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ブログについてのお知らせ

休止しておりましたアメブロの方を再開しましたので、ブログのメインは再び、そちら(アメブロ)に掲載いたします。

こちらHPのブログは、アメブロと同じものを載せておきますが、少し内容が違っていたり、時折、HP専用の記事もあったりするかもしれませんので、ご承知おきください。


2022年最初に

明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

さて、2020年より始まったコロナ禍はまだ続いており、新たな変異株の流入で、また問題視されているところです。しかし、そういう中でも、(よい)変化は確実に現れていると感じます。

どんなもの(状況)でも、悪いことばかりではなく、よいこともありますし、たとえ最高だと思っていても、それが最低への始まりのこともあるわけです。(まさにマルセイユタロット「運命の輪」の図)

一喜一憂せず、ますます俯瞰した目線や、姿勢というものが大切になってきているように思います。

これまでは、個人と全体のつながりがあまりわからなかった時代もありましたが、これからは、明確にそのつながりを、誰もが実感してくるようになると思います。もう、すべてが他人事ではなくってくるのです。

それは一見、大変なようにも思いますし、確かに一時期的には大変だと想像しますが、言ってみれば意識の覚醒であり、進化とも言え、自動的に他人の本音がわかり、また人だけではなく、生き物、ひいては地球の願いも把握することが可能になり、スピリチュアル的に言えば、より宇宙と調和した人類に変容する可能性でもあります。

それは「この世のあの世化」とも言え、個人の意識を持ちつつ、同時に全体意識にもなっているという、今の私たちの意識からすれば、とても不思議な感覚のものでしょう。

その過程では、別の意味で自己責任の意味が大きくなってくると考えられます。

これは従来言われているような自己責任ではなく、他者と自分が切り離せない意味での自己責任という意味です。ですから、逆説的ですが、相互救済の意識にもつながってくることなのです。

また悪意ある者も、隠してもわかるようになりますから、それもある意味、自己責任ということになってくるでしょう。

結局、一人一人の意識と選択に関わってくると思います。

ともあれ、希望的意味も込めて、私たちの善なる魂が目覚める世になってほしいと願います。


怪我をしておりました。

私のタロットのグループや、受講生さんにはお知らせしておりましたが、実は私、先月末、釣りに行った際、堤防の高所より落下し、救急車で運ばれる事態となりました。

釣りの最中、すでに夜になっていましたので、暗くて、よく見えなかったのが原因で、不注意と言えば不注意です。

釣り場の堤防の高さがずっと同じだと勘違いしたまま進んでいたのですが、進行方向に高さが急に垂直に低くなっており、それに気づかず、まともに下に落ちてしまいました。

落ちた瞬間、ふわっと体が浮いたように感じ、「あっ」と思った時は、強烈な痛みが襲ってきました。「あ、これはかなり落ちたな」と感じ、「えらいことになったかも・・・」と恐怖も感じました。

意識がしっかりしてくると、痛みの箇所が具体的にわかってきまして、前歯がぐらついていること、顔面と右手、肩から出血していること、全身に痛みがあることなどが感じられました。ふらつきもひどく、立つことは何とかできたものの、座り込んでしまう始末でした。

釣友と来ていたのが幸いで、すぐ友人が駆け付けてくれ、いろいろと世話をしていただき、結局、救急車を呼んでもらうことになりました。

病院に運ばれ、CT検査と、傷の手当、顔や手に入り込んだ金属片とかゴミも取り除いていただきました。

不幸中の幸いか、頭の問題や骨折はなく(ただし、いろいろと打撲、むちうちなどはありましたが)、入院の必要もない状態で、しばらく休んだ後、何とか釣友に介抱されながら帰途に就くことができました。

それでもショックはなかなかにあり、当日は痛みで寝ることがほとんどできないほどでした。それから再び、近くの病院でレントゲンやら検査をしましたが、やはり骨や内部に異常は見つからずでほっとしました。

ところが、後日のCT検査で腰椎に骨折の映像が出たことで、MRI検査をすることになりました。腰については痛みが当初からなかったので、医師も「おそらく以前に骨折した箇所ではないかと思うが、念のため」ということでした。

そして、本日ようやくMRI(予約制のため、すぐに受けられなかったのです)の撮影も終わり、結果、骨折はやはり今回のものではなく、以前のあとだという診断でした。それにしても、いつ腰椎の骨折をしていたのか、記憶にないので、それはちょっと怖いと言えます。変な治り方ではなかったようで、その点は良かったのですが。

ともあれ、こうして二、三週間もかけて、いろいろな疑いの検査も終了して、やっと問題なしの診断と、ほぼ回復に近い状態になったわけです。(まだ少々の違和感とか、歯のぐつらきがあって、特に歯は時間がかかるようですが…)

