タロットの使い方

人と違うからこそのタロットリーディング

この現実世界は、誰一人としてまったく同じ人がいません。全員、どこか違うわけです。

ということは、自分の問題は、究極的には、他人が解決できないということです。なぜなら、みんな、自分とはどこか違うわけですから、あなたの問題を完全に自分のものとして把握できる人は皆無だからです。(笑)

ですが、人はまた同じ部分、共通点持ちます。ミクロで言えば遺伝子構造が同じだから、「人」になっているわけで、人としての仕組みは同じなわけです。

またユングではありませんが、人は心理的にも共通のパターンを持つと考えられており、結局、思考・感情的にも、ある種の同じような型を持っているとも言われます。

同じようでいて違う、また、違うようでいて同じなのが(現実の)人間というわけです。

さきほど、究極的には自分の問題は他人には解決できないと言いましたが、矛盾するようですが、他人だからこそ、自分の問題を解決できる可能性が高まるとも言えるのです。

それは、自分とは違う部分があるのが他人だから、文字通り、客観視点でもって見ることができ、自分だけで考えて袋小路に陥っているような場合には、突破口が見つかりやすいからと言えます。

それでも、自分を救うのは自分であることには変わりありません。

当たり前ですが、他人が誰かの代わりになることができないからです。(完全に入れ替わることは不可能)

前にも言いましたが、たとえ誰かを救ったと思っていても、救われた本人自身が「救われていない」と感じていたら、それは救われていない、つまり、本当の意味ではその人を救ってはいないのです。

結局、その意味で、最終的には、自分で自分を救わねばならない(自分が救いを自覚しなくてはならない)ことになります。

しかし、だからと言って、他人が何をしても無駄ということではなく、本人が救われたと思う道筋をサポートすることはできますし、やはり他人の力がないと、本人自身ではどうすることもできないケースが多々あります。

タロットは、ちょっと大げさな言い方をしますと、人助けに使うことができます。その一番の方法は、タロットリーディングを行うことでしょう。

さきほど言った、一人一人違うからこそ、人は客観的視点をもって、別の人の問題点や解決点を指摘することができやすい点が、そのままタロットリーディングにも当てはまるのです。

さらに、これも先述したように、人は違っているけれとも、似たところを持ってもいます。

その似たところが、タロットの象徴性で把握することができるので、さらにタロットは人への援助に便利なものになってきます。

言わば共感性を持ちつつも、きちんと他人目線で、その人を見ることができるツールなのです。

しかも、マルセイユタロットの場合は、絵図には特別に仕掛けが施され、タロットに陥りがちな直感的判断の誤りやブレを修正する、論理的根拠も入っています。

また他人目線は、客観的ではあるものの、一方で、その人の思い込みが反映されやすいという場合もあります。

「他人」という、人の信じている、ある種の思想とか色メガネのようなものがあるわけで、それがかえって狭い視野にしてしまうこともあります。

それを防ぐのが、マルセイユタロットの絵図における論理性と言えましょう。

タロットを学習していくと、タロットリーダーとなって、他者援助をしてみたいという思いが出て来る場合があります。

それは、人として自然なことです。

ですが、中には、もっと完全に読めるようになってからやりたいとか、かなり、自分にブレーキかけてしまう人もいます。

もちろん、未熟過ぎる技術段階では、人に手助けどころか、迷惑になってしまうこともあり得るかもしれません。

しかし、ある程度学んだあとなら、自分の素直な気持ちに従って、人へのリーディングをしてみるのはよいことだ私は考えます。

その理由のひとつに、最初にも述べたように、人は誰しも違う部分を持つからというものがあります。

言ってみれば、誰しも、問題や悩みがあれば、誰かの手助けを待っているのです。

最後は自分でどうすればいいのかをつかむことはできても、それまでのヒントや道筋は、他人によってつけられていくことが多く、それは自分ではない者(他人)だからこそ、観点が違い、堂々巡りからの脱出を可能とさせるからです。

