タロットの使い方
カード人物で表現される型
自分は何者なのか?
これは人にとって永遠のテーマと言えるかもしれません。
「いやいや、何者とか、そんなことを考えるまでもなく、私は私じゃないですか」と簡単に言う人もいるでしょう。確かにその(今の)あなたはあなたで、ほかの誰でもないですよね。
ただ、自分というものに対して、哲学的にしろ、霊的にしろ、深く考察して行けばいくほど、自分はいったい何者なのか?ということがわからなくなってきます。
人格やパーソナリティ(性格などの傾向)として見ても、自分の自覚しているものと、他人から見た自分とでは違っている場合もありますし、家でいる時の自分と外で仕事をしている時の自分とでは、かなり異なるという人もいます。
一日のうちでも、穏やかなる自分と激情にかられる自分という、相反する自分が登場することもあるかもしれません。
多重人格のような(障害やコントロール不可のような)ものではないものの、誰しも、どうも自分というものはひとつの性格、キャラではないと感じるのではないでしょうか。
いわば多数の人格が(一時的に)統合されて、その時その時で振り分けされながら生きているのが人間なのでしょう。
とは言え、いくつもの人格が一人の人間の内にはあっても、代表的な人格とか、自分が表現しやすい人格というものがあると想像できます。
心理学者ユングによれば、人には集合意識として共通の型・パターンのようなものがあるとし、それを元型(アーキタイプ)と呼びましたが、ユングによって分類される12の人格元型パターンというものがあります。
それらを見ていると、マルセイユタロットの大アルカナに描かれている人物像と似ているところがあると思えます。まあ、ユングはマルセイユタロットを研究していたので、似ていても不思議はないのですが。
ということで、タロットでも人格の元型的なものは表せるとも考えられます。ただタロットの場合、全体では78枚あり、先述した大アルカナだけでも22枚で、ユングの12パターンを大幅に上回ります。
そこで、もっと削ぎ落としていくと、例えば、タロットでは大アルカナでも、人物ではない絵柄もありますので、それらを除いたり、複数以上の人物が目立つカードを省いたりしていくと、14~15枚程度に収めることは可能です。
あるいは、たとえ、人物ではない絵柄のカードであっても、人格化(人間のように)するなどして、さらにもともと人物が描かれているカードたちを含めて、一種のグループ分けをしていくと、これもまた限られた枚数(というよりグループとかペア・セット)にしていくことができるでしょう。
また、技法自体、ちょっと問題がないわけではないのですが、いわゆるソウルカードという数秘的な技術とタロットを合わせた手法で、9枚の元型的なカードを見出すこともできます。
いずれにしても、タロットに描かれる人物とカードによって、自分が何か特別な感情とか、シンパシー、つながりを抱くようなものには、自分の奥底に流れるタイプとの相性・特性が隠されている可能性があると考えられます。
それはもとは集合意識的なものから来ていると言え、必ずしも自分という個性そのものとは別なのですが、しかし、そういうパターン・あり方をデータとしてダウンロードしているかもしれませんし、ダウンロードしているということは、自分の個性の表現に何らかの形で関係している型であると言えます。
輪廻転生やカルマの概念を導入すると、そうした型の生き方を何度も繰り返してきたり、友人や家族、パートナー、グループなど、自分の過去生(あるいは未来生)で特に関係してきた(相手の)型だったりするかもしれないのです。
カードの意味と描かれている人物像を素直に見て、一枚だけではなく、数枚カードを選んでみると、自分の個性的な型・パターン、好む表現方法とか生き方というのが見えてくるかもしれません。
たいていは、それを今生でも示しているはずですし、そうではない人は、逆に違う型を演じてみたいと、今生では別の型を選択しているものの、やはり気になるということもあるでしょう。
例えば、私自身の例で言えば、おそらく「隠者」とか「法皇」とかと関係が深く、つまりは教師的な生き方の型が刻まれているように思います。
それはタロットの講師をしているからというだけではなく、昔から(小学生くらいから)、何か知っていることを教えたいという思いがよくあったからです。
