タロットの使い方
タロット観、前提として理解するもの。
マルセイユタロットの中でも、日本ではカモワンタロットという名前で、フィリップ・カモワン氏とアレハンドロ・ホドロフスキー氏が共同で製作したタロットがあります。
私も、もともとはカモワンタロットから入った口ですし、一番よく使用しているカードも、いまもってそのホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット(通称カモワンタロット、現在入手困難)です。
カモワンタロット自体はひとつでも、製作者のお二人の考えはいろいろと異なるところがあるように思います。
ですから、厳密には、同じタロットを使っても、カモワン流とホドロフスキー流とがあり、さらには、カモワンタロットを使う方でも、この両者とはかけ離れた流儀や方法をもってされている人もいます。
しかしながら、それぞれの思想や技法を混同してしまっては、まさに混乱を来すばかりなのです。
それでも「違い」を知る人は実際には少ないですし、カモワン流はカモワンスクールが日本でもありますが、ホドロフスキー流の場合、正式なスクールのようなものは日本にはないと思われますので、ホドロフスキー流技術を日本で駆使されている方は見つけにくいと言えます。
また、技術の前に、思想や考え方、タロットに対する思いのようなものが各人あります。
そのタロットの技術を理解し、使いこなすためには、考え方を知る前提がいるわけです。でないと「仏作って魂入れず」ではありませんが、タロットも技術も活きないと思います。
まあ、そのことは、製作者の思いだけに関わらず、そもそも、あるタロットを活用していくのなら、そのタロットに流れる思想や歴史なども知っておいたほうが、はるかに「魂」が入り、使い方の質が違ってくると考えられます。
人間と同じで、ただの他人だと思っていた人も、その人の背景・内情を詳しく知れば他人事ではなくなり、特別な存在と見ることができるように、です。
一方で、あまり技法にこだわり過ぎるのも考えもので、結局のところ、大きな括りとして「マルセイユタロット」とすれば、自分の目的にかなうならば、誰のどの技術・考えを使ってもOKだという、柔軟な姿勢も大事かと思います。
とはいえ、まったくの無知では、柔軟性を出そうにも、そもそもがよくわからないので、いい(柔軟性ある)選択ができないと言えます。
ですから、やはり最低限の知識はつけておいたほうがいいですし、できれば、学びのうえでも、知識的な分野を多く身に着けたほうが、タロットの扱いに長けることになるでしょう。
言い換えれば、直感だけのタロット活用というものは、しょせん半分(一部だけ)のアプローチに過ぎないということです。(逆も言え、知識ばかりで直感性を無視するのも問題です)
さて、カモワンタロットの製作者のお二人、カモワン氏とホドロフスキー氏のタロットについて、カモワン流では「秘伝カモワン・タロット」という本と、ホドロフスキー流では「タロットの宇宙」という本が、日本で出版されています。(絶版や入手困難にはなっていますが)
残念ながら、本格的で大著である「タロットの宇宙」に比べて、ややライトで入門書的な「秘伝カモワン・タロット」とでは、質の違いが顕著です。(カモワン流が劣っていると言っているのではありません)
しかも、「秘伝カモワン・タロット」の本では、重要で肝心なことがあえて省かれており、説明がないとわからない部分も結構あります。それでも今や、古本でも、とても高額な扱いになっているようですね。
「秘伝カモワン・タロット」の最大の欠落だと私が思うのは、「タロットマンダラ」という、大アルカナのある構図、並べ方と説明がないところでしょう。もちろんこれは、ある理由で、わざとだと考えられます。(ちなみにカモワン氏のホームページには「タロットマンダラ」は掲載されています)
一方、ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」には、私自身「風車マンダラ」と名付けている(笑)、タロット78枚による立体的な構図が掲げられています。(スワスティカマンダラとも呼ばれます)
さらに、大アルカナにおいては、両端に「愚者」と「世界」を置き、11から20(「力」から「審判」)と1から10(「手品師」から「運命の輪」)の10枚ずつを、上下二段組にした図も載せられています。
大アルカナにおいて、カモワン氏は「愚者」を当事者・修行者(旅人)として置き、ほかの21枚のカードを、3段×7列に置く「タロットマンダラ(カモワン氏談)」を思想の中心にしています。
そしてホドロフスキー氏は、先述したように、10枚ずつ二段組(下段が11から20、上段が1から10)と「愚者」と「世界」を両端に置く図を示しています。
両者では明らかに、基本とする(大アルカナの)構造図が違うわけです。
もっとも、カモワン氏も、ホドロフスキー氏のような、10枚ずつの二段組を使いますが、これは一見同じように見えて、実はホドロフスキー氏のものとは異なり、10枚ずつの組の上下段が入れ替わっています。(ホドロフスキー氏にもカモワン氏にも、その並べ方には理由があってのことです)