つまり、現実の世の中は、人(他人)あっての自分であり、自分あっての人(笑)なのです。

従って、まだ完全ではなくても、いや、完全ではないからこそ、他人へ(おせっかいにならない程度に)協力を惜しまないことがよく、それは結局は、自分を救う(完全性を回復していく)ことにつながるのです。

まさに、マルセイユタロットの「節制」の象徴(ふたつの壺を混ぜ合わす)で、協力、助け合いによって、お互い、人類全体を完全性に導くという感じでしょうか。

とはいえ、タロットリーディングにも段階やレベルがあり、お金をいただくとか、仕事として行うとかになってきますと、それなりの責任度が必要で、趣味レベルでやる時とは異なってきます。

人助けとして、積極的にタロットリーディングを活用してほしいと思う反面、自分の技術レベルや、責任の度合いにも、それ相応のバランスは取っておくことは求められます。

しかし、たとえまだ駆け出しの頃でも、上記を理解しつつ、他人目線というものは、今まで説明したきたように、それだけで人の力になる部分があるのですから、タロットという強力なツールを得たのなら、早い段階で、勇気をもって、他者へリーディングしていくこともよいと思います。

あなたはあなたでいるだけで、人とは違うのですから、それ自体が、人を救う力となり、あなたの存在価値として高いものがある(存在価値をよい意味で自覚できる)のです。


タロット自体の縛り

かつてタロットを学んでいる仲間と、定期的に集まって、いろいろと語り合う機会がありました。

そんな頃を、今は懐かしく感じる(笑)日々ですが、ふと、その時(内容も含めて)を思い出すことがあります。

そのひとつに、「我々はタロット学んでいるけれど、タロットが、逆に縛りにならないだろうか?

とメンバーがつぶやいた一言で、皆が、それについて一考するという事態があります。

タロット(学習していたものは当然のことながら、マルセイユタロットです)は、本来、自由になるためのものだと当時は信じていました。(この場合の「自由」は「解放」に置き換えてもよいです)

いや、今も基本的には、私はそう思っていますが、それも場合によると言いますか、使い方次第だと言えます。

話を戻しますと、「自由になるはず(解放のため)のタロットの学びが、逆に、我々の縛りになるのでは?」という問いかけは、タロット学習を楽しくしていたメンバーに、一石を投じるものとなりました。

私も同様に、これについて、ちょっと考えないといけないな、と警告的に受け取りました。

タロットを学ぶことで、タロット的な見方を獲得し、物事の整理と理解が早まる(深くなる)のは、まともに学習した者たちからすれば、実体験として当然のことと受け止められます。

しかしながら、タロットもひとつひとつが象徴絵図であるとともに、枠をもった図像(制限ある絵)であることには変わりないのです。

タロットを愛する(偏愛する)があまり、すべてを捻じ曲げてでも、タロットに落とし込もうとする、無理矢理の理解(こじつけ)は、方向としてはであり、このような使い方をすれば、確かに、タロットが縛りの道具になってしまうでしょう。

今回のテーマの「縛り」とは別のものですが、タロット占いを信じ過ぎ、タロットの言いなりになってしまうような依存的な態度も、タロットによる縛りと言えます。

いずれにしても、ある宗教教義が絶対とされて、それに合わないものは非難、排除されるというのに似ています。

やはり、タロットであっても、囚われの枠や自らを縛るロープになってしまうこと、色メガネの色とメガネになってしまうことを危惧し、使う者は、しっかりとそのことを踏まえながら、自省をもって扱うことが大事だと思います。

タロットが縛りとならないためには、柔軟な姿勢を持つことと、タロット的には、常に個(単体)と全体を考慮することです。

とは一枚とか少ない枚数のミクロ的なタロットへの見方です。これに対して、78枚を一組にした、あるいは大アルカナ全体とか、小アルカナ全体とかのマクロ的な観点(全的な見方)も必要であるということです。

例えば、大アルカナは、全体でもって、真の解放や自由を象徴すると見ますと、一枚一枚は、まさにひとつひとつの解除方法を示していると言えましょう。

さらに言えば、個々で解除されるのではなく、例えば数順に解除されていくという具合に、一種のステージとかレベルのようにひとまとまりにされているかもしれないと考えることもできます。