一方で、先生的なキャラとは別の無邪気な型や戦士的な型も気になるところがあります。カードでいえば、「愚者」とか「戦車」でしょうか。「悪魔」や「13」も時にシンパシーを感じる(笑)ので、何か悪とか黒い部分と関係する時代もあったような気がします。
自分で感じにくい人は、タロットに聴いてみる(シャッフルして出してみる)のもよいかもしれません。
宮廷カードでは現実的で短期的なレベルでの人物像の型を示すことが多いですが、大アルカナ場合は、いろいろなもの(レベル)を含みますので、魂的な表現の意味もあり得ると思います。
どんな生き方をすればいいのか、あるいは、自分は何者なのか?と悩む時、カードの人物像にある型・パータンを象徴として汲み取り、今ある人生で、その生き方とか型の表現ができるものを選択すると、自分らしく生きられたり、何か充実感を覚えたりするかもしれません。
マルセイユタロットとバランス性
マルセイユタロットの面白いところは、感性・心情的なものと思考・論理的なものとの両方が体験できるからなんですよね。
ですから、たぶん男性(あるいは女性でも思考をよくする人、感じるより考えることを先にしがちな人)にもお勧めできるのです。
で、やはりタロットなので、直感とかインスピレーションなど感性の世界とも通じるところがあります。タロットが女性に人気なのは言うまでもないところです。(男性でも女性的な感覚が多い人、考えるより感じるほうが大事になる人も)
私はと言えば、あれこれ調べたり、考えたりすることが好きなので、それら思考を整理してくれるものとして、マルセイユタロットは大変貴重なのです。
同時に、その絵柄と象徴から、心や感覚といったもの、つまりは見えない領域、あるいは潜在的なものまで(普段思考や常識ではとらえられないもの)浮上してくるので、すばらしいわけです。
そう思うと、本当にマルセイユタロットはバランス的にもよくできています。
ところで、私はそのマルセイユタロットを教えている男性講師ですが、受講者・生徒さんたちの多くは女性で、私はなるほど、タロットにおいては先生ではあっても、実は、皆さんから感性を刺激されている、もっと言うと学ばせてもらっている立場とも言えます。(実際に生徒さんに助けられることはよく経験しています)
その逆も言え、男性の論理性を女性側が刺激を受けている、学んでいるとも言えます。
では教える者、教えられる者は性が違わないといけないのかと思うかもしれませんが、そういうことではありません。ここで言っている性別は、見た目とか、一般的に言われる肉体的性別ではなく、本質的なまさに性質というべきもので、それを人間に例えているに過ぎません。もちろん人間の性別自体、それ(本質的な性質)と無関係では当然ありませんが。
ですから、女性同士、男性同士であっても、教え・教えられる関係性では、能動と受容のように、その立場そのものが性を表すとも言え、自分が男とか女とかは関係なくなります。
何が言いたいのかと言えば、結局はバランス性のことです。
私たちは、何かひとつの方向性や性質にこだわることもあって、それが究極への近道のように思われることもありますが、やはり、反対側の性質、真逆ともいえるものの(言い換えれば様々な)体験があって初めて、真の向上があるのだと考えられます。
まあ、やり過ぎたら力を抜くことも重要ですし、抜き過ぎたら集中したほうがよいこともあります。学びを受ける側だけ、受容するだけでは成長は為せず、自分から行動を起こしたり、思いを述べたりすることもバランス性です。
好きなことだけで成長し、幸せになるように思う人もいるかもしれませんが、おそらく、それだけやっていても、別の体験を促すよう、何かの問題が出てくるはずです。
仮に一時的に満足している状況にあっても、そのレベルどまりで、環境が変化したり、今までとは異なる状況に押し込まれたりすると、必ず何か問題として浮上し(問題性が自覚される)、自分自身の向上(レベルアップ)を目指さなくてはならなくなります。
人間における問題性は、マルセイユタロットで言いますと、小アルカナの次元で生じることが多く、剣・杯・杖・玉みたいな分野ごと、人によって個性的に生じます。
例えば、具体的に言えば、お金の問題、健康や精神の問題、家族やパートナー、人間関係の問題、仕事の問題などとなって現れるわけです。
