タロットの使い方

マルセイユタロットに関わっていること。

こちら(HP)の経歴でも書いておりますように、私は通称カモワンタロット、カモワン版マルセイユタロット(本来はホドロフスキー氏も製作に関わっていますので、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットと言うべきですが)からタロットの世界に入りました。

カモワンタロットを学んだことは、縁(えにし)とも言えます、

当時は、タロットのことは詳しくなかったので、ほかのタロットを学ぶ可能性もあったわけですが、先述したように、縁というものでしょうか、たまたまカモワンタロットから入り、今もって、そのタロットを使い続けています。(現在はオリジナルな形が増え、カモワンの解釈や技法とは違うものも取り入れていますが)

私自身について言えば、どの道、タロットの世界に参入することが決まっているとしたのなら、マルセイユタロットに関わることになってよかったと言えますし、それ以外のタロットの世界は考えられないくらいです。

タロットをやっていますので、よく勘違いされるのですが、私はタロットやカードが好きなのではありません。あくまで、マルセイユタロットに象徴されている世界観、教え、モデル、型などに興味があるのです。

タロットを扱う人には、いわゆるカード好きタイプの者と、特定のタロットの世界観や絵柄に惹かれる者とがいます。

私は完全に後者で、マルセイユタロット以外に興味はないのです。まあとはいえ、長い間、タロットの世界にいますと、ほかのタロットやカード類に、特に成り立ちとか歴史みたいなものには関心は行きます。

何事もそうですが、ひとつのことで閉鎖的に完結しているわけではありません。

人間においても、例えばあなたが存在しているのは、好き嫌いに関係なく、両親がいたためで、そのまたそれぞれの両親、先祖の方々がいたことで、存在の理由が成り立つわけです。

しかも、誕生してからも、いろいろな人間、事象と関わり合い、影響を及ぼし合い、今の自分ができあがっています。

ということは、カモワンタロットやマルセイユタロットにおいても、そのタロットだけ見ていればよいというものではなく、ほかのタロット、カード類などとの比較・研究も必要であり、さらにはカードを扱う人たちのことも考えると、どうしてもヨーロッパ(の歴史)はもとより、全世界的な範囲で見て行くことも出てくるわけです。

※例えばマルセイユタロットの絵柄を観察しても、明らかに、大アルカナと小アルカナの数カードとの違いがあり、それは異文化的な背景をも想像させるものとなっています。

しかも、単なる一般的な歴史や見方ではなく、裏面史のようなもの、宗教・民俗・哲学・魔法・霊的な分野まで、タロットというものを探求していくと、関係して来るわけです。

そういう面では、知的好奇心の意味だけにおいても、タロット(特にマルセイユタロット)に関わることは、興味が尽きないことになってきます。

まさに「世界」のカードではありませんが、世界的に拡大して視野を広げる必要があるわけで、それが面白いと思うか、面倒だと思うかの違いによって、関心度、学びの方法も異なってくるでしょう。

私自身もそうでしたが、最初は先生や講師、つまりは先達の人からタロットを学ぶわけですが(特にマルセイユタロットにおいては、独学よりも、そのほうが個人的にはよいと思います)、ずっと教えられる立場に留まるわけではありません。

物事の原理として、インプット・アウトプット、受動と能動は等しくあり、やがて、自分から探究し、発見し、気づきと智慧をタロットから見出し、場合によっては、それを人に伝えていくような、能動的働きも出てきます。

結局、マルセイユタロット(が示そうとしているもの)の学びは、自立に関わり、最初は与えられる側でも、最終的には自らで得る(立つ)ためのものなのです。(断言しますが、程度の違いはあっても、マルセイユタロットを真剣に学んでいくと、必ず、自立問題と関係してくるようになります)

いつの間にか、私もたくさんの人にマルセイユタロットを伝える立場となっていますが、そうやって伝えられた人も、やがて自立し、自らが自らであることを知り、さらには自我を超えた存在に拡大し、大いなるもの(場所)に帰着することになるかと思います。

