タロットの使い方
タロットノートの作成
タロットを学ぶうえで、私は、タロットのノートを作ることを、講義でも推奨しています。
タロットは全部で78枚あるので、そのひとつひとつについてのノートを作ることができますが、最初は大アルカナだけでもよいでしょう。
大アルカナは22枚あるので、78枚の全体に比べると、枚数的にも半分に満たないものです。
ですから、単純に作業(量)的にも、それほど負担にはならないはずです。
ですが、「大」と名がつくように、特にマルセイユタロットの体系(システム)においては、大アルカナを理解することが小アルカナにもつながってくる(これは抽象的なことでなく、実際にそうなっています)ので、枚数的には22枚と少ないですが、質的には深いものがあります。
そうなると、実はノート作りにおいては、結果的には、量も多くなることが考えられます。
さて、ここでノートと言っていますが、具体的にはどんなものを用意すればよいのでしょうか?
ここで言うタロットノートとは、タロットカードに関することを記入していく帳面・データ票のようなものです。
今では、学習ノートにおいて、手書きをしていく人はあまりいない(学校ではまだ授業ノートはアナログ的手書きでしょうかね?)かもしれず、ワープロとか、スマホにメモするとか、デジタル記入が主体になっていそうです。
しかし、タロットノート作成においては、どちらかと言えば手書きノートをお勧めします。
というのも、体(指先)を動かすことも、タロットで言えば、四大元素(小アルカナの4組)のことと関係し、いろいろな意味(例えば、労力を実感することがタロットのようなものの作業工程には重要))で効果的だからです。
しかし、私もそうなのですが(苦笑)、書く字が汚い(読めない)と、あとから見返した時、自分でさえ読むことができなければ、ノートとして意味がありませんから、書く時は少なくとも自分が読めるようにしておいてくださいね。(笑)
意外に、思いついたことを忘れないようにと、急いで書いたような字は、得てして読みづらいものになっていることがありますから、注意です。
基本、手書きがお勧めではあるのですが、読みやすいとか、書いたものを整理しやすいということを重視するのなら、やはりデジタルに頼ったほうがいい場合もありますので、そのあたりはお任せで、ノートとして活用度が高いものになるのなら、書き方は自由です。
そしてここからが肝心ですが、ノートは一回とか一冊に留まらせないことです。
つまり、ノートは分冊化し、複数のノートを持つことか望ましいということです。
まず一冊目は、大アルカナの名前とか、基本的なカードの意味を記入することから始まるでしょう。これは、言わば、講師や本から学んだ(受け取った)内容をそのまま記入していくものです。
言ってみれば、基本事項を書いた備忘録に近いものです。
22枚、一通りの意味を書いたノートができれば、次に二冊目の別冊を用意し、これには、自らの気づきや、そのカードに関係する自分の事柄を記入していきます。
このノートは、タロットと自分を近づけるためのもので、一般的なタロットの知識・意味を、自分のものとして落とし込む、具体化(現実・リアルに感じていく)役割のものとなります。
こうすることで、タロットへの感じ方が身近なものになり、またリーディングにおいても、ただ単に意味をあてはめるものではなく、その人その時に応じた読み方ができる訓練の基礎にもなります。
これと同時進行でもよいですし、先に二冊目ができたあとでもいいのですが、今度は三冊目にチャレンジします。
三冊目は、より深い象徴の知識や気づきを書いていくことになります。
タロットを一通り学んだあとでも、タロットを活用していくにつれ、いろいろとほかから知識が新たに入ったり、講義で言われていなかった内容に気づいたりすることが出てきます。
それは自分のことと関係する個人レベルのものもあるのでずか、この三冊目では、特に普遍的でもっと大きな類の気づきになります。
例えるとすると、同じタロットを学んでいる仲間たちにも知らせることのできる内容で、つまりは、自分にもほかの人にも通じる気づきとか知識です。
もし将来、タロットティーチング(タロットを教えること)を目指すのなら、この三冊目はかなり重要なものになってきます。
そして四冊目にも挑戦してみましょう。
四冊目は、人によっては、三冊目とか二冊目の順番になる人もいるかもしれません。
これは、リーディング実践におけるデータを集めるものとなります。
いわば、読みの事例集みたいなものです。純粋なリーディングの事例集とちょっと違うのは、大アルカナ一枚一枚について書くものなので、展開とか複数枚の読み方を記すのとは異なることです。
もちろん、展開事例を一緒に書いても構いません。
このノートの目的は、リーディングに特化した場合に出てくる意味とか大アルカナの読み方を書き留めていくというものです。
ですから言葉としては、比較的具体的なものが出やすく、名詞であったり、動詞的なものとして書いていくことができるでしょう。