まるでゲームの(ステージ)クリアーみたいなもので、解除の鍵は、単独のカードがわかったからと言って、即、渡されるわけではない可能性もあります。

また、カードたちが、実は逆説的に、私たち自身を縛ってるもの(こと)そのものをテーマにしていると見ることもできます。

普通、タロットカードは、リーディングとか占いで、ポジティブな意味や、反対のネガティブな意味を絵柄を通じて見い出そうとします。

しかし、カードそのものが実は縛りを表すと見れば、少し、通常の読みのネガティブ面を見るのに近いですが、それとは異なるものが浮上してきます。

例えば、「正義」というカードがあれば、正義が縛る(縛っている)ものは何か?と問われていると見るわけです。

まったく自由に見える「愚者」でさえも、「愚か者による縛りは何か?」「自由や純粋性が縛りとなっていることはないか?」と考えてみるのです。

これが大アルカナを一枚一枚を利用した、縛りへの考察法で、結局、この作業は、自ら(あるいは他者)に解放をもたらすために行うのであり、この意味では、タロットは縛りになると同時に解放にもなると、両方言えるわけです。

究極的には、タロットなどいらないと言え、個人的にも、タロット学習・活用の最終段階は、タロットから離れること、タロット自体、忘れるほどになることだと考えています。

結構、どの進化・発展パターンにも言えることだ思いますが、勘違いした自由度(無自覚な、狭き自由状態)から、ルールや規則、パターンを学ぶ世界に一度自分を閉じ込め(学習・修行、再構築の準備)、そのうえで、その世界を破壊して、次なる自由度(かつて自分が思っていた自由とはまったく異なる自由や世界)に向かうのだと思います。

マルセイユタロットは、おそらく、ほとんどの人が無自覚だったり、勘違いだったりしている世界観とか自由というもの(無自覚の囚われ、牢獄状態)から、脱出や自覚のために、あえて別の囚われに入り、そこで別の観点から世界を改めて見ることで、ふたつ囚われ(最初の囚われと、あえて入った二度目の囚われ)から解放させ、真の(あるいは高次の)自由に飛躍(タロットでは鷲の象徴が思い浮かびます)するための導きのツールだと考えられます。

そして、「タロットを学べば自由になる、よくなる」という単純なものではないことも自覚しつつ、学びを進めて行きたいものだと思います。


タロットに描かれる動作

安倍元首相が凶弾でお亡くなりになるという衝撃的ニュースで、日本が騒然としています。長期政権を担った元首相の方ということで、様々な憶測があるでしょうが、今はとにかく、ご冥福をお祈り申し上げたいと存じます。

ただ、奈良という、いにしえの土地で、直接的関係はないにしても、安倍姓の方が倒れられたというのは、何か日本において特別なもの(警告)を感じさせる気はいたします。私たちも心して、これからの時代、生きて行く必要があるのかもしれません。

さて、今日はマルセイユタロットにおける(描かれ、象徴される)動き(動作や姿勢)というものにふれたいと思います。

マルセイユタロットに限らず、伝統的な流れを汲むタロットの構成は、大アルカナ、小アルカナに大別され、さらに小アルカナにおいても、宮廷(コート)カード、数カード(スート、数札)に分かれます。

マルセイユタロットの場合、大アルカナと宮廷カードは、ほぼ同じ図柄のニュアンスですが、数カードはまったく雰囲気の異なる、記号的な模様になっています。

ですから、「動き」という点で見れば、あまり数カードにはそれが見えにくいものがあります。しかし、よく観察すると、剣・杯・杖・玉の数カードは、1から10に向かって、まるで細胞分裂する(逆に言えば、何かを形作る)かのように動いているのがわかります。

例えば、剣の組は、明らかに円運動を意識して描かれています。剣そのものは直線的なのに、というのがとても面白いのですが、そもそもマルセイユタロットの数カードの剣は、湾曲している剣が主なので、そういう円的なものに見える構図となるのです。

剣が湾曲しているものが選ばれている理由は、いろいろと推測されますが、運動的なもので見ますと、直線と円を意識させるため(その統合)ではないかという思いも出ます。

というのも、マルセイユタロットには、ふたつのエネルギー(性質)の統合ということが、テーマとして常に描かれているからです。

さて、大アルカナや宮廷カードはどうでしょうか?