言ってみれば、同じ世界や宇宙を見ていても、その人の見方・とらえ方・分け方があり、カモワン氏とホドロフスキー氏とでは、同じタロットを使っていても、そこは違っているのだということが明確にわかるわけです。
すなわち、その違いこそが、タロット観の違いです。
先にも言ったように、究極的にはマルセイユタロットの表す(象徴する)世界はひとつ(同じ)であっても、見る人・扱う人によって違いが出てくるのですから、私たちも、タロットの技術について、どのオーダー(階層・システム)やレベルで見ているかを知ることが重要なのです。
その区別がついていないと、自分の使っているタロットと技術を人に説明できないばかりか、どの技法がこの場合有効なのか(逆にあまり役に立たないか)を自らが理解できず、困ることになります。(最悪、無知のまま、間違った使い道をしてしまうこともあり得ます)
例えば、上記でふれた二人の「マンダラ」の違いでも、単純に見たとしても、カモワン氏が3段であり、ホドロフスキー氏が2段で、数の違いがみられるわけですから、その区分が同じであるはずがないとわかります。
なぜ3段なのか、なぜ2段なのか、どういう時に、どのような理解のもとで、この区分を用いて活かすべきなのか、なぜあなたはそのどちらかを使用しているのか、何の目的と理想あってのことなのか…こういうことがきちんとわかってやっている人ならばいいのですが、そんなことを考えたこともない、あるいは、タロットを教えてもらった先生からも説明されていないなどのことでは、あなたは形式的にそれを使っているだけと言えます。
私自身は、今は何流でもありませんが、それぞれの違いを説明することができますし、規則性と柔軟性の、一見矛盾したようなタロットの使い方が自分でできるよう、その理由とともに指導しております。
タロットは、ただ占いなどに使われるだけのものではありません。
むしろこれからの時代は、思索のツール、思考道具(しかし、ただの知識ではないもの)として、私たちに宇宙の構造や進化を高レベルで理解していくための「導き(気づき・啓発)の書」のように使っていくものとして提示されると考えられます。
まさに、学び、感じ、「考える(破壊と再生的な思考です)」ことが、とても重要なのです。
「占ったり、リーディングしたりする使うタロット」(それも継続されますが)から、「考える(通常の思考を超えて)ためのタロット」ということが、今後は期待されるように思います。
家族、人間関係、タロット、力
タロットカードの象徴性の力は、一般的な意味での「象徴」(抽象的のものを形や図などで表すとか、比喩的に見るとかの意味)とは別のものがあります。
それはまさしく、「力」と言っていいもので、マルセイユタロットの大アルカナにも、「力(フォース)」というカードで直接表されています。
余談ですが、フォースと聞けば、映画スターウォーズを知っている人ならば、その言葉は聞いたことがあるはずで、そこで描かれている“フォース”は、いわば、このタロットが示している「フォース」の映画的(エンターテイメント的)表現と言ってもよいと思います。
今回はフォースが何かについて語るのではなく、とりあえず、タロットには象徴的な何かの力が宿るみたいな話です。
マルセイユタロットの、中でも大アルカナと呼ばれている22枚のカードたちは、わかりやすい絵柄になっており、まさに象徴としての機能が明確です。
象徴機能としては、個人的にはほぼ万能であると見ていて、あらゆることをカードで表す(理解させる)ことができると考えています。
従って、マルセイユタロットを学習することは、とても物事の理解、把握、整理に役立つことは確実で、さらに言えば、普通のことだけではなく、いわゆる見えない領域(心とか霊的なこととか)にもそれは及びますので、何倍もの価値があります。
さて、私たちの悩みには、いろいろなものがありますが、その中でも人間関係というのが、大きな位置を占めています。
人間関係の悩みを解決するには、タロット的には「愚者」(自分軸の自由の象徴)になるのが一番なのですが、そうなれないから皆さん、悩むわけですよね。まあしかし、今日の本題とは、ずれますが、日本人の場合は、特に自分中心(自分自身を大切にする)考えと行動をもっと取ると、楽になって、人間関係的にも悩みが少なくなる気はします。
話を戻します。
人間関係の悩みの根本的な要因になっているもの、または原因のパターン(型)になっているもので、自分の家族があります。つまりは、自分が育ってきた家族環境や構成、その力学的なものの関係(による影響)です。
それが身の回りの社会の人々(関わる他人)にも投影されて、父や母、兄弟・姉妹のような感じ(対応)で、無意識に自分がふるまってしまうわけです。
それには単なる好き嫌いの感情のレベルもありますし、自分が意識(自覚)できていない部分での、様々な感情・思い・ルール・トラウマのような深いものもあります。