冊数を分けるのが面倒な場合は、工夫して、大アルカナそれぞれに、目的や内容の項目を分け、記入していくということも可能です。こういうやり方をする場合は、手書きより、移動やコピー、削除、項目分けなど自由にできるデジタルのほうが、あとでいろいろと整理しやすくいいかもしれません。
ここにあげたノートと分冊の種類は、あくまで例ですので、自分なりに作り方は自由にやってみてもいいかと思います。
しかし、気づいている人もいるかもしれませんが、紹介した種類分けは、受動・能動の(学習)スタイルをノートによって分冊していく流れになっており、学習というものが受けるだけではなく、能動的に行うことも意味しています。
バラバラな内容を一冊のみにただ書いていくよりも、区分けしたり、整理したりして、分冊化したほうが、タロットの理解や学びもやりやすいでしょう。
少なくも、タロットを深く理解したい、活用していきたいと思っている人は、基本の一冊だけでは足りないと思ってください。
もちろん、自然にノートなどに書かなくても、イメージと得た知識によって、いろいろなものが浮かんでくるようにはなるのですが、それもすぐ消えてしまったり、思い出せなかったりしますので、やはりノートに書いておくという作業は、有効だと思います。
ノートを作成することは、確かに面倒ではあるのですが、タロットが好きな人ならば、むしろ苦にはならないのではないかと思います。
義務的に仕方なくやるような場合は、タロットとよい関係にあるとは言えず、あなたはタロットを学ぶことよりも、タロットを学ぶ自分というものを課している(強制している)ような、何かの囚われがあるのかもしれません。
ちょっと面倒ではあっても、自然に心が動いたり、あるいはやっているうちに習慣化したり、楽しくなってきたりして、いつの間にかノートが出来上がってるみたいな感じがよいです。
ノートを作らなければタロットが学べないというわけでもありませんし、書くこと自体、向いていない方もいますので、何事も絶対視しないようにしてください。
現実を生きる術のひとつだと思いますが、自分に合ったやり方、ペースで何事も行うのがよいでしょう。誰かのやり方、一般的な方法が、必ずしもあなたに合っているとは限らないのです。
そして、やれなかったからと言って、自分を貶めたり、怠惰だと汚したりする必要もありません。生きるか死ぬかの大事ではなく、しょせんはタロット学習のことです。(笑)
この世(現実)は、個性見つけ、それに沿う生き方をすると楽になるようにできています。(全体を無視することではありません、全体の中で、自分という個人を自らが発見することであり、それが全体にも貢献する形に自然になります)
タロットの学びを、あなたなりの方法で、気楽に進めてみましょう。
タロットによる願望実現法のタイプ
人には欲求や願望というものがありますので、それをかなえたいと思うのまた人情でしょう。
マルセイユタロットにおいても、考え方(解釈の違い)にはよりますが、欲求がパワーとなることが描かれています。例えば、「悪魔」のカードなどは典型的で、また意外に思うかもしれませんが、「運命の輪」なども関係します。(あくまで私の考えになりますが)
心理的によく言われるように、欲求や願望をひどく抑圧していると、いずれ何らかの形で問題となって現れる場合があります。身体症状とか人間関係での問題行動とか、情緒不安定とか出るわけですね。
人により、自分の内に向かうか、対人関係とか行動とかの外に出るかの違いはありますが。
ですから、欲求も出していったり、かなえていったりすることは、心身調整のうえでも悪くはないことだと言えます。
問題は、爆発的に一気にやってしまうなどの程度の問題と、まったく周囲の迷惑、あるいは自分のバランスを考えずに、かなえようとしてしまうことにあると言えます。
つまりは大きな影響がないように、小出しにとか、段階的にかなえて(出して)行けばいいわけです。
さて、今日言いたいことは、実はほかにあります。
欲求ということを述べてきましたが、今日は似たようなことで、テーマとしてはタロットによる願望実現ということになります。
以前も何度か取り扱っているテーマです。
タロットによる願望実現は可能か?ということは、タロットに関心のある人にとっては、比較的興味が高いものかもしれません。
個人的には、結論として言えば、それは可能であり、また必ずしもそうとは言えないというような、逃げみたいな回答(笑)にしておきます。
本日は、可能か不可能かについてを審議するのではなく、タロットによる願望実現のやり方がテーマです。
ところで、世の中には、様々な願望実現法が語られています。
私も以前、願望実現に関心があった時があり(今は、ある理由により、ほとんどないです(苦笑))、いろいろと調べたり、実践したりしていました。
そして、どうやら大きく分けて、ふたつの願望実現法のタイプがあることに気づきました。(タイプ分けには、そもそもの型としての要素・考え方がたくさんあるのて、必ずしもふたつに分けられるわけではありませんが)