一言でいえば、霊性との調和による、一人一人のレベルと次元の進化であり、それによって、世界(地球)全体のレベルを押し上げ、低自我的で支配と被支配に明け暮れる次元から、霊性による基準が中心の世の中にシフトしていくための目的が、マルセイユタロットの学びと過程にあります。

ですから、何度も述べているように、占いレベル中心次元で、タロットを学び、使うことを私は勧めていないのです。(占いを否定しているわけではありません)

しかしながら、一人一人の現実的・実際的悩みもあるのが人間です。

それをある程度、安らかにしていかないと、次に進めないのも事実です。そのための対人タロットリーディングがあるということにもなります。

大と小、理想と現実、精神と肉体・・・いろいろと二元のたとえはありますが、これらを関連させつつ、個人レベルから全体レベルへと向上を押し上げて行くのが、マルセイユタロットの使い道の一つだと思うわけです。

やはり、「世界」のカードの視野・視点の獲得と言えましょうか。

来年で、私も、最初のタロット学習から20年を迎えます。それでもまだまだ続けて行きたいと思っています。


選択と可能性

現実の人生は選択の連続とも言えます。

毎日、習慣化されているとはいえ、起きて何をするのか、服を着るのも、何を食べるのかも、選択しているわけです。

ただ、さきほど、習慣化されていると述べたように、些細なルーチン的なことは、ほぼ定型化・パターン化されているので、いちいち選択について考えることはありません。

それのほうがエネルギーも使わず、でもあります。

しかしながら、何でも二面性があり、楽ではあるものの、変わらない選択をしているわけですから、いい意味ならよいのですが、悪い意味で変わらないのは問題となります。

つまり、今の状態がよいのなら、そのままでいいのですが、現状がよくないことを自覚しているのなら、何らかの方法で、選択を(意識的に)変える必要性があるわけです。

さて、選択においてもタロットカードが使えるかというと、結構、活用できます。

むしろ、現実的なタロットの使い方としては、選択の参考にカードを引くということがあげられるくらいです。

タロットには、大アルカナと小アルカナというふたつのパートがありますが、現実生活における選択には、小アルカナを活用すると、より実際とのリンク性が増します。

ただ、大アルカナも一緒に使うことで、選択もしやすいですし(読みやすくなる)、特に、変化を求める選択においては、大アルカナの示唆が有効になります。

ところで、現実の生活における選択のシーンでは、短期的なこと(今決めたいこと)が多いと思います。

ですから、ついタロットカードを展開しても、短期的な目線でカードを読もうとします。

選択に迷い、困っているケースでは、何とか決着をつけ、すっきりさせたいと思っているところがありますので、短期的視点になって、あせる気持ちもわかります。

ですが、ここで少し、選択への視点を長期的なもので考えみることを提案します。

長期的というのは、言い換えれば、可能性の拡大(的視点)ともいえ、マルセイユタロットていえば、「世界」のカードのような観点で、「手品師」を見下ろすみたいなことになります。(これは私のタロット講座を受けている方ならば、ニュアンスがわかるはずです)

例えば、Aという選択肢を選べば、どれほどの可能性が増えるのか、あるいは減るのか、同様にBだとどうなのか?と考えます。

短期的に判断していると、見えてこない事柄が、長期的可能性(あるいは問題性)としてならば浮上してくるはずです。

マルセイユタロットでは、拡大や可能性を示唆する細かな象徴が隠されていますので、そういうものが出ている選択肢を選ぶというのも、特に現状変化を望む場合は有効かと思います。

単に可能性といっても、偶然や自然に起こるものを想像するだけではなく、同じ音としての「創造」も意図するとよく、その選択肢を選ぶことで、何がどのように創造できるのか、創造の可能性をイメージ(想像)できることが、選ぶ基準のひとつにもなってくるでしょう。