自分の不注意とはいえ、怪我をするというのは、日常生活においても難儀なことになります。

私はいろいろと昔からそそっかしくて、注意散漫なところがあり、怪我とかミスとか結構あるほうでしたが、今は年齢も来ていますから、もっと慎重にならねばと強く自覚した次第です。それでなくても、体調が今年は波があって、心療的・内科的にも不調の多い年でしたし、健康に留意すべきところがあります。

今回は状況から見れば、むしろ奇跡的にこれくらいで済んだと言え、下に鋭利なものがあれば刺さりますし、打ちどころが悪ければ、骨折はもとより、頭の中の問題など、怖いことになっていたおそれも十分にあるところだっただけに、何かに守られた感もあり、そうだとすれば、大変感謝です。

ということで、タロットの講義とかリーディングも、しばらく停止させていただいたおりましたが、何事もなければ、来週より再開の予定です。

どうぞ、よろしくお願いいたします。


日本の組織

このところと言いますか、日本で起こっている様々なことを見ていますと、以下のような日本の特徴が顕著になっている気がします。

それは、組織的に、末端は非常に優秀なのに(よく働くのに)、トップ・管理する立場のものがあまりに未熟、無能(立場上の能力として)ということです。

軍隊で言いますと兵卒はすごくても、指揮官が無能ということです。

これのまずいところは、なまじ、実労部隊が優秀で頑張りすぎるがゆえに、通常の事態・ケースには何とか現場で対処できてしまい、そのためトップの責任がうやむやになり、そのまま組織的に継続されたり、指揮側のまずさが隠され続けて行くことです。(組織の本質的問題、構造的問題が先送りにされる)

結果、緊急事態や、通常の予想を超えるケースに陥った場合、つまりは現場だけで対応できない事態が起きた時、つまるところは最終的に指揮側の能力に委ねられますから、状況は非常にまずいことになるわけです。

対策の稚拙さ、決断の遅さ、全体的な混乱、下への責任転嫁、保身のための逃避、放棄、自暴自棄、特攻の押し付けにまでになって、末端の者は置いてけぼり、犠牲を食らいます。

非常事態というのは、たいてい大問題の時であり、場合によっては多くの人の命に係わることになるでしょう。

だから、最悪、トップや指揮層の無能さは、末端や一般層の多くの人の命が危険にさらされることになるのです。

普段、平時においては、現場任せや、のほほんとしていてもいいかもしれませんが、いざという時には、強いリーダーシップと迅速性、正しい決断を下せる能力がトップには必要です。

もちろん失敗時の責任を取る事と、自分がまずかった代わりに、それを修正してくれる後任の選定への目も必要と言えましょう。

日本人の末端(一般)の人の頑張りは、尋常ではないと思います。

むしろ、やり過ぎ、頑張り過ぎている面もあるでしょう。日本が何とかこれまで持ちこたえてきたのも、ひとえにあまり表には出ない、一般の人の相当な努力・犠牲があったればこそです。

不思議なことに、漫画とかアニメでは、普段は昼行燈のような無能な態度を見せつつも、いざとなれば実は優秀というトップとか指揮官を描くものが多いです。(笑)

これも、現実が投影された理想を見ているのかもしれません。「本当はトップはすごいんでしょ、ここぞという時は実力を発揮してくれるんでしょ、私たちのことを守ってくれるんでしょ・・・」という皆さんの期待とも取れます。

が、今の現実は、「いざとなっても実は無能でした・・・」という最悪のオチ、実態が明らかになっているように思います。

なぜこんなことになっているのかというのは、もはや日本の伝統とも言え、一朝一夕には変えられないように思います。

ですから、変えようとするよりも、このような性質をあえて受け入れ、日本的な問題対処の方法とか組織的あり方を見出す必要があるのかもしれません。

それがどんなものなのかは、私にはまだわからないところもありますが、感じとしては独立性を保った共有的な組織とでも言いましょうか、そんなイメージがあります。ピラミッド型ではないものですね。

突飛かもしれませんが、意外に人工知能(AI)とかを間にはさんで、まとめとか、合理的な結論や指示はそれに出してもらい、人が責任をもって実行をしていくという形もいいのかもしれません。

責任の所在があいまいにしてしまうのが日本の特徴でもあるので、それならば、逆に責任を分担するようなものに組織を分け、それに権限を持たすというのも考えられます。ちょっと地方分権的なイメージになりますが、少なくとも道州制みたいな形で、それぞれが独立性をもったほうが、日本は意外に動きやすいのではないかという気もします。

あと、これには反対意見も多いですが、個人的にはエリート教育というのもあっていいかと思います。

民主主義が悪くなると、衆愚政治にもなってしまうので、優秀な人材が優秀な教育を受けて、大きなことを担う責任と能力を持たせることで、無能な者がトップに就くということも少なくなるのではないかと思います。