ひとつは、願望を目標として設定し、そのための方法やプロセスを具体的・細分化してかなえていくというもの。
そしてもうひとつは、願望を目標として設定することは同じでも、あとは自然に任す感じで放置しておくタイプのものです。
あえてこのふたつをスピリチュアル的な言い方で分けるとすると、前者が現実的・地上的・人間的方法で、後者が理想的・天上的・複合的方法と例えられるでしょうか。
前者はよく言えば、人間の力が中心で、人間の行動性・実行性を力とし、現実的に外に向かって働きかけるという感じです。何よりも自分自身の力による改革、変化が基本となります。目標に向かっての強烈な意思とか、成功(達成)イメージも必要となる場合があります。
後者は、人間の力ももちろん当然として思いながらも、無理矢理・強引にかなえていくのではなく、むしろ、人間の意思の弱さや限界も認めたうえで、他者(人間以外も含む)や別の要因にも応援してもらいながらかなえていくとタイプになるでしょう。
まず、前者のやり方や特徴について説明します。
そもそも人間・現実の世界は、分離、つまり別々のモノや個別の世界とも言えますので、要素別に細分化したほうが、具体的で何をすればよいのか、逆に何をしなくてよいのかがわかりやすくなります。
何か夢や目標(願望)があっても、ただ漠然と「こうなればいいなあ」と思っていたところで、現実はほとんど変わりません。願望だけあっても、そのままでは、何をどうしていいのかわからず、取っ掛かりとしての行動もできません。
そこで、実現のための具体性・細分化を要素別にしていくわけです。
すると、願望実現に向けてやるべきことが明確になり、行動も起こしやすくなって、実現に近づくことになります。コーチングなどではこういった手法はよく取られます。
人間、怠惰なもので(笑)、夢を見たり、考えたりすることはよくしても、それを実際に行動に向けていく人は少ないものです。
それには、本気でかなえようという気がないこともありますが、やるべきことがわからない、だから面倒であるということが多く、逆に言えば、具体的でやるべきことがはっきりしていて、それが無理のないステップを踏み、しかも実現に向かって確実に進んでいることがわかれば、人は行動を継続していくことができます。
そのためには目標を立てるだけではなく、目標を現実(地上)に下ろすためのマップピングルートのようなものが必要なのです。
スピリチュアル的に言うと、次元降下させる道を明確に意識する(意識だけではなく実際に書いたり、作業したりする)ということです。
これは、マルセイユタロットで言いますと、大アルカナから小アルカナに次元をシフトさせることであるので、詳しくは言いませんが、大アルカナと小アルカナを併用していくことで可能になります。また、絵柄自体に具体性を持つ大アルカナだけでもできない技ではありません。
次に、もうひとつ(後者)の方法です。
こちらは、むしろ具体化の逆で、目標をロックオンしたら、あとは自動操縦に任せるみたいな方法となります。
やるべきことは、目標のロックオンくらいで、その後は、むしろ意識から願望や目標をはずすくらいにし、何となく、心のうちに目標はあっても、日々、意のままに(求める心のままに)目の前のことに集中して過ごして行く感じです。
あとは天に任すという表現が近いかもしれません。
そして、たとえ実現しなくても、それは自分にとって必要な実現であった(言い方は妙ですが)、つまりは不必要なものであったと取ります。また、想像していたものと違う形のもので実現したとか、そういう場合も、この方法では起こり得ます。
この方法で大事なのは、最初の目標設定にあると言えます。その願望や目標が、本当に自分にとってほしいものか、必要であるものか、また、たとえかなったとして、それ(達成したことによる状況)が逆に自分を束縛したり、維持するために今より自由を奪ったりすることにならないかということを考える必要があります。
どこか違和感やその願望を達成することに抵抗感があり、素直に目標としてロックオンできない場合は、いわば潜在意識のようなところに入り込まず(拒否され)、目標が設定されていないので、当然かなうことも難しいわけです。
強い願望である必要はないのですが、素直に心からそれがかなうと喜べる、祝福できるというものでないと厳しいかもしれません。
まあ、自己の内なる意識も本当に望んているもの、言い方は変ですが、望みが穏やかなものであるのなら、普段忘れていても、いつも心の奥底にはある願望みたいなものになりますから、自然に任せていても、なにがしかのことで、それに近いこと(望みに向かうこと)を自らの内、あるいはあなたをサポートする様々な存在たちが整えてくれるというわけです。
マルセイユタロットでこれを行う場合は、大アルカナ中心の普通のリーディングを行いつつ、その鍵となるカードをシンボルとして、自分の心のうちに置いておく感じになるでしょう。
普通にリーディングするというのは、願望に対するブロックや抵抗などを調整し、スムースに願望を違和感なく思える(ロックオン設定できる)ようにするためです。