これらのカードは、人物が描かれていることが多いです。特に宮廷カードは、人物カードと別称されるくらいですから、すべて人物になっています。

ということは、人間の動きというものを、ひとつのテーマとして見ることが可能です。(ちなみに、私の講座では、宮廷カードの読み方について、人の動きを主眼とするものも教えています)

人間の動きというものは、立つ、座る、歩く、止まる、横たわるなど、基本的動作から、相手や状況により、複雑なものへと変化します。

人は無意識に動作するものもありますし、意図して動作する時もあります。ですが、どちらであれ、体は何かのために姿勢やその動作をする(取る)わけで、意味もなく勝手に動いているわけではないでしょう。

すると、基本動作を中心に、自分が意識(意図)していない場合でも、そういう動作が出ているのなら、自分の中にその動きを取るべき何かが起こっていると見ることができます。

簡単に言えば、体は正直だということです。整体師の方などにとっては、常識的なことだと思います。

私は、野口整体系統の整体をしていらっしゃる河野智聖氏の整体を受けていますが、先生は体癖という表現で、人による体の癖のお話をされます。

体癖にはパターンがあるようで、その体のパターンが思考や感情にも影響を及ぼし、価値観の形成、物事の選択にも関係すると言われています。ということは、極端に言えば、自分の人生を決めて行く要因のひとつにもなると、考えられるわけです。

このように、体の動きとか姿勢というのは重要と言えるわけです。

そこで、タロットに話を戻しますと、例えば大アルカナを一枚引き、その出たカード人物の動き・姿勢によって、隠れたもの(自分の恐れ、不安、期待、好き嫌いなど)を探るということができるように思います。

今、体はどう感じているのか(そう体に感じさせている思いは何か)、それをタロットが見せてくれるような印象です。

もし、正逆を取るとすれば、本来正立の姿勢や動作がノーマルで望まれる状態だとすると、逆向きは何か問題性があり、反対の姿勢や動作になっているということもあるかもしれません。

カモワン流をやっている人ならば、カード人物の視線をしっかり見るはずですから、その視線方向により、何か判断もできるかもしれません。(その場合は、二枚以上展開させると、さらによくわかるでしょう)

大アルカナの人物を見てもわかるように、実は一人としてまったく同じ動作をしている者はいません。確かに、あるパターン分けは可能でしょうが、厳密には一人一人違うわけです。

同じ立ち姿勢とか座り姿勢であっても、あるカードと別のカートではやはり異なるのです。

※「13」と「愚者」は、ともに右方向に動作していることで共通しながらも、ふたつは明らかに異なる雰囲気の絵柄になっています。どちらが出るか、あるいは両方(複数枚数以上展開する時に)出ることで、そのカードに描かれている所作から、示唆を得ることができます。

そうした細かいことも含めて、タロットから、自分やクライアントの心情(本当の気持ちなど)を読み取って行くというのも、興味深く、慣れれば、かなり有用なツールとして活用できると思います。


シンボル・象徴の学習と効果

マルセイユタロットには、様々なシンボル・象徴があります。

それらは、論理的にも感覚的にも汲み取ることができ、ある意味、感性と思考を調整したり、統合したりできる機能があります。

おそらく女性性優位の方は、シンボル(象徴図像)を見て直感的に何かに気づく、あるいは意味を悟ることがあるでしょうし、男性性優位な方は、出ているシンボルを構造的に分析することで、意味を見出したり、確信を得たりすることが可能でしょう。