まあ、逆に一般の優秀な者が重要な職や役に就けないという危惧もあるのですが、それらのバランスを取ることも重要ですね。

今回はタロットとは何ら関係ないような話ですが(苦笑)、しかし、マルセイユタロットの大アルカナの象徴性と関連することでもあり、組織の問題も、結局は一人一人の理性・智慧の向上、覚醒に関係して来るとも言えますので、まったく別の話というわけでもないのです。


タロット旅の思い出と意味

この時期(春に向かう時期)になりますと、思い出すことがあります。

それは、マルセイユタロット、厳密に言えば、フィリップ・カモワン氏のタロット(ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットにおける、カモワン流を基礎とするタロット技術と思想)を学習するために、フランスでのコースに参加したのがこの時期だったからです。

当時、日本でフィリップ・カモワン氏から直接学びを受けるコースは、タロット大学という機関が担当・開催しておりました。(ヨーロッパでカモワン氏が開講しているものを学ぶ方法もあったとは思いますが、海外在住とかで、通訳なしでもOKな語学堪能でないと難しかったでしょう)

カモワン氏から学ぶコース(タロット大学のタロット上級コース)は、結局、あまり長く続かず、開催された回数的にも多くはなかったので、今では幻のようなものかもしれません。

そういう意味では、ライブで、カモワン氏のリーディングを見て学べた者は数的にも少なく、貴重な機会だったかと思います。(ちなみに私の参加した時は、別で行われていたホドロフスキー氏のワークショップを見学することもできたという幸運でした)

そういう技術的な面においても貴重ではあったのですが、当時のタロット大学からのコースには、カモワン氏から学ぶ講義だけではなく、希望者のみでしたが、マルセイユタロットに関わる土地や場所をめぐる旅もついていました。

これがまた、非常に貴重だったのです。(簡単に海外旅行ができないコロナ禍の今では、もっと貴重さが出ている気もします)

このコースで学んだ方たちのうちの何人かが、のちに、同様の旅企画をされていました。

そのような同様の企画が行われたのも、タロットの学びにおいて、タロットが生まれた(育まれた場所)を訪問することが大事であることを、その方たちも、当時感じたからだと思います。

できれば、私もそのような旅をやってみたいと思うくらいです。

このブログでも、書きましたが、マルセイユタロットには、その歴史的背景や文化的背景を知っておくほうが、活用する意味でも、意味合いがかなり違ってきます。

タロットに向き合う感覚、覚悟の違いとでも言いましょうか。

その他でも、リーディングにおいても、支援される力、気づくエネルギーも異なってくると思います。(実は「見えない技術部分」としても、関係あると考えられます)

学びには、純粋な技術的側面と、それを支えるかのような精神性の両面があり、さらにそのふたつを統合するようなスピリット(霊性)があります。

逆から言いますと、霊性に至る(向上させる)には、見た目や理論だけではない、見えないところにもある精神性を実感・認識していくことが必要でもあるということです。

特にタロットのようなものは、見た目や論理の技術側面だけではなく、精神性、見えない部分が重要になってきます。

技術がただうまくなるだけでは、本当の意味て、タロットが上達したとは言えません。

例えば、カモワン氏のタロットを学ぶコースにおいても、カモワン的技法を学ぶだけならば、氏の講義部分のみに参加して帰国すれば目的は果たせたかもしれません。

しかし、一見、技術には関係ない旅に参加することで、得られる精神性の部分はとても大きなものがあったと言えます。

あの旅に参加したからこそ、見えない部分のもの、肌で感じるマルセイユタロットの生まれた背景の場所、蓄積、物語のポイントを押えることができ、まさにタロットの学びに“いのち”が宿ったような気がしたものです。

マルセイユタロットには、異端カタリ派に関係するものが流れていると伝えられていますが、私自身、このカタリ派の人々の思いを、実際に関係する都市・村を巡ったことで、知識だけではない、感情的・精神的部分を受け取った気がします。

ヨーロッパでは当たり前にある教会、城壁、石造り建築の数々・・・これらもタロットには登場し、深く関係があるものです。それも目の当たりにして、写真とか動画で見るのとは違う、体感をしました。

旅では、教会にかなり多く行きましたので、途中、教会酔い(苦笑)みたいな感じにもなりましたが、私だけではなく、ほかの人にも不思議なことも起こりましたし、日常的にキリスト教の精神と日常性、その裏に流れる古代からの思想・信仰・土着の精霊的なエネルギーなどを感じることもありました。