簡単に言えば、「そう思っていいんだ」とか「そうなっていいんだ」と自らに許可が出せるよう、タロットリーディングでサポートするということです。
どちらのタイプの方法がよいのかは、まさに自分の志向(嗜好でもあります)、好ましいほうの選択になります。また、目標が願望の種類によっても変わって来ることがあります。
それと、万人に確実で絶対の成功法則とか、具体的な願望実現法はないと思っておいたほうがよいです。
それはこの現実世界が、皆違う個性をもって生きている世界だからです。誰かがうまく行った方法が、必ずしもあなたによいわけでもはなく、その逆も当然あります。
ということで、自分でいろいろと試してみて、自分や状況に応じた方法を選択(あるいは複合したり、創造したり)することをお勧めします。
タロットカードの(示す)正しさ
タロットを扱う者や、タロットリーダーとしては、タロットが示すものの解釈の前に、その信頼性を自分にどう置くかということは重要だと考えます。
言ってみれば、タロットは正しいのか正しくないのかという問題にも関係してきます。
この問題を、さらに、「タロット自体が正しいのかどうか」というテーマと、もうひとつ、「タロットが示すことは正しいのかどうか」というものに分けて考えることもできると思います。
また、根本的なこと、そもそも論として、正しいというのはどういうことか?ということも無視できません。
実は、最初に考えなければならないのは、ここ(タロットの示す正しさというもの)ではないかとさえ思います。
しかしながら、タロットを使っている者でも、あまりこういうことは考えないのではと想像します。だからこそ、改めて「考えて」みるのです。
とりあえず、タロットが示すことは正しい、タロットは正しいのだという前提でないと、占いもリーディングもできません。
では、その正しさとはどういう意味で正しいのでしょうか?
実はこのような問いの時、反対の意味である「正しくないこと」「間違っていること」「悪いこと」というものを考えますと、その「正しさ」についてわかってくることがあります。
ですから、タロットリーダーの方、タロット占い師の方、今一度、自分は何をもって「正しい」としているのかを、逆の、正しくないこと、あるいは、よくないことも考えてみて、その線引きを想像するとよいです。
すると、多くの人は、常識的で一般的、いわば誰もが思う善悪とか、成功失敗とか、幸不幸の基準で見ていることに気が付くのではないかと思います。
とは言え、その一般的とか、多くの人が思う常識的なことというのは、集合的なものなので、どれかひとつとか、明確な基準・ルールがあるわけではありません。なんとなくのような漠然としたものです。
ということは、漠然とした基準でタロット(の示す)ものを判断しているということになります。
「いや、私は違います、ちゃんとした基準をもっています」という人もいるかもしれません。
例えば、みんなが思う一般的な幸せ・不幸というものではなく、その人個人(タロットを引く人)が思う幸せとか不幸を基準にしているというような方もあるでしょう。
いずれにしても、タロットが決めるのではなく、人(特にタロットを扱う者)が基準を決めていることには変わりありません。
タロットはただカードとしての図柄を示すのみです。その解釈は、結局、人(と状況)がしています。
もし「13」のようなカードが出て(本当はこういう解釈はやらないとしても)、死と関係すると見て、戦争中ならば、「どんどん相手兵士を殺せます、あなたが兵士であるなら出世します」と、幸運でよいことのように読める場合もあれば、平和な時には、「たくさんの人が伝染病で亡くなる危険があり、大変悪い事態を告げています」と、ネガティブで不幸な解釈をすることもあるかもしれません。
このように、価値観や幸不幸、善悪などの概念は、時代や人、状況によって変化しますので、確かに普遍的に近い良し悪しはあるかもしれませんが、やはり、正しさとか良さ(その反対悪いこと、間違い)の基準はあやふやなものと言わざるをえません。
こうなると、カードの示唆を読むというのは、あまり意味がないのではないか、ルールも何もあったものではないという感じになります。究極的には、人が決めているのなら、カードを引く必要もないとさえ思う人もいるかもしれません。
ここで逆転の発想をします。
カードの正しさとか、カードが示す基準を考えて行ってもキリがないと言いますか、かなり難題で、ひとつにはなかなか決められないものと考えられますから、そこは一度置いておきます。(そのことはあえて考えないようにする)
そのうえで、自分とカードを契約のような形で、両者の間にルールや基準を作ります。(契約を結ぶような感じ)
言ってみれば、善悪や幸不幸、何が正しくて何がよくないのか(問題なのか、問題でないのか)の基準を、カードリーダー、タロットを扱う者が決めるわけです。
その基準をもとに、カードを出してください(カード側からするとそのように出しますよ)という契約です。
ですから、タロットリーダー側の考えが重要になり、タロットリーダーの想定する良し悪し、問題か問題でないのかという基準がカードを動かすわけです。