それらはマルセイユタロットの大アルカナ的な見方によって、バランスを取ることが求められ、そうすることで、成長が図られ、問題を問題として感じないレベルに達するか、問題自体の解決(策)が見つけられるかにより、自身は変容します。
その際、バランス性を取るわけですから、逆のことや、今まで気づかなかったことに気づいたり、採り入れたり、反対に削ぎ落したりしていく過程が生じます。
そういう意味では、極端に言えば、堕落であっても成長の一過程と言え、自分の状態は、大きな視点から言えば、すべて受け入れること(どんな自分でも自分として認めるみたいな感覚)もできると思います。(なかなか実際には難しいですが、そういう気持ちになれる視点というものがあるということ)
二元とよく言われるように、ふたつの性質とか運動、エネルギーは、見方の違いによっては入れ替え可能にもなりますので、バランスということでは、ひとつのことに、常に反転した見方や考え方を同時にもっておくことが重要かと思います。
言い方で例えれば、していると思ったらされている、動いていると思ったら停止しているみたいな禅問答のような表現ですが、どちらでもなく、どちらでもある領域に新しい次元があると言えます。
願望はたくさんあり、移ろうもの
タロットを学んでいる人では、大アルカナと小アルカナの意味と言いますか、レベルのようなものが違うことはご存じだと思います。
もっとも、同じ階層で両者を扱うこともできるので、一概に大と小で異なるとは言えませんが。
それで、まあこれもひとつの考え方に過ぎませんが、私の中では、マルセイユタロットにおいては、大アルカナそれ自体、そして小アルカナそれ自体にも階層やレベルがあると見ています。(正確にはそういう見方ができるということです)
それらを考察していますと、まるで人間の中にもそのような(異なる)階層・レベルがあることがわかってきます。
そうすると、人の願いや思いというのも多層だとみなすことができます。この考えに立てば、あなたの今の願望とか欲求、さらには尊いと思っている気持ちでさえも、実はたくさんあるの中のひとつに過ぎないということも言えるのです。
さらに、人間には一生がありますから、自分の年齢や世代によっても思いは移り変わります。それくらい、自分の思いというものはひとつではないですし、移ろいやすいものなのです。
そして、人は自分の思いや願いに対して、それが叶ったり、満足したりすることを望みます。まさに「願望」という文字のごとしです。すると、その願望を満たす答えや方法というものを探し、よい結果を求めます。逆に言えば、結果とか答え(への評価)というのも、自分の抱く願望によるということになります。
何が言いたのかと言えば、現実に対して抱く思いも、自分の願望によるところが大きいということと、その願望は永遠に変わらないものではなく、むしろ移ろいやすいもので、しかもたくさんの思いの中の少数であるということなのです。
現実が願望によるところが大きいのなら、あなたの今の現実(への評価)は今の願望によってできていると言ってもいいのです。
ですから、生きづらさを抱えている人は、願望や思いの種類とか性質を変えてみると、少しはましになるのではないかと思うのです。それは、マルセイユタロットに描かれている階層やレベルで整理していくと、さらにはっきりするのです。
自分の今の思いは、どの種類でどのレベルのものか、それがわかりやすくなれば、願望を叶えようとする行動も取りやすくなりますし、また、それ(その願望)は、本当は今は必要ないなという気づきが得られれば、願望を満たされる・満たされないの葛藤からも解放されますので、すっきりするというわけです。
今のこの世の中は、経済中心主義みたいになっていますので、売り買いを促すというものが行動や心理の原理原則として働いていることがあります。すると、私たちは「買いたい」「持ちたい」という願望を無理にもたされている部分もあると言えましょう。
要するに、洗脳的に他者から刺激を受けて願望をもたされているということが多いのです。自分の願望だけでもいろいろとあるのに、他者からの押し付けられた(生み出された)願望も増えれば、それらを満たすためには、大変なエネルギーがいることは誰にでもわかるでしょう。そりゃ、心も体も消耗するはずなのです。(笑)
マルセイユタロットの「13」のように、シンプルに願望をそぎ落とすことも、人生を乗りこなすのには必要なことかもしれません。
