はあえておいておき、その方法について語りたいと思います。
前にも感謝の気持ちは訓練することができると書きました。
感謝は自然にするもの(起こるもの)であり、訓練するのは間違っているという人もいるかもしれませんが、まあ、ここは「そういうこともある」という目で見てください。
ところで私の伝えているタロットの奥底の思想には、人はもともと完全であり、神性を持つというのがあります。
ということは感謝の心と言いますか、人は誰でも全体が感謝で満ち溢れる存在といってもよいのですが、現実にはいろいろな縛り・枠があり、そのことを忘れてしまっている状態でもあると考えられます。
よって今は忘れて少ししかない感謝の気持ちを、少しずつ思い出すのだということが「訓練」に該当すると思っていただければよいでしょう。
まず「忘却」しているのですから、感謝の訓練には未来思考ではなく過去と現在にフォーカスする必要があります。
また過去も結構遠いものになっている場合が多いですから、やはり大切なのは今現在への視点でしょう。
よくいわれる「現状への感謝」というものです。
しかし、これが意外に難しいのです。人は欲望によって生きているところもあるので、不足や不満を見つけることは得意なのですが、充足していることを発見・認識するのはある意味下手といえます。
そこで意図的にチェックするような姿勢を持つことが求められます。
チェックをするということは、何かチェック項目や基準のようなものがあれば便利になります。
それがタロットカードでできるのです。
具体的には22枚の大アルカナを使います。これをシャッフルして一枚取り出し、出たカード(正逆は問いません)の象徴から身近な感謝事項を思い起こします。
たとえば「手品師」が出たら自分の「仕事」を思い、仕事のおかけで給料があり、食べていけることを感謝します。また不況の中で仕事がある、働ける場所があること自体を感謝するというわけです。
ここでさらにずっと考えていると、仕事の不満とか要求とかも出てきてしまうおそれがありますので、感謝の気持ちだけ取り出してくれば、あとはその感謝を思い出させた事柄自体からはすぐ離れるようにします。
上記の例でいえば、仕事から感謝の気持ちは出たので、必要以上に仕事にフォーカスしないということです。フォーカスするのは感謝の心のほうです。
同じように「審判」が出たら、たとえば「家族」を想起し、家族の優しさ・ありがたさなどを思い、感謝の気持ちを取り出します。
これも家族に焦点を合わせ過ぎては、またネガティブなことも出てくるかもしれませんので、それは避けます。
このようにすれば日常からたくさんの感謝ができるようになります。毎日一枚だけでもやればかなり違ってくるのではないかと思います。
それにタロットリーディングの訓練にもなるので一石二鳥です。
どうぞお試しください。
どんなカードでもタロットなのか。
タロットはそのカードの種類にかかわらず、私はすべて象徴体であると考えています。
本来タロットは78枚をひと組とし、22枚と56枚の大・小のアルカナと呼ばれるカードグループで構成されているものです。
しかし世に「絵の描かれているカードは」結構「タロット」だと、皆ひっくるめて呼称されているケースも見受けられます。
ここでどれが正しいとか間違いとか言い出すと余計ややこしくなります。
ただある条件や設定を入れることで、タロットとそうではないものを区別することはできるかもしれませんが、そうした条件がなければ、何でもタロットになってしまいます。
もう一度言いますが、今回はそれに対していい悪いの(どれが正しいタロットなのかそうでないのかという)評価はしません。
それで何が主題なのかといえば、カードによる「象徴」の働きと型というテーマについてです。
私はおそらく人類にはある共通の認識パターンのようなものがあると思っています。それはユングらのいう「元型」といううようなもので考えてもよいかもしれません。
とにかく、皆が同じように思ったりとらえたりする「型」があるのだとします。
その型は行き着くところ、根源的にはひとつかもしれませんが、「型」ですから様々なタイプに分かれていきます。
それが22であったり78であったりするのがいわゆる一般的なタロットと言えましょう。
でも先述したように「絵」のついたカードを一応タロット的なものとすれば、その数、つまりカードの枚数は40であったり54であったり、いろいろです。
要は根源から分かれた象徴の型が、ある「とらえ方」(「とらえ型」でもあります(笑))によって何枚かにパターン化したのがカードであるということです。
極端なことをいえば、コインの表裏さえもふたつのタイプ・型として象徴することもできるのです。
この観点からいえば、どんなカードであろうと象徴にはなりえます。
ただ、システムとしてうまく機能するかどうか、一枚一枚の意味はもとより、全体として統合された場合、根源に還ることができるかということが大切なポイントだと思います。
たとえば、同じような型なのにさらにわけてしまっているようなことはないか? ということも見ないといけません。
このあたりは少々難しいことになりますが、幾枚かに分かれて象徴として表現されているカードでも、それぞれが同じレベル(次元)で分けられているかということが重要なのです。
たとえばAからZというカードがあったとして、よく見るとCとHがAの意味をさらに細かくわけたに過ぎない象徴であるというような場合です。