ただ、この反対、逆方向みたいなこともあり、もともとカードに示されているある基準(それは教義や思想、目的と言っていいもの)を教えられる(学ぶ)ことで、自分の中にその基準を入れてルール化し、それを今度はタロットカード側に投影、あてはめて(引いたカードを)解釈するというパターンもあります。
しかし、これも「ある教義」のようなものをカードにあてはめ解釈したものなので、結局は、人の解釈ありきということにはなりますが。
私の場合は、マルセイユタロットに込められている(と言われる)ある思想、目的をもとにしたシステムを基準に、カードを解釈するようにしていますので、それが基準と言えば基準です。
その基準は、一般的な意味での善悪とか幸不幸、成功失敗概念とは異なるなところがあります。
ですから、今の時代の普遍的に言われている、あるいは伝統的に示されてきた、運不運、幸不幸、成功失敗の基準にした占い的解釈とは違う場合があるのです。
このこともあり、私は占い師ではないと申し上げています。
ともあれ、それでも、タロットを信頼しないことには、どの方法・考えを採り入れるにしろ、タロットリーディングや、タロットを使った技術は成立しません。
タロットをなぜ信頼するのか、信用できるのか?という問いまでつきつめられると、もはや信仰に近いものと言わざるを得なく(根拠がないわけではないですが、今の科学的なものとは言えませんので)なります。
ただし、タロットによって自他の人生を操られるのではなく(選択や決定を依存してしまうのではなく)、あくまでひとつの情報として扱ったり、様々な角度から物事を見たりするためのツールとして見るのがよいかと思います。
しかしながら、ツールという言い方にはとどまらない、深淵で神秘なところもあるのがタロットてす。
タロットは人が作ったものではあるものの、ことマルセイユタロットにおいては、特定の設計者の名に帰せられるわけではなく(版名はありますが、必ずしも、いち個人が大元のデザインを完成させたとは言えないところがあります)、ある叡智集団によるものと想定できます。
叡智と書いたように、その受けた啓示と製作過程においては、通常意識を超えたところにあったとも考えられます。
ですから、もしタロット自体に、何かの正しさや基準があるとするのなら、それは私たちの人間、常識レベルのものではない高次のルールや基準の可能性もあるかもしれません。
この記事では、自分(タロットリーダー)側が基準を決めると言いましたが、その基準が、いつしか向こう側(タロットが根本的に示す高いレベルの基準)に引っ張り上げられ、自分の中でのルールが変わることもあり得ます。
その時、今までやっていたカードの読み方、解釈に違和感を覚えたり、はっきりどう読めばよいのかわからなくなったりするでしょう。サクサク読めている時が、必ずしも、よいとはいい難い時もあるのです。
つまりそれは、自分の思っていた正しさなどへの、価値基準の揺らぎが起こっているとも言えるのです。
その経験を何度かしていくと、タロットカードは、私たちの中にある、忘れられていたり、普段、外から常識的に思いこまされていたりした基準やルールを、中立に戻し、回復させるためにあるのではないかと思えてきます。
これは言い換えれば、私たちは地上性のルールに基づく生き物、生き方をする傾向にありますが、一方で、天上性のルールによる生き方もあるのだということ、それが永遠や見えない部分とつながっていること、また自分一人の人生ではない分もあること(自分が存在する見えない部分とその理由)などに気づくプロセスにもなってくるのだと思います。
究極的には正しさなんてものはない(正しいのは、正しくないという概念が存在して初めて認識できるものですから)のですが、レベルの低い意味の「正しいこと・正しくないこと」に囚われているのもまずく、マルセイユタロットで言いますと、「正義」の象徴とは何かを考えることで、自分や世界を(高次の基準に)変えていくこともできるのだと思うところです。
タロットの学びについての一考
タロットを学ぶには、独学か、誰か先生につくか、あるいはスクールに入って学ぶかという方法が現実的には考えられます。
何事も長所と欠点があるように、どの方法であっても、完璧で欠点のない学び方というものはないでしょう。
いきなり大きな話になりますが、宇宙や世界という巨大な範疇になればなるほど、私たちの共通点も大きくなり、究極的には、ただひとつという何も特徴(個性)がないような、いわば「空(くう」)と例えられるような抽象的な状態になっていきます。(「空」は何もないようですべてあるということにもなりますが)
しかし、逆に言えば、小さな範疇になればなるほど、違いや区別、色が出てきて、悪く言えばバラバラになり、よく言えば個としての特質(個性)を持つようになります。
結局レベルや階層、次元によって見え方と言いますか、表現方法が変わるだけなのだ言えますが、私たちの認識する通常の世界観(レベル)では、個性のたくさんある現実世界となりますから、一人一人にまさに「違いがある」と考えたほうがいいわけです。