それらが、全部とは言いませんが、やはりひとつの反応パターンとして、対人関係に出てしまうわけです。
そして、知らず知らず、自らで自分の家族を再現し、かつてあった問題性や反対の心地よさを別の人にあてはめようとして、何らかの心理的調整を他の人間関係で図ってしまうということになります。それが問題として生じることもあるわけです。
そこで、タロットの、特に大アルカナを家族の象徴として見立て、関係性を客観視し、偏りや思い込みを浮上させて、カードの世界で修正してしまうことにより、家族から発生させていた、現実の対人的(人間関係)問題を変えていくことが期待できます。
ただ、これには、カードを学び、象徴を単なる思想的なものでなく、本当の力・フォースとして扱う必要が出てきます。
ファンタジー的な言い方をすれば、タロットカードと世界がつながって、カード自体、一種の世界(環境)操作のパネルとなるというイメージです。
周り(世界)のことをタロットにあてはめるのではなく、タロットのことを世界にあてはめる作業と言え、普通の見方(方向性)とは逆になります。
別の言い方をすれば、タロットの象徴世界をリアル空間の情報とリンクさせ、ほとんど同じ感覚にするということになります。
多分に魔術的でもありますが、比較的ライトな段階では、心理レベルで扱うことができ、そのレベルにおいては安全と言えます。(逆に魔術レベルまでにしてしまうと、それ相当のフォースの扱いの訓練がいり、サイキック的影響の懸念もあり、下手に介入するのは危険です)
こう書くと、まるで事象を変えるためにタロットを使うみたいな怖い印象・イメージも出ますが、それはその通りで、タロットと外の世界が同じ次元と情報レベルとして同調させることができると、おそらくそのタロットを扱う人は、かなりの度合いで、自分の望み通りに世界を変えていくことができるでしょう。
※ただ、実際の世界が変わるというより、あくまでその人の世界観が変わる(そのように感じ、見えてしまうようになる)と言ったほうがよいでしょう。とても主観的な世界の話なのです。
まあしかし、そこまでできる人は、先述したように、それなりの訓練、修行が必要ですし、そのような目的(利己的な願望実現)でタロットを使うものではないと私は考えます。
とはいえ、タロットが実際的な力としての象徴性があることを知ると、カードというのは絵空事ではなく、現実と世界に影響を及ぼすことができるものだとわかってくるでしょう。ただし、何度も言うようですが、その扱いには注意が必要ですし、技術的にも難しいところがあり、単にタロットをやっているだけで、そのようになるわけではありません。
ともあれ、家族関係について、カードで象徴させて、それを見直していくという作業が、一般的に自分の人間関係の修正や改善につながっていくという話です。
この反対の、まず人間関係そのものをタロットで見て(象徴させ)、自分の家族などの関係性・力学的なものに実際に入って行く(気づきを得て行く)という修正方法もあります。
これはむしろ、タロットリーディングとかタロットの活用のノーマルな方向性と言え、普通に多くの人(タロット使用者)がやっていることでしょう。
マルセイユタロットの研究家・実践家としても知られている、映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキー氏は、家族療法をタロットを使って施しており、それを実際に私も見たことがあります。
氏はまた、独特のサイコマジックという手法で、人の心理的・サイキック的な悩みや問題を癒していますが、それもある種の「力」としての象徴を行使しているのだと見ることができます。言ってみれば、魔術の原理と、とても似ています。
要するに、実際的な力として影響が出る「象徴」なのか、単なる文字とか思考においての比喩、言い換え道具のような「象徴」なのかの違いというわけです。
タロットの場合は、その両方で扱えるわけですが、特に「力」をもった象徴になるということでは、ほかのもの(ツール)とは大きく異なるわけです。
しかしながら、その力も、結局は、タロットというものを自分の中に落とし込む程度によりますし、つまるところ、タロットをどこまで信じるか(リアリティを持つか)にかかってきます。(妄信ではない信念です)
漫然とタロットをやっていてもダメですし、また占いばかりになって、「〇〇になる」というような、託宣を受ける受動的な態度が固まってしまうと、「力」との関係はできず、逆に世界の情報に自分が操られる(環境や他人側のフォースに屈する)ことになります。
選択と(霊的)自立
以前にも何度か書いておりますが、タロットへの質問は重要なことです。
しかし、矛盾するようですが、究極的には、質問はあまり意味をなしません。
ただ、それはあくまで他人向けのタロットリーディングにおいてのことです。タロットを自己活用の意味で使う場合は、質問はどのレベルにおいても大事になってくると考えられます。
一般的に、タロットに向かって質問(問いを)をする場合、「なになにはどうなりますか?」という形式を取ることが多いのではないでしょうか?