時代に見る「節制」と「悪魔」以降
全部がそうとは言えませんが、マルセイユタロットの、特に大アルカナは、いろいろな進化・発展を示唆していると考えられるところがあります。
それも、このブログでも何度か述べているように、大アルカナの数順に成長していく仕組みが図示されていると考えられるものです。
タロットにおける数(カードに付与されている数)は、ただの“番号”ではありません。
数そのものに象徴性があり、言わば、カードの中の絵柄と同じような性質なのです。
しかし、番号と呼び習わすこともでき、それは順序の意味を持つことでもあります。それが大アルカナの数の特徴のひとつとも言えましょう。
ところで、前にも書きましたが、私は時代の進化と大アルカナの数の進みとはリンクしているという説を取っています。
そこからすると、「節制」へ向けた時代へと変化(シフト)していることになるのですが、「節制」の次の数を持つカードは「悪魔」で、もっと進むと、「神の家」「星」「月」「太陽」「審判」「世界」まで続いていきます。
私の考えているタロット大アルカナ時代進化説は、単純なものではなく、「節制」への時代シフトというのは、大きな意味(括り)でのことで、さらに細かく言えば、「戦車」までの進みや、「節制」自体に注目することで、その前の「13」とか、次の「悪魔」以降の関連性も出てくるものとして見ます。
そうすると、「節制」前後の「13」と「悪魔」は、時代進化のために、かなり重要なカードになると考えられます。
「13」については、また別に言及することもあるかもしれませんが、今日は「悪魔」とその次の「神の家」との関連について、少し述べたいと思います。
時代の進化や交替については、タロットのみならず、例えば、西洋占星術でもそれらについて示唆しています。
今ではよく知られている「風の時代」とか「水瓶座の時代」(それぞれの区分けは違いますが)というのも、それになりますね。
タロットよりも、むしろ占星術のほうが、特に長期的な時代の変化を見るにはよい部分もあり、一般的にはタロットと時代関係はあまり言及されないようです。
ともあれ、ここで言いたかったのは、占星術で指摘されている「風の時代」、または別の分け方ではありますが「水瓶座の時代」というものの特徴を見ていくと、マルセイユタロットの「節制」的な意味合い(その名の節制的なというより、共有・助け合い、情報の交換などの面)が見てとれるということです。
ほかにも風の時代的区分からすると、「節制」以降のカードたちにリンクするような意味を見出すことができます。
ですから、やはりマルセイユタロットで言うと、「節制」以降のカードに、これからの時代の進化を見ることができるわけです。
すでに今現在も、インターネットの普及と日常使いによって、情報ネットワーク、交換、シェア、発信は爆発的・飛躍的な拡大を遂げています。
しかし、そうした、言わば、情報の雨の中にいながら、まるで特定の傘の中で待機しているかのように、同じ考えや気持ち、思想をもっている者同士が集まり、そのグループのようなものの中で肯定的な情報のみ回し合うというような事態になってきています。
グループにおいて肯定的というのは、グループの者たちが違和感を持ったり、否定されたりするような情報は入れない、拒否するということになり、もっと言うと、信じたいことしか信じないような状態が強固になっていくわけです。
今の人たちは、情報や交流の機会は昔よりはるかに巨大でたくさんのものを持つことができるわけですが、情報の取捨選択もより自由になり、結局のところ、多くの人が、自分の好みによって、偏った情報だけを入れる、実質的にはとても狭い世界(閉鎖的な中)にいる状況となっています。
直接会うということも、コロナ禍でますます減少し、ネットを通して、仮想的に知っている、文章や声だけ知っている、動画では見たことがある・・・という、およそ交流とは言い難いレベルのものが増加しています。
つまるところ、各々が、ほとんど本質的にも、自分一人の世界状態になっていると言っても過言ではないかもしれません。
ただ、それでは寂しいので、同調できる人たちとはつながろうとし、その結果として、グループ化・サロン化することがたくさん起きています。
もちろん、ネット前の時代でも、グループとかサロンはあるにはありましたが、今のようのものではなく、もっとメンバーのつながりがリアルであったと思います。まあ、その分、泥臭さ、人間臭さも多かったかもしれません。