ここでタロットの学びに戻りますが、そうしますと、現実的に見ても、タロット学習の方法は、個人によって違って当たり前ということになります。これは何もタロット学習に限らずのことですが。
よって、全員が納得し、完璧にタロットが習得できる方法というのは、具体的・現実的にはあり得ないことになります。
ただし、タロット学習というものの性質や内容のレベルを上げて行けば(抽象度や意味合いを上げる、変えれば)、ほとんどの人に有用で共通な方法は出てきます。
しかし、通常レベルにおいては、一人一人違った方法になることを想定する(認める)のがよいと思います。
その前提で、タロット学習を自分のために効果的にするには、目的など学ぶ意味を細分化していくことにあると言えます。また自分の置かれている環境や個性なども考慮していくことです。
ちょっと前までは、むしろ全体に配慮した学び方、つまりは、自分ではなく他人や外に合わせた学び方が主と言えました。例えば、あるタロット講座の期間と場所、学ぶ方法が決められていて、自分がそれに合わさなければ学べないという具合です。
しかし、今は個別の選択肢がかなり増えたと言えます。それが時代の流れです。提供する側も多くなり、そちらの個性も増えたので、受ける側の個性に応じていく可能性も高まっているわけです。
ということで、これからは、全体に当てはまるようなことを考えるのではなく、自分ならとか、私に与えられていることでとか、自分自身が好きで前向きになれることではとか、より個性(自分)に沿った方法や場所、人を選ぶとよいということです。
具体的には、自分に今あるお金、予算はどうか、リアルかネットのどちらが自分には学びやすいか、タロットの学習後、(経済的な)仕事を意識しているのか、精神や魂の向上として学ぶのか、趣味として学ぶのか、自分にとって学べる期間や日にちはどうか、教えてもらう人は自分の求めるものを提供してくれそうか、性格や志向などが合っているのか・・・などいろいろと細分化すれば出てくると思います。
そして、タロットは便利なもので、四大元素、四組という概念があります。
まだ学ぶ前でわからないのは当たり前ですが、少し、この四つを、学びの観点で紹介すると、知識・スタイル、精神・関係性、技術・モチベーション、経済・生活みたいなものになります。
平たく言えば、知りたいことを教えてくれるのか、自分の気持ちはどうか、学ばせてもらうところや人との相性はどうか、どんなタロットの技術や活動方法を教えてもらえるのか、講座料金は適切か、自分が支払えるのか、学びは自分の仕事とか生活に支障はないか、みたいな観点で見ると、いろいろ存在する考慮点が整理できてくるわけです。
先生につく場合、先生との相性は軽視できませんが、それより、もっと見ておかねばならないのが、先生の理想とするものや目指しているものは何なのかということです。
タロットを通して、その先生は何をしようとしているのかということです。
直接、習う前に聞いてみるのもよいかもしれませんが、たぶん先生クラスになると、何か外向けに発信・活動をしているので、それを読んだり、見たり、体験したりすることでわかる場合もあるでしょう。
ここで、その先生の実績が重要だと考える人もいるかもしれませんが、確かに、実績は無視できませんが、実績よりも、先述したように、何を目指しているのかということのほうが大切なように思います。
それはイデア(理想のもの)と言ってもいいかもしれません。イデアは先生によって実現されていなくても、そのイデアさえ自分と合って入れば、そのイデアに向かって、自身を進ませることができるからです。
そして、そもそも、そのイデアが自分の思いとはかなり違っていると、いわばゴールや目的地自体が異なるのですから、そのルートに入るのは自分にとって間違いになります。
マルセイユタロットで言えば、「星」か「世界」で例えられるでしょう。
この「星と」か「世界」をイデアや目標として旅している先生であれば、自分もその「星」や「世界」を目指すことが苦ではなく、同じ目的の旅をする者ということで、あなたも同行できるはずですし、たとえ途中で先生がいなくなっても、あるいは託されれるような形で先生とは旅ができなくても、あなた自身に「星」・「世界」の像があれば、さらに自分で道を進んでいくことができます。
学びで道でよく言われる、「師の求めたるところを求めよ」ということです。
ということで、一応、私もタロットの講師・先生をしておりますので、同じものを求める方がいれば、一緒に旅ができると思っております。
ただ、また元に戻りますが、同じものを求めていても、これまた個性がある世界が現実ですから、細かく言えば、一人一人、やはり道は違うものです。
それでも志として、いわばマルセイユタロットの「星」の輝きを目指すことを共有して、「世界」に行こうとする者は、同じグループとして学び合い、支え合う気持ちが持てるでしょう。