マルセイユでは、町の壁にタロットが描かれていることもありましたし、タロットが私たち日本人が思うものよりも、流通していたこと、使われていたことを実感させます。

思えば、このコース、旅に参加したからこそ、私のそれからの人生において、マルセイユタロットが中心となることが決定したようなものです。

前にも書きましたが、この時、私はタロット活動をしていくことに迷いとか疑問もあったのですが、ある事件と言いますか(起きたことはとても小さなことでしたが、自分にとっては大きなこと)、事柄が起こって、旅をする中で、次第にタロットと自分との関係が構築されていくのを感じました。

それは構築というより、回帰や思い出しのようなものだったかもしれません。

ところで、マグダラのマリアの伝説は、マルセイユ近郊には特にあるのですが、例えば、マグダラのマリアの頭骨(あくまで伝承であり、本物かはわかりません)が収められている教会、マグダラのマリアが最後に籠り、修行したといわれるサント・ボームの洞窟などにも訪れ、マルセイユタロットでは「星」の女神としても描かれる彼女の存在を、現地の風土で、信仰というより、エネルギー的な存在として、土地の精霊や人々の心にいるのがわかりました。

こういうものは、日本では、同じエネルギーを持ちつつも、仏教的なものとか、神道的な神々として、別の形象で表現されているものと思います。

言ってみれば、誰の心の中にも存在するものです。ですが、その土地土地で、形や表現が変わるわけです。

比較民俗学ではありませんが、そのように、ほかの土地、場所、文化のところに実際に行くことで、自分たちのものと比較することもでき、それによって、比較の中から浮上する本質な存在・エネルギーというものを認識することもできるのです。

訪問先で、「私はかつてここにいた」とか、前世的感覚になる人もいるかもしれませんが、それもひとつのストーリーとしてあってもよいかと思うのですが、大事なことは、そのよにうに感じる自分の特質と言えましょう。

前世で自分がいたのかどうか、そういう事実的・物質的なことよりも、精神的・霊的に同調する何かがあるということで、それが何なのかを思うことのほうだと感じます。

そこにずっと自分が継続してきた魂的な方向性とか、傾向があるかもしれないからです。

また、「愚者」のように旅をすることで、私たちはいろいろなものを目にし、感じます。

しかし、「愚者」が数を持たないように、旅人は、そこの住人でもなく、そこの場所そのものでもありません。

これと同じように、私たちは、何かに縁を感じたり、強く何かに惹かれたりして、自分はこうだとかか、自分はこういうもののために生きているとか思っても、その本質は旅人であり、(自分が思う)それそのものではないのです。

ですが、訪れるもの、感じるもの、惹かれるものが無意味なわけでもありません。

旅を彩り、楽しませるためには、興味を引くものがあったほうがいいわけです。

人生もいわば、旅と言えます。私たちは、肉体と個性を持ち、現実の人生を歩みます。

しかし、旅をしている中で、いつの間にか、旅先やそこて経験するもの自体に囚われ、それそのものだと錯覚してしまうことがあります。

それは、さきほども言ったように、旅を楽しむための装置であり、演出です。

ですから、何かに熱中したり、使命感をもったりすることは、旅(人生)を面白くするためには必要ではあるのですが、それがすべてで、自分をそれそのものだと思ってしまうと、囚われやこだわりになり、自由性を失います。

楽しむための演出だと見れば、人生も、もっと楽になるシーンも出てくるかもしれません。

私は、タロットのコースに参加することで、マルセイユタロットに関わる使命や運命のようなものを感じましたが(しかし、それも帰国してから、タロットを続けて行くことで、より培われたものです)、だからと言って、タロットで縛れていては元も子もないのです。

ほかの皆さんも、何かタロットとは別のものの学びとか技術習得で、思い切った旅をしたことがあるかもしれません。

きっとそれは深い思い出となって、心に刻まれていることでしょうし、中には、仕事や使命として、その学習し経験したことをもとに頑張っていらっしゃる方もいるでしょう。

人生には転機ということで、自分の生き方を大きく変えるタイミングがあります。タロットで言えば「運命の輪」の回転ですね。

ですが、「運命の輪」の動物たちのように、輪の中にいるものと、輪の上にいるものとでは視点が異なります。

輪の中にいる熱中性、当事者意識によって、まるで遊園地にいるかのように、エンターティメント的な要素も働き、また恐怖の乗り物のように怖かったり、つらかったりする時もあるでしょう。

しかし、その輪から出ている視点・存在では、それが演出であることに気づき、幸不幸の事件、どちらてあっても、それそのものではなく、舞台装置(演出・仕掛け)であることが理解できます。

こういった両者の視点で、自分に起こる人生の出来事を見て行けば、空しくなった時は充実性を補い、、やるべきことに疲れたような時、多忙で自分を見失いそうな時には、立ち止まって、客観的に見ることもできます。

人生には意味がなく、また意味があると、両方見ることができるのです。

その使い分けをしていくと、生きるのには楽になりますし、人にアドバイスもしやすくなるでしょう。


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