さて、そのようなマルセイユタロットのシンボルですが、一枚一枚の図像の中にたくさんの種類が描かれています。

マルセイユタロットの学習過程において、そのシンボル・象徴を発見し(伝授してもらい)、理解することが重要になります。

世間では、短期的なタロット学習の場合、それぞれのタロット一枚ずつの意味を、ただ「言葉・単語」として覚えるという方法が見受けられます。

しかし、それでは、一枚の中に描かれている様々なシンボルにふれることもないですし、そうしたものを活用するという発想すら出てきません。

これは非常にもったいないことです。特にマルセイユタロットの場合は、シンボル・象徴図が精緻に描かれ、全体から見ても整合性(論理性)をもって配置されています。

その仕組み・構造・意味を理解せずして、マルセイユタロットの活用はあり得ないと言ってもよいくらいです。

シンボル・象徴というものは、図で表されることが多く、だからこそ、民族や国、言語を超え、さらには時代も、個人による違いも超越して、いわば普遍的とも言える共通な型、本質を示唆します。

マルセイユタロットが多く製造された時代と地域は、18世紀のフランスですが、現代の日本人が使っても機能するのは、そうし理由があるからです。

ましてや、マルセイユタロットに描かれているシンボル・図像は、タロットが広く流布した時代よりも、もっと何世紀もさかのぼることができます。なぜなら、マルセイユタロットの中のシンボルが、実際に古い時代に見受けられるからです。

シンボル・象徴で何ができ、何が起きるのかということは、ほかならぬ、マルセイユタロットにいくつか描かれている「十字」シンボルで示すことができます。

十字、「+」のシンボル・図像は、デザイン的にも相当古いものだと推測されますし、まさに「シンボル」として、現代の我々にもなじみのあるものです。

実際にアクセサリーに使っている人もいるでしょう。

十字と言えば、キリスト教の十字架が思い起こされますが、マルセイユタロットのそれ(描かれている十字)は、「正十字」と呼ばれる上下左右の長さが均等なものがほとんどです。

これ(正十字が使われていること)には、歴史的・宗教的な理由など、隠された話も含めて、かなり深く長い話をしなければならないのですが、それらは講義で説明しているところです。

今、言いたいのは、この正十字のシンボルが、まさに、先述したように「シンボルそのもの」の機能を物語っているということです。

正十字の構造・デザインは、縦と横の同じ長さの線分が交差しているものです。ですから、構造的には、縦と横の線の領域があるわけです。

私たちが、グラフを使用する時も、横と縦の線を引くことをよくします。これは横のふたつの要素、← → と、縦のふたつの要素↓↑が合体したものですよね。

ということは、都合、左右・上下で、四つの区分け、性質があることがわかります。しかし、縦と横で違うように、縦線の二つと、横線の二つの性質は方向性が異なります。

しかしながら、正十字は縦と横という、方向は違っても、線の長さは同じです。

ここから考えられるのは、左右と上下、それぞれふたつの性質が対立していると同時に、それぞれが統合もしているということです。

さらに言えば、すべての線分が同じ長さ(クロスして分かれたように見える4つの線分でさえ同じ長さ)であるので、4つ(の要素・性質)全体を統合していると見ることも可能です。

言い換えれば、書かれてはいない正十字の領域を囲む円のようなものがあると想定してもよいのです。ケルト十字のような図ですね。

左右と上下は、方向が異なるので、何かしらの種類の違いはあるとはいえ、どちらにしても、ふたつのものが行き交い、交流し、両方(両端)をつなげています。(統合)

仮に、左右の両端を女性・男性とか、大人と子供とか、国とか文化の異なりとか、人間の世界による違いによる対立だとします。

ただ、今述べたように、対立ではあるけれど、両端は線としてつながっているわけで、言わば、交流による理解とか創造も生まれると見立てられます。それは「線そのもの」として見れば、ある種の統合と言ってもよいです。

そして、上下の両端についても、仮に、一人の人間の表と裏、顕在意識と潜在意識、さらには神性と人間性、天使性と悪魔性のようなものとします。

するとこれも、両端では対立していますが、ひとつの線だと見れば、ここにも交流が起き、統合されたものとしてとらえることができます。

これら、横と縦が交差(クロス)して、「自分」「自己」というものが形成されていると見るとどうでしょうか。

要するに、シンボル・象徴とは、私たちの内と外、個人と全体において、成長・統合させるために、形や直観的意味として見させてくれるものなのです。

私たちがシンボルを見る時、シンボル自体が私たちにもなり、そのシンボルが表す(シンボルが創造され、蓄積されてきた)世界に連れて行ってくれます。

そういう意味では、シンボルは一種の乗り物とも言えましょう。

ただ、それを活用するには、やはり直感だけでは不足で、きちんとシンボルの意味合いや背景など、様々な知識も必要とされます。

それは丸暗記のような学習とは異なりますので、学生時代、勉強がつまらないと思っていた人でも、面白く学べるところはあるでしょう。(何事も楽には行きませんが)