あなたがタロットに出会うのも縁で、学ぶのも縁と言えます。タロット種は何であれ、少なくともタロットに興味を抱いた時点でタロットに縁があるわけです。
タロットに出会っても、それを学ぶかどうかは、次なる縁とも言えますし、自分が縁を作るという実際の行動にも関わってくるでしょぅ。
マルセイユタロットの「恋人」カードのように、天使(キューピッド)の矢が放たれても、あなたが人として現実世界で行動しないと、実際での変化は現れません。(逆に言うと縁の機会が訪れたことは、矢が何らかの形で放たれているわけです)
こうして、タロットに単に興味を持つだけで終わるか、タロットを深く学んだり、それを使って実践したりする世界に進むかが決まって来るのです。
あなたはあなたに生じている縁をどうするでしょうか? それもまた、あなた自身の個性として決定できるのが現実世界でのあなたの力なのです。
年の初めにタロットカードを引くこと
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2021年の始まりにあたり、去年は世界的にも大変な年となりましたので、ふと、昨年のはじめにはどんなことを自分が書いていたのか、確認したくなりました。
すると、自分でも『2020年は一般的にも「変化」を実感する年となるのは、間違いない』と書いていますね。
なぜそう思ったのかは、もはや忘れましたが(苦笑)、私のことですから、間違いなくタロットカードを展開した結果、そう判断したのでしょう。
もっとも、毎年「変化」を言う人も多いので、よくあるように、誰しもに起こるようなことを抽象的に指摘すれば当たっているように感じてしまうという、それでもあるかもしれませんが。(笑)
まあ、私は占い師ではありませんので、書いたことが当たる・当たらないなんてことはどうでもよいのです。
ここで重要なのは、人が言ったことを自分が受け入れたり、同調したりする感覚があるのかないのかということが、あげられます。
当たり前の話ですが、他人の言葉に納得できるのも、反感を持つのも、自分に何か基準とする思いがあるからで、それと照らし合わせれば同意もしますし、反発もするというわけです。
逆に言えば、普段、自分がどう思っているのかが、他人の言葉からの自分の反応でわかるということです。意外にも、自分の気持ちや自分の思いには気づいていないこともあるのです。
よって、例えば「今年は変化の年になるよ」と誰かが言ったのを聞いて、自分が「そうなんだ」と思えば、「変化したい」と自分が思っているか、逆に「変化に抵抗がある」ということが多いのです。つまりは、「変化」ということに、何らかのこだわりや思いがあるということです。
そして、さらに、マルセイユタロットで言えば、それぞれの大アルカナの象徴性に関係し、例えば「変化」であると、「13」とか「愚者」などにあてはめられ、そのカードを自分が引く(タロットを扱っている者では)こともあるわけです。
しかも大アルカナ象徴性は、全体性(大きな流れとか人類全体のようなマクロ的なもの)も表しますので、単に自分の個人的な思いだったものも、タロットで見れば、その思いが大きなものと関連しているのがわかることもあります。
というように、個人的な思いが反映されると同時に、集合的な意識と言いますか、人類全体が変化を予測していたり、それを種として望んでいたりする場合は、たくさんの人の意識に浮かんで、同じようなことを起こす場合があります。
だから、例えば、タロットで言えば、今年一年を見ようとすると、まったく同じカードとはいえませんが、似たような傾向を皆が引くということもあり得るでしょう。
ただし、占いとして、自分のことの細部(具体性)まで見ようとすると、具体的なことは、かなり占う人によって違ってくると思います。
私自身は占い師ではありませんが、タロットは占い業界での定番であり、占いとは無縁ではありませんので、占いについて考えることはあります。
そしてマルセイユタロットをやってきてわかってきたことは、この世界は個別と全体とで分けられながらも統合される構造にあるということで、それゆえ、個別(個人)や具体の次元になってくると、実は一人ひとり異なってくるのが当たり前であることなのです。
つまり、当たる・当たらないは、具体(個別)次元になればなるほど、極めて困難になるという至極当然の話に行き着きます。
そしてここがとても大事なことなのですが、だからこそ当たる・当たらないに固執していても意味がないばかりか、統合的見地、宇宙的全体性視点から見れば、個別の占いで個人の未来予測を具体的に当てるのは、ゲームとしては面白いかもしれませんが、天の意思に反するようなものと言えるのです。
なぜなら、個別次元では、それぞれ異なるようになる仕組みであり、システムであるからで、それを天(神)のデザイン・オーダー・システムだと考えれば、その意図を尊重するのが人の本分と考えられるからです。(しかし、これももっと深く言えば、そうではないところもあるのですが、このことはまた別の機会にお話します)
まあ個人的な、自分がこの先どうなるのか知りたいという思いは、人としてわかります。