特にお金を使っての選択(何かの購入、申し込みなど)は悩むこともよくあると思いますが、その選ぶものへ投じた金額と同等か、それ以上のリターンを想像と創造できるかによって、決まって来るところもあるでしょう。

その選択をすることで失うお金のイメージが、回復の望みも、方法もわからない・・・お金を失って気分が暗くなるだけの想像がある場合は避けたほうが無難です。

また、気持ちの不安が高いのに、それを無視して、「何とかなる!」と、無理矢理強引にお金を使う選択をするのも問題です。どちらにおいても、創造の想像ができていないからです。

※ワクワクするという気分だけのものではなく、どのように投資したお金の価値が回帰してくるか、人生の楽しみと幅が、一時的ではなく、中長期的に広がるかというイメージが想像できるかということです。ワクワクだけならば、一時的な快楽的満足、あるいは中毒症状継続の選択になってしまっていることもあるのです。

超長期的(一生を超えるような目線)で見れば、選択に間違いというものはなく、ただ選んだ経験をするのみ、ということなので、そのような考えも持っておくと、後悔というのも少なくなると思います。

さらに言えば、最近ではよく言われるように、自分の意思などなく、本当はすべて最初から決まっているという説もありますので、選択に迷うこと自体、プロセス(演出)でしかなく、悩んでも仕方ない(選択に悩むのはよくても、あとて選択したことを後悔して悩むことは必要ないということ←それさえも決まっていたことかもしれませんが)わけです。

※とはいえ、人間的・実際的・短期的・空間的には有効性、効率性、正解性というのはあり得ると考えますが。

そして、ここが実は本当に言いたかったことなのですが、現実での選択という行為そのものが、私たちが霊的な解放を目指すのか、牢獄のままで意識を眠らせておくのかの、まさに「選択」となっているのです。(詳しくはここでは述べませんが、マルセイユタロットの「恋人」カードにヒントがあります)

ですから、タロットを使うにしても、「どちらを選べばいいか?」の質問と活用をメインにしていると、マルセイユタロット的には、「運命の輪」に囚われ続けることになるのです。


タロットと人、意識、方向性

タロットへのアプローチ、方向性、ベクトルと言ってもいいかもしれませんが、それは、大きく分けて二つあります。

ひとつは、読み手(タロットを読む人、タロットリーダー)側からタロット側への方向、もうひとつは、タロット側から読み手側への方向です。

何かと何かの関係(性)がある時、それは必ず一方向ではなく、双方向的なものであることは、タロットをしていて気づきました。

それは、第三者的な目線から見れば、至極当たり前のことなのですが、ふたつ、あるいは二人の当事者同士の関係性では、意外に意識しないものです。

一般的に、タロットから何か示唆を得たいと思う時、質問をしてタロットを引き、その出たタロットと質問を関連付けようとします。

しかし、タロットから読み手側への方向もあるとすれば、それは、タロットを引こうとした人が引いたのではなく、タロット側が引かせてあげた、出してあげたというものにもなります。

自分が主体となってタロットから何かを得ようとしたのかタロット側が見せたいから(自分と遊んでもらいたい、使ってもらいたいと思って(笑))出したのかという見方の違いです。

タロット側が主体だと、一種の演出と言ってもいいくらい、ゲーム色が濃くなります。

もしかすると、タロットを主体として見た場合、人の質問の内容には関係なく、ただそのカードを、今のタイミングでタロット側が見せたかっただけかもしれません。

ただ、タロットと読み手側との間にラポール(関係性、親密性)がついていれば、タロット側もランダムに、あるいはタロットが見せたいカードをただ示すというより、相手(この場合は人のほうになります)の質問に対応したカードを見せてやろう、引かせてやろうという思惑になることもあるでしょう。