AからZは同レベルにおいての象徴でなければなりませんし、または意図をもって、一例としてAからMは上の次元で、NからZはその下の次元になっているようなグルーピングが必要です。
伝統的なタロットの場合、このあたりはやはり結構正確に整理されているように感じます。
ですからどのカードでも象徴にはなりえますが、マルセイユタロットは象徴ツールとしては中でも非常によくできていると個人的には考えています。
「愚者」になることが出発点
ほとんどの方を見ると、みんな真剣に、そして一生懸命自らの人生を生きています。
本当にすばらしいと思います。
タロットの講座を受講される方におかれても、時に迷いながらも自らをもっと向上させてたいという思いで来られています。
もちろんそんなことを皆が皆、はっきりと述べられるわけではありません。
「ちょっとタロットに興味があったので・・・」とか、「占いが一人でもできるようになればと思って・・・」などと受講の動機を語られます。
確かに実際にそうなのかもしれませんが、それでも心の奥底には自分の創造性を開きたい、自分の生き方をさらに見つめてみたい、自分の可能性をもっと探りたい・・・というような心の欲求・探究・向上心というものがあり、それが内的な声として聞こえてきます。
いわば魂の成長の求めのようなものです。
私はこれは人の中にもともとある神性であり、神聖な部分ともいえる崇高な魂の発露によるものとも考えています。一言でいえば霊性の導きです。
どこか今まで接してきた、あるいは生活してきた現実の世界・知識とは別個のそれがあるのではないかという洞察・直感のようなものもあるでしょう。
ただ目に見えない世界への過度のあこがれとか傾倒とかといわれる状態と紙一重でもあり、人から誤解を受けたり、自分自身を麻痺させてしまうこともあります。
それがいわば一般にスピリチュアルと曲解されているものになっていることがあります。
そのため、ますます自分自身(の崇高なる部分)と人から乖離していき、アブナイ方向へと走る危険性もあります。行き着く先は逃避か傲慢か、心の分離です。
これらのことは、実はマルセイユタロットの「愚者」がよく表しています。
「愚者」は犬とともに旅をしている姿で描かれています。
「愚者」は愚か者と書くように、常識人から見るとまさに変わり者、愚か者と見られるのです。行き過ぎると狂人とさえ思われます。
ただ「愚者」は愚か者ではありません。本人はきちんと目標を持ち、目指すところはわかっているのです。
また彼の旅も霊性によってその志がなされていると推測できます。なぜならば、そのスタイルから見ても単なる旅ではないからです。身軽で気楽に見えていても、ある種の覚悟も漂ってきます。
そのような者は他者から見ると変人ではありますが、本人自身はいたってまじめであり、人からどう思われようと信じる道を進むだけなのです。
逆にいえば霊性の道を目指す時、通常の心や状態(一般の常識・世界観)では叶わないということでもあります。
ただしその方向性が間違っていると、それは危険でもあります。見ているものや志がおかしな方向であれば、それは本当の愚か者であり、夢の世界に遊んでいたり現実から逃げていたりすることになります。
犬はその警告者でもありますし、よき方向に進んでいる時は協力者・伴侶にもなります。
マルセイユタロットに伝えられる教えでは、現実の世界でのバランスと成功を修めないことには真の意味で霊的な進化はないと図面で説明されています。
これをどう解釈すればよいのかといえば、簡単にいえば他人の視線を気にせず(他人の評価ではなく)、自分の心の解放と現実との折り合いをつけていく作業プロセスだと言えましょう。
それは自分の枠をはずして現実の生活が楽しくなるようにするということです。
これはよく精神世界でいわれるような心や思い方を変えるということだけではありません。実際に現実の生活・人生を変えていく(変わったように認識できるようになる)ことにあるのです。
いきなり隠遁生活して悟ることを意味しているのではありません。
その第一歩が「愚者」になること、「愚者」を志すことなのです。
そのツールとしては、やはりマルセイユタロットは偉大です。
タロットを習うようになって最初は変わり者と周囲から目されるかもしれませんが、やがてあなたの存在自身が風のようになっていき、その分周りとの調和がなされていきます。
なぜならばあなたが「愚者」のように流れる心と存在になれば、あなたは周りからは重くも軽くもなくなり、流れる水のように軽やかに生きていくことができるからです。
もちろん理想論的なところもありますが、その過程をタロットとともに思うだけでもずいぶん心は軽くなることがわかるものです。
タロットにおける四大元素
タロットや西洋占星術、西洋魔法などにおいても、それらをを貫く一種の原理があります。
そのひとつが「四大元素」論と呼ばれるものです。
端的にいえば、あらゆるものが4つの性質にわかれるという考え方です。
この4つの性質を元素的な要素として、風・水・火・地(土)で表現します。この考え方を知ると、世の中の見方が確実に変わります。
タロットにおいては特に小アルカナと呼ばれるパートにおいて、この原理が明確に現れており、小アルカナが4つのグループにわかれているのも、この四大元素と関連させているからです。
ただ一般的に見ていますと、この四大元素をもとにした小アルカナのタロットリーディングが画一的なものになっていることが多く、その大きな原因としては、四大元素の理解が「今風」であることにあると想像しています。