しかし、一人一人、細かいことを言えば、みんな違うので、それを当てて当人は喜んだり、面白がったりしても、全体としてはあまり意味がなく、個人占いは一種のゲームとして見るのがよいのではないかということです。
ところが、反対に、全体的には同じ流れや傾向があると考えられ、いわば、全体はひとつの大きな象徴性を持っていると言えますから、それを読むこと、推測することは悪いことではないと思います。
個人の未来は(過去も)千差万別で、一人一人にとっては重要なことであるのは確かでしょうが、バラバラで違いがあり、どう生きるか、どう選択するかは個人の自由と言っていいでしょう。
ですから自分で自分を評価すればよく、結果をどう解釈するかも、自分に委ねられるのですから、先のことが起こったあと、それがどうだったのかも、自分次第で意味づけられるのです。ここに未来を占って知ることの意味のなさが出ると思います。
(まあ、個人占いで先を見ることも自由と言えるので、それも人それぞれに任されるわけですが・・・)
しかし、全体としては意思が形成されると言いますか、宇宙の進化の巨大なうねりのようなものがあると考えられ、バラバラな個人の表現がひとつにまとめられ、人類としての進化や方向性も決まって来るように思います。
ですから、個人では自由なものの、全体としては何か意図の中にあるか、その意思を汲んで(あるいは影響されて)の個人的人生となるわけで、そこを全く無視していると、とんでもない方向に全体としては行ってしまうおそれがあるかもしれないのです。
簡単に言えば(逆の言い方をすれば)、人類全体の舵取りは、実は一人ひとりの思いにかかっているということです。
あなたも私も、舵を動かす一人であり、一人一人は微力でも、全体としてまとまれば、確実にひとつの方向性に進むのだと考えられます。
自分個人の先行きを占って一喜一憂している間に、全体の舵はふらふらとまとまらず、蛇行して船は沈没してしまうかもしれません。(笑)
ですから、個人ではなく、全体としての(船の舵取りとしての)象徴的な予測、占い、傾向的判断はあってもいいかと思います。
一方の個人的占い、個人的予測も、全体的意思を汲んだうえでなら、どのように自己を表現するかを見るためには許されることもある気がします。
要するに、自分のことだけを考え、利己的な現世利益獲得のための占いとか、予測判断している時ではないかもしれないですよ、と言いたいわけです。するのなら、全体部分も考慮したうえで、自分の活かし方を知ることです。
話は変わりますが、昨年に引いたカード(ブログ読者向けのもの)は、昨年のブログを見ると、「節制」を中心にして、「悪魔」と「恋人」のようでした。
今思えば、コロナウィルスによる行動の制限と、各人の選択を余儀なくされる様子にも見えてきます。(あとづけですが(笑)、このような事後検証も、時にタロット学習においては必要です)
マルセイユタロットを学んでいる者には、「恋人」カードの構造の意味を知っていると思いますので、「悪魔」と「節制」も、「恋人」一枚に見ることが可能になり、実はこの三枚は、実に面白い形で出ていたのがわかります。
一昨年(2019年)、次の年(2020年)にウィルスのパンデミック、コロナ禍が世界的に起きることを予想したり、占いを示したりする人は、ほぼいなかったと言えますから、いかに具体的な占い予測が信用できない(あまり意味がない)のかも、これでわかったと思います。
ただ、大きな変化や危険性を指摘した人は少なくなかったでしょう。それが全体性としての象徴とも言えます。
先述したように、特に一年スパンのようなものでは、いきなり個別や具体を見るのではなく、象徴的に全体性の意図を見定め、個として自分はどうすべきを考えるほうがよいと思います。
去年に出た「節制」「悪魔」「恋人」の象徴性から、2020年の意味を、今の2021年から遡って受け取ってみると、また新たな視点が生まれると思います。マルセイユタロットを学んでいる者にはなおさらです。
では、今年も皆さまに向けて、三枚のカードを引きます。占い的にならないよう、あえて引いた順番は記さず(出たカードの順を記すと、出たカードのことが順番に起きると解釈する人がいるからです。下に書いている三枚のカードは、順不同と思っていただくとよいです)、三枚それぞれで、自分なりに組み合わせ、意味を見出してください。
●2021年の三枚
「悪魔」 「女帝」 「手品師」
さきほど、「見出す」と書いたように、自分で意味づけることにまさに「意味がある」のです。最初のほうにも書いたように、「意味」が今の自分の心であり、思いである可能性が高いからで、それを自覚することが大事だからです。
ひとつだけ、参考で言いますと、ブログでの上記三枚だけではなく、ほかの場面においても、今年について展開した結果から言いますと、霊的な向上をもとにしながらも、現実に向き合い、実際への対処という傾向が全体的に強くなると感じられます。
では、皆さまにとって、今年が、現実的にもそうですが、特に魂・霊の意味でよいことになるよう、祈っております。