どちらも主体であると考えた時、やはり、タロットとの関係性・ラポールは結構重要ではないかと考えます。

さて、そうしたどちらも主体とした、双方向的なタロットとの関係性がある一方、私は新たに、その中間のような関係性もあるのではないかと思っています。

それはまた、後日、紹介することもあるでしょうが、ここで少しふれますと、タロットと人との間に現れる、中間的な感覚・エネルギーとでも言いましょうか。

言い換えれば、人の質問に答えるカードでもなく、タロットが見せたいと思うカードでもなく、その中間的な存在としてのカードの出方(出し方)があるというものです。

まあ、タロットに限らず、私たちは普段、自分という主体意識、自我意識を持って、それが当たり前になっていて気づきませんが、ふと視点をずらせば(主体を変えると)、多様な関係性とレベルによって、世界が成り立っていることに気づきます。

ある意味、様々な存在とレベルによる共同(協同)作業によっているわけです。

従って、自分の意識のズレというものは、新たな(異質な)世界への、文字通り移行であり、旅立ちということにもなるわけで、それが「愚者」の表すエネルギーと言ってもよいでしょう。

ただし、きちんとしたコントロールをしていないと、それこそ統合失調症のような状態にもなりかねませんので、簡単に考え過ぎるのも危険です。サイキック世界との境目に意識をずらしてしまえば、いわゆる憑依というもので、自分の主体性が失われます。

ですが、一方で、何かに行き詰まりや閉塞感をを覚えていたり、同様の問題が続いていたりする時は、意識・主体をずらすという行いは、いい意味でのブレイク、よいアイデアを得るきっかけにもなります。

タロットはそれを推進させる機能もあると考えられるのです。


タロットの勉強会に思う

ブログ、また少し間が空きました。

このように表向きはあまり活動していないように見えるかもしれませんが(まあ、実際あまり動いていませんが…苦笑)、内向き(タロット講座を受けた方など)には重要な勉強会・セミナーの企画、実施をしていまして、その準備や実行、終了後の動画編集をしておりました。

コロナ禍になって、リアルで人が会することが難しくなったため、昨年よりオンラインで勉強会とか小セミナーをやることが多くなったのですが、それはよいところもあり、今までは私の住む関西圏でリアルの勉強会を行うのがほとんどでしたが、オンラインだと場所の制約がありませんので、全国、たまには海外在住(海外の日本の受講生の方もおられるので)の方にも参加いただけるようになりました。

それで、今回の勉強会のテーマは「テンプル騎士団(神殿騎士団)」でした。

タロット講座では、マルセイユタロットに関係の深い歴史、組織・宗教などお伝えしていくのですが、その際にも「テンプル騎士団」については講義いたします。

しかし、講座では、タロットの象徴の解説やリーディングの講義などもありますから、説明はどうしても概要的なものになります(それでもそこそこ詳しいですが)。そこで、勉強会や特定テーマのセミナーを開くことによって、特に興味のある方には補強させていただいております。

「テンプル騎士団」はどういった組織で、なぜマルセイユタロットに関係すると想定できるのか?については、一言で言えば、小説で映画にもなった「ダ・ヴィンチ・コード」に書かれている内容に関連するからと言えます。

けれども、それだけではありませんし、「ダ・ヴィンチ・コード」でもふれられてない内容もあります。

そうしたものを、私も改めて調べ直して、まとめたものを今回、受講生用に講義させていただいたというものです。なかなかに衝撃的な話も含まれており、普通に生きていると、ほとんど知ることのないものが多いと思います。

ところで、こういったタロットとか、スピリチュアルとか、秘められたものに興味を持つ人は、例えばこの「テンプル騎士団」についても、裏側の話を知りたがります。というより、いきなり、そちらからアプローチしてしまう結果になってしまいます。

むしろ、表側で知られている話、歴史、史実(と一般的には見られていること)も知っておいたほうがよいのです。今回の私の開いた勉強会でも、それはあえて解説したところです。

