タロットの使い方
情報のふたつの種類
私たちは今、様々な情報にさらされています。
今は情報が多すぎて、選択に困るという時代かもしれません。
ところが、この情報の種類にも大きくわけて、ふたつのものがあります。
それは目に見える情報と目に見えない情報です。
現実(私たちが認識する世界)の情報と非現実的(通常認識できない世界の)情報と言い換えられるかもしれません。
ただ、私が思うに、後者の目に見えない情報というものは、まだそれを誰もが目に見えるような形でわかる技術やレベルに達していないだけだと思っています。
科学の進歩とは少し違うのですが、やはり技術的にも人々の認識力においても変化が訪れれば、やがて今、目に見えてない情報も、誰もが受け取れ、解読できるようになると考えています。
しかしながら、現在の「常識思考」ではまず否定されがちの「目に見えない情報」とも言えます。
それゆえ、そういった情報の類は、怪しい、信頼できないと普通はなります。
その一番の原因は、そういった情報のシステムが「わからない」ということにあるでしょう。
私自身は目に見えない情報(世界)にもきちんとした合理性やシステマチックな法則がある考えています。
ただし、それは私たちが普通思う「合理性」や「論理性」とは別種のものだということです。
たとえばゲームの世界では、現実の世界とは違うルールが適用され、それがゲームの世界では通用します。
「こういう方法で願い事をすれば、このレベルでかなう」ということが、ゲームの中では「実際に」起こります。それはそういうシステムの世界だからです。
しかし、現実では同じような方法で願い事しても、ゲームのようにかなうことはありません。それはこの世界もそういうシステム(ゲームのような方法で願ってもかなわない)になっているからです。
ただし、ゲームと違うのは、一見まったく違うシステムのように見えていて、実は同じルールとシステムも内包されており、その共通根のようなものがわかれば目に見える情報も目に見えない情報も、やはり情報としては同じであるということがわかってくるのです。
究極的には、私たちが創るゲームの世界でさえ、現実の世界と共通したものがあり、実は同じ世界の別表現であることにも気がついてきます。
とはいえ、目に見えない世界はなかなかわからないので、そういうものは信じない、無視しておくというのも、ある意味賢明な選択かもしれません。
自分がわからないものに信頼をおくよりも、自分がわかっている、見えているものを根拠とするほうが客観的・普遍的であり、他人への説得力もあるからです。
ただ、「現実に認識できる以外の情報がある」のだと自分の中での信頼性を獲得することができるのなら、より情報量も増えますし、通常のモノの見方と別の方面からアプローチすることができます。
それが膠着した状況を打開させたり、ブレイクさたせりすることはよくあることです。
いわゆるひらめきとか、インスピレーションとかいわれるものもこれに当たります。
この時あなたは、目に見えない世界の情報を受け取っていたのです。その受け取り方が現実世界の目に見える情報の場合とは異なっていただけです。
しかし、このケースでは受動的なものです。
では能動的に自分からアクセスする方法はあるのかということですが、それがひとつにはタロットを使うということになるのです。
絵と音楽の記憶
絵(絵画・写真)と音(音楽)は実に不思議なものと言えます。
ともに心に大きな影響を与えることができます。
それも、どこか忘れていたような、あるいは自分でも気がつかなかった感情、気持ちを思い起こさせる効果があるように思います。
まるで深層心理の記憶、あるいは潜在意識へのスイッチに関与しているかのようです。
たとえば、昔自分が聴いていた音楽を何かのことで久しぶりに聴いた時、その当時の記憶や光景、匂いまでもが再現されてきますよね。
言ってみれば時間を超えた再現性があるのです。
しかもそれだけではありません。
実際には時間が経過していますから、やはり今の自分の気持ちというものがあります。その今の気持ちとかつての自分の思いが交錯して、実に複雑な何とも言えない気分を醸し出すのです。
センチメンタルといえばそうかもしれませんが、単に郷愁というもので片付けられない何かがあります。
音楽ほどでないにしても、絵(写真)にも同じようような効果があります。
少し話はずれますが、人はセンチメンタルにひたる時、実は結構重要なことが起こっています。
音楽や写真、絵などで昔の記憶が呼び起こされた時、最初は印象的なシーンが浮かんでくるでしょう。
それで、さらにそのシーンを追い続けていると、ある時、ふと何でもないような光景・場面を意外にも自分が覚えていることに気がつくはずです。
たとえば友人と行った先で見た建物の影、窓、車の座席、家族と一緒に過ごした時の太陽が斜めに差し込む光線、学校の教室の廊下の輝き、水飲み場の蛇口、夏の逃げ水、林間学校でのキャンプファイヤーの炎の横のゆらめき・・・などなど。
それは記憶されているのですから、何気なくはあってもやはりインパクトを残しているものであり、何か意味があって残されているのではないかと考えられます。