しかし、今のグループ・サロンは、ネットを通してできあがるもので、入退会も比較的緩やかであり、またリアルでの交流は少ないですから、本当のところで、メンバー間のことは知らなかったり、人間性が希薄な関係になっていたりすることもあるでしょう。
そして、リアルの集団とは違って、嫌な人とか、異なる意見を面と向かって言い合うみたいなこともあまりなく、あっても、ネットなので機械(間に何かを挟む)を通してのものとなりますので、本音と言いますか、トータルに情報が伝わりにくい(リアルで向かい合う総合情報が欠如されている)ことになってます。
そのため、人間同士の線引きがあいまいになり、かなり踏み込んでくる不躾な人、非常識な人、逆に機械やロボットのように感情を見せずにあっさりと関わる人(得体のしれない状態の人)など、奇妙な人間関係も生まれやすくなります。
また、ネット社会では、結局、自分一人の世界(自分の気持ちが中心)に行きつくと言えますので、言わば、一人一人が分離されている状態と言え、そのため、誰か強烈な個性とかカリスマ性を持っている人物が作るグループには、簡単に洗脳されて属するようなことになってしまいます。
そうすると、リアルの時の集団において、それに一番近いものとしては、新興宗教の集団・グループのようなものになってくる場合があるのです。
ネット社会の台頭によって、いろいろな情報が流れ、共有され、発信もしやすくなって、かつてリアル社会にあった障壁がなくなってきたのも事実ですが、反面、(新興)宗教サロン化という事態も進んできているということなのです。
それがまさに、「節制」から「悪魔」という、マルセイユタロットでの象徴性に合致しているわけです。
やはり、自分の好み、感性の指向性だけで情報を入れてしまう、選んでしまうということが問題であると思います。
ネットでは、情報は多くても、事実というものが逆にぼかされ、デマ・フェイク・偽物(者)であっても、簡単に一気に情報として流布してしまう危険性があります。
いつかは、出所とか情報の確かさを判定させる仕組みも整ってくるとは思いますが、今はまだ過渡期で、まさに有象無象の情報世界の中に放り出されている状態で、結局、人は、自分の気持ち、感情、欲求で選ぼうとしているのだと言えます。
今後、「悪魔」から「神の家」という、タロットの進みを考えますと、ここに大きな仕組み、きちんとした選別ができるシステムや知性の構築が求められるとも言えます。(外だけではなく内からも)
神道的にいえば、魔を神と誤認するのではなく、審神者(さにわ)を通して、きちんと神を認識しなくてはならないということです
これから、ビジネスも趣味も、ますますサロン化・グループ化が進むと思われますが、健全な理性的精神、中立・バランス性、さらには霊性をもっておかないと、まがい物に囲われ、魅力ある言葉、モノ(お金)、見せかけの関係などによって、自分が悪魔の虜となってしまい(「悪魔」のカードのひもでつながれた人物)、成長していると幻想の中で思わされて、その実、停滞、傷のなめ合い、カルト的耽美、思想の先鋭化、搾取の犠牲、端的に言えば奴隷になってしまっていることもあり得ます。
さらに、自分がつながれる側になるだけではなく、世の中に簡単に発信できることで、承認してもらたい欲求の自我が肥大し、悪魔としてつなげていく側に変化(へんげ)してしまうことも考えられます。
まあしかし、これには、深い意味でいうと、本当の意味で独立して共有し合える状態に進化するための過程であるとも考えられます。
やがて「神の家」のあと、「星」「月」と進み、「太陽」という、真(高度)の統合社会へと発展していくことと想像します。(勝手に進むというのではなく、タロットで言えば、ほかのカードで象徴されることがクリアーになってくる必要性もあります)
いずれにしても、日本で言えば、昭和時代までのような、組織とか会社とかで守られ競争し、それ単位で評価・認識し合うような時代は過ぎ、一人一人の個性が強まり、同時に、情報と移動の自由性・選択制も増して、シェア・共有度も上がっていくのは間違いないことですが、一方で、「悪魔」の象徴性(欲望・感情によって集まるサロン・グループ化)も強まってくるということです。