私自身もそうでしたが、本当にマルセイユタロットのシンボル・象徴図像を学ぶことはとても楽しいものです。知らないことも多かったですし、興味深い、新たな知識が学べるのはうれしいことです。

同時に、シンボルにふれてきますと、十字で説明したような、「交流」が起きてきますから(たいていは自分の中との交流)、自己に対する認識の変化、変容も起き、それに連れて現実も変わって来ることも生じます。

1枚ずつの意味だけ覚えて、すぐ占い師になる、みたいなことを望まれる方は、マルセイユタロットの学習には不向きです。

一方、じっくりシンボル・象徴の意味を学び、それらを活用してあらゆることを探求していきたいという方には、大いに勧められるのがマルセイユタロット(の学習)です。


「特別さ」が与えるもの

一年周期として見ると、やはり、春分・秋分・夏至・冬至は、特別なポイントであると考えられます。

今もって、その四つの時期について、風習的にも、宗教的にも、何らかの行事が行われているのを見ても明らかです。

そして、今月、六月夏至を迎えますので、月単位で観ますと、特別な月であると言えます。

ですから、色々な方が、今月に何かを行うことや、心を決めることについて言及していると思います。

ただ、昨今は動画やSNSを中心に、自己アピール合戦みたいな様相を呈していて、毎月、いや毎日のように、「今(今日、今月)がチャンス」とか、「この時期は特別」「変わりたいなら、今月中になになにをすること」など、言われています。

これでは、チャンスや特別な時期は、設定次第でいつでもなるのだといわんばかりです。(笑)

マルセイユタロットで言えば、毎日、「運命の輪」の特別な回転があるようようなものです。しかしながら、この「設定次第で、いつでも特別日(時期)にできる」というのは、ある意味、真実かもしれません。

私は長年タロットをやってきまして、いわゆる「特別さ」を経験する(あるいは演出する)には、天・地・人の三つが主要素としてあると考えるようになっています。

」というのは、天体とか惑星による条件(つまり時間とも関係します)で、「」というのは地球上の環境、地の利みたいなもの、「」というのは人間が行うことによって生ずる効果などを意味します。

このほかにも、むしろ場合によってはメインになるかもしれない「霊的(高次存在・神的存在)なもの」や「サイキック的な要素」もありますが、それは地や人(人が行う儀式によって、影響させることができる場合があるので)の範疇として、何とか入れることができるかもしれません。

「魔術」とか「呪術」のようなものでは、このサイキック的とも言えるものの条件と影響で、特別感(非日常)を出すことはあると思います。

それでも、たいていは、天・地・人を考慮し、その配置・調整・儀式的行為・象徴性の力の発露などによって、「特別さ」を、どの分野であっても、出していると思われます。

この「特別さ」といのうは、宗教的にはいわゆる「奇蹟」にもなり、宗教からはずれれば「奇跡」として、とらえられる場合もあるでしょう。要するに、普段より特別になることで、非日常的なことか起こる、あるいは起こすことができるわけです。

普段より特別になるというのは、並行世界とか多次元宇宙論の話で言えば、まさに違う世界や宇宙に入る(移行する、あるいはそのフィールドを出現させる)ということであり、だからこそ、日常の時空常識(ルール)とは異なることが可能になると考えられるわけです。

あえて心理的に言えば、実は身もふたもない話かもしれませんが(笑)、自分で自分を洗脳させるみたいなことで、強烈な信念とリアリティある演出があって、自己洗脳、トランス状態になり、あたかも、特別なことが起きる、特別なことを起こす力があると錯覚してしまうということです。