特に、「占い」としてタロットを使用する時は、そうなりがちです。それが悪いわけではありませんし、そのように聞きたい気持ちは、人として当然とも言えます。
なぜタロットに質問するのか?を考えてみれば、今起こっていることや、先行きが不安でわからないことがあるためと主に言えます。
すると、「このことはどうなるんだろう?」と未来目線で、人は質問をしたくなるわけです。これにはタロットからの情報を得て、不安をなしくたい、はっきりとした未来像を見たいという気持ちが含まれるでしょう。要は安心したいわけです。
しかし、これだと、タロットからの情報・示唆を得るだけで、受動的な態度となってしまいます。
あくまで不安を和らげ、少しでもほっとしたい、明るくなりたいということでは、先行きの情報を“占って”もよいかもしれませんが、情報をただ受け入れるだけでは、能動性の発動が起こりにくくなります。
ここて言う「能動性の発動」とは、自立に関した自らの(意思による)選択と行動を意味します。
先日のブログ再開(仮)の記事にも書いたように、「自我の確立」ということは、これからとても大切になってくることだと、私は考えております。それはマルセイユタロットが示す、自己の成長面をテーマにした見方からも言えることです。
それは、トータルな意味での自立ということ(テーマ)になるでしょう。
私たちの普通の人間としての成長から見ましても、赤ちゃんから子供、大人、老人へと移り変わって、途中で親から独立(自立)してくことになりますし、後半はむしろ、子供を育てたり、後進を育成するなど、保護、指導側にも回ります。(まあ、老後では逆に介護が必要になったり、人に助けてもらったりすることもあるかもしれませんが)
これと同様に、霊的な意味でも、私たちは自立を果たしていく必要があるものと考えられます。
「霊的な自立」というのは難しい言葉でもありますが、ひとつ言えるのは、受け取る側だけではなく、自らが創造し、選択し、その結果にも責任を持つというような態度があると思われます。
スピリチュアルな世界では、神や高次存在とつながるとか、神のパワーがあるところに行き、エネルギーをいただくとか、そういうことを言っている人も多いです。
ですが、これらの態度は、全部、受動的な発想から出ています。(一応、何らかの行動はあるので、すべてがそうであるというわけではないですが、発想・考え方のことを言っています)
これは、「外に神がいて、救ってもらう」(だからその神を信じ、神に適うルールを作り、きちんと守られているかを監視しなければならない)」という、宗教が支配のために使うものと似てくるようにもなってきます。(宗教が悪いと言っているのではなく、支配や依存構造になることが問題と言っています)
とは言え、霊的・精神的に未熟であったり、弱って助けを必要としたりしている場合が人には(段階・状況として)ありますから、別に受動的態度が悪いわけではありませんし、子供が親に保護してもらわないと生きられないように、私たちには、外からの(霊的・精神的な)救済・援助・補助が必要なケースはあります。
ですが、いつまでもそのような態度では、霊的・精神的自立ができなくなってしまいます。
外の神もまた過保護になり、場合によっては、悪魔的依存を生み出し、あまりよくないサイキック的存在を引き寄せてしまうこともあるでしょう。心理的には見えない存在を利用した共依存とも言えます。(見えない存在は自分で生み出していることもありますから、結局自作自演にもなりますが)
よって、最初の話に戻りますが、タロットに質問する場合でも、「どうなるか?」というようなものから(判断材料の一つとしてみるならば、そういう質問をしてもよいですが)なるべく離れ、「どうすればよいか?」とか、「どのような選択や解決方法が考えられるか?」「この状況で私ができることは何か?」というような形にするとよいと思われます。
そして、普段からも、「自分が選択する」「選ぶ・選べる」という意識を強く持ち、他人や大きな外部存在、洗脳的情報などと同化してしまわないよう注意することです。
マルセイユタロット的に言えば「力」のカードと関係し、力、フォルス(フォース)を他人に簡単に明け渡さないようにするということです。