でないと、裏ばかりに最初から興味と関心を強めてしまうと、コロナ禍で顕著になったように、人は陰謀論にはまりがちになってしまう危険性もあるからです。

物事の裏を知るには、反対に表を十分に知っておいてからでないとバランスが取れないばかりか、うがった見方ばかりになり、恣意的・感情的に、自分がその時信じたい方向に洗脳されてしまったりする(自らを洗脳してしまう)こともあるのです。

物事にはすべて二面性があると考えられます。そして、その二面性がさらに二面性を持ち…というように、無限に近いくらい二面性の連鎖が続きます。その違いがレベルとか信念とか、個性を生み出し、自らの思想・行動を規定していきます。

テンプル騎士団にも光と影があり、さらにその光にも影にも両面性が出ると推測されます。

よく言われるように、テンプル騎士団が、今のフリーソーンとかイルミナティのような秘密結社につながっているという人もいれば、それらとは断絶されていて、後世の者が無理矢理、中世のテンプル騎士団と結びつけているだけだという話もあります。

そもそも、さっきあげた秘密結社は親睦団体に過ぎず、そんな怪しいことなど何もないのだという一般向けの広告もあります。

それに、テンプル騎士団自体、別に何かを隠していたり、秘密の教義をしていたりしたわけではなく、修道士的騎士団で、十字軍とエルサレムへの巡礼者保護に寄与したばかりではなく、ヨーロッパの、特に経済的発展に貢献し、しかしお金の面でやり過ぎて、一般人、聖職者、さらにはフランス王を中心に嫌われて、廃止(異端認定)を画策されてしまった(だけ)という表の部分で見るところもあるわけです。

ですが、そういう表の歴史を丹念に分析、細部を調べて行くと、どうにも偶然ではない、意図的なものが明らかに出てきますし、結局、ヨーロッパ、あるいは当時の中東から北アフリカ、インドなどにかけてのものとのつながりも見えてくることになります。

すると、現代まで続く大きな流れと言いますか、あるでつながっているようなもの、まさに同じ音の「意図」さえ浮上してくるのです。

しかしながら、それもまた表あっての裏であり、逆に、裏あっての表でもあるのです。

単に歴史のロマンとか、謎に迫って面白いとか、そういう感じで見ていては、本当のところはなかなか見えてきません。

もちろん、最初はそういったレベルからの興味でもよく、陰謀論的なにおいからの入り口でも必ずしも悪くはないですが、そうであっても、いきなり全て信じるのではなく、情報として入れつつも、自己で分析し、判断していく公平的な姿勢を持つことが大切だと言えます。

タロットはまさに両面性を持つツールと言えます。使いようによっては、影や裏の歴史を信仰してしまい、それを自分の信念にし、さらにタロットを利用して、それを強化してしまう側面も出ます。

反対にタロットは、信仰ではなく、ギリシア風に言えば、ロゴスとパトスを統合するような見方を補助してくれるものにもなります。

「テンプル騎士団」を例にして、マルセイユタロットを学ぶ方には、上にあげた後者のような使い方や視点を養ってもらうべく、講義をしているところなのです。


心理的タロットの活用

タロットを自己活用するという使い道があります。

一般的には、タロットは占いの道具だと思われていますので、もっぱらタロット占いをして、他人のために何らかのアドバイスをするという活用方法が多いかと思います。

たとえ占いではなくても、他人に対してタロットリーディングをするという形式も、誰かのために行うということでは同じですよね。

これに対して、自分のためにするものがタロットの自己活用です。もちろん、自分への占いをしたり、リーディングしたりする方法も自己活用としてはあるわけですが。

タロットの自己活用の方法は、実はあまり知られていないですし、テキストとか本なども、そのテーマのものはほとんど見かけません。

また人間というものは、物質社会中心で生きていますので、実用的なものに価値を置く傾向もありますから、いわゆる(現世利益的な)願望実現へのツールとしてタロットを使う場合もあります。