私はこれは、天使(天上的な存在、通常を超えたもの)のいた瞬間の表現ではないかと思っています。
シンプルにいえば、大いなるもの・宇宙に私たちが生きている証であり、何でもないシーンと思える時にも、人智を超えたすばらしいもの、完全なるものがいつも私たちとともに存在しているのだという証拠だと感じます。
印象的なシーンは誰でも覚えています。
しかしそれと同時に、客観的に言えば「取るに足らないもの」と思えることが、それでも同時に記憶されているというのは、実は皆同じ価値があり、輝きはどんなものにも存在しているという現れだと考えられます。
逆にいえば、何かに価値をおけば、その周囲のものさえ輝くことになるのです。(マルセイユタロットの「世界」はこのことを、ひとつには表現しているとも言えます)
よって、過去だけではなく、これからもあなた自身が活き活きとすれば、あなたのその生きている時間と時代も輝くことになるのです。
話を戻しますが、音楽と同様に、絵にも記憶を再生させ、今の感情と合一させていく作用があると想像できます。
そのため、絵であるタロットに取り組むことは、かつての純粋な気持ち、封じ込めてしまった心を取り戻し、現在のあなたと融合させていくことができるということでもあります。
タロットは自己再発見と再統合としてのツールとしては非常に効果的なものなのです。
天体とのつながり
昨日は月食で満月の上に射手座に月が進行中だったので(私は太陽が射手座ですが、月と重要なアスペクトを形成していますので)、なにやら不思議な感覚にいました。
なかなか思考が働かず、まさに月のカードの中にさまよっていた感じでした。(おかげて逆に「月」のカードを一段と体感することになったり、感覚が先行するタイプの人のことが少しわかったりしました)
いつものタロットだけではなく、占星術の話もしているのは、秋からタロット占星術講座を始めるからではありません。(苦笑)
占星術講座を開講すると決めたことにより、再び星々を強く意識するようになりましたので、天体とのつながりや影響をこれまでより感じやすくなっているというのがあるのです。
このように意識を何かに向けると、たとえ自覚がなくても確実にその対象(人や物)とのつながりはできてくるのです。
ちなみに占星術では確かに実際の惑星や天体を対象にしますが、いわゆる物体としての星ではなく、天体自体を象徴として考え、さらにいえば神の表現やエネルギーとしても見ます。
月なら月、太陽なら太陽に象徴される奥底の何か、裏側の何かをとらえることに力を入れます。この「何か」は言葉で一言では言い表せないものです。
そうしていくうちに、天体の表している本質とつながってくので、影響を受けることもあれば影響を及ぼすということもにもなってきます。
「影響を及ぼす」というのは、天体に影響を及ぼすということではありません。天体はいわば宇宙のモデルであり、その宇宙は実は私たちの世界でもあり、私自身の内なるものでもあります。
従って、月に象徴されることに影響を及ぼすということは、私たち自身の月に表現される事柄に影響を及ぼすことと究極的には同じ意味になってきます。
ただそのためには天体の表す基本的な象徴の意味を、まずは知識として得なくてはなりません。
ただ感性だけではあなたの思っていることが、本来の天体の象徴ではなく、ほかの天体のエネルギーということもありえるのです。
そうすると秩序がとれなくなってきます。
天体は宇宙・神のモデルと考えますから、当然そこには整然とした秩序(私たちの通常考えている規則や法則とは異なります)があります。いわばハーモニー・調和です。
知識と整理、調和を前提とせず、ただ自由気ままに乱雑な思いや想像をするだけではただの妄想となります。
ここまで書いてきて、あまりタロットの話が出ていませんが、実はタロットも同じなのです。タロットの場合はカードが天体だと思えばよいでしょう。
そしてタロットと占星術は四大元素など、根底的なところでつながっています。タロットの絵柄の中にも数々の占星術の記号や考え方も出てきます。
ただ、根源は同じであっても、表現方法、見方は大きく異なるところもあります。人によっては好き嫌いや、向き不向きも出てきます。
とはいえ、根源が同じということは逆にいえば、根源、言ってみれば真理(秘められた教えの意味で)も同じであり、それにたどり着く、あるいは近づくための学習としては、両方あると心強いということにもなるでしょう。
占いの観点で見た場合、結果的に占いの技術として二種類(タロットと占星術)、同じ系統(西洋)で別々の得意分野のものを持つということなります。
二つのアイデア
「アイデア」は大別すると、創るアイデアと壊すアイデアがあると考えられます。
ほとんどの場合、アイデアと聞いてイメージするのは、新しい発想、これまでとは違った考えやプランということでしょうが、どうしてもそこには「生み出す」「付け加える」ということが浮かび、「創る」方のアイデアを想像しがちとなります。
それでウンウンうなりながら、何かを増やす、生み出すことに思いを巡らせ、「産みの苦しみ」を味わうことになります。