4つに分かれると言っても、きれいに4つの壁で隔てられているかのように区分されている(する)のではなく、あくまで性質の話であり、これは概念や思考だけでとらえられるものではありません。
言ってみれば実体であり、また次元や階層を加味することで実は非常に複雑にもなってきます。
そして「4つに分かれながらも4つが含まれている、あるいは統合されている」「4つではあるが1つでもあり、1つでもあるが4つでもある」という、一見謎かけのような存在(状態)が四大元素です。
先ほど「今風」だと言ったのは、何かに分類してひとつのことにはひとつの正解があると決めて判断するやり方のことを言います。相互の関連性や質の違い、相似性などはほとんど考慮されません。
ですからこのような考え方で四大元素を理解しようとすると、4は1でもあり、2でもあり、3でもあり、そして全でもあるということがまったくわからなくなります。古代と現代のとらえ方・考え方が根本的に異なるからです。
それを無視して、現代風に、たとえば小アルカナの4つのパートを単純に区分けして言葉に当てはめて暗記してもあまり意味はないのです。
占いとしては何かキーワードとして覚えるほうが実用しやすいかもしれませんが、四大を通して世界や自分を把握していくという観点からは、低い次元のままに留まる危険性があります。
ただ入り口の理解としては(まさに「風」から入る)知識として得るのも第一のことではあります。
その後に次第に「水」や「火」として理解し、さらに「地」として実体や現実とのつながりがわかるようにしていかなければなりません。
私自身も本当の意味では四大をマスターしたとか、深く理解しているとはとても言い難いです。まだまだ未熟な段階です。シンプルながらも非常に奥深いのが四大です。
結局のところ、四大元素も象徴だと考えればわかりやすいでしょう。(ただ象徴ながら実体性を帯びるのが特徴でもあります)
タロットで小アルカナが四大元素と関係が深いと述べましたが、当然ながら大アルカナとも関連します。これにはもうひとつの第5元素というような存在を想定することでつながりがわかってきます。
そうやってみますと、タロットの構造は全体で実に見事にこの世界、ひいては宇宙のことが表現されていると実感できます。
今月から予定している新しい基礎講座 では、この四大元素についてもじっくりと解説をしていくことになります。
占いの「当てる」「当たる」ことについて再考。
タロットといえば占いと一般的には認識されています。
そして占いといえば「当たる」のが一番の関心事であり、当たることが占者の能力、いい悪いの評価の基準になっていることもあります。
ここで、「当たることがいい」と思う人の心理を考えてみると、この奥底には不安や恐れが眠っていると推測できます。
過去や現在の自分のことが当たっていると思えれば思えるほど、未来に対するその占い師の言葉にも信憑性が出て来ます。
未来のことに限らず、もっと行き着けば、その占い師のすべての言葉は正しいことを言っていると思うようになるでしょう。
そして不幸を避け、幸せになるためにはこうすればいいのだということを告げられると信じないわけにはいかなくなりますし、それを言ってもらえることは「当たる」とあなたが思っている占い師からのものでは、すごく安心できることにもなります。
つまり不安や恐れの解消になるわけです。もっと言えばお墨付きであり、免罪符であり、よい言い方をすれば幸せへの切符(を入手したいとう気持ち)です。
別にこれが悪いと言っているのではありません。
今回私が言いたいのは、占いに限らず相談というものは結局、人の心の不安を解消したり、自分のやっていることに確信や意味を抱いたり(間違いではないと思う)することをサポートできるかということになるということです。
だからその観点に立てば、当たる(当てる)ということは目的ではなく手段になるのだと言えます。
相談者のすべてを見通し、全部当てていくのはどんなスーパーな人でも無理でしょう。やっているのは神ではなく人間だからです。
いわば神や宇宙、大いなるものという完全な存在・状態からの象意(象徴している意味)を、人間がモノや形・感覚を通して解読・解釈しているようなものです。そこに人としてのフィルターが入るのは当然です。
ですから完璧ということはないでしょう。すべてを見通し当てることで危険や問題の要因と対策を提示できればそれに超したことないでしょうが、それは不可能というものです。
となれば最初の見地に戻り、人の不安をなくし、勇気や自信を取り戻すことに目的を置けば、占いや人の相談ということもいろいろな手段が取れることがわかってきます。
クライアントはもとかく、「当たった、当たった」と占い師自身が当て自慢になってしまっては本末転倒です。
当たっても、当人(クライアント)の心が不安のままでは意味がないからです。当てる技法を極めることはよいとしても、それが何のため行うのか、目的意識を持たねばなりません。
占術技法そのものの研究と人の生身での相談とは自ずと異なるところがあるのです。それは原理と実際の違い、イデアと現実の違いと言ってもよいでしょう。
タロットでも同じです。タロットをどう使いたいのか(目的)によってやり方はいくらでも変容していくのであり、目的がはっきりしていればどう使おうがそれはOKなのです。
スプレッドや読み方の違い、それは目的の上では些細な手段の相違に過ぎません。大切なのはタロットで自分は何をしたいのかということになるのです。