どうにもならないとか、どうしようもないとか、無理だとか、(投げやりな意味で)自然に任すとかの受動的態度の日常的継続、あるいは、特段の意思なき態度を取り続けることは、たちまちのうちに、外の巨大なパワーに飲まれ、自分が自分でなくなって、ただのエネルギー発電装置として利用されることになります。
自分の選択権を意識しないと、大きな影響力を持つ人に、自分の持つパワーを提供してしまうことになるのです。
だから悪い意味でカリスマ性を持つ人は、どんどんエネルギー的に肥え太り(見ようによっては、その人はとても魅力的存在に映ります)、またそういう人は「もっと食べたい」という欲求も出るので、ますます自分の下に引き寄せようと、誘蛾灯のような餌をたくさん撒くことになります。
自らが自立的意思を持たないと、このような人の格好の餌食になります。これがマルセイユタロットの「悪魔」の、悪い意味での構造・仕組みです。
確かに、私たちには与えられているものも多く、それなしでは生活も世界も成り立ちません。ですが、それを生み出した者も、受け取る(利用する)者も、自己の創造性・能動性・選択性が働いているのです。
概念、あるいは観念として、外の神とか仏とか、天使とか、高次存在などを置くことは、時と場合によってはよいと思います。
さらに、それらとコンタクトしたり、守ってもらったり、示唆を与えてもらったりするのも、ある段階や、ひとつの(エンターティメント的)表現としてありでしょう。
しかし、真の自立のためには、少しずつ、そうした保護や依存から離れ、独立を目指していく必要があります。それは自分自身の神性を認識するというグノーシス的なことと一致します。
普段の行い、そしてタロットを使うことにあっても、受動的になり過ぎないように注意し、自己が選択できることを意識し、あくまで、そのための情報や判断材料として得るということにして、(どんな)結果においても(なっても)責任を持つ態度が大事になるでしょう。
ゲームやアニメーションではよく知られる言葉に「世界線」というのがありますが、これは自分の選択によって変わる多元世界の流れを意味します。つまりは、枝分かれするたくさんの世界(パラレルワールド)のことです。
無限の可能性とは言いませんが、少なくとも、かなりの数の選択肢による別の(結果の)世界が、瞬間瞬間にあると仮定します。
選択する瞬間の「今」は、本来ならば、何の枷もない自由な状態(無限のパラレルワールドがある)と言えますが、おそらく現実時空に生きる私たちには、過去・現在・未来の意識による縛り(因果関係とか、自己評価による限界・信じているルール・観念)があります。
そのため、世界線は無限ではなく、現意識による限界や壁のようなものはあるでしょう。
しかし、それでも、何の選択意識もなく、ただ流されるままに受動的に生きていると、他者や大きな集団的エネルギーにより、世界線は自動的に選択され、結果、あなたは自分の望む世界とは違う、まさに相手の思うつぼの世界に移行されられることになるわけです。
ですから、自分自身を取り戻すためにも、また霊的成長・自立のためにも、能動的・自己選択的態度を意識することなのです。
ただ、何事も、習慣化されてしまったものは、楽に、簡単には修正できません。マルセイユタロット「神の家」のレンガ積みのように、ひとつひとつ経験を積み重ねていくことが求められます。
「神の家」が出ましたが、ちなみに選択を意味するカードには、「恋人」もあります。マルセイユタロットでは、同じローマ数字で「6」の数を持っていることも必然的です。
ということで、タロットへの質問も、能動性・選択性が出るよう工夫してみましょうという話です。その意図は、トータルな自立に向けての作業(訓練)であるということなのです。
タロットによる分析あるいは俯瞰
タロットの大アルカナと小アルカナ。
このふたつの使い方には、様々な方法があります。
ところで、人は、困ったり、悩みや問題を抱えていたりすると、その解決策を模索します。
この時、分析的な解決の指向性と、俯瞰的あるいは直感的な解決指向性との方向があるように思います。
そして、大アルカナは統合的・直感的(直観でもあります)に使え、小アルカナは分析的な方向性に奏功します。(考えによっては、その逆の使い道もありますが)
小アルカナは4組に分かれているので、それを分析要素として見るわけです。