しかしながら、人間、トランス状態や変性意識状態になれば、マルセイユタロットの「力」のカードで象徴される「フォース」の解放が叶い、それこそ超越的な能力を一時的に出すことも可能になることがあります。神がかりの原理です。

また、自分への洗脳が強力であれば、おかしな話(スピリチュアル的な話)ですが、自分が中心軸となって、例えるなら、自分自身が宇宙(の創造の中心)となって、周囲が生成されてくるようになり、つまりは、まさに自分が中心となって地球(世界)が回るというようなことが生じます。(自分に向かって、周囲が引き寄せられてくるようなもの)

マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の上にいる「スフィンクス」、さらに力が強まれば「悪魔」(「悪魔」のカードに象徴される存在)になってくるわけです。

こうなると、強い魅力と支配力を持つことになりますので、ビジネスの成功とか、注目を浴びて人気者になるとか、カリスマ的指導者、先生、講師、経営者、政治家、タレントなどとして目立つことも可能になるでしょう。

悪い言い方をすれば、自分に従う奴隷がたくさんできることになりますし、よい言い方をすれば、自分のファンやサポーター、共感者(厳密には洗脳者ですが)が増えます。

その恩恵(エネルギー変換)として、自由主義経済のもとでは、お金としての糧も得られ、それにより、自由な時間と選択も持てて、ますます魅力的に他人の目からは映り、いわゆる現世利益的にも多大に恵まれることにもなると想像できます。

話を戻しますが、「特別さ」を獲得する秘儀を得れば、いろいろな恵みを受けることもできるので、古来より、特別さを出す、特別さ(非日常の世界)に自分を移行させる技術は追及(研究)され、隠されてきたこともあったと考えられます。

また、その力(得られる力)が強大であればあるほど、コントロールするのも難しいでしょうから、「特別さ」の経験は、ある種の危険が伴うと見てもよいはずです。

だからこそ、その技術と知識は、隠されてきたところもあるでしょう。

たとえそれが神とは無関係であった(神のような存在がいるのかどうかは別)としても、「神なるもの」を想定し、その介在あって特別さが出現する、あるいは、その力が付与されるとしてきた昔からの宗教的行為には、安全性を担保とした儀式を行う人間への保護の意味があったとも考えられます。

(もちろん、宗教そのものの存続とか、威厳を保つための理由もありますが)神聖さを演出しないと、力を得るものの心得次第では、他人や社会に迷惑がかかってしまいます(利己的な欲望が暴走し、その欲求達成に力が発現されるため)ので、神を信じ、神に帰依して謙虚になれる者が選ばれて、特別さを経験できたのだ推測されます。

実はタロットには特別さを出す力が備わっていると言われますし、そのために作られたという説もあるくらいです。

遊びや気軽な占い目的として、普通に使う分にはそれほど影響はないにしても、真剣にやれば、タロットでも、いにしえの特別さを出現させることができると考えられます。

しかし、先述したように、誰彼なくやっていいものでもなく、特別さの力に自分のほうが負けてしまう(魅了され、支配される)こともあり得ます。

知らず知らず、悪い意味での魔術的方向性(いわゆる黒魔術的目的)や、悪意あるサイキック世界の影響を受ける状態(悪い存在の憑依など)へと、足を踏み入れてしまう危険もあります。

すでに述べました、マルセイユタロットで例えられる「運命の輪」のスフィンクスと「悪魔」に自分がなってしまっている者もいると考えられます。当人たちは気づいていないでしょうが。

※(言っておきますが、マルセイユタロットで表現されている「スフィンクス」や「悪魔」自体は、悪い意味ではありません。すべての意味は中立です。ただし、特別な力をアンバランスに持ってしまった場合の「スフィンクス」と「悪魔」には、問題があるわけです)

しかしながら、自分がコントロールできる範囲での「特別さ」は、自己や他者変容には安全に使えるもので、常識や過去のしがらみなどに囚われ、縛られた自分を解放することにもなります。

そういう意味でなら、時間と場所と人、そして、人が使う道具(この場合はタロット)によっては、とても効果的な「特別さ」が体験できるのではないかと思います。


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