それぞれのグループ・サロンがセクト化したり、カルト化してくると、小国のようなものがバラバラに存在し合うことによって、ネットでせっかくつながりやすくなったのに、実体は分離が激しい世界になっていることも考えられます。
したいようにする、やりたいことをやる、自分を出すという流れは、時代的にもそうなってきたわけですが、今度は、それを大いなる意味で律すると言いますか、整えていく過程が、やがてやってくると思います。
それはこれまでの現実のしがらみで制限していたルールとか束縛とは違う、高度な次元のルールと言えます。
一言で表せば、霊性に基づくものと言えましょう。そのレベルが低い形では、道徳とかと言われていたものです。(ただそれでは束縛と変わらないところもありました)
やはり、マルセイユタロット的には、「神の家」ということが鍵になるように思います。
まだ自分を苦しめている人、個性を押し殺している人、他人の期待する人生を無理やりに生きている人は、まずは自分の個(自我部分の自分らしさ)を発揮する(取り戻す)ようにするとよいです。ただ、その過程で、「悪魔」につなげられないように注意してください。
そして、自分自身が出るようになってくれば、見えてくるのが自他の霊性の向上という目標になってくるでしょう。言い換えれば、自我の自身ではなく、自己の自神、「神の家」に向かうことでもあります。
その時は、後戻りするようですが、「節制」もまた深い意味を持ってきます。
マルセイユタロットは、このように、いろいろな意味で指針・航海図となるものなのです。
日常と非日常、そして違和感
前の記事では、マルセイユタロットのリーディングにおいて、細かな象徴図を拾い上げていくと、客観的な視点ができて、カード解釈の共通的理解や根拠として役立つことを述べました。
この時は、シンボルの共通性を発見することが鍵なわけでしたが、逆に、異質性を見ることも重要であることにふれました。
つまりは、展開の中で、明らかに目立つ何らかのことは、タロットからのメッセージ性が強いと見るわけです。
このことは、実は、タロットリーディングだけではなく、普段の生活、私たちの人生においても言えることかもしれません。
私たちの意識は、毎日繰り返される日常的な意識・通常的感覚と、特別な日とか、気合が入る時など、何か普段とは違う非日常的な意識になる瞬間(長く続く時もあります)があります。
非日常性は、文字通り、日常にあらずということで、民俗学的には、ハレ(非日常・特別)とケ(日常・普段)という区別がなされます。
ちなみにケの状態が続くとケガレとなり、そこにエネルギーを入れてケに戻す必要があるため、ハレの日があると言われます。いわば、ケ→ケガレ→ハレ→ケという循環・サイクルになっているわけです。
農耕生活を主体としていたかつての日本人は、農作業の普段生活の中で、季節の折々にふれて、稲作や畑作の重要な時期に祭り(祭祀)・儀式を行うことで、ハレの日を作り出していました。まあ、意識していたというより、習慣化していたと言ったほうがいいかもしれません。
しかし、私たち現代人の生活は、農作業が中心ではなくなりましたので、きちんとしたサイクル・リズムができないのが普通となりました。また季節とか自然の流れも無視して、昼も夜も、夏も冬も、服装とかは違っても、ほぼ同じように(特段の区別なく)毎日を過ごしています。
これでは、自然と乖離していくのも、そしてケガレ状態、あるいはハレ状態が日常的になるのも仕方ないのかもしれません。
ですから、今の人たちほど、昔よりも、意識的にサイクルを作り、日常と非日常、聖と俗などの時空を設定(区別)しておいたほうがいいと言えます。
パワースポットブームなど、神社・仏閣・聖地などを訪れる人が増えましたが、これも日常におけるエネルギーの消耗・枯渇、混乱が多くなっていて、そういうパワースポットに行くことで非日常性にふれ、リセットしたいという欲求が、ひとつには働いていると想像されます。
そして、タロットを扱うということは、非日常や聖なるものとつながる時間・空間を持つことを意味し、それをうまく使いこなすことで、乱れたリズム・サイクルを整わせることができます。
ただ逆に、タロットばかりの時空に行き過ぎると、逃避的・厭世的な感じにもなって、非現実的な感覚が強まりますので、それはそれで注意が必要です。
さて、こういったこととは別に、日常性と非日常性とで重要なのは、普段の生活の中で突如出現する異質性です。