まあ、経済的に豊かになりたいとか、よい人と巡り合っておつきあいしたいとか、そもそも幸福で運のいい人生を送りたいとか、バリバリの現世利益を求める人は、実際にはタロットを活用する方は少ないかもしれませんが、それでも、自分の人生を少しでもよくしたい、思いをかなえたいという目的でタロットを使うということはあるでしょう。

従って、現世利益を望まなくても、例えば、心理的に楽になりたいとか、穏やかに生きたいとかの意味でもいいわけですし、自己の成長に、自分を見つめ、整理し、統合していくための使い道も、タロットではあると考えられます。

一方で、その使い方の内容・種類ですが、大きく分けて、占い的、魔術的、心理的、さらに霊(魂)的な見方と技術によるものがあるように思います。

いろいろな意味で効果が高いのは、おそらく(西洋)魔法的なものですが、これはサイキック、心霊的な世界と関わることになるため、そういう世界を良く知り、コントロールできる師匠的な人物の指導のもとに行わないと、危険でもありますし、実際の効果も低いでしょう。

占いは現実の人生では実は活用度が高いものの、依存を発生させたり、狭い世界観の中に囚われてしまったり、悪いと決めつけた事象・エネルギーの反動を受けたりして、のちのちに厄介な状態をもたらすことがあります。

一方、霊的な活用というのは、具体策としてはわかりづらいので、一般的ではないと言えましょう。

ということで、一番安全で、結構、(タロットの自己活用で)効果的なのは、心理的なメソッド・方法ということになると思います。

特に、マルセイユタロットはユング派と関わりが深いので、マルセイユタロットを使って、ユングの言う、個性化とか、自己の統合を図るのに役立てられると考えます。

難しい言い方をしなくても、要するに、自分を知る道具にするということです。

実のところ、自分を知ろうと作業を続けて行くと、他人や世界をも知っていくとこになるのです。個人的なことと普遍的なことが結びつくとでもいいましょうか。

それに自分を知っていくと、自分を悩ますものに対して理由を知ることにもなって、人間、「わけがわかる」と、安心したり、物事のコントロールがしやすくなったりしますので、より自分らしい生き方ができるようになってきます。

自分らしい生き方とは、つまるところ、無理のない生き方ですので、まあ、楽になっていくという人もいるわけです。

しかも、タロットは違う分野とレベルを結びつけることができるので、時間と場所を超えたモノの見方、知識、感覚も入り、最終的には何らかの霊的覚醒とか気づきを導いていきます。

これは自分一人の時代(人生)で言いますと、終活、つまりは死へ向けた準備にも相当するのです。

心理的な意味でタロットを自己活用する場合、大アルカナを使うのがよく、大アルカナを素直に、知識のない状態の時から眺めて、起こる映像、言葉、感情などを記録していくのがいいでしょう。

そして、一枚一枚の細かな象徴の意味や背景、歴史などを知識部分として入れていくことで、論理的(ロゴス的)で普遍的な見方が呼び起こされ、それ以前の自動(受動)的、感覚的な見方のものと矛盾を起こしたり、逆に意味がよくつかめたりすることが起こります。

この知的な学びの段階がないと、単なるカードの印象だけでは、心理的にも活用が難しくなります。

こうして、学びの段階別に、何度も大アルカナと対話していくことで、自分の中に隠された様々なものを浮上させ、受け入れ、時に壊しつつ、再生、復活、再統合、創造していくことになります。

これは自己の拡大であり(また別の意味では収斂でもあります)、宗教的なたとえで言えば、天使や神(仏)との邂逅なのです。それは「審判」がもっともカードとして象徴しているかもしれません。

このような作業は、願望実現的(現世利益的)には役立たないかもしれませんが、自分の実際の人生も、心の広さとか整理の度合いによって決まってくるところがありますので、心理的タロットの自己活用は、現実的にも決して無駄ではないと思えます。


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