大アルカナは、全部で22枚ありますが、一枚一枚が、実は第五元素的なものと見ることができ、この第五元素というのが、小アルカナの4組(四大元素を象徴)の大元にになっている概念なのです。
従って、4組が統合されたもの(第五元素)として、大アルカナを考察することが可能になります。
悩みや問題は、要素別に分析したほうがはっきりと対処方法がわかったり、優先事項が判明したりすることもあるので、小アルカナを使って要素別(4組・四大元素別)に見るとよいわけです。
一方、細かな要素を見過ぎるがゆえに、大局的な見方ができず、かえって迷ってしまうこともあります。
「要するにこういうことなのね」「一言で表せばこうだ」「全体的には間違っていない」とか、そういう視点だと楽になる場合もありますし、どこに向かえばいいのか、ゴールのようなものから、今必要なことが逆算できるケースもあるでしょう。
分析的に見る場合、小アルカナを単純に使う方法があります。
ひとつご紹介すると、小アルカナの数カード(スート・数札)の一番(エース)を代表とし(特にマルセイユタロットは一番が絵になっているので、1の数札で代表するのに適しています)、剣・杯・杖・玉(ソード・カップ・ワンド・コイン)の4枚を取り出します。
ついで、大アルカナ22枚をシャッフルし、さきほどの小アルカナ・エース4組の位置に引いて、1枚ずつ置きます。(重ねてもいいですし、すぐ下に置いてもよいです)
正逆は取らない方がわかりやすいので、トランプシャッフルをして、カードを繰るとよいでしょう。
そうして、4組別に、出た大アルカナによって判断していきます。
ウェイト版のように、もともと数カードにも絵があるようなものだと、大アルカナと併用させる必要もないかもしれませんが、マルセイユ版は数カードは記号のようなものになっていますので、その意味を見るのには、大アルカナを併用させたほうがわかりやすいのです。
4組には、いろいろな解釈がありますが、こういうシンプルな分析に使う場合は、最初から単純な意味にしておくとよく、例えば、剣は学習・知識、杯は心・人間関係、杖は仕事・行動、玉はお金・経済みたいな感じです。
大アルカナを引くことで、4組の重要度もわかりますので、何を優先し、集中すればよいのかが明確になります。(4組の優先順位だけではなく、4組別のそれぞれにおいても、例えば「玉(お金)」では何が大事なのかということも、大アルカナの象徴性によってわかります)
これとは反対の、いろいろあり過ぎて(考え過ぎて)わけがわからなくなった人は、大アルカナを一枚から三枚程度、引けばよいでしょう。これも正逆はなしのほうがいいです。
そうして全体的にカードを眺め、意味というより、直感的に絵を見て、まさに“感じる”がごとく、あり方や大きな方向性を知るようにします。
もちろん、自分用だけではなく、タロットリーダーの人は、クライアントの悩みや状況に応じて、こうした分析的小アルカナの活用と、大局的大アルカナの活用を、相手に施していくことができます。
タロットはよくできていますので、様々な使い分けも可能なのです。
直感性 タロットの絵柄がどう見えるか
この前は、一枚など、少ない枚数のタロットを引いて、直感的に読むというお話をしました。
タロットは絵柄でできていますので、クライアントやタロットを見る側の人にとって、引いたタロットがどのように見えるのか、感じるのかということが重要なわけです。
読み手、タロットリーダー側は、それに解釈を加えたり、タロットの意味を、相手の情報と重ね合わせたりして、タロットの受けて側と共同で最善と思える答えや判断、指針を出していきます。
さて、そうなると、タロットをもともと勉強していた人とか、タロットリーダー自身が自分でタロットを見る時は別として、普通はタロット(の意味)を知らない人が、受け手側として、その絵柄を見るわけです。
すると、やはり、直感性をもって、絵柄のことを受け取ることになり、むしろ、そういう(直感)スタイルがノーマルでしょう。
一部のスピ系の人などでは、思考よりも直感・感性(で受けとったもの)のほうが正しいという人もいますが、実は、直感とか感性というのも怪しいところはあります。
むしろ知識とか思考ほうが普遍的であり、数学の答えのように、共通の正しさということを現実レベルで引き出しやすい性質があります。
直感も、次元の高いレベルまで引き上げられていると、それは通常の思考や知識を超えて、特殊な言い方をすれば「神の領域」に入るため、その正しさレベルもぐっと上がります。