言い換えれば、それはシンクロニシティ体験であったり、何か言葉では表しにくい違和感のようなものとして現れます。
シンクロニシティの場合は、偶然であるのに必然のように感じる出来事で、明らかに意味があるように思える繰り返しとか、タイミングの良さでの現象と言えます。
どちらかと言えば、関係性があることが連鎖するみたいな、共通的な事柄が意味あるかのように繰り返されることが多いかもしれません。
それとは別に、どこか違和感を自分は覚える、いつもと違う・・・というもので感じられる現象があります。
シンクロは比較的テーマとして取り上げられることも多いですが、違和感そのものについては、あまり言及されていません。しかし、違和感も、ひとつの非日常的なメッセージだと言え、意外に放置できない重要なものがあると考えられます。
「違和感」というように、「感」の字があるので、感覚的なものとしてとらえられることが多いでしょうが、思考・論理においてもそれはあり得ます。
感覚の場合、ハートや心というものもあれば、体そのものの違和感ということで感じるものもあるでしょう。
心理的にも、体の違和感は、たいていは心と結びついており、違和感の場所によって、ある程度、問題性のパターン(怒りとか不安とか恐怖とかを示すものと)も言われています。
そして、思考の違和感も大事で、つまりは、「この考えはおかしいんじゃない?」と思うような感覚です。
仕事とかビジネスにおいても、ある人から「この方法が正しい」とか「これでやると結果が出せる」と言われても、自分にとっては、そのやり方に違和感がある場合もあります。
また、人数的には多くの人が述べている(信じている)主張であっても、やはりおかしいのでは?と自分は思えるケースもあります。昨今の流行りの陰謀論など、そういう傾向があるかもしれません。
いずれにしろ、違和感を覚えたということは、オートマチックに働く日常性や、自身の安定・安心・共感とは異なる何かがあったことを意味します。
よいにしても悪いにしても、注意信号であるのは確かです。
違和感を放置しておくと、あとでとんだしっぺ返しと言いますか、その正体が大きな問題となって出現することがあります。大病になる前の警告だったのに、放置していたから入院・手術することになった・・・みたいなものです。
しかし逆に、違和感を気にし過ぎていたら、それこそ、ささいな違和感を拾い上げようとすれば、いくらでも出てくるのが人間ですから、神経症的・ノイローゼ状態にもなりかねません。
ですから、違和感を放置するのも問題ですが、違和感のパターンとか大きさを、自分なりに把握しておくことも重要かと思います。
違和感も、実は、当然ですが個人差があり、というより、ほぼ個人的なもの(感覚)なので、自分なりのコントロールが可能です。
違和感というメッセージの発信の、自分なりのパターンを観察し、理解するようにするということでしょうか。
やばい違和感(笑)と、そうでもない違和感、ネガティブな警告の意味の違和感、自分の意固地さ、柔軟性のなさを示す違和感など、いろいろと違和感(の意味)にも種類があるわけです。
大きく分けて二種類、このままでは危険だよ、おかしいよとホイッスルを鳴らすかのような違和感と、逆に、そのままでいいのかい? もっとできるはずだよとか、もっと勇気を出して、チャレンジしてとかの意味の応援的、創造的(それは旧の自分の破壊でもあります)な違和感があると考えられます。
どちらであるかは、最初はわかりにくいかもしれません。
違和感にもシンクロがありますから、それによって判断できる場合もあるでしょう。ただ、どちらにしても、そのままの自分では問題だということです。何か対処する必要があるのです。
それでも、違和感の意味がそもそもわかりにくい場合もあります。ですから、タロットようなものがあれば、それは理解の助けになります。
タロットの出方によって、それが自分を守るための違和感なのか、壊す(改革)のための違和感なのかが、比較的はっきりするでしょう。
個人的には、違和感は、意外にも天使の象徴図で表せるとも考えています。
例えば、タロットの天使の図像の出方がどうかを確認することによって、違和感の正体と対処法が見えてくるということです。
象徴というのは、このように、見えないものやわかりにくいものを、見えやすい形にしてくれるものなのです。