それはそれでいいのです。
新しいもの、洗練されたものを生み出すには、確かにそれなりの試行錯誤や苦しみはつきものだからです。しごかれ、磨かれてこそいいものができるのです。
しかし、先述したように、「アイデア」とは壊す、つまり捨てたり、離れたり、何もしないというような発想もあるのだということを覚えておくと楽になります。
このことは、数でいうと「3」と関係し、タロットカードではその数を持つカードと関連性があります。
端的にはもちろん「女帝」、そして「13」が挙げられます。(ほかにもありますが、これはローマ数字で表記をみないとわかりません)
「女帝」は「創る」アイデア、「13」は「壊す」アイデアと言えましょう。
ここでは「13」の「アイデア」が必要であり、そうした「アイデア」もあるのだと考えてみることを言っています。
この発想に立てば、無駄なものをなくすこと、合理化すること、やらないこと、さらには「壊す」そのものと言っていい「終わらす」ことというのもアイデアとして出てくるのです。
そこからまた「新しいものを創る」アイデアへと変換されていきます。
従って、この「13」の発想・アイデアとは、「今あるところで創る」ということにもつながってくるのです。
なぜなら「壊す」「終わらす」のですから、「新しいものを付け加える」というよりも、「今の状態を見直す」ことになるからです。
たとえばダイエットとしたいと思い立っても、新たにサプリメントを飲む、器具を購入する、ダイエット法を新しく学ぶという発想よりも、現状を見直し、今のあなたのアイデアと状況で改善していくことが求められているということでしょうか。
言い換えれば、「やること(こうすればダイエットにつながること)はわかっているけど、やっていないということに改めて気を向けましょう」ということになります。
ほかにも「あの技術や知識を学べば自分はよくなる」と思うよりも、現状の中からできること(現時点までの学び、身につけたものを活かす方法)を探すという発想に向かうこともできるでしょう。
このように創る(付け加える)アイデアばかりではなく、壊す(そぎ落とす)アイデアもあるのだと認識しておくことで、まさにアイデアの世界とつながりやすくなるのです。
それはいわば、「二つの翼を持つ」ということなります。
講座やセミナーの選択で。
学びシリーズではないですが、今日も学習の話です。
あなたは何か資格や技術などを身につけたいと思って、講座やセミナーに出たものの、思っているような内容ではなくて、投資を損した気分になったことがあるでしょうか。
内容はよかったものの、自分の求めるものとは違っていたという場合ならばまだいいのですが、内容自体、とても低レベルであった、ひどかった、ということだったなら、これは大損した気持ちでしょう。
逆にあまりに自分には難解で堅苦しく、自分には合わなかったという場合でも損した気分になります。
そしてまた自分に適した内容を提供している講座を探し、受講し直すかもしれません。
すると、結局いずれにしても金額的には余計にかかることになります。
お金の価値というものは、自分の満足度に関わっていますから、ある人が「あれはダメだった」と言っていたとしても、実際自分が受けてみると満足したということもありますし、その逆もあります。
特に心や精神世界系の講座は目に見えないことの解説になってきますから、そういうことは起こりがちです。
そしてこの記事でこれまで述べてきたことを考慮すると、「どのように講座を選択すればよいのか」がわかってきます。
まず自分がどのレベルの技術や内容を求めているのかを考えること。
さらに、それを仕事にするのか、趣味にするのか、自己実現や自己表現のツールとして使うのかという目的を明確にすること。
さらに精神世界や心理など、目に見えない部分を扱う分野の場合は、自分に合う(感覚・直感、人柄、考え方など主義主張なども含む)先生を選ぶということが大切になります。
特に最後のところは、お金(投資)の価値は人の思いで決まるということを書いたように、自分の満足度は感性や感情が支配していることが多いですから(カモワン版マルセイユタロットでは「正義」よりも「悪魔」が上に来ていることに注目)、教える人と教えられる人が合う・合わないという部分は重要になってきます。
もうひとつ、目的が「学んでいる技術で仕事にする」「自分の人生を質を高める」ということであるならば、それなりの投資は必要であり、教えている人もそれで生きている(生活している)人を選択したほうがよいでしょう。
教える内容の真剣度や真摯さにおいて、片手間にやっている人、生活がかかっていない人よりも大きく異なってくるからです。言葉の重み(言霊的なもの)も違ってきます。
結局、自分で「縁」を「選んでいる」ので、もちろん先生も重要ではありますが、最終的にはすべては自分にかかっていると言えます。
ですから「どういう自分にしたいか」「どういう人生にしていくのか」という自分の思いによって、自然にそれにふさわしい学びの場所に引き寄せられていくことになるのです。