しかし、低次の直感とでもいうべきもの、言い換えれば、個人の(囚われの)枠、フィルターを通した感性では、好き嫌いレベルにも等しいことがあり、それはファンタジー(自分の思う心地よい幻想)での選択になっている場合も多々あります。
ですから、感性とか、自分のありのまま(本来の自分が望むこと)に従うという判断にも間違い(というより幻想)が潜んでいて、危険でもあるわけです。(「本来の自分」と信じる存在が、幻想であれば元も子もないですから)
つまりは、自分の中にエゴや欲求、さらにはいろいろと植え付けられた観念とか思い込み、そして肉体的・精神的・心霊(サイキック)的障害(病気・不健康・疲労・ストレス・ブロック・アンバランス・憑依など)も個人個人にはあって、それらが感性・直感に影響を及ぼしていることは普通にあるのです。(影響のない人はいないくらいです)
そのため、より浄化した状態で、直感的チャンネルの感度を上げておいたほうが精度もよくなり、判断の正しさも増すと考えられます。
アンテナを磨くという表現にもなるでしょうが、アンテナばかりを磨いていてもダメで、そのアンテナのある土台そのものもクリアで堅固にしておかないといけないわけです。
こうしてはじめて、直感は通常の思考を超えたものをもたらすと言えましょう。
ただ、女性の場合は、もともとアンテナの伸びが長く、土台をしっかりすることと、長い分だけ磨く意識が復活(これらは、愛と学びによる自他の受容と表現してもよいです)すれば、巫女化して、宗教的表現で言えば、神や天使とつながりやすくなると思われます。
つまりは、男性より、直感は開きやすい、調整しやすい(その気になれば、さび付いていたアンテナの修理も早い)というわけです。
男性は逆に、比喩的に言えば、アンテナが短く、知識と思考の土台(塔)を積み上げ、(神の怒りにふれないようにして(変なプライドや驕りに毒されないこと))、バベルの塔を築いて行く必要があります。
ともあれ、直感の性別的な違いはあるとはいえ、そして、誰しもに、個人的な曇りや囚われが直感にはありますが、それがかえって、タロットを活用する要素にもなるのです。
まさに反転的活用です。
直感に歪みがあるのが普通ならば、タロットの絵柄を見て、どう見えるか? どう感じるか? ということそのものが、その人個人の(ある意味認知的)歪みを表していると見ることも可能になります。
では、歪みであるかどうかを、どう判断するのかですが、それが読み手側のタロット(の象徴)への知識となります。知識は普遍的なものであることは先述した通りです。
ユング的に言えば、人類の元型を象徴するのがタロットカードたち(特に大アルカナ)です。
例えば、「皇帝」は一般的な意味合いでは、人物像としては父親や夫、実際的でリーダーシップのあるような男性的人物像です。
それなのに、あるクライアントが「皇帝」のカードを見た時、「弱弱しい」とか「怖い」とか、「悲しそう」とか、「軽薄に見える」とか、「女性的に感じる」とか、さらには女性から見て「恋人」に感じた、見えたとかいう場合は、元型像から逸脱したり、その元型像で表される人物に、何らかのトラウマ・囚われ・投影等があるように見受けられるわけです。つまりは歪みです。
そうした、受け手側で明らかになった歪みのイメージを、読み手側のほうは、タロットの共通で普遍的な象徴により浄化し、癒し、中立性(個人から全体性への物語)に変容させることができ、それはすなわち、解放であり、個人の救済となるのです。
大アルカナの中でも、特に「救済」を意味するカードに「節制」がありますが、「節制」の絵柄では、天使が壺の水を交互に混ぜ合わせている図像になっています。
ふたつの壺は、言わば、クライアントとタロットリーダーであり、両者によって調整され、救いがもたらされるようになっているのです。(深くには、読み手側もクライアントとの人類的共通因子によって、タロットを使うことで浄化されて行きます)
これはタロットの心理的活用テクニックではありますが、マルセイユタロットとしての構造・象徴体系を理解していないと、有効には働きかけられません。(知識が必要であることの意味)
いずれにしても、タロットの絵柄がどう見えるのか、どう感じられるのかは、非常に重要なことなのです。
